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歴史解説 袁家の滅亡と博望の戦い 中編
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※これは別に連載中の小説『学園戦記三国志』の歴史解説回を独立・編集して掲載するものです。
↓学園戦記三国志リンク
https://www.alphapolis.co.jp/novel/227601892/691282124
前回は官渡の戦い前後の劉表・劉備の動きと、袁紹死後、彼の後継を巡る流れを解説した。今回は袁紹の遺児である袁譚・袁尚の対立から解説していこう。
◎袁家の分裂
ここで曹操の参謀・郭嘉(本編、カクカ、16話初登場)が提案する。「袁譚と袁尚をこのまま攻めれば助け合って抵抗しますが、ほっておけば両者は対立します。ここは荊州の劉表を討伐するふりをして、彼らの対立を待つべきです」[郭嘉伝]
この策により203年8月、曹操は劉表征討のため南下し、汝南郡の西平に駐屯した。[武帝紀]
曹操が南下すると、早速、袁譚・袁尚は冀州の支配をめぐって争い、袁譚が敗れ、自身が刺史(長官)を務める青州の平原(地名)まで逃亡したが、その地も袁尚の攻撃にさらされることとなった。[武帝紀・袁紹伝]
袁紹の後継をめぐり、袁譚は辛評、郭図らに擁立され、袁尚と対立することになった。
一見、家臣団が真っ二つに別れたように見えるが、次子・袁熙や沮授の子・沮鵠(本編未登場)、陳琳(本編、チンリン、49話初登場)や牽招(本編、ケンショウ、51話初登場)と家臣の多くは袁尚についていた。
対して袁譚はそこまで大きな支持は得れていなかったようだ。むしろ、彼の後継者立候補は辛評、郭図のクーデターに近いものだったのではないか。
袁譚の部下・王脩(本編未登場)は、袁譚が袁尚に敗れると、青州より救援に赴いたが、彼自身は兄弟で争うことに反対し、佞臣数人を斬り、共に協力することを提案している。[王脩伝]
この佞臣数人が辛評、郭図らを指すのか、他にも該当者がいるのかは不明だが、王脩自身も袁譚の独立に反対しており、袁譚を担いでいたのは決して多くはなかったのではないだろうか。
また、後に劉表は対立を止める様、袁譚、袁尚にそれぞれ手紙を送っているが、この手紙によると、劉表は両者の対立の元凶を辛評、郭図としている。[袁紹伝]
袁尚についた審配は冀州の出身者であり、田豊、沮授(ともに冀州出身)亡き後、冀州の人材をまとめる立場にあったのだろう。また冀州の政治を担当しており、同じく冀州にいた袁尚と接点も多かったのかもしれない。
また逢紀は袁紹が董卓より逃亡した時に許攸(本編、キョユウ、47話初登場)とともに同行し、袁紹の旗揚げに貢献した古参で、審配とともに軍務を担当していた。
元々、審配と逢紀は仲が良くなかったという。官渡の敗戦時、審配の二人の子は曹操の捕虜となった。これを受けて孟岱(本編未登場)と蒋奇(本編、ショウキ、54話初登場)は審配が裏切るのではないかと袁紹に讒訴した。孟岱らの意見にさらに郭図・辛評も同調したので、審配は降格された。
しかし、逢紀は審配を誉め、疑うべきではないと発言し、それにより審配は復権することができた。以降、二人は親しくなったという。[袁紹伝、後漢書・袁紹伝]
対して郭図、辛評はともに予州穎川郡出身、河北四州から見たらよそ者である。冀州の人たちとの結びつきがない。
また先ほどのエピソードから彼らは過去に審配を讒言で降格に追い込んでいる。おそらくそれ以前から仲は良くなかったのではないだろうか。
冀州の代表格・審配と袁紹最古参・逢紀が手を組んで袁尚を担げば、おそらく、よそ者の自分たちでは居場所はなくなると判断したのだろう。だから、不満を持っているであろう袁譚に近づいた。
前述の河東太守・郭援は戦った鍾繇の甥であったという。鍾繇もまた穎川郡の出身であり、その甥である彼も穎川郡出身、さらに言えば穎川郭氏の郭図の同族の可能性がある。
その時点でまだ袁譚、袁尚は明確に対立してはいないが、彼は袁尚に従っている。穎川郡出身者や一族が全員、郭図・辛評に賛同していたわけではなかったのかもしれない。
話を戻すが、救援に来た王脩の兄弟で助け合うという提案を退けた袁譚は外に助けを求めた。
彼は敵である曹操に、辛毗(辛評の弟)(本編、シンピ、63話初登場)を派遣し、降伏を乞い、救援を要請した。
この袁譚の救援要請に、曹操の家臣の多くは信用せず、先に劉表を討つべきと主張したが、参謀の荀攸(本編、ジュンユウ、38話本格登場)は、袁譚と袁尚、どちらかが相手を吸収すれば、また強力な勢力になる。この混乱に乗じて彼らの領土を取るべきと主張し、曹操は袁譚との和議を決め、再び北に向かった。[武帝紀、荀攸伝]
元々、郭嘉の策で仲違いさせるための南下であったが、まさか袁譚が降伏してくるとは思わなかっただろう。信用できないのも無理はない。
また、多くの家臣が先に劉表討伐をと言ったのも、それだけ劉表の動きが活発で、脅威と認識されていたのだろう。
この決定には曹操自身にも迷いがあったようで、辛毗が着てからも数日、西平に滞在している。[辛毗伝]
◎曹操の劉表対策
結局、曹操自身は北に戻ることとなったが、劉表によって南陽郡諸県が占領されたままなのは事実であり、何かしら手を討たねばならない。
曹操の武将・曹洪(本編、ソウコウ、9話初登場)は曹操とは別に劉表を征伐し、無陽・陰葉・堵陽・博望において劉表の別将を撃破し、その功績により厲鋒将軍に昇進した。[曹洪伝]
この記述には場所と時期に疑問があるので、順に見ていこう。
まず、場所だが、無陽・陰葉・堵陽・博望を攻撃したとある。つまり、これ以前に劉表がこの地を占領していたことになる。
このうち無陽は予州汝南郡の南部に属し、堵陽・博望は荊州南陽郡の北部に属す。だが、陰葉県はない。
あるいは南陽郡の陰県と葉県2つの地名を指すのか?だが、葉県は無陽県のすぐ隣にあるが、陰県は南陽郡のかなり奥、劉備が駐屯している新野県の西に位置する。一気に飛び過ぎる。あるいは南陽郡の北部に無陰という県があり、これと間違えたか。
劉表が南陽郡を抑えておきたいのなら、無陰・葉・堵陽・博望あたりが妥当だろう。
なお、前述した杜襲が獲られた西顎県は博望より劉表領寄りの位置にあり、この時点では西顎県まで取り戻せていないようである。
次にこの劉表の征伐だが、曹洪伝には年月の記載がない。
候補としては197年、203年、208年の三つがあげられる。
まず、197年だが、これは武帝紀に記載があり、まだ張繡と劉表が組んでいた時代、曹操は曹洪を派遣して南陽・章陵(ともに荊州北部の郡)の張繡らに味方した諸県を攻撃させたが、勝てず、曹洪は引き返して葉に駐屯した。
この後、曹操自ら進軍し、胡陽に駐屯する劉表の将・鄧済(本編未登場)を捕らえ、さらに無陰を陥落させた。[武帝紀]
この戦いでは曹洪は負けており、葉まで後退している。葉県は最も汝南郡に近い南陽郡北東の端の県である。これは曹洪伝とは大きく食い違う。あるいは一時的に占領したが、その後奪い返されたとも解釈できるが、昇進するほどの功績とは言えないのではないだろうか。
次に208年の劉表征討だが(第五章のメインになるのはこれ)、この曹洪伝の記述の続きには、曹洪はこの後も征伐に従い都護将軍に昇進したとある。
また、王粲(本編、オウサン、63話初登場)伝に付属する阮瑀(本編未登場)伝に、都護の曹洪は阮瑀を書記にしようとしたが、彼は従わず、後に曹操によって司空軍謀祭酒に任命されたとある。[阮瑀伝]
司空軍謀祭酒とは、司空(役職名)である曹操の補佐役ということだが、208年1月に丞相が設置され、その時に司空は廃止されている(曹操の丞相就任は同年6月)。曹操が司空なのは207年までで、この一件があったのはそれ以前となり、その時点で曹洪は都護将軍に就任している。
おそらく、ここに書かれた曹洪の劉表征伐は203年前後のことで、その後の征伐というのは袁譚・袁尚との戦いを指すのだろう。
なお、武帝紀には、204年の鄴(袁尚本拠地)攻略戦に曹洪が登場している。
ただ、年月については曹洪は曹操とは別に征討したとあり、先行して南陽郡攻略に向かった可能性もある。曹洪は河北戦線にも登場するので、200年10月以降、204年4月以前の出来事だろう。(実際は移動期間もあるので、201年~203年頃と考えていいのではないか。なお、曹操は8月に西平着、10月に黎陽着で2ヶ月かかっている)
つまり、201年頃の劉表は、この辺りの南陽郡北東部を攻略していた。
◎博望の戦い
さて、次はいよいよ博望の戦いである。
博望の戦いについては李典(本編、リテン、27話本格登場)伝には、劉表は劉備を使って北方まで進攻させ、葉まで来た。曹操は、夏侯惇(本編、カコウトン、6話初登場)・李典らを使って劉備を防がせた。劉備はある朝、屯営を焼いて去った。
劉備を追撃しようする夏侯惇を、李典は止めたが、彼は聞き入れず于禁(本編、ウキン、10話初登場)とともに追撃し、李典は守備に残った。夏侯惇は劉備の伏兵にあい不利となり、李典が救援に向かった。劉備は救援が来たのを見ると退却した。[李典伝]
一方、先主(劉備)伝では、劉表は劉備を使って、夏侯惇・于禁らを博望で阻ませた。劉備は伏兵を設け、自軍の屯営を焼き払って逃走と見せかけた。夏侯惇らは追い討ちをかけ、伏兵によって撃破された。[先主伝]
これらの記述から劉備の動きを整理すると、葉まで進攻し、夏侯惇らが攻めてきたので後退。博望で追い付かれたので、これを撃破。そのまま撤退したとなる。
なお、南陽郡の地理は、葉県が曹操領寄り、博望県が劉表領寄りとなっている。
この戦いで劉備は、葉まで進攻し、最終的に博望以東を放棄している。つまりこの時点で葉までは曹操領であったということだ。
ならば、時系列として、曹洪の南陽郡諸県攻略が先、博望の戦いが後となる。
だから、劉表からみたら先に曹操軍が自領に攻めてきたので、防がせたとなり(原文『使拒、夏侯惇于禁等、於博望』)、曹操から見たらすでに自領に編入した土地に劉備が進入してきたので進攻となるのだろう(原文『劉表使劉備北侵、至葉』)。
この博望の戦いも201年~203年頃の戦いであろう。
だが、曹操の203年8月の南下との時系列は断定するのが難しい。
しかし、この戦いに登場する曹洪・李典は204年の鄴攻略戦に参加している。曹操の北上に従ったのであれば、博望の戦いは曹操南下とほぼ同時期かそれ以前だろうか。
なお、資治通鑑(北宋時代に書かれた歴史書)では、博望の戦いを202年の出来事としている。
ちなみに先の話になるが、本編にてソウソウの南校舎征伐時のソウコウの動きは、この曹洪の劉表征伐の記述が元になっている。つまり、本編では208年の出来事として、博望の戦いの後に時系列を変更している。
◎鄴攻略戦
さて、袁譚の降伏を受け、曹操は10月に再び黎陽に戻った。
袁尚は曹操の北上を知ると、袁譚の籠る平原の包囲を解き、鄴に帰った。
袁譚は包囲が解けると、袁尚の武将・呂曠(本編未登場)、呂翔(本編未登場)に密かに将軍の印綬(証)を与えたが、呂曠、呂翔は曹操に降伏し、この印綬を渡した。
曹操は、自身と袁尚を戦わせ、その疲弊につけこんで袁譚が勢力を伸ばそうとしていることには気づいていたが、その場では目をつむり、自身の子・曹整(本編未登場)と袁譚の娘との婚約を決めて安心させて、軍を引き返した。[武帝紀、袁紹伝]
袁譚は曹操に降伏した。つまり彼は曹操の奉じる朝廷に従うということである。おそらくこの時点で自称であった車騎将軍の称号は却下され、青州刺史だけ承認されたのだろう。
その袁譚が朝廷(曹操)を介さず、勝手に将軍に任命するというのは明らかな裏切り行為である。せめて青州刺史の部下の役職なら言い訳も出来ただろうが、さすがにその程度の役職では口説き落とせなかったのだろう。
だが、呂曠らは袁尚、袁譚、曹操とを値踏みした結果、曹操を選び、袁譚の裏工作はあっさり露見することとなった。
この間に劉表は何をしていたのか。ただ、指を咥えて見ていただけではない。
劉表は袁譚と袁尚それぞれに手紙を送り、仲を修復しようとしたが、二人ともこれを聞き入れなかった。[袁紹伝、後漢書・袁紹伝]
劉表からしてみれば、袁譚に味方して袁尚を攻撃しても、袁尚に味方して袁譚を攻撃しても、曹操の得になるばかりで、動くに動けないという状況だったのだろう。この頃に大規模な軍事行動は起こしていないようだ。
翌204年、袁尚は鄴に審配・蘇由(本編未登場)を残し、再び袁譚を攻撃した。
その間に曹操は鄴に進攻。蘇由は曹操に呼応しようとしたが、審配に攻撃され、敗れて曹操陣営に逃げ込んだ。
4月、曹操は鄴を攻撃。土山や地下道を築いた。さらに曹操は曹洪を鄴攻撃に残し、周辺の尹楷(本編未登場)の守る毛城、沮鵠(沮授の子)の守る邯鄲を攻略し、鄴を孤立させた。
5月、曹操は鄴を本格的に攻撃したが、守将の審配の抵抗にあい、落とすことができなかった。そこで曹操は鄴周辺の川を決壊させ水攻めにした。輸送ルートを絶たれ、水攻めを受けた城中は食糧難となり、半数が餓死した。
7月、鄴の危機を知った袁尚が引き返し、審配と呼応して、内と外から曹操を挟み撃ちにしようとしたが、敗北。袁尚は逃亡し、審配は城に戻った。
曹操は袁尚の陣を包囲すると、袁尚は怖じ気づき、陰夔(本編未登場)、陳琳を派遣して曹操に降伏を乞うたが、曹操はこれを許さず、さらに包囲を厳しくした。
袁尚は祈山に逃走し、曹操が追撃すると、袁尚の将・馬延(本編未登場)、張顗(本編未登場)は戦わずに降伏し、袁尚軍は総崩れとなり、袁尚はさらに中山に逃走した。
曹操は袁尚の輜重をことごとく捕獲し、彼の印綬(役職の証)や節鉞(軍権の証)を手に入れ、それを鄴に籠城する兵に見せ、その戦意を削いだ。
8月、審配の甥・審栄(本編未登場)は守っていた鄴の東門を開け曹操を招き入れ、ついに鄴は陥落した。守将の審配は捕らえられ、処刑された。
鄴が平定されると、高幹(袁紹甥、并州刺史)は并州を上げて曹操に降伏し、再び并州刺史に任命された。[武帝紀、袁紹伝]
◎袁譚の最期
一方、袁譚は曹操が鄴を包囲している間に冀州の甘陵・安平・勃海・河間の各郡(国)を攻略し、さらに中山に逃げた袁尚を攻めた。
袁尚は敗れ、幽州の故安(幽州涿郡に属す)に逃亡し、兄の袁煕を頼った。袁譚は袁尚の軍勢を手に入れると平原、南皮を落とし、平原の側の龍湊に駐屯した。
袁尚が逃げ込んだ故安は涿郡にある県の一つである。余談だが、涿郡は劉備や張飛(本編、チョーヒ、1話初登場)の出身地である。
12月、この袁譚の行動に曹操は約束違反だとして彼を責め、子の婚約を解消し、平原に向けて軍を進めた。袁譚はこれに恐怖し、平原を棄て、南皮に籠った。曹操は平原に入り、周辺の諸県を平定した。[武帝紀、袁紹伝、後漢書・袁紹伝]
袁譚が平原に籠らず、すぐ放棄したのは、先の袁尚との戦いで城壁が損傷し、防御に適さなかったからだろうか。
また袁譚の約束違反を曹操は責めているが、両者にどのような約束があったのか具体的にはわからない。冀州の領地配分について取り決めがあったのだろうか。先の呂曠らの印綬の件も言わなかっただけで、不問にしたわけではない。曹操は端から袁譚を滅ぼす気でいたのなら、どう動いても袁譚は攻められただろう。
翌205年1月、曹操は南皮の袁譚を攻めた。初め袁譚の攻勢は激しく、曹操は怯んだが、曹純(本編、ソウジュン、69話初登場)の進言もあり、より猛攻を加え、ついに南皮を落とした。
袁譚は曹純の騎馬隊に追い付かれ、命乞いをしたが、首を斬られた。また郭図らもその妻子とともにことごとく斬り殺された。これにより冀州は平定された。[武帝紀、袁紹伝、曹純伝、後漢書・袁紹伝]
辛評の最期については史料に言及がない。後漢書には郭図等とあるので辛評も含まれるか。弟の辛毗は曹操の陣にいたが、辛評の命乞いをしたといった記述もないから、あるいは戦死したのかもしれない。
なお、辛毗はその後も曹操、さらに曹丕(本編未登場)、曹叡(本編未登場)と三代に仕え、衛尉(大臣)にまでなり、蜀漢が北伐を行うと、大将軍・司馬懿(本編、シバイ、64話初登場)の軍師として、これと戦った。[辛毗伝]
一方、幽州に逃げた袁尚とその兄・袁煕だが、同1月、袁煕の武将・焦触(本編未登場)、張南(本編未登場)は反乱を起こし、袁煕、袁尚は幽州の北東部にいる烏丸(北方の異民族)族を頼って落ち延びた。焦触らは曹操に降伏した。
さて、この間、荊州の劉表はどうしていたのか。彼は未だ袁家との同盟を維持していた。しかし、大きな動きは見せていない。
袁譚、袁尚の対立に深入りできなかったのもあるが、曹操の動きが速すぎたのも一因だろう。特に袁譚とは12月に開戦し、翌年1月に袁譚を斬っている。袁譚が滅ぼされると聞けば動いただろうが、さすがにこの期間では間に合わなかっただろう。
この頃だろうか、劉備は長期間馬に乗らず、そのせいで髀に贅肉がついたと嘆く『髀肉之嘆』のエピソードがある。
劉表の動きとは断定できないが、この頃(206年頃?)、曹操の武将・張遼(本編、チョーリョー、11話初登場)は荊州を攻撃し、江夏郡の諸県を平定した。[張遼伝]
江夏郡も汝南郡に隣接した郡であり、劉表も何かしら曹操への攻撃をしていたのかもしれない。
あるいは207年に揚州の孫権(この時点では曹操との関係は良好)(本編、チュー坊、64話初登場)が江夏太守の黄祖(本編、コウソ、63話初登場)を攻めているが、張遼の進攻もこれと連動した動きだったのだろうか。[呉主伝(孫権伝)]
※後編に続く
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前回は官渡の戦い前後の劉表・劉備の動きと、袁紹死後、彼の後継を巡る流れを解説した。今回は袁紹の遺児である袁譚・袁尚の対立から解説していこう。
◎袁家の分裂
ここで曹操の参謀・郭嘉(本編、カクカ、16話初登場)が提案する。「袁譚と袁尚をこのまま攻めれば助け合って抵抗しますが、ほっておけば両者は対立します。ここは荊州の劉表を討伐するふりをして、彼らの対立を待つべきです」[郭嘉伝]
この策により203年8月、曹操は劉表征討のため南下し、汝南郡の西平に駐屯した。[武帝紀]
曹操が南下すると、早速、袁譚・袁尚は冀州の支配をめぐって争い、袁譚が敗れ、自身が刺史(長官)を務める青州の平原(地名)まで逃亡したが、その地も袁尚の攻撃にさらされることとなった。[武帝紀・袁紹伝]
袁紹の後継をめぐり、袁譚は辛評、郭図らに擁立され、袁尚と対立することになった。
一見、家臣団が真っ二つに別れたように見えるが、次子・袁熙や沮授の子・沮鵠(本編未登場)、陳琳(本編、チンリン、49話初登場)や牽招(本編、ケンショウ、51話初登場)と家臣の多くは袁尚についていた。
対して袁譚はそこまで大きな支持は得れていなかったようだ。むしろ、彼の後継者立候補は辛評、郭図のクーデターに近いものだったのではないか。
袁譚の部下・王脩(本編未登場)は、袁譚が袁尚に敗れると、青州より救援に赴いたが、彼自身は兄弟で争うことに反対し、佞臣数人を斬り、共に協力することを提案している。[王脩伝]
この佞臣数人が辛評、郭図らを指すのか、他にも該当者がいるのかは不明だが、王脩自身も袁譚の独立に反対しており、袁譚を担いでいたのは決して多くはなかったのではないだろうか。
また、後に劉表は対立を止める様、袁譚、袁尚にそれぞれ手紙を送っているが、この手紙によると、劉表は両者の対立の元凶を辛評、郭図としている。[袁紹伝]
袁尚についた審配は冀州の出身者であり、田豊、沮授(ともに冀州出身)亡き後、冀州の人材をまとめる立場にあったのだろう。また冀州の政治を担当しており、同じく冀州にいた袁尚と接点も多かったのかもしれない。
また逢紀は袁紹が董卓より逃亡した時に許攸(本編、キョユウ、47話初登場)とともに同行し、袁紹の旗揚げに貢献した古参で、審配とともに軍務を担当していた。
元々、審配と逢紀は仲が良くなかったという。官渡の敗戦時、審配の二人の子は曹操の捕虜となった。これを受けて孟岱(本編未登場)と蒋奇(本編、ショウキ、54話初登場)は審配が裏切るのではないかと袁紹に讒訴した。孟岱らの意見にさらに郭図・辛評も同調したので、審配は降格された。
しかし、逢紀は審配を誉め、疑うべきではないと発言し、それにより審配は復権することができた。以降、二人は親しくなったという。[袁紹伝、後漢書・袁紹伝]
対して郭図、辛評はともに予州穎川郡出身、河北四州から見たらよそ者である。冀州の人たちとの結びつきがない。
また先ほどのエピソードから彼らは過去に審配を讒言で降格に追い込んでいる。おそらくそれ以前から仲は良くなかったのではないだろうか。
冀州の代表格・審配と袁紹最古参・逢紀が手を組んで袁尚を担げば、おそらく、よそ者の自分たちでは居場所はなくなると判断したのだろう。だから、不満を持っているであろう袁譚に近づいた。
前述の河東太守・郭援は戦った鍾繇の甥であったという。鍾繇もまた穎川郡の出身であり、その甥である彼も穎川郡出身、さらに言えば穎川郭氏の郭図の同族の可能性がある。
その時点でまだ袁譚、袁尚は明確に対立してはいないが、彼は袁尚に従っている。穎川郡出身者や一族が全員、郭図・辛評に賛同していたわけではなかったのかもしれない。
話を戻すが、救援に来た王脩の兄弟で助け合うという提案を退けた袁譚は外に助けを求めた。
彼は敵である曹操に、辛毗(辛評の弟)(本編、シンピ、63話初登場)を派遣し、降伏を乞い、救援を要請した。
この袁譚の救援要請に、曹操の家臣の多くは信用せず、先に劉表を討つべきと主張したが、参謀の荀攸(本編、ジュンユウ、38話本格登場)は、袁譚と袁尚、どちらかが相手を吸収すれば、また強力な勢力になる。この混乱に乗じて彼らの領土を取るべきと主張し、曹操は袁譚との和議を決め、再び北に向かった。[武帝紀、荀攸伝]
元々、郭嘉の策で仲違いさせるための南下であったが、まさか袁譚が降伏してくるとは思わなかっただろう。信用できないのも無理はない。
また、多くの家臣が先に劉表討伐をと言ったのも、それだけ劉表の動きが活発で、脅威と認識されていたのだろう。
この決定には曹操自身にも迷いがあったようで、辛毗が着てからも数日、西平に滞在している。[辛毗伝]
◎曹操の劉表対策
結局、曹操自身は北に戻ることとなったが、劉表によって南陽郡諸県が占領されたままなのは事実であり、何かしら手を討たねばならない。
曹操の武将・曹洪(本編、ソウコウ、9話初登場)は曹操とは別に劉表を征伐し、無陽・陰葉・堵陽・博望において劉表の別将を撃破し、その功績により厲鋒将軍に昇進した。[曹洪伝]
この記述には場所と時期に疑問があるので、順に見ていこう。
まず、場所だが、無陽・陰葉・堵陽・博望を攻撃したとある。つまり、これ以前に劉表がこの地を占領していたことになる。
このうち無陽は予州汝南郡の南部に属し、堵陽・博望は荊州南陽郡の北部に属す。だが、陰葉県はない。
あるいは南陽郡の陰県と葉県2つの地名を指すのか?だが、葉県は無陽県のすぐ隣にあるが、陰県は南陽郡のかなり奥、劉備が駐屯している新野県の西に位置する。一気に飛び過ぎる。あるいは南陽郡の北部に無陰という県があり、これと間違えたか。
劉表が南陽郡を抑えておきたいのなら、無陰・葉・堵陽・博望あたりが妥当だろう。
なお、前述した杜襲が獲られた西顎県は博望より劉表領寄りの位置にあり、この時点では西顎県まで取り戻せていないようである。
次にこの劉表の征伐だが、曹洪伝には年月の記載がない。
候補としては197年、203年、208年の三つがあげられる。
まず、197年だが、これは武帝紀に記載があり、まだ張繡と劉表が組んでいた時代、曹操は曹洪を派遣して南陽・章陵(ともに荊州北部の郡)の張繡らに味方した諸県を攻撃させたが、勝てず、曹洪は引き返して葉に駐屯した。
この後、曹操自ら進軍し、胡陽に駐屯する劉表の将・鄧済(本編未登場)を捕らえ、さらに無陰を陥落させた。[武帝紀]
この戦いでは曹洪は負けており、葉まで後退している。葉県は最も汝南郡に近い南陽郡北東の端の県である。これは曹洪伝とは大きく食い違う。あるいは一時的に占領したが、その後奪い返されたとも解釈できるが、昇進するほどの功績とは言えないのではないだろうか。
次に208年の劉表征討だが(第五章のメインになるのはこれ)、この曹洪伝の記述の続きには、曹洪はこの後も征伐に従い都護将軍に昇進したとある。
また、王粲(本編、オウサン、63話初登場)伝に付属する阮瑀(本編未登場)伝に、都護の曹洪は阮瑀を書記にしようとしたが、彼は従わず、後に曹操によって司空軍謀祭酒に任命されたとある。[阮瑀伝]
司空軍謀祭酒とは、司空(役職名)である曹操の補佐役ということだが、208年1月に丞相が設置され、その時に司空は廃止されている(曹操の丞相就任は同年6月)。曹操が司空なのは207年までで、この一件があったのはそれ以前となり、その時点で曹洪は都護将軍に就任している。
おそらく、ここに書かれた曹洪の劉表征伐は203年前後のことで、その後の征伐というのは袁譚・袁尚との戦いを指すのだろう。
なお、武帝紀には、204年の鄴(袁尚本拠地)攻略戦に曹洪が登場している。
ただ、年月については曹洪は曹操とは別に征討したとあり、先行して南陽郡攻略に向かった可能性もある。曹洪は河北戦線にも登場するので、200年10月以降、204年4月以前の出来事だろう。(実際は移動期間もあるので、201年~203年頃と考えていいのではないか。なお、曹操は8月に西平着、10月に黎陽着で2ヶ月かかっている)
つまり、201年頃の劉表は、この辺りの南陽郡北東部を攻略していた。
◎博望の戦い
さて、次はいよいよ博望の戦いである。
博望の戦いについては李典(本編、リテン、27話本格登場)伝には、劉表は劉備を使って北方まで進攻させ、葉まで来た。曹操は、夏侯惇(本編、カコウトン、6話初登場)・李典らを使って劉備を防がせた。劉備はある朝、屯営を焼いて去った。
劉備を追撃しようする夏侯惇を、李典は止めたが、彼は聞き入れず于禁(本編、ウキン、10話初登場)とともに追撃し、李典は守備に残った。夏侯惇は劉備の伏兵にあい不利となり、李典が救援に向かった。劉備は救援が来たのを見ると退却した。[李典伝]
一方、先主(劉備)伝では、劉表は劉備を使って、夏侯惇・于禁らを博望で阻ませた。劉備は伏兵を設け、自軍の屯営を焼き払って逃走と見せかけた。夏侯惇らは追い討ちをかけ、伏兵によって撃破された。[先主伝]
これらの記述から劉備の動きを整理すると、葉まで進攻し、夏侯惇らが攻めてきたので後退。博望で追い付かれたので、これを撃破。そのまま撤退したとなる。
なお、南陽郡の地理は、葉県が曹操領寄り、博望県が劉表領寄りとなっている。
この戦いで劉備は、葉まで進攻し、最終的に博望以東を放棄している。つまりこの時点で葉までは曹操領であったということだ。
ならば、時系列として、曹洪の南陽郡諸県攻略が先、博望の戦いが後となる。
だから、劉表からみたら先に曹操軍が自領に攻めてきたので、防がせたとなり(原文『使拒、夏侯惇于禁等、於博望』)、曹操から見たらすでに自領に編入した土地に劉備が進入してきたので進攻となるのだろう(原文『劉表使劉備北侵、至葉』)。
この博望の戦いも201年~203年頃の戦いであろう。
だが、曹操の203年8月の南下との時系列は断定するのが難しい。
しかし、この戦いに登場する曹洪・李典は204年の鄴攻略戦に参加している。曹操の北上に従ったのであれば、博望の戦いは曹操南下とほぼ同時期かそれ以前だろうか。
なお、資治通鑑(北宋時代に書かれた歴史書)では、博望の戦いを202年の出来事としている。
ちなみに先の話になるが、本編にてソウソウの南校舎征伐時のソウコウの動きは、この曹洪の劉表征伐の記述が元になっている。つまり、本編では208年の出来事として、博望の戦いの後に時系列を変更している。
◎鄴攻略戦
さて、袁譚の降伏を受け、曹操は10月に再び黎陽に戻った。
袁尚は曹操の北上を知ると、袁譚の籠る平原の包囲を解き、鄴に帰った。
袁譚は包囲が解けると、袁尚の武将・呂曠(本編未登場)、呂翔(本編未登場)に密かに将軍の印綬(証)を与えたが、呂曠、呂翔は曹操に降伏し、この印綬を渡した。
曹操は、自身と袁尚を戦わせ、その疲弊につけこんで袁譚が勢力を伸ばそうとしていることには気づいていたが、その場では目をつむり、自身の子・曹整(本編未登場)と袁譚の娘との婚約を決めて安心させて、軍を引き返した。[武帝紀、袁紹伝]
袁譚は曹操に降伏した。つまり彼は曹操の奉じる朝廷に従うということである。おそらくこの時点で自称であった車騎将軍の称号は却下され、青州刺史だけ承認されたのだろう。
その袁譚が朝廷(曹操)を介さず、勝手に将軍に任命するというのは明らかな裏切り行為である。せめて青州刺史の部下の役職なら言い訳も出来ただろうが、さすがにその程度の役職では口説き落とせなかったのだろう。
だが、呂曠らは袁尚、袁譚、曹操とを値踏みした結果、曹操を選び、袁譚の裏工作はあっさり露見することとなった。
この間に劉表は何をしていたのか。ただ、指を咥えて見ていただけではない。
劉表は袁譚と袁尚それぞれに手紙を送り、仲を修復しようとしたが、二人ともこれを聞き入れなかった。[袁紹伝、後漢書・袁紹伝]
劉表からしてみれば、袁譚に味方して袁尚を攻撃しても、袁尚に味方して袁譚を攻撃しても、曹操の得になるばかりで、動くに動けないという状況だったのだろう。この頃に大規模な軍事行動は起こしていないようだ。
翌204年、袁尚は鄴に審配・蘇由(本編未登場)を残し、再び袁譚を攻撃した。
その間に曹操は鄴に進攻。蘇由は曹操に呼応しようとしたが、審配に攻撃され、敗れて曹操陣営に逃げ込んだ。
4月、曹操は鄴を攻撃。土山や地下道を築いた。さらに曹操は曹洪を鄴攻撃に残し、周辺の尹楷(本編未登場)の守る毛城、沮鵠(沮授の子)の守る邯鄲を攻略し、鄴を孤立させた。
5月、曹操は鄴を本格的に攻撃したが、守将の審配の抵抗にあい、落とすことができなかった。そこで曹操は鄴周辺の川を決壊させ水攻めにした。輸送ルートを絶たれ、水攻めを受けた城中は食糧難となり、半数が餓死した。
7月、鄴の危機を知った袁尚が引き返し、審配と呼応して、内と外から曹操を挟み撃ちにしようとしたが、敗北。袁尚は逃亡し、審配は城に戻った。
曹操は袁尚の陣を包囲すると、袁尚は怖じ気づき、陰夔(本編未登場)、陳琳を派遣して曹操に降伏を乞うたが、曹操はこれを許さず、さらに包囲を厳しくした。
袁尚は祈山に逃走し、曹操が追撃すると、袁尚の将・馬延(本編未登場)、張顗(本編未登場)は戦わずに降伏し、袁尚軍は総崩れとなり、袁尚はさらに中山に逃走した。
曹操は袁尚の輜重をことごとく捕獲し、彼の印綬(役職の証)や節鉞(軍権の証)を手に入れ、それを鄴に籠城する兵に見せ、その戦意を削いだ。
8月、審配の甥・審栄(本編未登場)は守っていた鄴の東門を開け曹操を招き入れ、ついに鄴は陥落した。守将の審配は捕らえられ、処刑された。
鄴が平定されると、高幹(袁紹甥、并州刺史)は并州を上げて曹操に降伏し、再び并州刺史に任命された。[武帝紀、袁紹伝]
◎袁譚の最期
一方、袁譚は曹操が鄴を包囲している間に冀州の甘陵・安平・勃海・河間の各郡(国)を攻略し、さらに中山に逃げた袁尚を攻めた。
袁尚は敗れ、幽州の故安(幽州涿郡に属す)に逃亡し、兄の袁煕を頼った。袁譚は袁尚の軍勢を手に入れると平原、南皮を落とし、平原の側の龍湊に駐屯した。
袁尚が逃げ込んだ故安は涿郡にある県の一つである。余談だが、涿郡は劉備や張飛(本編、チョーヒ、1話初登場)の出身地である。
12月、この袁譚の行動に曹操は約束違反だとして彼を責め、子の婚約を解消し、平原に向けて軍を進めた。袁譚はこれに恐怖し、平原を棄て、南皮に籠った。曹操は平原に入り、周辺の諸県を平定した。[武帝紀、袁紹伝、後漢書・袁紹伝]
袁譚が平原に籠らず、すぐ放棄したのは、先の袁尚との戦いで城壁が損傷し、防御に適さなかったからだろうか。
また袁譚の約束違反を曹操は責めているが、両者にどのような約束があったのか具体的にはわからない。冀州の領地配分について取り決めがあったのだろうか。先の呂曠らの印綬の件も言わなかっただけで、不問にしたわけではない。曹操は端から袁譚を滅ぼす気でいたのなら、どう動いても袁譚は攻められただろう。
翌205年1月、曹操は南皮の袁譚を攻めた。初め袁譚の攻勢は激しく、曹操は怯んだが、曹純(本編、ソウジュン、69話初登場)の進言もあり、より猛攻を加え、ついに南皮を落とした。
袁譚は曹純の騎馬隊に追い付かれ、命乞いをしたが、首を斬られた。また郭図らもその妻子とともにことごとく斬り殺された。これにより冀州は平定された。[武帝紀、袁紹伝、曹純伝、後漢書・袁紹伝]
辛評の最期については史料に言及がない。後漢書には郭図等とあるので辛評も含まれるか。弟の辛毗は曹操の陣にいたが、辛評の命乞いをしたといった記述もないから、あるいは戦死したのかもしれない。
なお、辛毗はその後も曹操、さらに曹丕(本編未登場)、曹叡(本編未登場)と三代に仕え、衛尉(大臣)にまでなり、蜀漢が北伐を行うと、大将軍・司馬懿(本編、シバイ、64話初登場)の軍師として、これと戦った。[辛毗伝]
一方、幽州に逃げた袁尚とその兄・袁煕だが、同1月、袁煕の武将・焦触(本編未登場)、張南(本編未登場)は反乱を起こし、袁煕、袁尚は幽州の北東部にいる烏丸(北方の異民族)族を頼って落ち延びた。焦触らは曹操に降伏した。
さて、この間、荊州の劉表はどうしていたのか。彼は未だ袁家との同盟を維持していた。しかし、大きな動きは見せていない。
袁譚、袁尚の対立に深入りできなかったのもあるが、曹操の動きが速すぎたのも一因だろう。特に袁譚とは12月に開戦し、翌年1月に袁譚を斬っている。袁譚が滅ぼされると聞けば動いただろうが、さすがにこの期間では間に合わなかっただろう。
この頃だろうか、劉備は長期間馬に乗らず、そのせいで髀に贅肉がついたと嘆く『髀肉之嘆』のエピソードがある。
劉表の動きとは断定できないが、この頃(206年頃?)、曹操の武将・張遼(本編、チョーリョー、11話初登場)は荊州を攻撃し、江夏郡の諸県を平定した。[張遼伝]
江夏郡も汝南郡に隣接した郡であり、劉表も何かしら曹操への攻撃をしていたのかもしれない。
あるいは207年に揚州の孫権(この時点では曹操との関係は良好)(本編、チュー坊、64話初登場)が江夏太守の黄祖(本編、コウソ、63話初登場)を攻めているが、張遼の進攻もこれと連動した動きだったのだろうか。[呉主伝(孫権伝)]
※後編に続く
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