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第5部 赤壁大戦編
歴史解説 赤壁の戦いその6
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前回は周瑜・曹操の両軍が赤壁に到着するところまでを述べた。今回はついに行われる赤壁での決戦の様子とその後の荊州ついて述べ、この度の解説を終わりにしたい。
◎黄蓋の降伏
曹操は周瑜軍の参戦と疫病により、身動きが取れなくなっていたが、周瑜軍もまた数万の大軍である曹操軍を前に攻めあぐね、戦線は膠着状態となった。
この状況を打破したのは、孫権の武将・黄蓋であった。
『黄蓋は周瑜にいった。「今、敵は多勢で我らは寡勢なので、持久戦を行うのは困難です。しかしながら、曹操軍の艦船は互いに密集しており、火攻めをすれば敗走させることができます。」
そこで蒙衝(駆逐艦)・闘艦(戦艦)数十艘を選び、薪や草を敷き詰め、その中に油を注ぎ、帷幄で覆い隠して、牙旗を建てた。そしてあらかじめ曹操に手紙を送り、偽りの降伏をしようとした。』[周瑜伝]
また、注に引く『江表伝』には、この時の黄蓋が曹操へ手紙を送った様子が記述されている。
『黄蓋の手紙に云う、「私黄蓋は孫氏の厚恩を受け、武将として取り立てられ、浅からぬ礼遇を被っております。しかし、天下には大きな勢いというものがあり、江東六郡に山越の力をもって中原百万の軍勢に挑むのが無謀なことは、誰が見ても明らかです。呉の文武百官も賢愚を問わず、その無理を承知しているのですが、ただ、周瑜と魯粛のみが頑固で浅慮のために納得しないのです。
私が曹操様に降伏するのはこのような理由からです。周瑜の守るところは簡単に打ち破れます。両軍が戦う時、この黄蓋が先鋒を務めますが、適当なところで寝返ります。それは遠い先の未来ではありません。」曹操はわざわざ黄蓋の使者を引見し、密かに質問をしてから言った。「ただ、この降伏が偽りでないかだけが心配なのだ。黄蓋がもし本当に降伏するのであれば、空前絶後の恩賞を授けるだろう」』[黄蓋伝注江表伝]
こうして黄蓋は曹操へ偽りの降伏を願い出、それを曹操は信じた。何故、曹操はこの降伏を信じたのか。それだけ曹操が切羽詰まっていたということでもあるのだろう。状況的には一度撤退するのが最善だが、敗戦となれば責任を取らなければならない。かといって時間をかければ劉備・劉琦軍が参戦してより困難な状況になりかねない。その中で黄蓋の降伏がこの不利な状況の突破口になると判断したのだろう。
思い返せば官渡の戦いも、曹操は不利な状況であったが、許攸の降伏により状況が打開でき、一転、勝利となった。許攸も袁紹の古参であったことを考えれば、古参の将・黄蓋の降伏もあり得ないことではない。
これに加えてもう一つ、曹操が信じた理由は黄蓋の経歴にもあったのではないだろうか。
『黄蓋伝』によれば、黄蓋は初め孫堅に仕え、孫堅の死後、孫策に仕え、そのまま孫権に仕えたという。だが、彼の孫策時代の具体的な事跡は記録がない。
また、『孫堅伝』や『孫賁伝』によれば、孫堅の死後、その軍勢は甥の孫賁が引き継いだという。長男の孫策らはこの時まだ未成年で、戦場には出ていない。孫策が成人して袁術の武将となるのは、孫堅の死から二年後である。黄蓋は孫堅死後、しばらくは孫賁軍に所属していたのではないだろうか。
後に孫策は袁術に願い出て、孫堅の兵を返して貰うこととなるが、黄蓋らが移籍したのはこれに伴ってのことだろう。そして、その後の孫賁だが前述した通り、孫権によって失脚し、弟の孫輔は曹操と内通したとして幽閉された。
この流れを曹操の視点から見ると、今まで事実上の政権運営者だと思ってやり取りしていた孫賁・孫輔は孫権のクーデターにより失脚。さらに孫権は周瑜・魯粛の口車に乗せられ、自分に戦争を仕掛けてきた。そんな中、孫賁に縁ある武将が、周瑜・魯粛のやり方にはついていけないと降伏を願い出てきた。曹操がその話に耳を傾けてもおかしくない状況である。
だからこそ、曹操への偽りの降伏の役目に黄蓋が選ばれたのではないだろうか。『正史』では自ら言い出したから、その役目を黄蓋が担当したように読めるが、いくら自ら言い出したからと言っても成功率の低い人物なら選ばれないだろう。曹操がその降伏を信じる人物でなければならないが、相手にされないような小物では意味がない。
孫堅時代から在籍し、この赤壁の戦いに参戦している指揮官クラスの人物は三人。程普・韓当、そして黄蓋である。だが、程普は周瑜と共に総司令官なのでやるわけにはいかない。
候補は韓当と黄蓋の二人に絞られる。韓当は孫堅に仕える以前の経歴ははっきりとしない。だが、仕えた当初の扱いを見るに、元々良い家柄の出自ではないだろう。
対して黄蓋はかつて郡の役人を務め、さらに孝廉に推挙され、三公の役所から招聘を受けている。孝廉とは当時の役人による人材推挙の方法で、さらに三公(大臣最高位)から招聘されているので、黄蓋は官僚としてエリートコースを歩んでいたといえる。そんな彼が孫堅軍に加入した詳しい経緯は不明だが、おそらく地元で起きた反乱(孫堅が鎮圧した)に巻き込まれる形だったのだろう。
いくら黄蓋や韓当に武将として戦功があったといっても、遠く離れた江東の地での活躍では曹操は知らない可能性もある。しかし、孝廉に推挙されたとなればそれなりに名が知られている可能性が高い。さらに言えば、黄蓋の出身は荊州零陵郡、荊州人士を吸収した曹操陣営なら彼を知っていてもおかしくはない。
おそらく、この偽りの降伏者には、孫賁に仕えたことがあるという経歴と、中央における知名度を考慮して黄蓋が選ばれたのではないか。
なお、『演義』ではこの時の黄蓋から曹操への使者には闞沢(本編未登場)という人物が行っている。闞沢は黄蓋の降伏を疑う曹操に、巧みな話術で信用させることに成功した。また、後の話ではあるが、実績の乏しい陸遜(本編未登場)を大都督に推薦し、周囲を納得させる役で再登場している。この二つの逸話は共に『演義』の創作ではあるが、呉としては珍しく優遇された人物といえる。
『正史』での闞沢だが、彼は代々農民の家の生まれで、貧しかったが、苦学して名声を得た人物であった。彼の作成した暦は呉の正式な暦として採用され、また、孫権の息子の先生も務めた。だが、孫権の側近くに仕えるようになったのは219年以降のことで、彼の主な活躍は呉が建国されて以降の出来事であった。そのため、彼の生年は不明だが、実際の闞沢の年齢は『演義』の想定より一世代ほど若いと思われる。
なので、本編ではコウガイの使者の役目は与えず、登場自体させていない。今のところ予定は特にないが、もし登場するとしたら、来年度の入学生となるだろう。
◎赤壁での勝利
黄蓋は曹操へ投降する旨を伝え、それを信じさせると、ついに曹操軍への攻撃作戦を実行に移した。
ついに赤壁の戦いのクライマックスである。この時の様子は『周瑜伝』に詳しい。
『(黄蓋は)あらかじめ走舸(快速艇)を用意して、それぞれ大型船の後ろに繋ぎ、ともに曹操陣営に向けて出発した。曹操軍の官吏・兵士はそろって首を伸ばして観望し、指し示して黄蓋が投降してきたと言い合った。
黄蓋は(先に薪を敷き、油を注いだ)船を切り離し、それと同時に火を放った。時に風は勢い盛んに猛り狂い、ことごとく対岸にある曹操陣営は焼け落ちた。やがて、煙と炎は天を覆い、人馬らあるいは焼け、あるいは溺れ、その死者はおびただしい数となった。曹操の軍はついに敗退し、荊州の南郡へと引き返して立て籠もった。劉備は周瑜らとともにこれを追いかけると、曹操は曹仁らを江陵の守備に残し、自身は北へ帰った。』[周瑜伝]
また、この戦いの様子は注に引く『江表伝』にも詳細に綴られている。
『戦いの日、黄蓋は先に軽快な軍船十艘を選び、その中に枯れ草を敷き詰め、魚油を注ぎ、赤い幕でこれを覆い、旗や幟を艦上に建てた。時に東南の風が吹き、十艘の船を先頭に立て、長江の半ばで帆を上げると、黄蓋は松明を掲げ、将校・兵士たちに大声で「降伏」と叫ばせた。曹操軍の兵士たちは皆、営舎から出てこの様子を見守った。
曹操の陣営から二里余り(約830m強)のところで、黄蓋は一斉に船に放火した。火の勢いは激しく、強風は吹き荒れ、矢のように船が突き進んでくると、火の粉は飛び、炎は赤々と燃え、曹操軍の船をことごとく焼かれ、その火は曹操の陣営にまで及んだ。周瑜らは軽装の精鋭部隊を率いて延焼を追うように攻撃を仕掛け、太鼓を鳴らして攻め込んだ。これにより曹操軍は壊滅し、曹操は敗走していった。』[江表伝]
他に『英雄記』にも記載がある。
『周瑜は江夏を守っていた。曹操、赤壁より長江南岸に渡ろうとするも、船が無く、筏に乗り漢水を下る。浦口(涌口の誤りか)に到着し、まだ長江を渡らずにいた。周瑜は夜密かに軽快な船や走舸百数艘で攻め込んだ。一艘ごとに五十人が棹で漕ぎ、松明を手に持った数千人の兵を船の上に立たせて、火を放たせた。火が燃え移ると、船はすぐに引き返した。火が起こると、たちまち曹操軍の数千の筏を焼け、その火の明かりは天を照らすほどであった。これにより曹操は夜中に敗走することとなった。』[英雄記]
三つの書を読み比べると、黄蓋の攻め込んだ時に使用した船団が蒙衝・闘艦数十艘の後ろに走舸(逃走用)を繋げたもの(『正史』)と、軽快な軍船十艘(『江表伝』)、軽快な船・走舸百数艘(『英雄記』)という違いがある。
さすがに長大な曹操陣営をことごとく焼き払った船団がわずか十艘で行ったとは考えにくい。おそらくは『正史』や『英雄記』の記述が実数に近く、数十~百ほどの船団だったのではないか。あるいは『江表伝』の十艘(原文『輕利艦十舫』)の前に「数」の字か、なにか数字が入っていたのが欠落したのかもしれない。
その他の記述はいくらか違うところもあるが、大きな食い違いや、矛盾というほどのものはない。また、『三国志演義』でお馴染みの東南の風も『江表伝』に記述がある。
黄蓋はあらかじめ船に薪を敷き、油を注いで幕で覆い隠し、夜、東南の強風の吹く中、百前後の蒙衝・闘艦を率いて曹操陣営に降伏。しかし、岸に近づくと船に放火し、曹操軍の船や営舎に向けて突っ込ませ、これを焼き払った。
この黄蓋の火攻めにより、曹操の陣営は焼失し、劉備・周瑜らの追撃の中、敗走することとなる。
なお、命がけの攻撃を行った黄蓋であったが、この時の戦いで流れ矢を受け、冬の長江に落水し、味方の兵士に助け出された。だが、助けた兵士はそれが黄蓋だとわからず、便所の中で放置された。黄蓋は力を振り絞って同僚の韓当を呼ぶと、韓当がこれに気づき、黄蓋の姿を見て涙を流し、衣服を着替えさせて一命をとりとめた。後に黄蓋はこの赤壁の功績で武鋒中郎将に昇進した。[黄蓋伝]
黄蓋は救助されたが、名のある武将と気付かれずに便所に放置されたということは、おそらく周瑜らの追撃戦も決して一方的なものではなく、自軍に多数の死傷者を出し、そのために治療が追いつかない状況だったのだろう。たまたま近くに韓当がいたために発見されたが、韓当の方も行方のわからぬ黄蓋を探していたのかもしれない。
ここで少し当時の船について解説しておこう。この時代の船は基本的に木造で、移動には帆を用いられることもあったが、あくまでも補助的なもので、主動力は多数のオールを使った人力である。
蒙衝(艨衝とも書く)は矢や石の攻撃から守るために装甲を牛皮で覆った船で、前後左右に弩の発射口や矛を突き出す穴が設けられている。小型船が多く、速度と防御力を重視した船で、楼船や闘艦といった大型船の支援等に使用された。今で言う巡洋艦や駆逐艦のような船。
闘艦(ただ単に艦と書かれることもある)は水上戦闘の主力となる重武装船。多数の兵士を乗せることが出来、また女牆(低い垣)が設けられ、船上での戦闘が可能な大型船。今で言う戦艦にあたる。なお、「艦」という漢字はこの船が監獄のようであったことから生まれた字である。
走舸は小型の高速船。その高速を生かして大型船の支援や非戦闘艦の保護等に用いられた。乗れる兵士は多くないので、比較的精鋭が搭乗した。今で言う駆逐艦のような船。
この他に大型船では楼船、小型船では游艇等がある。
楼船は闘艦と似ているが、船の上に楼閣(複数階建ての建築物)が建てられているのが特徴。移動要塞というべき船で、輸送力・防御力・攻撃力においてはトップクラスの大型船。ただ、移動速度・機動性は悪く、暴風雨等の天災に弱いという欠点があり、必ずしも最強の船ではなかった。
游艇は防壁を持たない小型船で、今で言うボートに近い。戦闘力はほぼないが、その速度や機動力を生かし、偵察や通信、将校の移動に用いられた。
その他、三国時代に突入すると、さらに大型船が建造されるようになるが、赤壁の戦いには投入されてないであろうから、ここでは割愛する。
◎敗走する曹操
曹操が赤壁から撤退する様は『武帝紀』にひく『山陽公戴記』及び『太平御覧』に引く『英雄記』に詳しい。
『曹操の戦艦が劉備によって焼かれると、軍勢をまとめて華容道から徒歩で帰った。途中、泥濘に阻まれ道は通らず、また、強風が吹いていた。弱り果てた兵たちを総動員して草を運ばせ、道を埋め、それによりようやく騎兵が通行することができた。弱った兵たちは人馬に踏みつけられ、泥の中に沈み、多くの死者を出した。
曹操軍がなんとか窮地を脱すと、曹操は大いに喜んだ。諸将がその訳を聞くと、曹操は答えた。「劉備は私と同格だが、ただ少しばかり計略を思いつくのが遅い。もしもっと早く放火していれば我々は全滅していた。」劉備は追って放火したが間に合わなかった。』[山陽公戴記]
『曹操は赤壁より敗走した。雲夢沢に至り、大霧に遭遇し、道に迷った。』[英雄記]
曹操は華容道を通って退却した。華容道の場所については諸説あるようだが、雲夢沢を経由して江陵を目指したルートであろう。おそらく、行きに通過した道とほぼ同じ道だろう。広大な湿地帯である雲夢沢を通過したので、その帰路は困難を極め、霧により道に迷い、疲労を加速させた上に、騎馬を通すためにその疲労した兵士にさらに無理をさせ、より多くの死者を出してしまったようだ。
雲夢沢を抜けたあたりであろうか、曹操は大いに喜び、劉備が火を放つのが遅かったことを指摘した。おそらくこれは劉備らの追撃の遅さを指摘したものだろう。
おそらく、この時点で劉備はまだ赤壁に到着しておらず、続く江陵戦でようやく周瑜軍に合流した状況だったのだろう。また、孫権が今後独立を周囲に納得させるには自力で曹操を撃破する必要があった。そのために周瑜は劉備到着前に単独で、急ぎ曹操を討ったのだろう。周瑜軍が先行して曹操を追撃するためには長江を渡る必要がある。それも曹操軍に気づかれないように大きく迂回して渡らねばならず、それだけの時間がなかったのだろう。結果的に曹操撃破には成功したが、先回りして追撃する余裕はなかった。そして、これにより曹操は劉備と周瑜の連携が決して取れているわけではないことを察して喜んだのだろう。
なお、『演義』では伏兵が無いことを曹操が笑ったところへ趙雲、張飛、さらに関羽と次々に襲いかかられ、最後には関羽に、かつて千里行で曹操の武将を斬っても許したことを思い出させ、情に訴える形で逃してもらうという内容になっている。
本編ではカンウ・チョーヒ・チョーウンの三人が同時にソウソウ軍へ追撃を仕掛け、ソウソウ軍の将・シカンによって足止めされるという展開にしている。これは舞台が校舎内で、廊下に陣取るソウソウ軍をすり抜け、先回りして待ち構えるという展開は構造的に無理があるという判断からこのような形となった。(まあ、校舎外に出てしまえばどうとでもなる気はするが)
この『学園戦記三国志』では、必ずしも『演義』の内容に沿うとは限らないので、ご了承のほどよろしくおねがいいたします。まあ、関羽の千里行とか色々やってないので今更ではあるのだが。
◎曹操の敗戦処理
曹操は道中、多数の死者を出しながらも、江陵へ撤退した。曹操は族弟の曹仁を行征南将軍に任じ、徐晃と共に江陵に駐屯させ、楽進に襄陽を守らせ、満寵を行奮威将軍とし、両都市の間にある当陽に置いて、自身は北に帰還した。[武帝紀、曹仁伝、楽進伝、徐晃伝、満寵伝、呉主伝]
曹仁と満寵の役職の前にある「行」の字は代行の意味で、仮に任命された役職である場合に頭につけられる。本来なら朝廷で正式な手続きを経て任命されるものだが、緊急事態のため出先の荊州での任命となったのでこの処置となっている。この二人はこの時点ではまだ将軍号を与えられていなかったので(曹仁は議郎、満寵は汝南太守)、代行ではあるが将軍として荊州の防衛を任せることとした。(なお、この時点で徐晃は横野将軍、楽進は折衝将軍と、ともに将軍号持ち)
また、曹操は劉巴(本編、リュウハ、102話より登場)を召し出して掾に任命し、長沙郡・零陵郡・桂陽郡に帰順を呼びかけさせた。注に引く『零陵先賢伝』によると、この時劉巴は「荊州は劉備が支配しているので無理です」と言ったが、曹操は「もし、劉備が攻めてきたら私が六軍を率いて助けにいくだろう」と答えた。[劉巴伝]
劉巴は荊州零陵郡の出身で、祖父や父も郡太守を務めた名家であり、彼自身も若い頃から有名であった。劉表の招集には応じなかったが、曹操が荊州を平定すると、彼は曹操に仕えた。初め曹操は荊州南部の帰順を既に実績のある桓階に命じたが、桓階は劉巴には及ばないとして辞退した。
荊州平定時、曹操は江陵で留まり、そのまま東進して赤壁の戦いとなったので、江陵以南へは足を踏み入れておらず、荊州南部へはほとんど何も出来てない状況だったのだろう。だから、曹操は荊州南部の名家の出身である劉巴を派遣して帰順を促した。それは裏を返せばこの時点で荊州南部は決して曹操に従っていたわけではないことを意味している。
また、赤壁と前後して孫権が合肥(“がっぴ”とも読む)へ侵攻している。孫権は揚州で勢力を築いていたが、揚州全土が孫権領であったわけではなく、北部には曹操領となっている地域もあった。合肥は揚州の曹操領に含まれる都市で、劉馥(本編、リュウフク、41話より名のみ登場)は曹操に揚州刺史に任命されると、本来、揚州の州治(州庁所在地)であった寿春は既に袁術によって荒廃していたので、空城となっていた合肥に新たな州の庁舎を置き、修復した。[武帝紀、劉馥伝、呉主伝]
孫権は揚州を完全に支配したいと考えていたのだろう。合肥は修復を開始してまだ数年しか経っておらず、またこの年(208年)に劉複も亡くなってしまっていたので、この時とばかりに合肥へと侵攻した。
これに対し曹操は、将軍の張喜(本編、チョーキ、102話より登場)(張憙とも書く)に千騎を率いさせ、途中の汝南で兵を補充させて、救援に赴かせようとしたが、疫病により進行を止めてしまった。
そこで合肥の役人であった蒋済(本編、ショーセイ、64話より登場)は、張喜率いる救援軍四万がすぐ側まで来ていると、偽の情報を孫権に掴ませた。孫権は既に合肥を包囲して一月以上経っていたが、劉馥の遺した豊富な物資のおかげもあり、陥落できなかったこともあって、この情報を信じて撤退した。[蒋済伝、劉馥伝]
合肥は蒋済の機転のおかげで事なきを得たが、合肥への救援にせよ、荊州南部への対応にせよ、曹操の派遣した兵の少なさが目立つ。赤壁前夜、その総勢は数十万とも言われていた陣営とは思えない状況の変化である。
これはまず第一に、主力であった曹操軍本隊が壊滅的打撃を被ったためであろう。また、その多くが疫病に感染していたのなら、帰還後に荊州に残っていた他の部隊にも感染した可能性も高く、荊州滞在軍全体に影響があったのではないか。
さらに『蒋済伝』によれば汝南(予州に属す)を通過した張喜軍にも疫病が広まっており、この年の疫病は荊州で局所的に広まっていたものではなく、もっと広範囲に広まっていた可能性もある。劉備軍・孫権軍に特に疫病の記述が無いことから、この疫病は長江以北、荊州北部から予州あたりで広まっていたのだろうか。曹操軍が広めてしまった可能性もあるが、とにかく曹操陣営ばかりが打撃を被る形となった。
次に各地の反乱への備えであろう。孫権が反旗を翻し、曹操に勝利したことにより、官渡の勝利以降、曹操一強と思われていた図式が崩れた。それに伴い各地で反乱が頻発する可能性が高まり、それに備えて兵をある程度手元に置いておく必要性があった。そのため派遣する兵数が最低限に留まることとなった。実際に翌年には廬江郡で陳蘭(本編、チンラン、55話より登場)らが孫権・劉備と組んで反乱を起こし、その後も太原の商曜(本編未登場)や関中軍閥の韓遂(本編未登場)や馬超といった勢力を曹操は相手にしていくこととなる。
曹操主力軍の壊滅と各地で起きる反乱のために曹操は兵力不足に悩まされることとなった。後に曹操は本隊を立て直すが、結局、天下を統一できなかったのであるから、この兵数不足は解決しなかったのではないだろうか。
◎その後の荊州
さて、最後に曹操撤退後の荊州について簡単に解説しておこう。
劉備・周瑜の連合軍は南郡に侵攻。曹仁の籠もる江陵と長江を挟み対陣する形となった。周瑜は江陵を攻めるより先に甘寧を夷陵へ派遣し、これを占領させた。この時、甘寧軍は千人にも満たなかったので、曹仁は五六千の兵を送り、これを包囲した。甘寧より救援要請がくると、周瑜は呂蒙の策を用いて凌統に留守を任せ、自ら甘寧を救出し、そのまま長江を下って、北岸に陣取り、江陵と対峙した。[先主伝、周瑜伝、呂蒙伝、甘寧伝、凌統伝]
夷陵は江陵から隣の益州に通ずるルート上にある都市だ。益州の劉璋が曹操へ援軍を派遣した件はすでに書いたが、『呂蒙伝』によるとこの時、益州の将の襲粛(本編、シュウシュク、102話より登場)が部隊を率いて周瑜軍に帰順している。おそらく、曹操の敗北を知って攻められる前にさっさと白旗を上げたのだろう。そして、この投降によりおそらく夷陵が空白地帯となり、急ぎ周瑜は占領したのだろう。
また、時を前後して、劉備より「張飛と千人の兵を預けるので、代わりに二千の兵を貸してほしい。それで夏水を通って曹仁の退路を断とう」と提案され、周瑜はこれに乗った。劉備は関羽を北進させ、曹仁の退路を断たせた。曹仁は楽進・徐晃・満寵らを遣り、関羽を撃退した。[楽進伝、徐晃伝、李通伝、周瑜伝]
関羽の動きについてだが、『徐晃伝』では徐晃と満寵が漢津で撃退したといい、『楽進伝』では襄陽の楽進が関羽・蘇非(本編、ソヒ、77話より登場)らを攻撃して敗走させたという。『徐晃伝』の記述は長坂の戦いの時の話の可能性もあるが、『李通伝』によればこの後、李通(本編、リツウ、41話より登場)が曹仁の救援に赴いた時になおも関羽は北道に陣取っていたとあるので、徐晃・楽進と李通の攻撃が同時期でないのなら、徐晃・楽進らは結局、関羽を撤退させるまでの打撃を与えられなかったのではないか。関羽と蘇非(人物不明。あるいは元黄祖配下の蘇飛(本編、ソヒ、77話より登場)と同一人物か関係者であろうか)の部隊は敵中孤立無援の状況でかなり粘っていたといえる。
周瑜軍と曹仁軍は正面より開戦となった。途中、周瑜の左の鎖骨に流矢が命中し、重症を負う場面もあったが、周瑜軍が優勢であった。周瑜・劉備軍に包囲され、北道も関羽に断たれた曹仁のために、汝南太守・李通が軍を率いて救援に赴いた。馬から降りて柵を壊し、包囲陣に突入した。李通は戦いつつ前進し、曹仁軍を救い出した。一年以上続いた攻防戦を制し周瑜が江陵を占領すると、孫権は彼を南郡太守・偏将軍とし、江陵に引き続き駐屯させた。[李通伝、呉主伝、周瑜伝]
汝南郡は江陵のある南郡の北に位置し、隣(南陽郡)の隣の郡である。この時の李通の活躍は諸将第一と『正史』でも賞賛されているが、李通は帰り道の途中、病気にかかり亡くなってしまう。戦場での傷が元か、荊州の疫病かは不明である。
そしてこの撤退により、江陵は周瑜と占領するところとなり、孫権は周瑜を南郡太守とした。なお、この時点でまだ襄陽(元々こちらも南郡所属の都市)等の都市は占領できていないが、曹操は荊州平定時に襄陽を含む北の都市を南郡から分割して襄陽郡を新たに設けている。なので、襄陽はまだ曹操領だが、南郡の占領は完了したといえる。
一方、劉備は長江南岸の油江口を公安と改称し、ここを拠点とした。劉琦を荊州刺史とし、荊州南部四郡の征討に赴き、武陵太守の金旋(本編、キンセン、91話より登場)、長沙太守の韓玄(本編、カンゲン、91話より登場)、桂陽太守の趙範(本編、チョウハン、91話より登場)、零陵太守の劉度(本編、リュウタク、91話より登場)らを全て降伏させた。曹操より南部の帰順の役を命じられていた劉巴は、劉備がこれらの郡を平定し、曹操の元に帰れなくなったため、遠く交州へと逃れた。[先主伝、劉巴伝]
油江口は江陵と長江を挟んですぐ南側に位置し、長江と油水の合流地点あたり。劉備はここを公安と改め、本拠地として荊州四郡を平定した。
この征討された四郡の太守については記録が少なく、劉表が任命したのか、曹操が任命したのかはっきりしない。唯一まとまった経歴がわかるのは武陵太守の金旋で、『三輔決録注』によると、金旋は京兆(司隸に属す)の人。黄門郎、漢陽太守を歴任し、中央に召喚され、議郎となり、昇進して中郎将となり、武陵太守を兼ねたが、劉備に攻撃され死亡したとある。これによれば中央で活躍していた人物であることがわかる。なお、『正史』では降伏しているが、こちらでは戦死している。金旋のその後の記録はなく、どちらが正しいかわからない。
また、『黄忠伝』によると、曹操は荊州を平定すると、元劉表の将であった黄忠(本編、コーチュー、66話より登場)を仮に裨将軍とし、長沙太守・韓玄の統制下においたとある。黄忠は劉表時代から長沙に駐屯していたが、長沙太守の配下ではなかった。それを曹操は長沙太守の管轄に組み込んでいるのだから、韓玄は曹操側の人間といえる。
これらから考えて、おそらくこの四人の太守は曹操が任命した可能性が高いのではないだろうか。
なお、『演義』ではこの四郡の攻略を関羽・張飛・趙雲にそれぞれ活躍の場を設け、かなり脚色を加えて描写している。黄忠が韓玄の指揮下にいたのは前述したが、魏延もその指揮下にいたのは『演義』の創作である。また、趙範が嫂を趙雲に嫁がせようとし、拒否されたことは『趙雲伝』の注に引く『趙雲別伝』に見える。その他、邢道栄(本編未登場)等の四太守の配下や関羽と黄忠の一騎打ち等は『演義』の創作となる。
赤壁の戦いでどうしても出番が減る関羽・張飛・趙雲に活躍の場を設け、黄忠との一騎打ち等見所も多い『演義』の四郡攻略だが、創作部分の多さと既に五章がかなり長くなっていたことから本編では大幅にカットした。気になる方は『演義』やそれを元にした小説・漫画等を読んで確認してほしい。
さて、この四郡攻略により、ついに劉備は領土を得て、傭兵のような立場から群雄の仲間入りを果たした。後に三国志の一国となる基盤を得たのである。
この後、荊州の領有を巡っては劉備と孫権の間で大いに揉めることとなるが、次章に及ぶ話であるので、今回の『歴史解説 赤壁の戦い』はここまでとしたい。
◎まとめ
今回は208年に起きた赤壁の戦いとその前後について解説した。
三国志最大の戦いとも言われるこの戦いだが、実際に見ていくとそこまで大規模な戦いではなかったように思う。だが、その歴史的意義は大きい。
まず、曹操側から見たこの戦いの損失だが、何よりも曹操の天下統一事業の破綻が挙げられる。
官渡の戦いに勝利し、袁氏を滅ぼした曹操は、事実上の一強状態となり、他の勢力は恭順の意を示した。後はかつての袁氏の同盟者である劉表・劉備を倒せば反対勢力はほぼ一掃されるはずであった。
その劉表も亡くなり、残る劉備は優れた指揮官といえども寡勢で、曹操の勝利は一目瞭然であった。しかし、そこに孫権が反旗を翻し、そして曹操に勝ってしまった。これにより今まで曹操に恭順していた他勢力にも反抗の気運が高まり、更には劉備・孫権も倒しきれず、結局、曹操の代での天下統一は頓挫してしまった。
この後の曹操は、魏公、そして魏王とその地位を上げていくこととなるが、この敗戦で権威を大きく損ない、さらに天下統一からの皇帝即位という軍事的な手順を行うのが難しくなったため、政治的な手順で権威を補い、皇帝への道筋をつける必要が生じたためというのも理由の一つだろう。
次に孫権の場合だが、こちらは孫権の権威の確立が挙げられる。
これまで見てきたように、これ以前の江東の孫氏政権は孫賁・孫輔らが強い発言権を有し、孫権の力は決して強いものではなかった。孫権はこの戦いを利用し、クーデターにも近い形で孫賁・孫輔を政権中枢の座から失脚させた。
この後、孫権は三国の一国である呉を建国していくこととなるが、この孫賁・孫輔の排除は自立していく上で避けては通れないことであった。孫権はこの戦いの勝利により、軍事的な功績・権威に加えて、権力の確立に成功し、呉建国の第一歩を踏み出すこととなった。
最後に劉備だが、彼は念願の領土を得ることが出来たのが最大の利益であろう。
劉表時代、劉備は新野城や樊城に駐屯してはいたが、その領土を与えられたわけではなかった。傭兵のような扱いであり、それは袁紹や劉表のような群雄の元にいなければ活動もままならない状況であった。徐州以来の領土を持つことで劉備はようやく群雄として並び立つことができた。後に彼も三国の内の一国を建国することとなるが、それもこの元手があったからこそ得ることができた。
こうして三勢力の事情を見ていくと、曹操は天下統一が不可能となり、孫権・劉備は勢力を拡大することに成功した。まさにこの赤壁の戦いはそれまでの後漢の群雄割拠の時代を終わりを告げ、来たるべき三国時代の始まりとなった戦いと言えるだろう。
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東洋文庫水経注図データベース
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むじん書院
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季漢書
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てぃーえすのメモ帳
https://t-s.hatenablog.com/
思いて学ばざれば
https://mujin.hatenadiary.jp/
いつか書きたい『三国志』
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もっと知りたい!三国志
https://three-kingdoms.net
歴華泉
http://rekishiizumi.web.fc2.com/
呉書見聞
http://gosyokenbun.com/
[三国志]孫権が権力を掌握する過程について
https://togetter.com/li/662812
◎黄蓋の降伏
曹操は周瑜軍の参戦と疫病により、身動きが取れなくなっていたが、周瑜軍もまた数万の大軍である曹操軍を前に攻めあぐね、戦線は膠着状態となった。
この状況を打破したのは、孫権の武将・黄蓋であった。
『黄蓋は周瑜にいった。「今、敵は多勢で我らは寡勢なので、持久戦を行うのは困難です。しかしながら、曹操軍の艦船は互いに密集しており、火攻めをすれば敗走させることができます。」
そこで蒙衝(駆逐艦)・闘艦(戦艦)数十艘を選び、薪や草を敷き詰め、その中に油を注ぎ、帷幄で覆い隠して、牙旗を建てた。そしてあらかじめ曹操に手紙を送り、偽りの降伏をしようとした。』[周瑜伝]
また、注に引く『江表伝』には、この時の黄蓋が曹操へ手紙を送った様子が記述されている。
『黄蓋の手紙に云う、「私黄蓋は孫氏の厚恩を受け、武将として取り立てられ、浅からぬ礼遇を被っております。しかし、天下には大きな勢いというものがあり、江東六郡に山越の力をもって中原百万の軍勢に挑むのが無謀なことは、誰が見ても明らかです。呉の文武百官も賢愚を問わず、その無理を承知しているのですが、ただ、周瑜と魯粛のみが頑固で浅慮のために納得しないのです。
私が曹操様に降伏するのはこのような理由からです。周瑜の守るところは簡単に打ち破れます。両軍が戦う時、この黄蓋が先鋒を務めますが、適当なところで寝返ります。それは遠い先の未来ではありません。」曹操はわざわざ黄蓋の使者を引見し、密かに質問をしてから言った。「ただ、この降伏が偽りでないかだけが心配なのだ。黄蓋がもし本当に降伏するのであれば、空前絶後の恩賞を授けるだろう」』[黄蓋伝注江表伝]
こうして黄蓋は曹操へ偽りの降伏を願い出、それを曹操は信じた。何故、曹操はこの降伏を信じたのか。それだけ曹操が切羽詰まっていたということでもあるのだろう。状況的には一度撤退するのが最善だが、敗戦となれば責任を取らなければならない。かといって時間をかければ劉備・劉琦軍が参戦してより困難な状況になりかねない。その中で黄蓋の降伏がこの不利な状況の突破口になると判断したのだろう。
思い返せば官渡の戦いも、曹操は不利な状況であったが、許攸の降伏により状況が打開でき、一転、勝利となった。許攸も袁紹の古参であったことを考えれば、古参の将・黄蓋の降伏もあり得ないことではない。
これに加えてもう一つ、曹操が信じた理由は黄蓋の経歴にもあったのではないだろうか。
『黄蓋伝』によれば、黄蓋は初め孫堅に仕え、孫堅の死後、孫策に仕え、そのまま孫権に仕えたという。だが、彼の孫策時代の具体的な事跡は記録がない。
また、『孫堅伝』や『孫賁伝』によれば、孫堅の死後、その軍勢は甥の孫賁が引き継いだという。長男の孫策らはこの時まだ未成年で、戦場には出ていない。孫策が成人して袁術の武将となるのは、孫堅の死から二年後である。黄蓋は孫堅死後、しばらくは孫賁軍に所属していたのではないだろうか。
後に孫策は袁術に願い出て、孫堅の兵を返して貰うこととなるが、黄蓋らが移籍したのはこれに伴ってのことだろう。そして、その後の孫賁だが前述した通り、孫権によって失脚し、弟の孫輔は曹操と内通したとして幽閉された。
この流れを曹操の視点から見ると、今まで事実上の政権運営者だと思ってやり取りしていた孫賁・孫輔は孫権のクーデターにより失脚。さらに孫権は周瑜・魯粛の口車に乗せられ、自分に戦争を仕掛けてきた。そんな中、孫賁に縁ある武将が、周瑜・魯粛のやり方にはついていけないと降伏を願い出てきた。曹操がその話に耳を傾けてもおかしくない状況である。
だからこそ、曹操への偽りの降伏の役目に黄蓋が選ばれたのではないだろうか。『正史』では自ら言い出したから、その役目を黄蓋が担当したように読めるが、いくら自ら言い出したからと言っても成功率の低い人物なら選ばれないだろう。曹操がその降伏を信じる人物でなければならないが、相手にされないような小物では意味がない。
孫堅時代から在籍し、この赤壁の戦いに参戦している指揮官クラスの人物は三人。程普・韓当、そして黄蓋である。だが、程普は周瑜と共に総司令官なのでやるわけにはいかない。
候補は韓当と黄蓋の二人に絞られる。韓当は孫堅に仕える以前の経歴ははっきりとしない。だが、仕えた当初の扱いを見るに、元々良い家柄の出自ではないだろう。
対して黄蓋はかつて郡の役人を務め、さらに孝廉に推挙され、三公の役所から招聘を受けている。孝廉とは当時の役人による人材推挙の方法で、さらに三公(大臣最高位)から招聘されているので、黄蓋は官僚としてエリートコースを歩んでいたといえる。そんな彼が孫堅軍に加入した詳しい経緯は不明だが、おそらく地元で起きた反乱(孫堅が鎮圧した)に巻き込まれる形だったのだろう。
いくら黄蓋や韓当に武将として戦功があったといっても、遠く離れた江東の地での活躍では曹操は知らない可能性もある。しかし、孝廉に推挙されたとなればそれなりに名が知られている可能性が高い。さらに言えば、黄蓋の出身は荊州零陵郡、荊州人士を吸収した曹操陣営なら彼を知っていてもおかしくはない。
おそらく、この偽りの降伏者には、孫賁に仕えたことがあるという経歴と、中央における知名度を考慮して黄蓋が選ばれたのではないか。
なお、『演義』ではこの時の黄蓋から曹操への使者には闞沢(本編未登場)という人物が行っている。闞沢は黄蓋の降伏を疑う曹操に、巧みな話術で信用させることに成功した。また、後の話ではあるが、実績の乏しい陸遜(本編未登場)を大都督に推薦し、周囲を納得させる役で再登場している。この二つの逸話は共に『演義』の創作ではあるが、呉としては珍しく優遇された人物といえる。
『正史』での闞沢だが、彼は代々農民の家の生まれで、貧しかったが、苦学して名声を得た人物であった。彼の作成した暦は呉の正式な暦として採用され、また、孫権の息子の先生も務めた。だが、孫権の側近くに仕えるようになったのは219年以降のことで、彼の主な活躍は呉が建国されて以降の出来事であった。そのため、彼の生年は不明だが、実際の闞沢の年齢は『演義』の想定より一世代ほど若いと思われる。
なので、本編ではコウガイの使者の役目は与えず、登場自体させていない。今のところ予定は特にないが、もし登場するとしたら、来年度の入学生となるだろう。
◎赤壁での勝利
黄蓋は曹操へ投降する旨を伝え、それを信じさせると、ついに曹操軍への攻撃作戦を実行に移した。
ついに赤壁の戦いのクライマックスである。この時の様子は『周瑜伝』に詳しい。
『(黄蓋は)あらかじめ走舸(快速艇)を用意して、それぞれ大型船の後ろに繋ぎ、ともに曹操陣営に向けて出発した。曹操軍の官吏・兵士はそろって首を伸ばして観望し、指し示して黄蓋が投降してきたと言い合った。
黄蓋は(先に薪を敷き、油を注いだ)船を切り離し、それと同時に火を放った。時に風は勢い盛んに猛り狂い、ことごとく対岸にある曹操陣営は焼け落ちた。やがて、煙と炎は天を覆い、人馬らあるいは焼け、あるいは溺れ、その死者はおびただしい数となった。曹操の軍はついに敗退し、荊州の南郡へと引き返して立て籠もった。劉備は周瑜らとともにこれを追いかけると、曹操は曹仁らを江陵の守備に残し、自身は北へ帰った。』[周瑜伝]
また、この戦いの様子は注に引く『江表伝』にも詳細に綴られている。
『戦いの日、黄蓋は先に軽快な軍船十艘を選び、その中に枯れ草を敷き詰め、魚油を注ぎ、赤い幕でこれを覆い、旗や幟を艦上に建てた。時に東南の風が吹き、十艘の船を先頭に立て、長江の半ばで帆を上げると、黄蓋は松明を掲げ、将校・兵士たちに大声で「降伏」と叫ばせた。曹操軍の兵士たちは皆、営舎から出てこの様子を見守った。
曹操の陣営から二里余り(約830m強)のところで、黄蓋は一斉に船に放火した。火の勢いは激しく、強風は吹き荒れ、矢のように船が突き進んでくると、火の粉は飛び、炎は赤々と燃え、曹操軍の船をことごとく焼かれ、その火は曹操の陣営にまで及んだ。周瑜らは軽装の精鋭部隊を率いて延焼を追うように攻撃を仕掛け、太鼓を鳴らして攻め込んだ。これにより曹操軍は壊滅し、曹操は敗走していった。』[江表伝]
他に『英雄記』にも記載がある。
『周瑜は江夏を守っていた。曹操、赤壁より長江南岸に渡ろうとするも、船が無く、筏に乗り漢水を下る。浦口(涌口の誤りか)に到着し、まだ長江を渡らずにいた。周瑜は夜密かに軽快な船や走舸百数艘で攻め込んだ。一艘ごとに五十人が棹で漕ぎ、松明を手に持った数千人の兵を船の上に立たせて、火を放たせた。火が燃え移ると、船はすぐに引き返した。火が起こると、たちまち曹操軍の数千の筏を焼け、その火の明かりは天を照らすほどであった。これにより曹操は夜中に敗走することとなった。』[英雄記]
三つの書を読み比べると、黄蓋の攻め込んだ時に使用した船団が蒙衝・闘艦数十艘の後ろに走舸(逃走用)を繋げたもの(『正史』)と、軽快な軍船十艘(『江表伝』)、軽快な船・走舸百数艘(『英雄記』)という違いがある。
さすがに長大な曹操陣営をことごとく焼き払った船団がわずか十艘で行ったとは考えにくい。おそらくは『正史』や『英雄記』の記述が実数に近く、数十~百ほどの船団だったのではないか。あるいは『江表伝』の十艘(原文『輕利艦十舫』)の前に「数」の字か、なにか数字が入っていたのが欠落したのかもしれない。
その他の記述はいくらか違うところもあるが、大きな食い違いや、矛盾というほどのものはない。また、『三国志演義』でお馴染みの東南の風も『江表伝』に記述がある。
黄蓋はあらかじめ船に薪を敷き、油を注いで幕で覆い隠し、夜、東南の強風の吹く中、百前後の蒙衝・闘艦を率いて曹操陣営に降伏。しかし、岸に近づくと船に放火し、曹操軍の船や営舎に向けて突っ込ませ、これを焼き払った。
この黄蓋の火攻めにより、曹操の陣営は焼失し、劉備・周瑜らの追撃の中、敗走することとなる。
なお、命がけの攻撃を行った黄蓋であったが、この時の戦いで流れ矢を受け、冬の長江に落水し、味方の兵士に助け出された。だが、助けた兵士はそれが黄蓋だとわからず、便所の中で放置された。黄蓋は力を振り絞って同僚の韓当を呼ぶと、韓当がこれに気づき、黄蓋の姿を見て涙を流し、衣服を着替えさせて一命をとりとめた。後に黄蓋はこの赤壁の功績で武鋒中郎将に昇進した。[黄蓋伝]
黄蓋は救助されたが、名のある武将と気付かれずに便所に放置されたということは、おそらく周瑜らの追撃戦も決して一方的なものではなく、自軍に多数の死傷者を出し、そのために治療が追いつかない状況だったのだろう。たまたま近くに韓当がいたために発見されたが、韓当の方も行方のわからぬ黄蓋を探していたのかもしれない。
ここで少し当時の船について解説しておこう。この時代の船は基本的に木造で、移動には帆を用いられることもあったが、あくまでも補助的なもので、主動力は多数のオールを使った人力である。
蒙衝(艨衝とも書く)は矢や石の攻撃から守るために装甲を牛皮で覆った船で、前後左右に弩の発射口や矛を突き出す穴が設けられている。小型船が多く、速度と防御力を重視した船で、楼船や闘艦といった大型船の支援等に使用された。今で言う巡洋艦や駆逐艦のような船。
闘艦(ただ単に艦と書かれることもある)は水上戦闘の主力となる重武装船。多数の兵士を乗せることが出来、また女牆(低い垣)が設けられ、船上での戦闘が可能な大型船。今で言う戦艦にあたる。なお、「艦」という漢字はこの船が監獄のようであったことから生まれた字である。
走舸は小型の高速船。その高速を生かして大型船の支援や非戦闘艦の保護等に用いられた。乗れる兵士は多くないので、比較的精鋭が搭乗した。今で言う駆逐艦のような船。
この他に大型船では楼船、小型船では游艇等がある。
楼船は闘艦と似ているが、船の上に楼閣(複数階建ての建築物)が建てられているのが特徴。移動要塞というべき船で、輸送力・防御力・攻撃力においてはトップクラスの大型船。ただ、移動速度・機動性は悪く、暴風雨等の天災に弱いという欠点があり、必ずしも最強の船ではなかった。
游艇は防壁を持たない小型船で、今で言うボートに近い。戦闘力はほぼないが、その速度や機動力を生かし、偵察や通信、将校の移動に用いられた。
その他、三国時代に突入すると、さらに大型船が建造されるようになるが、赤壁の戦いには投入されてないであろうから、ここでは割愛する。
◎敗走する曹操
曹操が赤壁から撤退する様は『武帝紀』にひく『山陽公戴記』及び『太平御覧』に引く『英雄記』に詳しい。
『曹操の戦艦が劉備によって焼かれると、軍勢をまとめて華容道から徒歩で帰った。途中、泥濘に阻まれ道は通らず、また、強風が吹いていた。弱り果てた兵たちを総動員して草を運ばせ、道を埋め、それによりようやく騎兵が通行することができた。弱った兵たちは人馬に踏みつけられ、泥の中に沈み、多くの死者を出した。
曹操軍がなんとか窮地を脱すと、曹操は大いに喜んだ。諸将がその訳を聞くと、曹操は答えた。「劉備は私と同格だが、ただ少しばかり計略を思いつくのが遅い。もしもっと早く放火していれば我々は全滅していた。」劉備は追って放火したが間に合わなかった。』[山陽公戴記]
『曹操は赤壁より敗走した。雲夢沢に至り、大霧に遭遇し、道に迷った。』[英雄記]
曹操は華容道を通って退却した。華容道の場所については諸説あるようだが、雲夢沢を経由して江陵を目指したルートであろう。おそらく、行きに通過した道とほぼ同じ道だろう。広大な湿地帯である雲夢沢を通過したので、その帰路は困難を極め、霧により道に迷い、疲労を加速させた上に、騎馬を通すためにその疲労した兵士にさらに無理をさせ、より多くの死者を出してしまったようだ。
雲夢沢を抜けたあたりであろうか、曹操は大いに喜び、劉備が火を放つのが遅かったことを指摘した。おそらくこれは劉備らの追撃の遅さを指摘したものだろう。
おそらく、この時点で劉備はまだ赤壁に到着しておらず、続く江陵戦でようやく周瑜軍に合流した状況だったのだろう。また、孫権が今後独立を周囲に納得させるには自力で曹操を撃破する必要があった。そのために周瑜は劉備到着前に単独で、急ぎ曹操を討ったのだろう。周瑜軍が先行して曹操を追撃するためには長江を渡る必要がある。それも曹操軍に気づかれないように大きく迂回して渡らねばならず、それだけの時間がなかったのだろう。結果的に曹操撃破には成功したが、先回りして追撃する余裕はなかった。そして、これにより曹操は劉備と周瑜の連携が決して取れているわけではないことを察して喜んだのだろう。
なお、『演義』では伏兵が無いことを曹操が笑ったところへ趙雲、張飛、さらに関羽と次々に襲いかかられ、最後には関羽に、かつて千里行で曹操の武将を斬っても許したことを思い出させ、情に訴える形で逃してもらうという内容になっている。
本編ではカンウ・チョーヒ・チョーウンの三人が同時にソウソウ軍へ追撃を仕掛け、ソウソウ軍の将・シカンによって足止めされるという展開にしている。これは舞台が校舎内で、廊下に陣取るソウソウ軍をすり抜け、先回りして待ち構えるという展開は構造的に無理があるという判断からこのような形となった。(まあ、校舎外に出てしまえばどうとでもなる気はするが)
この『学園戦記三国志』では、必ずしも『演義』の内容に沿うとは限らないので、ご了承のほどよろしくおねがいいたします。まあ、関羽の千里行とか色々やってないので今更ではあるのだが。
◎曹操の敗戦処理
曹操は道中、多数の死者を出しながらも、江陵へ撤退した。曹操は族弟の曹仁を行征南将軍に任じ、徐晃と共に江陵に駐屯させ、楽進に襄陽を守らせ、満寵を行奮威将軍とし、両都市の間にある当陽に置いて、自身は北に帰還した。[武帝紀、曹仁伝、楽進伝、徐晃伝、満寵伝、呉主伝]
曹仁と満寵の役職の前にある「行」の字は代行の意味で、仮に任命された役職である場合に頭につけられる。本来なら朝廷で正式な手続きを経て任命されるものだが、緊急事態のため出先の荊州での任命となったのでこの処置となっている。この二人はこの時点ではまだ将軍号を与えられていなかったので(曹仁は議郎、満寵は汝南太守)、代行ではあるが将軍として荊州の防衛を任せることとした。(なお、この時点で徐晃は横野将軍、楽進は折衝将軍と、ともに将軍号持ち)
また、曹操は劉巴(本編、リュウハ、102話より登場)を召し出して掾に任命し、長沙郡・零陵郡・桂陽郡に帰順を呼びかけさせた。注に引く『零陵先賢伝』によると、この時劉巴は「荊州は劉備が支配しているので無理です」と言ったが、曹操は「もし、劉備が攻めてきたら私が六軍を率いて助けにいくだろう」と答えた。[劉巴伝]
劉巴は荊州零陵郡の出身で、祖父や父も郡太守を務めた名家であり、彼自身も若い頃から有名であった。劉表の招集には応じなかったが、曹操が荊州を平定すると、彼は曹操に仕えた。初め曹操は荊州南部の帰順を既に実績のある桓階に命じたが、桓階は劉巴には及ばないとして辞退した。
荊州平定時、曹操は江陵で留まり、そのまま東進して赤壁の戦いとなったので、江陵以南へは足を踏み入れておらず、荊州南部へはほとんど何も出来てない状況だったのだろう。だから、曹操は荊州南部の名家の出身である劉巴を派遣して帰順を促した。それは裏を返せばこの時点で荊州南部は決して曹操に従っていたわけではないことを意味している。
また、赤壁と前後して孫権が合肥(“がっぴ”とも読む)へ侵攻している。孫権は揚州で勢力を築いていたが、揚州全土が孫権領であったわけではなく、北部には曹操領となっている地域もあった。合肥は揚州の曹操領に含まれる都市で、劉馥(本編、リュウフク、41話より名のみ登場)は曹操に揚州刺史に任命されると、本来、揚州の州治(州庁所在地)であった寿春は既に袁術によって荒廃していたので、空城となっていた合肥に新たな州の庁舎を置き、修復した。[武帝紀、劉馥伝、呉主伝]
孫権は揚州を完全に支配したいと考えていたのだろう。合肥は修復を開始してまだ数年しか経っておらず、またこの年(208年)に劉複も亡くなってしまっていたので、この時とばかりに合肥へと侵攻した。
これに対し曹操は、将軍の張喜(本編、チョーキ、102話より登場)(張憙とも書く)に千騎を率いさせ、途中の汝南で兵を補充させて、救援に赴かせようとしたが、疫病により進行を止めてしまった。
そこで合肥の役人であった蒋済(本編、ショーセイ、64話より登場)は、張喜率いる救援軍四万がすぐ側まで来ていると、偽の情報を孫権に掴ませた。孫権は既に合肥を包囲して一月以上経っていたが、劉馥の遺した豊富な物資のおかげもあり、陥落できなかったこともあって、この情報を信じて撤退した。[蒋済伝、劉馥伝]
合肥は蒋済の機転のおかげで事なきを得たが、合肥への救援にせよ、荊州南部への対応にせよ、曹操の派遣した兵の少なさが目立つ。赤壁前夜、その総勢は数十万とも言われていた陣営とは思えない状況の変化である。
これはまず第一に、主力であった曹操軍本隊が壊滅的打撃を被ったためであろう。また、その多くが疫病に感染していたのなら、帰還後に荊州に残っていた他の部隊にも感染した可能性も高く、荊州滞在軍全体に影響があったのではないか。
さらに『蒋済伝』によれば汝南(予州に属す)を通過した張喜軍にも疫病が広まっており、この年の疫病は荊州で局所的に広まっていたものではなく、もっと広範囲に広まっていた可能性もある。劉備軍・孫権軍に特に疫病の記述が無いことから、この疫病は長江以北、荊州北部から予州あたりで広まっていたのだろうか。曹操軍が広めてしまった可能性もあるが、とにかく曹操陣営ばかりが打撃を被る形となった。
次に各地の反乱への備えであろう。孫権が反旗を翻し、曹操に勝利したことにより、官渡の勝利以降、曹操一強と思われていた図式が崩れた。それに伴い各地で反乱が頻発する可能性が高まり、それに備えて兵をある程度手元に置いておく必要性があった。そのため派遣する兵数が最低限に留まることとなった。実際に翌年には廬江郡で陳蘭(本編、チンラン、55話より登場)らが孫権・劉備と組んで反乱を起こし、その後も太原の商曜(本編未登場)や関中軍閥の韓遂(本編未登場)や馬超といった勢力を曹操は相手にしていくこととなる。
曹操主力軍の壊滅と各地で起きる反乱のために曹操は兵力不足に悩まされることとなった。後に曹操は本隊を立て直すが、結局、天下を統一できなかったのであるから、この兵数不足は解決しなかったのではないだろうか。
◎その後の荊州
さて、最後に曹操撤退後の荊州について簡単に解説しておこう。
劉備・周瑜の連合軍は南郡に侵攻。曹仁の籠もる江陵と長江を挟み対陣する形となった。周瑜は江陵を攻めるより先に甘寧を夷陵へ派遣し、これを占領させた。この時、甘寧軍は千人にも満たなかったので、曹仁は五六千の兵を送り、これを包囲した。甘寧より救援要請がくると、周瑜は呂蒙の策を用いて凌統に留守を任せ、自ら甘寧を救出し、そのまま長江を下って、北岸に陣取り、江陵と対峙した。[先主伝、周瑜伝、呂蒙伝、甘寧伝、凌統伝]
夷陵は江陵から隣の益州に通ずるルート上にある都市だ。益州の劉璋が曹操へ援軍を派遣した件はすでに書いたが、『呂蒙伝』によるとこの時、益州の将の襲粛(本編、シュウシュク、102話より登場)が部隊を率いて周瑜軍に帰順している。おそらく、曹操の敗北を知って攻められる前にさっさと白旗を上げたのだろう。そして、この投降によりおそらく夷陵が空白地帯となり、急ぎ周瑜は占領したのだろう。
また、時を前後して、劉備より「張飛と千人の兵を預けるので、代わりに二千の兵を貸してほしい。それで夏水を通って曹仁の退路を断とう」と提案され、周瑜はこれに乗った。劉備は関羽を北進させ、曹仁の退路を断たせた。曹仁は楽進・徐晃・満寵らを遣り、関羽を撃退した。[楽進伝、徐晃伝、李通伝、周瑜伝]
関羽の動きについてだが、『徐晃伝』では徐晃と満寵が漢津で撃退したといい、『楽進伝』では襄陽の楽進が関羽・蘇非(本編、ソヒ、77話より登場)らを攻撃して敗走させたという。『徐晃伝』の記述は長坂の戦いの時の話の可能性もあるが、『李通伝』によればこの後、李通(本編、リツウ、41話より登場)が曹仁の救援に赴いた時になおも関羽は北道に陣取っていたとあるので、徐晃・楽進と李通の攻撃が同時期でないのなら、徐晃・楽進らは結局、関羽を撤退させるまでの打撃を与えられなかったのではないか。関羽と蘇非(人物不明。あるいは元黄祖配下の蘇飛(本編、ソヒ、77話より登場)と同一人物か関係者であろうか)の部隊は敵中孤立無援の状況でかなり粘っていたといえる。
周瑜軍と曹仁軍は正面より開戦となった。途中、周瑜の左の鎖骨に流矢が命中し、重症を負う場面もあったが、周瑜軍が優勢であった。周瑜・劉備軍に包囲され、北道も関羽に断たれた曹仁のために、汝南太守・李通が軍を率いて救援に赴いた。馬から降りて柵を壊し、包囲陣に突入した。李通は戦いつつ前進し、曹仁軍を救い出した。一年以上続いた攻防戦を制し周瑜が江陵を占領すると、孫権は彼を南郡太守・偏将軍とし、江陵に引き続き駐屯させた。[李通伝、呉主伝、周瑜伝]
汝南郡は江陵のある南郡の北に位置し、隣(南陽郡)の隣の郡である。この時の李通の活躍は諸将第一と『正史』でも賞賛されているが、李通は帰り道の途中、病気にかかり亡くなってしまう。戦場での傷が元か、荊州の疫病かは不明である。
そしてこの撤退により、江陵は周瑜と占領するところとなり、孫権は周瑜を南郡太守とした。なお、この時点でまだ襄陽(元々こちらも南郡所属の都市)等の都市は占領できていないが、曹操は荊州平定時に襄陽を含む北の都市を南郡から分割して襄陽郡を新たに設けている。なので、襄陽はまだ曹操領だが、南郡の占領は完了したといえる。
一方、劉備は長江南岸の油江口を公安と改称し、ここを拠点とした。劉琦を荊州刺史とし、荊州南部四郡の征討に赴き、武陵太守の金旋(本編、キンセン、91話より登場)、長沙太守の韓玄(本編、カンゲン、91話より登場)、桂陽太守の趙範(本編、チョウハン、91話より登場)、零陵太守の劉度(本編、リュウタク、91話より登場)らを全て降伏させた。曹操より南部の帰順の役を命じられていた劉巴は、劉備がこれらの郡を平定し、曹操の元に帰れなくなったため、遠く交州へと逃れた。[先主伝、劉巴伝]
油江口は江陵と長江を挟んですぐ南側に位置し、長江と油水の合流地点あたり。劉備はここを公安と改め、本拠地として荊州四郡を平定した。
この征討された四郡の太守については記録が少なく、劉表が任命したのか、曹操が任命したのかはっきりしない。唯一まとまった経歴がわかるのは武陵太守の金旋で、『三輔決録注』によると、金旋は京兆(司隸に属す)の人。黄門郎、漢陽太守を歴任し、中央に召喚され、議郎となり、昇進して中郎将となり、武陵太守を兼ねたが、劉備に攻撃され死亡したとある。これによれば中央で活躍していた人物であることがわかる。なお、『正史』では降伏しているが、こちらでは戦死している。金旋のその後の記録はなく、どちらが正しいかわからない。
また、『黄忠伝』によると、曹操は荊州を平定すると、元劉表の将であった黄忠(本編、コーチュー、66話より登場)を仮に裨将軍とし、長沙太守・韓玄の統制下においたとある。黄忠は劉表時代から長沙に駐屯していたが、長沙太守の配下ではなかった。それを曹操は長沙太守の管轄に組み込んでいるのだから、韓玄は曹操側の人間といえる。
これらから考えて、おそらくこの四人の太守は曹操が任命した可能性が高いのではないだろうか。
なお、『演義』ではこの四郡の攻略を関羽・張飛・趙雲にそれぞれ活躍の場を設け、かなり脚色を加えて描写している。黄忠が韓玄の指揮下にいたのは前述したが、魏延もその指揮下にいたのは『演義』の創作である。また、趙範が嫂を趙雲に嫁がせようとし、拒否されたことは『趙雲伝』の注に引く『趙雲別伝』に見える。その他、邢道栄(本編未登場)等の四太守の配下や関羽と黄忠の一騎打ち等は『演義』の創作となる。
赤壁の戦いでどうしても出番が減る関羽・張飛・趙雲に活躍の場を設け、黄忠との一騎打ち等見所も多い『演義』の四郡攻略だが、創作部分の多さと既に五章がかなり長くなっていたことから本編では大幅にカットした。気になる方は『演義』やそれを元にした小説・漫画等を読んで確認してほしい。
さて、この四郡攻略により、ついに劉備は領土を得て、傭兵のような立場から群雄の仲間入りを果たした。後に三国志の一国となる基盤を得たのである。
この後、荊州の領有を巡っては劉備と孫権の間で大いに揉めることとなるが、次章に及ぶ話であるので、今回の『歴史解説 赤壁の戦い』はここまでとしたい。
◎まとめ
今回は208年に起きた赤壁の戦いとその前後について解説した。
三国志最大の戦いとも言われるこの戦いだが、実際に見ていくとそこまで大規模な戦いではなかったように思う。だが、その歴史的意義は大きい。
まず、曹操側から見たこの戦いの損失だが、何よりも曹操の天下統一事業の破綻が挙げられる。
官渡の戦いに勝利し、袁氏を滅ぼした曹操は、事実上の一強状態となり、他の勢力は恭順の意を示した。後はかつての袁氏の同盟者である劉表・劉備を倒せば反対勢力はほぼ一掃されるはずであった。
その劉表も亡くなり、残る劉備は優れた指揮官といえども寡勢で、曹操の勝利は一目瞭然であった。しかし、そこに孫権が反旗を翻し、そして曹操に勝ってしまった。これにより今まで曹操に恭順していた他勢力にも反抗の気運が高まり、更には劉備・孫権も倒しきれず、結局、曹操の代での天下統一は頓挫してしまった。
この後の曹操は、魏公、そして魏王とその地位を上げていくこととなるが、この敗戦で権威を大きく損ない、さらに天下統一からの皇帝即位という軍事的な手順を行うのが難しくなったため、政治的な手順で権威を補い、皇帝への道筋をつける必要が生じたためというのも理由の一つだろう。
次に孫権の場合だが、こちらは孫権の権威の確立が挙げられる。
これまで見てきたように、これ以前の江東の孫氏政権は孫賁・孫輔らが強い発言権を有し、孫権の力は決して強いものではなかった。孫権はこの戦いを利用し、クーデターにも近い形で孫賁・孫輔を政権中枢の座から失脚させた。
この後、孫権は三国の一国である呉を建国していくこととなるが、この孫賁・孫輔の排除は自立していく上で避けては通れないことであった。孫権はこの戦いの勝利により、軍事的な功績・権威に加えて、権力の確立に成功し、呉建国の第一歩を踏み出すこととなった。
最後に劉備だが、彼は念願の領土を得ることが出来たのが最大の利益であろう。
劉表時代、劉備は新野城や樊城に駐屯してはいたが、その領土を与えられたわけではなかった。傭兵のような扱いであり、それは袁紹や劉表のような群雄の元にいなければ活動もままならない状況であった。徐州以来の領土を持つことで劉備はようやく群雄として並び立つことができた。後に彼も三国の内の一国を建国することとなるが、それもこの元手があったからこそ得ることができた。
こうして三勢力の事情を見ていくと、曹操は天下統一が不可能となり、孫権・劉備は勢力を拡大することに成功した。まさにこの赤壁の戦いはそれまでの後漢の群雄割拠の時代を終わりを告げ、来たるべき三国時代の始まりとなった戦いと言えるだろう。
〔参考文献〕
・書籍
陳寿著 今鷹真・井波律子・小南一郎訳 『正史三国志』(全八巻) 筑摩書房 1993年
范曄撰 李賢等注 『後漢書』(全六巻) 中華書局出版 1965年
目加田誠訳注 『新釈漢文大系 世説新語』(全三巻) 明治書院 1975年
譚其驤主編 『中国歴史地図集 第二冊(秦・西漢・東漢時期)』 地図出版社 1982年
宮川尚志 『諸葛孔明(新装版)』 光風社 1988年
中国綜合地図出版編 『中国綜合地図集』 中国綜合地図出版社 1990年
篠田耕一 『三国志軍事ガイド』 紀元社 1993年
沈伯俊・譚良嘯編著 立間祥介・岡崎由美・土屋文子編訳 『三国志演義大事典』 潮出版社 1996年
郭沫若主編 『中国史稿地図集』 中国地図出版社 1996年
竹田晃訳 『文選(文章篇) 中』 明治書院 1998年
来村多加史他 『歴史群像グラフィック戦史シリーズ 戦略戦術兵器事典 中国編』 学研 2000年
渡邉義浩 『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』 講談社 2012年
幾喜三月 『献帝の見た日食 後漢末から晋統一までの71の日蝕一覧』 楽史舎 2015年
長田康宏 『三国志群雄太守県令勢力図(上)』 長田康宏 2018年
東光書店 『三国志地図』 東光書店 2019年
・論文
上田早苗 「後漢末期の襄陽の豪族」 『東洋史学』(28号) 1970年
石井仁 「漢末州牧考」 『秋大史学』(38号) 1992年
石井仁 「富春孫氏考ー孫呉宗室の出自をめぐって」 『駒沢史学』(70号) 2008年
満田剛 「孫策・周瑜の「断金」の交わりの歴史的背景 : 孫氏と周氏・袁氏・朱氏」 『東洋哲学研究所紀要』(28号) 2012年
石井仁 「赤壁研究序説ー「江漢五赤壁」とその周辺」 『駒沢史学』(80号) 2013年
・サイト
資治通鑑 維基文庫
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91
三国志、全文検索 http://www.seisaku.bz/sangokushi.html
全三国文
https://zh.m.wikisource.org/zh-hans/%E5%85%A8%E4%B8%89%E5%9C%8B%E6%96%87
後漢紀
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E7%B4%80
襄陽記
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%A5%84%E9%99%BD%E8%A8%98
水経注
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B6%93%E6%B3%A8?uselang=ja
太平御覧
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%BE%A1%E8%A6%BD
太平寰宇記
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%AF%B0%E5%AE%87%E8%A8%98
東洋文庫水経注図データベース
https://static.toyobunko-lab.jp/suikeichuzu/
むじん書院
http://www.project-imagine.org/mujins/
季漢書
http://blog.livedoor.jp/jominian/
てぃーえすのメモ帳
https://t-s.hatenablog.com/
思いて学ばざれば
https://mujin.hatenadiary.jp/
いつか書きたい『三国志』
http://3guozhi.net/
もっと知りたい!三国志
https://three-kingdoms.net
歴華泉
http://rekishiizumi.web.fc2.com/
呉書見聞
http://gosyokenbun.com/
[三国志]孫権が権力を掌握する過程について
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