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歴史解説 赤壁の戦いその5(全6回)
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※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。
↓学園戦記三国志リンク
https://www.alphapolis.co.jp/novel/227601892/691282124
前回は孫権が周瑜や魯粛・孔明らの言葉によってついに曹操との開戦を決断したことを述べた。今回は孫権・曹操両勢力が赤壁にて開戦に至るまでの流れを解説していく。
◎周瑜の曹操討伐軍
開戦を決断した孫権は周瑜を指揮官とし、曹操討伐軍を組織した。その軍団は以下のようなものであった。
『周瑜と程普とが左右の督となり、それぞれに一万の軍を指揮し、劉備と共同して軍を進めた。』[呉主伝]
まず、兵力だが、『呉主伝』(孫権の伝記)では周瑜・程普にそれぞれ一万の軍を指揮させたとある。この他、『先主伝』(劉備の伝記)では数万としか書かれないが、『諸葛亮伝』では三万、『先主伝』及び『周瑜伝』の注に引用されている『江表伝』でも三万、『後漢紀』でも三万とある。
赤壁の戦いのでは一般的に周瑜軍は三万とされる。『呉主伝』との記述と合わせると周瑜配下一万、程普配下一万、その他黄蓋らの他の武将の手勢を合わせて一万というところだろうか。この頃の軍勢は実態より多めに報告するものだから、三万は実際より多めの数なのかもしれない。実際の内訳は不明だが、この時の兵力は二万~三万ぐらいと推定しておく。
次に軍の総指揮官だが、前述の『呉主伝』にあるとおり、この討伐軍の総督は周瑜と程普の二人が務め、『呉主』伝を読む限りその立場は同格であったようだ。
だが、『孫皎(本編未登場)伝』によると、後に呂蒙(本編、リョモウ、77話より登場)がこの戦いを述懐して以下のような発言をしている。
『「以前、周瑜と程普とが左右の指揮官となり、共同して江陵を攻めたことがありました。最終的な決定は周瑜がしましたが、程普には古参という自負があり、二人は不仲となって、国家の大事を危うく損ないかけました」』[孫皎伝]
呂蒙は呉の武将で、赤壁の戦いにも参戦しており、身近で見ていた一人である。彼のこの発言から、周瑜が最終的な決定権を有していたことがわかる。周瑜・程普、両者の立場は同格ではあったが、この部隊の主体は周瑜であった。だが、そのために両者の仲は険悪となり、『周瑜伝』には周瑜と程普は仲が良くなかったとはっきり書かれている。
さらに『周瑜伝』の注には以下のような記載がある。
『程普は自分の方が年長者であることから、度々周瑜を侮った。対して周瑜は下手に出て、逆らおうとはしなかった。程普は後に周瑜に心服し、親しみ、尊重するようになると、人に告げて言った。「周瑜殿と交流していると、芳醇な美酒を呑んだかのように、自らが酔ったことに気が付かない」』[周瑜伝注江表伝]
程普は孫堅の時代より仕える宿将で、軍の中でも最年長であることから程公と呼ばれ、とりわけ敬われていた。対して周瑜は孫策の友人で、家臣としては比較的新参であったが、来てすぐに幹部扱いとして遇された。親子ほど年の離れた若僧が来て早々に自分とほぼ同列に扱われているあたりが、程普が周瑜を気に入らなかった理由だろう。その実力を認めるより前に自分と同格の軍の総指揮官となったために余計不仲に拍車をかけることとなった。
後に程普は周瑜を認め、親しくなっているが、前述の呂蒙の発言には、両者の不仲によって国家の大事を危うく損ないかけたとある。そのことからもおそらく、両者が良好になるのは赤壁の戦いの後のことで、赤壁の最中は、それこそ不仲のために敗戦になりかけるほどに決裂していたのだろう。
両者をほぼ同格としたのは孫権の失策といえるだろう。孫権自らが出陣して総指揮を執れば解決するのだが、孫権は戦が不得手で、この時代で最も戦上手の曹操との戦争は他の者に任せるしかない。また、この戦いに負ければ後がないという状況で少しでも保険をかけた結果だろう。
また、この討伐軍の参謀には魯粛が任命されている。
『周瑜に総指揮を任せ、魯粛を賛軍校尉として、周瑜が戦略を立てる時の助言者とならせた』[魯粛伝]
この他、赤壁の戦い及びその後の荊州戦に参加したという記述のある者は、呂蒙・黄蓋・韓当(本編、カントウ、9話より登場)・周泰・甘寧(本編、カンネー、77話より登場)・凌統(本編、リョートー、77話より登場)・呂範らが挙げられる。
その他、本編では、ショーキン(蒋欽)(本編、23話より登場)、タイシジ(太史慈)(本編、19話より登場)、ハンショー(潘璋)(本編、89話より登場)らが参戦している。
実際にはこの時、蒋欽は呂岱(本編未登場)や賀斉(本編未登場)らと共に領内の叛乱鎮圧に従事しており、潘璋は荊州との州境で防衛の任に就いており、共に赤壁の戦いには不参加であったと思われる。
孫権の領土内には、山越という異民族が同居し、また不服住民も多く、安定しているとは言い難い状態であった。そのため、武将や兵士を各地に分散して配置せねばならない状況となっていた。
なお、太史慈はこの二年前の206年に死去している。享年41歳。あまりにも呆気ない退場のため、本編でどうしていいのか未だに決めかねている。本当にどうしたものか。
◎曹操の荊州政策
周瑜率いる曹操討伐軍の編成が決まったところで、ここで舞台を荊州・江陵に移し、荊州を占領した曹操の様子を解説しておこう。
長阪で劉備に勝利した曹操はそのまま江陵へ入った。
『江陵に入った曹操は、荊州の官民に布告を下し、罪を洗い流すことを宣言した。降伏した荊州の劉琮とその部下の功績を評価し、十五人を列侯とし、劉表の武将・文聘を江夏郡の太守とした。』[武帝紀]
『武帝紀』の記述を読む限り、曹操はこの後赤壁へ出陣するまでの間、政務は劉琮のいる襄陽ではなく、ここ江陵で行ったようである。
この地にて曹操は、降伏した劉琮とその家臣の処遇を決定した。
『劉琮を青州刺史とし、列侯に取り立て、後に諫議大夫・参同軍事に昇進させた。』[劉表伝]
注にある『魏武故事』の曹操の命令書から劉琮は荊州から切り離され、軍を放棄したことがわかる。この功績により彼は昇進した。
『蒯越を光禄勲、韓嵩は大鴻臚、鄧羲(本編未登場)を侍中、劉先(本編未登場)を尚書(後に魏の尚書令)とした。』[劉表伝]
『蔡瑁は従事中郎、司馬、長水校尉・漢陽亭侯となった』[襄陽記]
列侯とは爵位(身分制度)の一つで、侯の位と領土を与えられる。この領土に対して統治権を持たない、つまり、実際に領主として政治をやることはできないが、その領土から得た税金を生活費として支給される。つまり、働かなくてもお金が貰える夢の地位である。一般的に与えられた地名を取って○○侯と呼ばれる。
列侯の上は公や王となるが、これは一般的には皇族しか任命されないため(後に皇族以外で名乗る人が出てくるが)、列侯が人臣の最高位となる。(一口に列侯といっても、その土地の大小や優劣等で立場に差があるが、今は省略する)
『武帝紀』にあるように劉表配下の者達の内、十五人を列侯にしたという(おそらく劉琮を含む)。『劉表伝』には蒯越らとあることから、蒯越が含まれることはわかるが、後の人名は不明である。おそらく、元劉表の重臣且つ曹操への降伏に積極的であった者だろう。
考えるに、蒯越と共に高官となった韓嵩らと漢陽亭侯になっている蔡瑁がこの十五人の内なのだろう。(ただし、蔡瑁は曹操降伏後いつ任命されたかは不明)
他に候補としては蒯良と張允がいる。
蒯良は劉表が荊州に来た時から加わっている部下だが、それ以降の記録がない。だが、『世説新語』の注にある『晋陽秋』によると蒯良は吏部尚書になったという。吏部尚書は朝廷の役職で劉表が任命するような役職ではない。そのため、曹操降伏後に任命された可能性が高く、彼もこの時の降伏メンバーに入っていたのかもしれない。
張允は劉表の外甥(他氏の甥)であったという。その具体的な関係性は不明だが、『襄陽記』にそれらしい記述がある。蔡瑁の叔母は張温(本編、チョーオン、8話より登場)の妻となった。張温は荊州南陽郡穣県の人。太尉(三公の一つ、大臣最高位)・互郷侯(列侯)となったが、後に董卓に殺された。この張温を張允の祖父と仮定すると、蔡瑁とその姉を娶った劉表から見て、外甥(正確には従兄弟の子)となる。これはあくまで仮定で、記録に残ってない劉表と婚姻関係のある別の張氏の可能性もあるが、張允を張温の孫と仮定すれば、劉表の一族で、劉琮後継に積極的に協力したことに加え、三公・列侯の孫となり、曹操から列侯に封じられる可能性は高いと言える。しかし、曹操降伏後の張允の記録がないために詳細は不明。[後漢書・竇武伝、後漢書・劉表伝、襄陽記]
まだ十五人には足りないが、後に漢中の張魯が降伏すると、曹操はその五人の子も列侯に取り立てたとあるので、劉表やその家臣の一族も別に列侯としたのかもしれない。
その他だと、傅巽を関内侯、文聘を江夏太守・関内侯、王粲(本編、オウサン、63話より登場)を丞相掾・関内侯に任命している。[劉表伝、文聘伝、王粲伝]
関内侯は列侯の一つ下の爵位で、特定の領地は持たないが、領地相当の金銭を受け取れる身分である。
そのため、上記の者達は十五人の列侯には含まれないが、それに準じる待遇を与えられた者達である。
この他、この頃に曹操に仕えた荊州人士では、梁鵠(本編、リュウコク、63話名のみ登場)、桓階(本編、カンカイ、91話より登場)、和洽(本編未登場)、裴潜(本編、ハイセン、91話より登場)、韓曁(本編、カンキ、92話名のみ登場)、杜夔(本編、トキ、63話名のみ登場)らが挙げられる。
◎208年の日食
本編の赤壁の戦いにおいて日食が大きな役割を担っている。学校を舞台にしている関係上、実際に放火するわけにはいかないための処置だが、この日食は全くの虚構ではない。
『建安十三年(208年)冬十月、日食があった』[後漢書・孝献帝紀]
赤壁の戦いのあった208年に実際に日食はあった。正確に言えば赤壁の戦いがあったのはこの年の12月とされているので、10月にあったこの日食とは二ヶ月ほど開きがあるが、本編の日食はこの記述から着想を得て書いている。
この時の日食がどのようなものであったのか。『献帝の見た日食 後漢末から晋統一までの71の日蝕一覧』にて詳しく検証されているので紹介しよう。この本では各都市から日食がいつ頃どう見えたか検証されている。その都市に荊州の都市はないが、比較的近い柴桑(この頃孫権や孔明がいた都市)で確認しよう。
208年の10月27日、柴桑からは|食分(日が隠れた最大時のパーセント)83.4%、日食開始時刻08:05、日食最大時刻09:24、日食終了時刻10:51。かなり深い日食なので、天候に問題なければ全ての人が認識できた。
この年の10月頃ならば、曹操は劉備を破り、江陵にて荊州の人事を行っていた頃だろう。劉備は孔明を江東に派遣し、孫権が曹操との開戦を決定したかどうかぐらいであろうか。
なお、古代中国では天変地異が起きるとその責任を取って大臣が罷免された。日食もその対象であり、後漢時代ではその責任を取る者は太尉と決まっていた。ただ罷免といっても慣習的なもので、罷免された太尉が時間をおいて太尉に再任されたり、別の高官に就くことも多かった。
太尉は大臣最高位である三公の一つ。軍事を司るが、実際に軍隊を率いるというわけではなく、軍隊を管理し、その賞罰を皇帝を奏上する。その太尉がなぜ、日食で責任を取るのかというと、太尉の本来の役目は天を掌り、天変地異の責任は太尉にあるとされているからである。また、天文星暦を司る役職である太史令も太尉の管轄である太常府(礼儀・祭祀を司る部署)に属す。
元々、大臣最高位は丞相という役職であったが、後漢時代に廃止され、その権限は三分割され、三公となった。それを曹操はこの年、208年の初めに三公を廃止・統合し、再び丞相を設け、自らその役職に就任した。そのため、この時の日食時には太尉の役職は存在さず、当然、誰も罷免されてはいない。
しかし、見方を変えれば丞相である曹操が責任を問われる立場であるとも言えるが、特に責任を取ったという記述はない。もしかしたら、この時の日食への対応が、孫権が曹操との開戦を決断する後押しくらいにはなったのかもしれない。
なお、大臣の罷免であるが、献帝(本編、リューキョー/学園長、5話より登場)が曹操に庇護されて以降は行われておらず、後に魏が出来たばかりの頃の221年の日食の時に、文帝(曹丕)は天変地異を理由に三公を弾劾してはならないと定め、以降は大臣の罷免が行われなくなった。日食による大臣の罷免は曹氏によって廃止された。
◎赤壁へ至る道
曹操が江陵にて政務を行って約ニヶ月、この年の12月についに劉備征討のため西進した。
小説『三国志演義』では、荊州を平定した曹操が一方的に孫権に対して降伏を勧告。それに対して孫権方は降伏か戦争かの侃々諤々の議論を経た後に開戦を決断。周瑜率いる水軍三万と赤壁にて戦闘となる、という流れである。
この辺りの流れについて詳しく知りたい方は『演義』を読んでもらうとして、これまで解説してきたように、この時の曹操は孫権に対して直接的な戦争の要求はしていなかったと思われる(尊大な応対等はあっただろうが)。
『正史』の『武帝紀』にも『曹操自ら劉備を征討するために江陵より巴丘に至った』とあり、曹操の目的はあくまでも夏口に駐屯する劉備・劉琦軍の征討であったと思われる。また、赤壁の戦いのあった場所については諸説あるが、いずれも荊州内であり、曹操はこの時、孫権の領地には踏み込んでいない。
整理すると赤壁の戦いにおける曹操の目的は、江夏郡の劉備の征討であり、周瑜はその劉備の救援を名目に参戦した戦いであった。
以上の事から考えて、この赤壁の戦いでの曹操軍の兵力は巷間語られるほどの大規模なものではなかったのではないだろうか。この戦いでは曹操軍の具体的な兵力は記述がないが、とにかく曹操軍は大軍であったことが強調され、『演義』では百万の大軍と号していた。これは大げさにしても前述の呉の群臣の言葉からも、史実でも数十万の大軍だったのではないかという意見もある。
しかし、この数字はあくまでも荊州平定後の曹操が導入できる最大兵力の予想であり、仮に数十万の兵力を擁していたとしても、平定したばかりの荊州をほったらかしにしてその全兵力を投入するとは考えにくい。この戦いの本来の目的が劉備・劉琦軍征討であり、この時の劉備軍が一万、劉琦軍が一万の合わせて二万の兵力であったことを考えれば、対する曹操軍はそれ以上の兵力ではあっただろうが、数十万もの兵力を投入する必要はない。
後述するが、この時の曹操軍は船が無く、川を筏を自作して渡ったという記録があり、このことから荊州水軍の多くは同行していなかったと推察できる。また、この赤壁で戦った記録が曹操側には『武帝紀』ぐらいにしか記載がなく、この他の荊州平定戦に参加したはずの多くの曹操方の武将の伝記に記述がない。
以上から、この時の曹操軍は曹操本隊を中心とした数万程の兵力だったのではないだろうか。
さて、江陵から巴丘に赴いた曹操だが、『正史』の『武帝紀』ではこのまま開戦しており、この間の様子がよくわからない。このあたりの流れは『太平御覧』が収録する『英雄記』によって多少、補完されている。
『曹操は進軍して長江に至り、赤壁から長江を渡ろうとした。船がなかったので、竹で筏を作り、兵士らをそれに乗せた。漢水沿いに川を下り、浦口に着いたが、すぐには長江を渡ろうとはしなかった』[英雄記]
曹操軍の動きを『正史』とこの『英雄記』の記述から総合して考えると、江陵→巴丘→浦口→赤壁という流れだろうか。
巴丘については、洞庭湖の辺りは当時、雲夢沢という湿地帯が広がっていた。『荊州記』にはこの雲夢沢の別名を巴丘湖といい、『水経注』にはこの近くの山を巴邱山というとある。現在の岳陽市の辺りを指すのだろう。なお、後に周瑜が死去する巴丘もこの辺りと思われる。
次は浦口だが、これは涌口の間違いではないか。涌口は漢水とも通ずる長江の支流の一つで、洪湖の辺りにある。
漢水に従って川を下っていること、また、船がなく筏を製作していることから、江陵から巴丘を経由して漢水沿いまで陸路であったと察せられる。加えて、孫権側が警戒した荊州水軍は同行しなかったか、もしくはいても少数であったと考えられる。
この時の曹操軍は何十万とはいかなくとも、何万かはいたはずで、それを船で移送しようとすると生半可な数では間に合わない。そのために間に合わない分を筏で補ったとも考えられるが、前述の『英雄記』では、この後の赤壁で焼かれた曹操軍の船は数千艘の筏とし、船とは書かれていない。
また、赤壁戦後、曹操は曹仁を江陵に残し、江陵を巡って周瑜と攻防戦を繰り広げることとなるが、その戦いにも水軍は登場していないことを考えると、曹操や孫権が予想したほどには江陵には船はなかったのではないだろうか。あるいは劉備が長坂で曹操に敗れ、さっさと江陵占領を諦めたことを考えると、この時既に劉備は江陵水軍に対して何かしら対策(焼却、奪取等)を行っていたのかもしれない。
さすがに劉備が江陵水軍を奪っていたのは想像に過ぎないが、関羽が襄陽から乗っていた船は襄陽(にいる劉琮の)水軍の船と考えられるので、曹操は江陵でも襄陽でも思ったほど水軍は得られなかったと考えられる。
それでも曹操が夏口へ侵攻したのは、水軍戦をそこまで想定していなかったからであろう。この時の曹操の目的は夏口で籠城する劉琦軍と樊口に駐屯する劉備軍の討伐である。どちらも長江沿いにあるが、船はあくまでも移動手段であって、それで勝敗をつけるつもりはなかった。
また、劉琦が籠城したと思われる卻月城(もしくは魯山城)は長江の北岸側にあり、そこへ向かうだけならば既に北岸ルートで進行している曹操はわざわざ長江を南岸へ渡る必要はない。この時の筏は長江を渡るためではなく、その途中の支流を跨ぐために作られたのではないだろうか。
しかし、この涌口を過ぎた辺りで曹操軍の進行は止まる。おそらくここで周瑜軍と遭遇したためと思われる。
◎赤壁の場所
では、ここからは周瑜軍の動きを見ていこう。
『先主伝』、『周瑜伝』等では劉備軍と周瑜軍が合流したとある。一方で、『江表伝』では劉備は留まり、周瑜が先行して曹操軍に当たったとある。しかし、この『江表伝』の記述に対して孫盛は呉の人々が自国を賛美するために劉備を貶めて書いてあると批判している。
実際、ここまで来て劉備が全く動かないとは思えない。だが、『江表伝』における劉備の言動は創作としても、赤壁の戦いにて主に働いたのは周瑜軍だろう。劉備が出遅れたのは、陸軍主体の劉備軍と水軍主体の周瑜軍の移動速度の差ではないだろうか。移動速度の早い周瑜軍が先に戦場に到着し、劉備軍到着前に開戦となったのだろう。
『周瑜と劉備とは協同して曹操を迎え撃ち、両軍は赤壁で遭遇した。この時、曹操軍の陣中では疫病が蔓延しており、最初の交戦で曹操軍は敗退し、長江の北側に陣営を築き、周瑜軍は南側に布陣した。』[周瑜伝]
両軍、赤壁にて戦いとなったが、実はこの赤壁について具体的な場所については諸説ある。
まず、長江流域に赤壁と名付けられた地名が複数あること。また、『程普伝』その他では曹操を破った場所を烏林としており、ここが赤壁と同一なのか別の場所なのか不明なこと。さらにこれだけの戦いがありながら、この赤壁と烏林の地名はその後、地理書・辞書類等の後世の編纂物を除けば、一切登場しないこと等の理由により、赤壁の戦いのあった場所は正確には不明となっている。
赤壁の候補としては大きく五つあるのだが、それらを詳しく説明すると長くなるので、ここでは代表的なものを二つ簡単に紹介しよう。
まず、一つは嘉魚赤壁と呼ばれる場所である。現在の湖北省赤壁市城区から西北へ約三十キロ。長江の南岸の赤壁山である。ここはかつて嘉魚県と呼ばれた地域にあるので、一般に嘉魚赤壁と呼ばれる。現在(2022年5月現在)、赤壁の戦いと検索してまず出てくる岩肌に大きく「赤壁」の文字が掘られている場所がここで、現地は赤壁古戦場に因んだテーマパークが建てられ、一大観光地となっている。ここには他にも孔明が東南の風を呼んだとされる「拜風臺」があり、龐統ゆかりの鳳雛庵もあるという。だが、孔明が風を呼ぶのも、龐統が赤壁に現れ、連環の計を授けるのも『三国志演義』の創作であって事実ではない。「拜風臺」は遅くとも明代後半(一説には1610年創建)にはあったようで、『演義』ファンの製作したものであろうが、かなり古いものではあるようだ。
もう一つが江夏赤壁である。こちらは現在の湖北省武漢市江夏区の赤磯山がそれだという。こちらは地理書『水経注』に記載されている場所で、それによると、赤壁とは周瑜軍が布陣し、黄蓋が出発した場所で、烏林(洪湖市の下烏林)は曹操軍が布陣し、黄蓋の攻撃を受けた場所であったという。この『水経注』が現存する地理書の中で最も古く、そのため信憑性が高いとされ、学術的な観点からも支持者が多い。
現在は、学術的には江夏赤壁が優勢で、観光地として有名なのが嘉魚赤壁という状況である。江夏赤壁が優勢とはいえ、もちろん反論もあり、確定とはいえないので、今回は両説を紹介するに止める。二つの場所を地図に当てはめると、嘉魚赤壁が曹操が通過した涌口に近い場所にあり、江夏赤壁が劉琦の籠もる夏口に近い場所にある。
◎曹操の逡巡
前述した『周瑜伝』の記述によると、周瑜軍と曹操軍は最初の交戦で周瑜軍が勝利し、曹操軍は撤退して長江北岸に陣取ったという。
この最初の交戦が具体的にどのようなものであったのか、『周瑜伝』以外にその記述がないため、よくわからない。ただ、ここで曹操の進行は止まったようだ。
しかし、曹操の進行が止まったのは、最初の交戦云々よりも、周瑜軍の存在そのものが大きかったのではないか。曹操からすれば予想していなかった軍隊が突然三万も湧いてきたことになる。この三万で止まるのだから、赤壁の時の曹操軍は数十万という途方も無い大軍ではなく、やはり数万程度だったのだろう。劉備・劉琦軍と合わせれば五万の軍となる。曹操軍が数万の兵力ならばおいそれと攻撃できない戦力差となる。
また、この時の曹操陣営の船は、軍船もあっただろうが、急ごしらえの筏を多く含んだ状況であった。対して周瑜軍は水上戦をメインに据えて、水軍を充実させていた。これではたとえ曹操軍の方が数で勝ろうとも、長江対岸に陣取る周瑜軍相手に気軽に攻撃を仕掛けることはできない。
さらに加えて、『周瑜伝』によれば、この時既に曹操陣営では疫病が流行していたという。おそらく疲労に加えて、雲夢沢の湿地帯を経由したことでより悪化したのだろう。湿地は病原菌の媒介となる蚊やダニが多く生息し、疫病の温床になりやすかった。この時の曹操軍中の疫病がどういったものかは不明だが、後に曹操は孫権への手紙の中で赤壁の撤退理由としてこの疫病の流行を上げている。実際に赤壁の敗因が疫病かはさておき、流行していたのは間違いないだろう。
曹操陣営の指揮官クラスの人物にもこの疫病に感染したと思わしき人物がいる。曹純と史渙(本編、シカン、9話より登場)の二人だ。
そもそも、この赤壁の戦いの記述は曹操方の武将の列伝にほとんど無く、あまり多くの武将が参戦していなかったのではないかと察せられるが、それでも参戦していたと思わしき人物はいる。
まずは長坂の戦いでも先鋒を務めた曹純である。彼はそのまま曹操とともに江陵に入り、赤壁の敗退後、曹操とともに譙まで帰還したことは『正史』にも記載がある。また、彼は曹操の親衛隊にして精鋭である虎豹騎の指揮官でもあった。彼が赤壁まで曹操に従軍していた可能性は高いだろう。その曹純は赤壁の二年後の210年に唐突に死去する。譙に帰還してからの事跡も、その死因についても記録はない。
史渙は反董卓軍の時から曹操に仕える古参で、中領軍を務めた。中領軍は曹操率いる中央軍の指揮官なので、彼も曹操に同行した可能性が高い。史渙もこの戦いの翌年の209年に死去する。こちらも赤壁から死去までの間の事跡もその死因についても記録はない。
赤壁の戦いは208年の12月に起きたとされるので、一月も経てば年が変わる。もしかしたら彼らは赤壁の地で疫病に感染し、闘病生活の後に死去したのかもしれない。
本編ではこの二人を元にしたソウジュンもシカンも赤壁後のソウソウの撤退戦で活躍し、そのまま退場することとなった。それは彼(女)らの死因が赤壁にあったのではないかとの推測による。
さて、予期せぬ周瑜軍三万の参戦に、疫病の流行と、この時点で既に曹操軍は苦境に立たされている。周瑜参戦の時点で状況は大きく変わっているのであるから、曹操がこの時すべき判断は撤退だろう。だが、曹操は撤退しなかった。できなかった事情があったという方が正しいだろう。
話は203年に遡る。袁紹の子である袁譚(本編未登場)・袁尚(本編未登場)兄弟を追い出し、鄴を占領した曹操はある布告を出した。
『将軍に命じて征討に赴かせる以上、ただ功績を賞し、罪科を罰しないのは国家の法ではない。よって、征討に赴いた将軍で戦いに敗れた者にはその罪を裁き、利益を失った者は官職爵位を取り上げる』[武帝紀]
官渡の戦いで袁紹を破り、その子の袁譚・袁尚を撃破したことで安堵や増長があったのだろう。曹操は戦争で敗けた将軍を罰する法を作った。それから5年、まさか強敵・袁氏を滅ぼした後に自身にこの布告が適用される可能性が出るとは曹操も思いもしなかったであろう。曹操は自身が定めた法により撤退が出来ない状態となってしまった。
↓学園戦記三国志リンク
https://www.alphapolis.co.jp/novel/227601892/691282124
前回は孫権が周瑜や魯粛・孔明らの言葉によってついに曹操との開戦を決断したことを述べた。今回は孫権・曹操両勢力が赤壁にて開戦に至るまでの流れを解説していく。
◎周瑜の曹操討伐軍
開戦を決断した孫権は周瑜を指揮官とし、曹操討伐軍を組織した。その軍団は以下のようなものであった。
『周瑜と程普とが左右の督となり、それぞれに一万の軍を指揮し、劉備と共同して軍を進めた。』[呉主伝]
まず、兵力だが、『呉主伝』(孫権の伝記)では周瑜・程普にそれぞれ一万の軍を指揮させたとある。この他、『先主伝』(劉備の伝記)では数万としか書かれないが、『諸葛亮伝』では三万、『先主伝』及び『周瑜伝』の注に引用されている『江表伝』でも三万、『後漢紀』でも三万とある。
赤壁の戦いのでは一般的に周瑜軍は三万とされる。『呉主伝』との記述と合わせると周瑜配下一万、程普配下一万、その他黄蓋らの他の武将の手勢を合わせて一万というところだろうか。この頃の軍勢は実態より多めに報告するものだから、三万は実際より多めの数なのかもしれない。実際の内訳は不明だが、この時の兵力は二万~三万ぐらいと推定しておく。
次に軍の総指揮官だが、前述の『呉主伝』にあるとおり、この討伐軍の総督は周瑜と程普の二人が務め、『呉主』伝を読む限りその立場は同格であったようだ。
だが、『孫皎(本編未登場)伝』によると、後に呂蒙(本編、リョモウ、77話より登場)がこの戦いを述懐して以下のような発言をしている。
『「以前、周瑜と程普とが左右の指揮官となり、共同して江陵を攻めたことがありました。最終的な決定は周瑜がしましたが、程普には古参という自負があり、二人は不仲となって、国家の大事を危うく損ないかけました」』[孫皎伝]
呂蒙は呉の武将で、赤壁の戦いにも参戦しており、身近で見ていた一人である。彼のこの発言から、周瑜が最終的な決定権を有していたことがわかる。周瑜・程普、両者の立場は同格ではあったが、この部隊の主体は周瑜であった。だが、そのために両者の仲は険悪となり、『周瑜伝』には周瑜と程普は仲が良くなかったとはっきり書かれている。
さらに『周瑜伝』の注には以下のような記載がある。
『程普は自分の方が年長者であることから、度々周瑜を侮った。対して周瑜は下手に出て、逆らおうとはしなかった。程普は後に周瑜に心服し、親しみ、尊重するようになると、人に告げて言った。「周瑜殿と交流していると、芳醇な美酒を呑んだかのように、自らが酔ったことに気が付かない」』[周瑜伝注江表伝]
程普は孫堅の時代より仕える宿将で、軍の中でも最年長であることから程公と呼ばれ、とりわけ敬われていた。対して周瑜は孫策の友人で、家臣としては比較的新参であったが、来てすぐに幹部扱いとして遇された。親子ほど年の離れた若僧が来て早々に自分とほぼ同列に扱われているあたりが、程普が周瑜を気に入らなかった理由だろう。その実力を認めるより前に自分と同格の軍の総指揮官となったために余計不仲に拍車をかけることとなった。
後に程普は周瑜を認め、親しくなっているが、前述の呂蒙の発言には、両者の不仲によって国家の大事を危うく損ないかけたとある。そのことからもおそらく、両者が良好になるのは赤壁の戦いの後のことで、赤壁の最中は、それこそ不仲のために敗戦になりかけるほどに決裂していたのだろう。
両者をほぼ同格としたのは孫権の失策といえるだろう。孫権自らが出陣して総指揮を執れば解決するのだが、孫権は戦が不得手で、この時代で最も戦上手の曹操との戦争は他の者に任せるしかない。また、この戦いに負ければ後がないという状況で少しでも保険をかけた結果だろう。
また、この討伐軍の参謀には魯粛が任命されている。
『周瑜に総指揮を任せ、魯粛を賛軍校尉として、周瑜が戦略を立てる時の助言者とならせた』[魯粛伝]
この他、赤壁の戦い及びその後の荊州戦に参加したという記述のある者は、呂蒙・黄蓋・韓当(本編、カントウ、9話より登場)・周泰・甘寧(本編、カンネー、77話より登場)・凌統(本編、リョートー、77話より登場)・呂範らが挙げられる。
その他、本編では、ショーキン(蒋欽)(本編、23話より登場)、タイシジ(太史慈)(本編、19話より登場)、ハンショー(潘璋)(本編、89話より登場)らが参戦している。
実際にはこの時、蒋欽は呂岱(本編未登場)や賀斉(本編未登場)らと共に領内の叛乱鎮圧に従事しており、潘璋は荊州との州境で防衛の任に就いており、共に赤壁の戦いには不参加であったと思われる。
孫権の領土内には、山越という異民族が同居し、また不服住民も多く、安定しているとは言い難い状態であった。そのため、武将や兵士を各地に分散して配置せねばならない状況となっていた。
なお、太史慈はこの二年前の206年に死去している。享年41歳。あまりにも呆気ない退場のため、本編でどうしていいのか未だに決めかねている。本当にどうしたものか。
◎曹操の荊州政策
周瑜率いる曹操討伐軍の編成が決まったところで、ここで舞台を荊州・江陵に移し、荊州を占領した曹操の様子を解説しておこう。
長阪で劉備に勝利した曹操はそのまま江陵へ入った。
『江陵に入った曹操は、荊州の官民に布告を下し、罪を洗い流すことを宣言した。降伏した荊州の劉琮とその部下の功績を評価し、十五人を列侯とし、劉表の武将・文聘を江夏郡の太守とした。』[武帝紀]
『武帝紀』の記述を読む限り、曹操はこの後赤壁へ出陣するまでの間、政務は劉琮のいる襄陽ではなく、ここ江陵で行ったようである。
この地にて曹操は、降伏した劉琮とその家臣の処遇を決定した。
『劉琮を青州刺史とし、列侯に取り立て、後に諫議大夫・参同軍事に昇進させた。』[劉表伝]
注にある『魏武故事』の曹操の命令書から劉琮は荊州から切り離され、軍を放棄したことがわかる。この功績により彼は昇進した。
『蒯越を光禄勲、韓嵩は大鴻臚、鄧羲(本編未登場)を侍中、劉先(本編未登場)を尚書(後に魏の尚書令)とした。』[劉表伝]
『蔡瑁は従事中郎、司馬、長水校尉・漢陽亭侯となった』[襄陽記]
列侯とは爵位(身分制度)の一つで、侯の位と領土を与えられる。この領土に対して統治権を持たない、つまり、実際に領主として政治をやることはできないが、その領土から得た税金を生活費として支給される。つまり、働かなくてもお金が貰える夢の地位である。一般的に与えられた地名を取って○○侯と呼ばれる。
列侯の上は公や王となるが、これは一般的には皇族しか任命されないため(後に皇族以外で名乗る人が出てくるが)、列侯が人臣の最高位となる。(一口に列侯といっても、その土地の大小や優劣等で立場に差があるが、今は省略する)
『武帝紀』にあるように劉表配下の者達の内、十五人を列侯にしたという(おそらく劉琮を含む)。『劉表伝』には蒯越らとあることから、蒯越が含まれることはわかるが、後の人名は不明である。おそらく、元劉表の重臣且つ曹操への降伏に積極的であった者だろう。
考えるに、蒯越と共に高官となった韓嵩らと漢陽亭侯になっている蔡瑁がこの十五人の内なのだろう。(ただし、蔡瑁は曹操降伏後いつ任命されたかは不明)
他に候補としては蒯良と張允がいる。
蒯良は劉表が荊州に来た時から加わっている部下だが、それ以降の記録がない。だが、『世説新語』の注にある『晋陽秋』によると蒯良は吏部尚書になったという。吏部尚書は朝廷の役職で劉表が任命するような役職ではない。そのため、曹操降伏後に任命された可能性が高く、彼もこの時の降伏メンバーに入っていたのかもしれない。
張允は劉表の外甥(他氏の甥)であったという。その具体的な関係性は不明だが、『襄陽記』にそれらしい記述がある。蔡瑁の叔母は張温(本編、チョーオン、8話より登場)の妻となった。張温は荊州南陽郡穣県の人。太尉(三公の一つ、大臣最高位)・互郷侯(列侯)となったが、後に董卓に殺された。この張温を張允の祖父と仮定すると、蔡瑁とその姉を娶った劉表から見て、外甥(正確には従兄弟の子)となる。これはあくまで仮定で、記録に残ってない劉表と婚姻関係のある別の張氏の可能性もあるが、張允を張温の孫と仮定すれば、劉表の一族で、劉琮後継に積極的に協力したことに加え、三公・列侯の孫となり、曹操から列侯に封じられる可能性は高いと言える。しかし、曹操降伏後の張允の記録がないために詳細は不明。[後漢書・竇武伝、後漢書・劉表伝、襄陽記]
まだ十五人には足りないが、後に漢中の張魯が降伏すると、曹操はその五人の子も列侯に取り立てたとあるので、劉表やその家臣の一族も別に列侯としたのかもしれない。
その他だと、傅巽を関内侯、文聘を江夏太守・関内侯、王粲(本編、オウサン、63話より登場)を丞相掾・関内侯に任命している。[劉表伝、文聘伝、王粲伝]
関内侯は列侯の一つ下の爵位で、特定の領地は持たないが、領地相当の金銭を受け取れる身分である。
そのため、上記の者達は十五人の列侯には含まれないが、それに準じる待遇を与えられた者達である。
この他、この頃に曹操に仕えた荊州人士では、梁鵠(本編、リュウコク、63話名のみ登場)、桓階(本編、カンカイ、91話より登場)、和洽(本編未登場)、裴潜(本編、ハイセン、91話より登場)、韓曁(本編、カンキ、92話名のみ登場)、杜夔(本編、トキ、63話名のみ登場)らが挙げられる。
◎208年の日食
本編の赤壁の戦いにおいて日食が大きな役割を担っている。学校を舞台にしている関係上、実際に放火するわけにはいかないための処置だが、この日食は全くの虚構ではない。
『建安十三年(208年)冬十月、日食があった』[後漢書・孝献帝紀]
赤壁の戦いのあった208年に実際に日食はあった。正確に言えば赤壁の戦いがあったのはこの年の12月とされているので、10月にあったこの日食とは二ヶ月ほど開きがあるが、本編の日食はこの記述から着想を得て書いている。
この時の日食がどのようなものであったのか。『献帝の見た日食 後漢末から晋統一までの71の日蝕一覧』にて詳しく検証されているので紹介しよう。この本では各都市から日食がいつ頃どう見えたか検証されている。その都市に荊州の都市はないが、比較的近い柴桑(この頃孫権や孔明がいた都市)で確認しよう。
208年の10月27日、柴桑からは|食分(日が隠れた最大時のパーセント)83.4%、日食開始時刻08:05、日食最大時刻09:24、日食終了時刻10:51。かなり深い日食なので、天候に問題なければ全ての人が認識できた。
この年の10月頃ならば、曹操は劉備を破り、江陵にて荊州の人事を行っていた頃だろう。劉備は孔明を江東に派遣し、孫権が曹操との開戦を決定したかどうかぐらいであろうか。
なお、古代中国では天変地異が起きるとその責任を取って大臣が罷免された。日食もその対象であり、後漢時代ではその責任を取る者は太尉と決まっていた。ただ罷免といっても慣習的なもので、罷免された太尉が時間をおいて太尉に再任されたり、別の高官に就くことも多かった。
太尉は大臣最高位である三公の一つ。軍事を司るが、実際に軍隊を率いるというわけではなく、軍隊を管理し、その賞罰を皇帝を奏上する。その太尉がなぜ、日食で責任を取るのかというと、太尉の本来の役目は天を掌り、天変地異の責任は太尉にあるとされているからである。また、天文星暦を司る役職である太史令も太尉の管轄である太常府(礼儀・祭祀を司る部署)に属す。
元々、大臣最高位は丞相という役職であったが、後漢時代に廃止され、その権限は三分割され、三公となった。それを曹操はこの年、208年の初めに三公を廃止・統合し、再び丞相を設け、自らその役職に就任した。そのため、この時の日食時には太尉の役職は存在さず、当然、誰も罷免されてはいない。
しかし、見方を変えれば丞相である曹操が責任を問われる立場であるとも言えるが、特に責任を取ったという記述はない。もしかしたら、この時の日食への対応が、孫権が曹操との開戦を決断する後押しくらいにはなったのかもしれない。
なお、大臣の罷免であるが、献帝(本編、リューキョー/学園長、5話より登場)が曹操に庇護されて以降は行われておらず、後に魏が出来たばかりの頃の221年の日食の時に、文帝(曹丕)は天変地異を理由に三公を弾劾してはならないと定め、以降は大臣の罷免が行われなくなった。日食による大臣の罷免は曹氏によって廃止された。
◎赤壁へ至る道
曹操が江陵にて政務を行って約ニヶ月、この年の12月についに劉備征討のため西進した。
小説『三国志演義』では、荊州を平定した曹操が一方的に孫権に対して降伏を勧告。それに対して孫権方は降伏か戦争かの侃々諤々の議論を経た後に開戦を決断。周瑜率いる水軍三万と赤壁にて戦闘となる、という流れである。
この辺りの流れについて詳しく知りたい方は『演義』を読んでもらうとして、これまで解説してきたように、この時の曹操は孫権に対して直接的な戦争の要求はしていなかったと思われる(尊大な応対等はあっただろうが)。
『正史』の『武帝紀』にも『曹操自ら劉備を征討するために江陵より巴丘に至った』とあり、曹操の目的はあくまでも夏口に駐屯する劉備・劉琦軍の征討であったと思われる。また、赤壁の戦いのあった場所については諸説あるが、いずれも荊州内であり、曹操はこの時、孫権の領地には踏み込んでいない。
整理すると赤壁の戦いにおける曹操の目的は、江夏郡の劉備の征討であり、周瑜はその劉備の救援を名目に参戦した戦いであった。
以上の事から考えて、この赤壁の戦いでの曹操軍の兵力は巷間語られるほどの大規模なものではなかったのではないだろうか。この戦いでは曹操軍の具体的な兵力は記述がないが、とにかく曹操軍は大軍であったことが強調され、『演義』では百万の大軍と号していた。これは大げさにしても前述の呉の群臣の言葉からも、史実でも数十万の大軍だったのではないかという意見もある。
しかし、この数字はあくまでも荊州平定後の曹操が導入できる最大兵力の予想であり、仮に数十万の兵力を擁していたとしても、平定したばかりの荊州をほったらかしにしてその全兵力を投入するとは考えにくい。この戦いの本来の目的が劉備・劉琦軍征討であり、この時の劉備軍が一万、劉琦軍が一万の合わせて二万の兵力であったことを考えれば、対する曹操軍はそれ以上の兵力ではあっただろうが、数十万もの兵力を投入する必要はない。
後述するが、この時の曹操軍は船が無く、川を筏を自作して渡ったという記録があり、このことから荊州水軍の多くは同行していなかったと推察できる。また、この赤壁で戦った記録が曹操側には『武帝紀』ぐらいにしか記載がなく、この他の荊州平定戦に参加したはずの多くの曹操方の武将の伝記に記述がない。
以上から、この時の曹操軍は曹操本隊を中心とした数万程の兵力だったのではないだろうか。
さて、江陵から巴丘に赴いた曹操だが、『正史』の『武帝紀』ではこのまま開戦しており、この間の様子がよくわからない。このあたりの流れは『太平御覧』が収録する『英雄記』によって多少、補完されている。
『曹操は進軍して長江に至り、赤壁から長江を渡ろうとした。船がなかったので、竹で筏を作り、兵士らをそれに乗せた。漢水沿いに川を下り、浦口に着いたが、すぐには長江を渡ろうとはしなかった』[英雄記]
曹操軍の動きを『正史』とこの『英雄記』の記述から総合して考えると、江陵→巴丘→浦口→赤壁という流れだろうか。
巴丘については、洞庭湖の辺りは当時、雲夢沢という湿地帯が広がっていた。『荊州記』にはこの雲夢沢の別名を巴丘湖といい、『水経注』にはこの近くの山を巴邱山というとある。現在の岳陽市の辺りを指すのだろう。なお、後に周瑜が死去する巴丘もこの辺りと思われる。
次は浦口だが、これは涌口の間違いではないか。涌口は漢水とも通ずる長江の支流の一つで、洪湖の辺りにある。
漢水に従って川を下っていること、また、船がなく筏を製作していることから、江陵から巴丘を経由して漢水沿いまで陸路であったと察せられる。加えて、孫権側が警戒した荊州水軍は同行しなかったか、もしくはいても少数であったと考えられる。
この時の曹操軍は何十万とはいかなくとも、何万かはいたはずで、それを船で移送しようとすると生半可な数では間に合わない。そのために間に合わない分を筏で補ったとも考えられるが、前述の『英雄記』では、この後の赤壁で焼かれた曹操軍の船は数千艘の筏とし、船とは書かれていない。
また、赤壁戦後、曹操は曹仁を江陵に残し、江陵を巡って周瑜と攻防戦を繰り広げることとなるが、その戦いにも水軍は登場していないことを考えると、曹操や孫権が予想したほどには江陵には船はなかったのではないだろうか。あるいは劉備が長坂で曹操に敗れ、さっさと江陵占領を諦めたことを考えると、この時既に劉備は江陵水軍に対して何かしら対策(焼却、奪取等)を行っていたのかもしれない。
さすがに劉備が江陵水軍を奪っていたのは想像に過ぎないが、関羽が襄陽から乗っていた船は襄陽(にいる劉琮の)水軍の船と考えられるので、曹操は江陵でも襄陽でも思ったほど水軍は得られなかったと考えられる。
それでも曹操が夏口へ侵攻したのは、水軍戦をそこまで想定していなかったからであろう。この時の曹操の目的は夏口で籠城する劉琦軍と樊口に駐屯する劉備軍の討伐である。どちらも長江沿いにあるが、船はあくまでも移動手段であって、それで勝敗をつけるつもりはなかった。
また、劉琦が籠城したと思われる卻月城(もしくは魯山城)は長江の北岸側にあり、そこへ向かうだけならば既に北岸ルートで進行している曹操はわざわざ長江を南岸へ渡る必要はない。この時の筏は長江を渡るためではなく、その途中の支流を跨ぐために作られたのではないだろうか。
しかし、この涌口を過ぎた辺りで曹操軍の進行は止まる。おそらくここで周瑜軍と遭遇したためと思われる。
◎赤壁の場所
では、ここからは周瑜軍の動きを見ていこう。
『先主伝』、『周瑜伝』等では劉備軍と周瑜軍が合流したとある。一方で、『江表伝』では劉備は留まり、周瑜が先行して曹操軍に当たったとある。しかし、この『江表伝』の記述に対して孫盛は呉の人々が自国を賛美するために劉備を貶めて書いてあると批判している。
実際、ここまで来て劉備が全く動かないとは思えない。だが、『江表伝』における劉備の言動は創作としても、赤壁の戦いにて主に働いたのは周瑜軍だろう。劉備が出遅れたのは、陸軍主体の劉備軍と水軍主体の周瑜軍の移動速度の差ではないだろうか。移動速度の早い周瑜軍が先に戦場に到着し、劉備軍到着前に開戦となったのだろう。
『周瑜と劉備とは協同して曹操を迎え撃ち、両軍は赤壁で遭遇した。この時、曹操軍の陣中では疫病が蔓延しており、最初の交戦で曹操軍は敗退し、長江の北側に陣営を築き、周瑜軍は南側に布陣した。』[周瑜伝]
両軍、赤壁にて戦いとなったが、実はこの赤壁について具体的な場所については諸説ある。
まず、長江流域に赤壁と名付けられた地名が複数あること。また、『程普伝』その他では曹操を破った場所を烏林としており、ここが赤壁と同一なのか別の場所なのか不明なこと。さらにこれだけの戦いがありながら、この赤壁と烏林の地名はその後、地理書・辞書類等の後世の編纂物を除けば、一切登場しないこと等の理由により、赤壁の戦いのあった場所は正確には不明となっている。
赤壁の候補としては大きく五つあるのだが、それらを詳しく説明すると長くなるので、ここでは代表的なものを二つ簡単に紹介しよう。
まず、一つは嘉魚赤壁と呼ばれる場所である。現在の湖北省赤壁市城区から西北へ約三十キロ。長江の南岸の赤壁山である。ここはかつて嘉魚県と呼ばれた地域にあるので、一般に嘉魚赤壁と呼ばれる。現在(2022年5月現在)、赤壁の戦いと検索してまず出てくる岩肌に大きく「赤壁」の文字が掘られている場所がここで、現地は赤壁古戦場に因んだテーマパークが建てられ、一大観光地となっている。ここには他にも孔明が東南の風を呼んだとされる「拜風臺」があり、龐統ゆかりの鳳雛庵もあるという。だが、孔明が風を呼ぶのも、龐統が赤壁に現れ、連環の計を授けるのも『三国志演義』の創作であって事実ではない。「拜風臺」は遅くとも明代後半(一説には1610年創建)にはあったようで、『演義』ファンの製作したものであろうが、かなり古いものではあるようだ。
もう一つが江夏赤壁である。こちらは現在の湖北省武漢市江夏区の赤磯山がそれだという。こちらは地理書『水経注』に記載されている場所で、それによると、赤壁とは周瑜軍が布陣し、黄蓋が出発した場所で、烏林(洪湖市の下烏林)は曹操軍が布陣し、黄蓋の攻撃を受けた場所であったという。この『水経注』が現存する地理書の中で最も古く、そのため信憑性が高いとされ、学術的な観点からも支持者が多い。
現在は、学術的には江夏赤壁が優勢で、観光地として有名なのが嘉魚赤壁という状況である。江夏赤壁が優勢とはいえ、もちろん反論もあり、確定とはいえないので、今回は両説を紹介するに止める。二つの場所を地図に当てはめると、嘉魚赤壁が曹操が通過した涌口に近い場所にあり、江夏赤壁が劉琦の籠もる夏口に近い場所にある。
◎曹操の逡巡
前述した『周瑜伝』の記述によると、周瑜軍と曹操軍は最初の交戦で周瑜軍が勝利し、曹操軍は撤退して長江北岸に陣取ったという。
この最初の交戦が具体的にどのようなものであったのか、『周瑜伝』以外にその記述がないため、よくわからない。ただ、ここで曹操の進行は止まったようだ。
しかし、曹操の進行が止まったのは、最初の交戦云々よりも、周瑜軍の存在そのものが大きかったのではないか。曹操からすれば予想していなかった軍隊が突然三万も湧いてきたことになる。この三万で止まるのだから、赤壁の時の曹操軍は数十万という途方も無い大軍ではなく、やはり数万程度だったのだろう。劉備・劉琦軍と合わせれば五万の軍となる。曹操軍が数万の兵力ならばおいそれと攻撃できない戦力差となる。
また、この時の曹操陣営の船は、軍船もあっただろうが、急ごしらえの筏を多く含んだ状況であった。対して周瑜軍は水上戦をメインに据えて、水軍を充実させていた。これではたとえ曹操軍の方が数で勝ろうとも、長江対岸に陣取る周瑜軍相手に気軽に攻撃を仕掛けることはできない。
さらに加えて、『周瑜伝』によれば、この時既に曹操陣営では疫病が流行していたという。おそらく疲労に加えて、雲夢沢の湿地帯を経由したことでより悪化したのだろう。湿地は病原菌の媒介となる蚊やダニが多く生息し、疫病の温床になりやすかった。この時の曹操軍中の疫病がどういったものかは不明だが、後に曹操は孫権への手紙の中で赤壁の撤退理由としてこの疫病の流行を上げている。実際に赤壁の敗因が疫病かはさておき、流行していたのは間違いないだろう。
曹操陣営の指揮官クラスの人物にもこの疫病に感染したと思わしき人物がいる。曹純と史渙(本編、シカン、9話より登場)の二人だ。
そもそも、この赤壁の戦いの記述は曹操方の武将の列伝にほとんど無く、あまり多くの武将が参戦していなかったのではないかと察せられるが、それでも参戦していたと思わしき人物はいる。
まずは長坂の戦いでも先鋒を務めた曹純である。彼はそのまま曹操とともに江陵に入り、赤壁の敗退後、曹操とともに譙まで帰還したことは『正史』にも記載がある。また、彼は曹操の親衛隊にして精鋭である虎豹騎の指揮官でもあった。彼が赤壁まで曹操に従軍していた可能性は高いだろう。その曹純は赤壁の二年後の210年に唐突に死去する。譙に帰還してからの事跡も、その死因についても記録はない。
史渙は反董卓軍の時から曹操に仕える古参で、中領軍を務めた。中領軍は曹操率いる中央軍の指揮官なので、彼も曹操に同行した可能性が高い。史渙もこの戦いの翌年の209年に死去する。こちらも赤壁から死去までの間の事跡もその死因についても記録はない。
赤壁の戦いは208年の12月に起きたとされるので、一月も経てば年が変わる。もしかしたら彼らは赤壁の地で疫病に感染し、闘病生活の後に死去したのかもしれない。
本編ではこの二人を元にしたソウジュンもシカンも赤壁後のソウソウの撤退戦で活躍し、そのまま退場することとなった。それは彼(女)らの死因が赤壁にあったのではないかとの推測による。
さて、予期せぬ周瑜軍三万の参戦に、疫病の流行と、この時点で既に曹操軍は苦境に立たされている。周瑜参戦の時点で状況は大きく変わっているのであるから、曹操がこの時すべき判断は撤退だろう。だが、曹操は撤退しなかった。できなかった事情があったという方が正しいだろう。
話は203年に遡る。袁紹の子である袁譚(本編未登場)・袁尚(本編未登場)兄弟を追い出し、鄴を占領した曹操はある布告を出した。
『将軍に命じて征討に赴かせる以上、ただ功績を賞し、罪科を罰しないのは国家の法ではない。よって、征討に赴いた将軍で戦いに敗れた者にはその罪を裁き、利益を失った者は官職爵位を取り上げる』[武帝紀]
官渡の戦いで袁紹を破り、その子の袁譚・袁尚を撃破したことで安堵や増長があったのだろう。曹操は戦争で敗けた将軍を罰する法を作った。それから5年、まさか強敵・袁氏を滅ぼした後に自身にこの布告が適用される可能性が出るとは曹操も思いもしなかったであろう。曹操は自身が定めた法により撤退が出来ない状態となってしまった。
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