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第5部 赤壁大戦編
歴史解説 諸葛孔明前史 後編(青年期編)
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三国志で最も有名な人物、諸葛亮、字は孔明(以下、孔明で統一)。前編・中編では彼が荊州に来るまでの生い立ちや家族について解説した。この後編では孔明が荊州についてから三顧の礼で劉備に招かれる前までを解説していく。
◎孔明の学問
さて、孔明は197年頃、保護者であった従父・諸葛玄を失い、姉弟と共に荊州へと移り住んだ。孔明、17歳頃の時の出来事である。
この年から207年、三顧の礼で劉備の軍師に迎えられるまでの約10年間を荊州で過ごすことになる。だが、その生活については学問に励みながらも、荊州の主・劉表には仕えず、隠遁のような生活をしていたというのはよく知られていることである。
この10年間、孔明の人生で特に大きなものは学問と交遊関係、そして結婚である。
まずは学問を解説していこうと思う。
孔明は諸葛玄が亡くなると、自ら農耕を行い、『梁父吟』(隠者の歌)を歌って暮らした。身長八尺(約184cm)、常に自分を管仲(春秋時代の宰相)・楽毅(戦国時代の名将)になぞらえたが、これを認める者はいなかった。ただ、友人の崔州平(本編、サイシュウヘイ、92話名のみ登場)と徐庶(本編、ジョショ、75話より本格登場)はその通りだと孔明を認めていた。[諸葛亮伝]
また、注釈によると、孔明は荊州の南陽郡鄧県の隆中に暮らし[漢晋春秋]、建安初期、石韜(本編未登場)・徐庶・孟建(本編未登場)らと共に遊学した。[魏略]
孔明は自ら農耕を行ったとあるが、遊学したともあり、ある程度の財産があったことがわかる。この農耕というのも小作人や奴隷的なものではなく、自前で用意した農地であったのだろう。孔明は荊州に来た時点で、裕福とまではいかなくても、ある程度余裕のある生活が送れるほどの財産を有していた。
また、荊州に来た孔明は学問に励んだ。建安初期には学友と共に遊学したという。建安の年号は196年から220年(魏の場合)まで用いられた。孔明の従父・諸葛玄が亡くなった197年は建安二年、孔明17歳の時である。年齢的にも充分であるから、この頃か少し落ち着いた頃に遊学してのであろう。
孔明は学友と共に遊学したというが、具体的な遊学先や先生は不明である。演義等の創作物では一般に司馬徽(本編、シバキ、74話に登場)が先生として知られているが、実際に彼に師事したという記述はない。ただ、後に司馬徽は孔明を劉備に推薦していることから、二人に交流があったのは間違いない。
この頃の荊州は中央の戦乱に比べれば比較的平和で、食糧もあったことから多くの人達が流れて来ていた。
関西(函谷関より西)や兗州・予州の学者で荊州に移り住む者は千を数えた。劉表は彼らを支援して、経済的に満足させ、学校を設立し、広く儒者(儒教の学者)を求めた。綦毋闓(本編未登場)・宋忠(本編、ソウチュウ、63話より登場)(荊州の学者の中心的な人たち)は『五経章句』(儒教の書物である五経の解釈書)を撰述した。[劉表伝注・英雄記、後漢書・劉表伝]
荊州は劉表が学者を保護したことにより、荊州学と呼ばれる学派が誕生していた。荊州学は当時の儒学は豊富な注釈等で複雑になっていたのに意義を唱え、本来の文章を重視するものであった。
劉表のお抱え学者でもある宋忠に対し、司馬徽は劉表とは距離を取っていた。だが、宋忠・司馬徽に学びたいと州外からわざわざやってくる者もいるぐらいで(尹黙伝、李譔伝)、この二人が荊州の学問の中心と言えるだろう。
その学問は時代的に儒教が中心になるわけだが、孔明は儒教には強い関心がなかったようで、後に劉備が息子劉禅(本編未登場)に対し、孔明は『申子』『韓非子』『管子』『六韜』を書写しているので、求めて学ぶようにと述べている。[先主伝]
ここで出てくる『申子』『韓非子』『管子』は法治主義を説く法家の書(『管子』は孔明が自らをなぞらえた管仲の著作と伝わる)、『六韜』は兵法書である。わざわざ孔明自ら書写し、劉禅に教えようという内容なのだから、特に重要視している書物であったと言えるだろう。
孔明が自らを管仲・楽毅になぞらえた。これらから考えて孔明の目指した学問は法律を重視した政治家や兵法に通じた名将になることであったのだろう。
管仲・楽毅の名からもわかるように、孔明は将来学者になろうとは思っていない。彼の学問は他の者が精密さを求める中、その大筋を掴もうと励んだという。
孔明は当時の荊州学の主流から外れながらも、その才能は高く評価され、司馬徽が尊敬していた荊州の名士・龐徳公(本編、ホウトクコウ、92話名のみ登場)は司馬徽を水鏡(人を写す鏡)、孔明を臥龍(寝ている龍)、自身の従子・龐統(本編、ホウトウ、75話名のみ登場)を鳳雛(鳳凰の雛)と評した。また、司馬徽からも後に彼が劉備に孔明を推薦する時、「儒者や俗人には時勢のことはわからない。時勢を知るには俊傑でなければいけない」として孔明・龐統の二人を紹介している。[先主伝、諸葛亮伝]
司馬徽が孔明を儒者や俗人より上の“俊傑”と評されているのは、彼の勉学に対する姿勢が評価されていたことの表れだろう。龐徳公・司馬徽の二人の大物名士に評価された孔明は期待の若手と言え、引く手あまたとなっても不思議ではない存在であった。
◎孔明の交友
では、次に孔明が学問に励む中で得た交友関係を解説していこう。
先ほどの学問の項目にて、孔明の友人として崔州平、徐庶、石韜、孟建の名を上げた。
『董和(本編未登場)伝』の中の孔明の言葉に、初め崔州平と付き合い、後に徐庶と付き合ったとあり、『魏略』には徐庶は同郷の石韜と親しくなり、後に共に荊州に赴き、孔明と親しくなったとある。
孔明は荊州に来てまず崔州平と親しくなり、その後、徐庶と友人となり、その徐庶の仲介で石韜と交流することとなったのだろう。孟建が加わった時期は不明だが、出身の汝南郡は徐庶や石韜らの穎川郡の隣なので、彼も徐庶や石韜を介して知り合ったのかもしれない。この四人が荊州時代の孔明が特に親しくしていた友人であった。
崔州平は冀州博陵郡の人。州平は字。名は不明。後漢の司徒(大臣最高位の一つ)・崔烈(本編、サイレツ、92話名のみ登場)の子、西河太守・崔均(本編未登場)(鈞とも書く)の弟。
父・崔烈は要職を歴任したが、霊帝が売官(霊帝は役職を金銭で売買した)を行うと、大金で最高位の司徒の役職を買い、世間から批判された。兄・崔均もこの父の官位購入を激しく非難した。後に西河太守となると袁紹に同調。反董卓の軍に加わると、父である崔烈は董卓によって投獄された。その後、李傕が長安を攻めると王允らとともに殺された。兄・崔均は父の復讐を願ったが、まもなく病死した。
崔州平が荊州に来たのは崔均の死後のことであろう。名家出身だが、父の売官で悪評を得て、荊州の名士とはあまり交際できず、また、父兄という保護者の失った崔州平はよそ者で保護者を失ったばかりの孔明と気が合ったのかもしれない。
徐庶は予州穎川郡の人。字は元直。元の名は福。元々名家の出身ではなかった。若い頃、任侠を好み剣の名手であった。人に頼まれて仇討ちをし、役人に捕らえられたが、仲間によって助け出された。この事件の後、思うところあって服装を整え、学問に励んだ。塾では彼が以前無法者だったので学生は付き合おうとしなかったが、謙虚な態度で行動を慎んだ。初平年間(190~193年)に戦乱から逃れて荊州に移った。後に劉備に招かれ、孔明を推薦した。
徐庶は名家の出身ではなかった。(これを正史では『単家(寒門)の出身』と書き、小説三国志演義ではこれを『単という姓の家の出身』と誤読し、物語当初、徐庶は単福の名で登場する)だが、学問に目覚めると私塾に通い、荊州に逃れても遊学しているところを見るに、この単家の出身というのも、先祖や親族に官僚になった者がいなかっただけで、家自体は裕福だったのではないだろうか。なお、『水経注図』によると、荊州での徐庶の家は襄陽の城市外の西側、壇渓(劉備が蔡瑁の暗殺から逃れて的盧で川を飛び越えた場所)の側、崔州平宅と並んで建っていた。
石韜は予州穎川郡の人。字は広元。同郷の徐庶と親しくなり、共に荊州に移った。
孟建は予州汝南郡の人。字は公威。ある時、孟建が故郷を懐かしみ、帰りたいと言うと、孔明は彼に「中原には士大夫がたくさんいる。遊楽は故郷にあるとは限らない」と言った。
石韜や孟建の出自はよくわからない。徐庶らと親しくしたところを見ると、そこまで名家でもないのかもしれない。なお、彼らの同郷で同姓(同郷同姓は親族の可能性が高い)の人物は正史には見当たらない。
徐庶、石韜、孟建らは、後に荊州が曹操の領土となると、曹操の配下となり、後に徐庶は右中郎将(宮中の警備隊長の一つ)となり、御史中丞(官吏の監察・弾劾を司る官)にまで昇進した。石韜は郡の太守、典農校尉(郡の屯田管理者)を歴任し、孟建は涼州刺史となり、最終的に征東将軍となった。
なお、後に孔明は魏への北伐を決行し、涼州へ侵攻するが、その時の涼州刺史がこの孟建であった。
崔州平のその後はよくわからない。『新唐書』(唐について書かれた正史)の宰相世系(宰相を務めた人物の系譜)の崔氏の系譜には、崔鈞、字は州平、西河太守とあるが、おそらく兄・崔均(鈞とも書く)の経歴と混同しているのであろう。曹操に降ったのかもわからない。あまり出世しなかったが、あるいは早くに亡くなったのかもしれない。前述の『魏略』(魏で書かれた歴史書)の記録に孔明の友人として徐庶、石韜、孟建の名はあっても崔州平の名はないのは、彼が魏で知名度がなかったからであろうか。
◎孔明の婚姻
その名を龐徳公・司馬徽らに認められた孔明は、具体的な年月は不明だが、結婚することとなった。
相手は黄承彦(本編未登場)の娘(本編、コウゲツエイ、75話より登場)である。
黄承彦は高邁にして爽快、先の見通しがたち、朗らかな人物で、沔南の名士であった。彼は孔明に「君は妻を探していると聞くが、私には醜い娘がいる。赤毛で色黒だが、才知は君とお似合いだ」といった。孔明がこの話を承知したので、すぐさま車に乗せて娘を送り届けた。当時、この話は人々の笑いの種となり、郷里では「孔明の嫁選びを真似するな。黄承彦の醜女をもらうはめになるぞ」との諺が流行った。[諸葛亮伝注・襄陽記]
孔明の嫁となった黄承彦の娘についてはいくつもの伝説がある人物ではあるが、史料に見えない話が多いので彼女について詳述はしない。
ここでは孔明の義父となった黄承彦について解説していく。
黄承彦は前述した襄陽記によると“沔南の名士”だそうだ。沔南とはややこしい言い方である。沔水(川の名前、、もしくは漢水、現漢江)は漢中から流れ、江夏(現武漢付近)で長江に合流する、長江の最大の支流である。沔南とはつまりこの川の南側の地域を指すが、取りようによっては範囲が広くなりすぎてしまう。
だが、黄承彦は襄陽周辺の人という解釈で良いと思う。まず、参照した『襄陽記』という本はその名のとおり、襄陽にゆかりの人物や地理を紹介する本である。また、この『襄陽記』に掲載された廖化(本編未登場)の紹介文では、『(襄陽郡)中盧侯国の人。沔南の名家である』と襄陽出身者を沔南と記載されている。なお、中盧侯国は襄陽県のすぐ隣に位置し、劉表の重臣・蒯越(本編、カイエツ、63話より登場)の出身地でもある。これらから見て、『襄陽記』の沔南は襄陽周辺の地域程度の意味と解釈して良いのではないだろうか。
さて、黄承彦だが、『襄陽記』には別の人物の箇所にも登場している。それは蔡瑁(本編、サイボウ、63話より登場)に関する記事である。
漢末は蔡氏の最盛期である。蔡諷(本編未登場)は妹を太尉・張温(本編、チョーオン、8話より登場)に嫁がせ、上の娘を黄承彦に嫁がせ、下の娘を劉表の後妻とした。これは蔡瑁の妹である。[襄陽記]
蔡瑁の姉妹のうち姉が黄承彦に、妹は劉表に嫁いだ。つまり、蔡瑁、劉表と黄承彦は義理の兄弟であった。そしてその黄承彦の娘ということは蔡瑁、劉表の姪にあたる。この婚姻により孔明は蔡瑁、劉表らと親戚になったということでもあった。
孔明の姻戚はこれだけではない。彼には姉が二人いた。
蒯祺(本編未登場)の妻は孔明の上の姉であった[襄陽記]
龐徳公の子・山民(本編、ホウサンミン、92話名のみ登場)は高名があり、孔明の下の姉を娶り、魏の黄門吏部郎となったが、早逝した[襄陽記]
蒯祺は正史三国志にも『劉封(本編、リュウホウ、66話より登場)伝』に房陵太守として登場している。襄陽記に記載されていることから、襄陽の人、おそらく劉表の重臣・蒯越、蒯良(本編、カイリョウ、63話名のみ登場)らの同族だろう。
龐徳公はすでに紹介している。孔明に臥龍と名付けた人物である。なお、同じく鳳雛と名付けられた龐統は龐徳公の従子、山民の従兄弟なので孔明と龐統も親戚である。龐氏もまた襄陽の名家であった。また劉表が荊州に来たばかりの頃、襄陽に居座る賊を説得しに赴いた使者として龐季(本編未登場)という人物が登場している。この龐季もおそらく襄陽龐氏、龐徳公らの同族だろう。龐徳公個人は劉表に仕えなかったが、龐氏自体は劉表に初期から協力する一族であった。
孔明は婚姻関係を結び、荊州牧・劉表、襄陽の名家・蔡氏、黄氏、蒯氏、龐氏と親族となっていた。
さて、孔明は一般的には劉表には仕えず、あえて距離を取っていたと言われている。
だが、この婚姻関係を見て果たしてそうだと言えるだろうか。
孔明は明らかに劉表政権に接近している。また、孔明は自らを管仲・楽毅になぞられるほど、社会に出て自分の力を奮いたいと思っている。たまたま劉備が荊州にやってきて孔明を迎え入れたから世に出ることが出来たが、もし出会えなかったら、自分を管仲・楽毅になぞられるような青年がそのまま隠者のような生活を送るつもりだったのだろうか。
むしろ、孔明は劉表に仕えようとしていたのではないだろうか。そして採用しなかったのは劉表の方ではないか。
◎劉表の豪族連合政権
では、なぜ劉表は孔明を採用しなかったのか。
孔明は学業に優れ、劉表から距離を取っているとはいえ荊州で知られた名士・龐徳公、司馬徽らに高く評価され、また、劉表や荊州の名家の親戚でもある。なぜ、採用しないということがあるのだろうか。
その一番の理由は荊州出身者ではないということではないだろうか。
次にあげる一覧は孔明とほぼ同時期、つまり劉表政権が安定し始めた190年代後半から200年代前半頃に荊州にいた人材とその出身地、そして劉表政権で得た役職をまとめたものである。
韓嵩(本編、カンスウ、79話より登場)(荊州義陽郡)→別駕、従事中郎
向朗(本編、ショウロウ、74話より登場)(荊州襄陽郡)→臨沮県の長
潘濬(本編未登場)(荊州武陵郡)→江夏郡の従事、湘郷県の令
李厳(本編、リゲン、63話より登場)(荊州南陽郡)→いくつかの郡県の長
劉先(本編未登場)(荊州零陵郡)→別駕
龐統(荊州襄陽郡)→郡の功曹
伊籍(本編、イセキ、63話より登場)(兗州山陽郡)→記載なし
裴潜(本編、ハイセン、92話より登場)(司隷河東郡)→賓客の礼で対応
和洽(本編未登場)(予州汝南郡)→賓客の礼で対応
王粲(本編、オウサン、63話より登場)(兗州山陽郡)→劉表は尊重せず
徐庶(予州穎川郡)→記載なし
崔州平(冀州博陵郡)→記載なし
石韜(予州穎川郡)→記載なし
孟建(予州汝南郡)→記載なし
ここではその就任した役職の内容にまでは言及しない。
以上から劉表政権において荊州出身者(よりいうなら荊州豪族出身者)と他州出身者とでは扱いに大きな違いがあることがわかる。
劉表は初め荊州に来た時、単身で訪れ、配下と呼べる者はいなかった。そこへ襄陽の豪族である蔡瑁・蒯越・蒯良らが手を貸すことでようやく荊州をその支配下に置くことができた。劉表政権を運営する上において荊州豪族の協力は不可欠であった。そして、荊州豪族は劉表に協力することで自分たちの権益を守り、より力をつけることができた。
このような協力体制であったために、劉表政権での採用者は荊州豪族が優先されることとなった。
もちろん、政権には非荊州人も参加していた。
傅巽(本編、フソン、79話より登場)がその代表例だろう。彼は涼州北地郡の出身だが、東曹掾の役職に就いている。だが、彼は劉表政権参与前にすでに朝廷に出仕し、尚書郎を務めていた。
また、上記にて賓客の例で対応されたとある和洽は荊州に来る前に故郷にて孝廉に上げられ、大将軍に招かれたが、応じなかった人物で、裴潜の家は代々名門として知られ、父裴茂(本編未登場)は県令、郡太守を歴任した後、尚書となり、後に段煨(本編未登場)らと共に李傕を討ち、その功で列侯となった。裴潜自身の前歴は不明だが、その出自からある程度の評判を持っていたのではなかろうか。
なお、余談ではあるが、裴潜の一族は後世にも名門として繁栄し、唐代には17人もの宰相を輩出した。また、その一族の中には正史『三国志』に注を付した裴松之(裴潜の弟の六世の孫)や飛鳥時代に日本に来た裴世清(聖徳太子が隋の煬帝に送った『日出る処の天子…』の国書に対する返礼の使者を務めた)等がいる。
話を戻すが、王粲の祖父・王暢(本編、92話名のみ登場)は三公を務め、劉表の青年時代の学問の先生であった。また、王粲自身も後漢の大学者・蔡邕(本編未登場)の評価を受け、17歳で司徒府に招かれたが、董卓の乱の真っ最中だったために就任せず、荊州へ避難してきた人物であった。だが、劉表はかつての先生の孫を風采が上がらない容姿と、大雑把な性格を嫌いあまり尊重しなかった。(ただ、王粲は後に荊州を継いだ劉琮に対し、曹操に帰服するよう説得しており、肩書きは不明ながら政権そのものには参加していた可能性が高い)
このように劉表政権においてよそ者が役職に就くことは稀で、既に朝廷の役職に就いた経験者、郷里や都で名士の評価を受け、孝廉や役職の誘いがあった者といった荊州以前から名声のある者に限られていたのだろう。
それでも多くは賓客として尊重されても、具体的な役職は貰えず、荊州豪族以上の発言力を持つことはできなかった。上述の和洽や裴潜もそうだが、杜襲(本編、トシュウ、41話より登場)(予州穎川の人)や趙儼(本編、チョウゲン、41話より登場)(予州穎川の人)のように一度は劉表の元に来ながら、結局去ってしまった者が多いのはこういった理由が大きかったのではなかろうか。
翻って孔明を見てみると、荊州以前はまだ未成年なので仕方がないのだが、役職に就いた経験はなく、名声を得たのも荊州に着いてからのことである。孔明は劉表政権の募集要項に合致していない。劉表政権にとってその人物が頭が良いとか有能であるとかは二の次三の次であり、まず第一に家であった。
おそらく孔明は当初、学問に励み、名士の評価を得るという正攻法で世に出ようとしたが、劉表政権の採用枠はほとんど荊州豪族の子弟で埋まり、採用されず、それならと婚姻関係によって親族となったが、諸葛氏自体が権勢を持ったわけではないので、それでも採用されなかったのだろう。
これにより孔明は劉表に就職出来ず、隆中に籠ることとなった。彼のこの頃の胸中は知る由もないが、孔明はこれ以降、自らどこかに赴き仕官することはなかった。
◎まとめ
後に三国志を代表する人物となる諸葛孔明が劉備と出会うまでの前半生を整理してみた。
孔明は10歳ぐらいの頃に母を失い、12歳ぐらいで父を失い、13の頃に故郷を去った。その後は従父に従い予章に移ったが、そこでも戦乱に巻き込まれ、結局、17歳で荊州にたどり着き、そこでようやく落ち着くことができた。そういう時代であったとはいえ、波乱万丈な少年期を過ごしたといえる。
それでも腐ることなく、勉学に励み、積極的に人と交流していたのだから立派な人物といえるだろう。
だが、たどり着いた劉表政権下の荊州では豪族の力が強く、学問だけで身を立てることが叶わず、巧みに婚姻関係を結び、政権有力者の親族となってもなお、採用には至らなかった。
だが、司馬徽や徐庶ら、孔明の能力を知り、惜しむ者がいた。彼らによって孔明の名は劉備の知るところとなり、207年、劉備自ら三度草蘆を訪ね、孔明は遂に世に出る機会を得ることとなった。
自ら管仲・楽毅に準える大志を持った孔明は、同じく大志を持つ劉備と合致し、後に彼の軍師となり、その大業を助けることとなった。
◎孔明前半生略年表
174年、兄・諸葛瑾、生まれる
181年、諸葛孔明、生まれる
孔明1歳
184年2月、黄巾の乱勃発
孔明4歳
188年頃?、兄・諸葛瑾、洛陽へ遊学
孔明8歳
189年4月、霊帝崩御、少帝即位
9月、董卓、少帝を廃し、献帝を即位させる
孔明9歳
190年1月、反董卓連合挙兵、袁紹を盟主とする
2月、董卓、洛陽を捨てて、長安に遷都する
この頃?、孔明の母・章氏死去
孔明10歳
191年4月、董卓自ら長安に移動する
朱儁、反董卓連合と内通するが、董卓に発覚し、荊州に逃亡する
この頃、孫堅、朱儁とともに洛陽入り
7月、袁紹、韓馥を脅し、冀州を奪う
曹操、東郡太守となり、東武陽を本拠地とする
11月、泰山太守・応卲、攻めてきた青州黄巾賊を破る
青州黄巾賊、渤海を攻め、公孫瓚と東光で戦う、公孫瓚、これを破る
この年、朱儁、董卓打倒の檄文を出し、徐州刺史・陶謙、これに応ず
この年、袁術、孫堅に命じ、劉表を攻めさせる
この頃?、父・諸葛珪死去、
孔明11歳
192年1月、董卓の将・李傕、郭汜、朱儁を破る
孫堅、劉表との戦いで戦死(前年説あり)
曹操、黒山賊、於夫羅を破る
袁紹対公孫瓚、界橋の戦い、袁紹勝利
4月、董卓、王允・呂布に殺される
青州黄巾賊、東平にて兗州刺史・劉岱を討つ
東郡太守・曹操、寿張にて青州黄巾賊を討ち、冬、これを降伏させる
曹操、兗州牧となる
6月、李傕ら、長安を落とす
王允、殺害され、呂布、逃亡す
8月、李傕ら、馬日磾と太僕・趙岐を各地に派遣する
9月、李傕・車騎将軍、郭汜・後将軍、樊稠・右将軍、張済・鎮東将軍となる
10月、劉表、荊州牧に昇進する
この年、朱儁、李傕政権に参加する
孔明12歳
193年春、劉表、袁術を攻める
袁術、曹操・劉表らに敗れ、南陽を捨てて、揚州に逃走する
袁術、徐州伯と称する
この頃、陶謙を徐州牧に、趙昱を広陵太守に、王朗を会稽太守に任命する
6月、朱儁、太尉となる
陶謙、泰山郡の華・費を奪い、任城を攻略する
曹操の父曹嵩死去
秋、曹操、陶謙を征討す
劉備、陶謙の救援に赴く
この年、琅邪王劉容、薨去
この年、孫策、袁術の命で長江を渡る
この頃?、孔明ら故郷を去る
諸葛瑾20歳、孔明13歳
194年、陶謙、上表して劉備を予州刺史とする
夏、曹操、再び徐州征伐
呂布、曹操が留守の兗州を奪う
曹操、呂布と戦うが、飢餓のため引き上げる
この年、飢饉により穀物が高騰する
陶謙、死去。劉備、徐州を託される
7月、太尉・朱儁を罷免する
4月~7月、旱により飢饉となる
この年、揚州刺史・劉繇、孫策と曲阿で戦い、劉繇、破れる
この年、馬日磾、袁術に勾留され寿春にて死去
この頃?、孔明の従父・諸葛玄、袁術により予章太守に任命される
孔明14歳
195年春、李傕、樊稠を殺し、郭汜と争う
曹操、呂布を破り、呂布、劉備の元に走る
この頃?、朱儁憤死
7月、献帝、長安を脱出し、洛陽を目指す
冬、袁術、自ら帝位に登ろうとするが、臣下のの反対にあい、断念する
この年、諸葛玄、予章太守となるが、朱皓と太守の地位をめぐって争う
孔明15歳
196年7月、献帝、洛陽に到着する
曹操、洛陽に赴き、献帝を迎える。
9月、許に遷都する
曹操、大将軍・武平侯となる
10月、袁紹、太尉に任命されるも受けず、曹操、大将軍の位を袁紹に譲る
曹操、司空・車騎将軍となる
呂布、徐州を奪い、劉備、曹操の元に逃走する
この年、張済、南陽に逃走し、戦死する。甥・張繡が継ぎ、宛に駐屯する
この頃?、諸葛玄、劉表に属す
孔明16歳
197年1月、諸葛玄、死去
孔明、荊州に移住する
曹操、宛に赴き、張繡、降伏するが、反撃に遭い敗北する
春、袁術、皇帝を僭称する
この年、長江、淮南地域で飢餓
孔明17歳
198年4月、裴茂・段煨、李傕を討つ
12月、曹操、呂布を殺す
孔明18歳
199年6月、袁術死去
劉備、徐州で曹操に対し反乱を起こす
孔明19歳
200年4月、孫策死去、弟・孫権継ぐ
10月、官渡の戦い
この頃?、兄・諸葛瑾、孫権に仕える
諸葛瑾27歳、孔明20歳
201年9月、劉備、劉表の元に走る
孔明21歳
207年、劉禅、生まれる
三顧の礼、孔明、劉備に仕える
孔明27歳
208年、赤壁の戦い
孔明28歳
〔参考文献〕
・書籍
陳寿著 今鷹真・井波律子・小南一郎訳 『正史三国志』(全八巻) 筑摩書房 1993年
范曄撰 李賢等注 『後漢書』(全六巻) 中華書局出版 1965年
狩野直禎 『諸葛孔明』 人物往来社 1966年
植村清二 『諸葛孔明』 中央公論社 1985年
中林史朗 『諸葛孔明語録』 明徳出版社 1986年
宮川尚志 『諸葛孔明(新装版)』 光風社 1988年
中国綜合地図出版編 『中国綜合地図集』 中国綜合地図出版社 1990年
東晋次 『後漢時代の政治と思想』 名古屋大学出版会 1995年
渡邉義浩 『「三国志」の政治と社会 史実の英雄たち』 講談社 2012年
柿沼陽平 『劉備と諸葛亮 カネ勘定の「三国志」』 文藝春秋 2018年
長田康宏 『三国志群雄太守県令勢力図(上)』 同人誌 2018年
・論文
上田早苗 「後漢末期の襄陽の豪族」 『東洋史学』(28号) 1970年
狩野直禎 「後漢書列伝六十一朱儁伝訳稿」 『史窓』(58号) 2001年
・サイト
資治通鑑 維基文庫
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91
三国志、全文検索 http://www.seisaku.bz/sangokushi.html
全三国文
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襄陽記
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%A5%84%E9%99%BD%E8%A8%98
水経注
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B6%93%E6%B3%A8?uselang=ja
讀史方輿紀要
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%AE%80%E5%8F%B2%E6%96%B9%E8%BC%BF%E7%B4%80%E8%A6%81
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◎孔明の学問
さて、孔明は197年頃、保護者であった従父・諸葛玄を失い、姉弟と共に荊州へと移り住んだ。孔明、17歳頃の時の出来事である。
この年から207年、三顧の礼で劉備の軍師に迎えられるまでの約10年間を荊州で過ごすことになる。だが、その生活については学問に励みながらも、荊州の主・劉表には仕えず、隠遁のような生活をしていたというのはよく知られていることである。
この10年間、孔明の人生で特に大きなものは学問と交遊関係、そして結婚である。
まずは学問を解説していこうと思う。
孔明は諸葛玄が亡くなると、自ら農耕を行い、『梁父吟』(隠者の歌)を歌って暮らした。身長八尺(約184cm)、常に自分を管仲(春秋時代の宰相)・楽毅(戦国時代の名将)になぞらえたが、これを認める者はいなかった。ただ、友人の崔州平(本編、サイシュウヘイ、92話名のみ登場)と徐庶(本編、ジョショ、75話より本格登場)はその通りだと孔明を認めていた。[諸葛亮伝]
また、注釈によると、孔明は荊州の南陽郡鄧県の隆中に暮らし[漢晋春秋]、建安初期、石韜(本編未登場)・徐庶・孟建(本編未登場)らと共に遊学した。[魏略]
孔明は自ら農耕を行ったとあるが、遊学したともあり、ある程度の財産があったことがわかる。この農耕というのも小作人や奴隷的なものではなく、自前で用意した農地であったのだろう。孔明は荊州に来た時点で、裕福とまではいかなくても、ある程度余裕のある生活が送れるほどの財産を有していた。
また、荊州に来た孔明は学問に励んだ。建安初期には学友と共に遊学したという。建安の年号は196年から220年(魏の場合)まで用いられた。孔明の従父・諸葛玄が亡くなった197年は建安二年、孔明17歳の時である。年齢的にも充分であるから、この頃か少し落ち着いた頃に遊学してのであろう。
孔明は学友と共に遊学したというが、具体的な遊学先や先生は不明である。演義等の創作物では一般に司馬徽(本編、シバキ、74話に登場)が先生として知られているが、実際に彼に師事したという記述はない。ただ、後に司馬徽は孔明を劉備に推薦していることから、二人に交流があったのは間違いない。
この頃の荊州は中央の戦乱に比べれば比較的平和で、食糧もあったことから多くの人達が流れて来ていた。
関西(函谷関より西)や兗州・予州の学者で荊州に移り住む者は千を数えた。劉表は彼らを支援して、経済的に満足させ、学校を設立し、広く儒者(儒教の学者)を求めた。綦毋闓(本編未登場)・宋忠(本編、ソウチュウ、63話より登場)(荊州の学者の中心的な人たち)は『五経章句』(儒教の書物である五経の解釈書)を撰述した。[劉表伝注・英雄記、後漢書・劉表伝]
荊州は劉表が学者を保護したことにより、荊州学と呼ばれる学派が誕生していた。荊州学は当時の儒学は豊富な注釈等で複雑になっていたのに意義を唱え、本来の文章を重視するものであった。
劉表のお抱え学者でもある宋忠に対し、司馬徽は劉表とは距離を取っていた。だが、宋忠・司馬徽に学びたいと州外からわざわざやってくる者もいるぐらいで(尹黙伝、李譔伝)、この二人が荊州の学問の中心と言えるだろう。
その学問は時代的に儒教が中心になるわけだが、孔明は儒教には強い関心がなかったようで、後に劉備が息子劉禅(本編未登場)に対し、孔明は『申子』『韓非子』『管子』『六韜』を書写しているので、求めて学ぶようにと述べている。[先主伝]
ここで出てくる『申子』『韓非子』『管子』は法治主義を説く法家の書(『管子』は孔明が自らをなぞらえた管仲の著作と伝わる)、『六韜』は兵法書である。わざわざ孔明自ら書写し、劉禅に教えようという内容なのだから、特に重要視している書物であったと言えるだろう。
孔明が自らを管仲・楽毅になぞらえた。これらから考えて孔明の目指した学問は法律を重視した政治家や兵法に通じた名将になることであったのだろう。
管仲・楽毅の名からもわかるように、孔明は将来学者になろうとは思っていない。彼の学問は他の者が精密さを求める中、その大筋を掴もうと励んだという。
孔明は当時の荊州学の主流から外れながらも、その才能は高く評価され、司馬徽が尊敬していた荊州の名士・龐徳公(本編、ホウトクコウ、92話名のみ登場)は司馬徽を水鏡(人を写す鏡)、孔明を臥龍(寝ている龍)、自身の従子・龐統(本編、ホウトウ、75話名のみ登場)を鳳雛(鳳凰の雛)と評した。また、司馬徽からも後に彼が劉備に孔明を推薦する時、「儒者や俗人には時勢のことはわからない。時勢を知るには俊傑でなければいけない」として孔明・龐統の二人を紹介している。[先主伝、諸葛亮伝]
司馬徽が孔明を儒者や俗人より上の“俊傑”と評されているのは、彼の勉学に対する姿勢が評価されていたことの表れだろう。龐徳公・司馬徽の二人の大物名士に評価された孔明は期待の若手と言え、引く手あまたとなっても不思議ではない存在であった。
◎孔明の交友
では、次に孔明が学問に励む中で得た交友関係を解説していこう。
先ほどの学問の項目にて、孔明の友人として崔州平、徐庶、石韜、孟建の名を上げた。
『董和(本編未登場)伝』の中の孔明の言葉に、初め崔州平と付き合い、後に徐庶と付き合ったとあり、『魏略』には徐庶は同郷の石韜と親しくなり、後に共に荊州に赴き、孔明と親しくなったとある。
孔明は荊州に来てまず崔州平と親しくなり、その後、徐庶と友人となり、その徐庶の仲介で石韜と交流することとなったのだろう。孟建が加わった時期は不明だが、出身の汝南郡は徐庶や石韜らの穎川郡の隣なので、彼も徐庶や石韜を介して知り合ったのかもしれない。この四人が荊州時代の孔明が特に親しくしていた友人であった。
崔州平は冀州博陵郡の人。州平は字。名は不明。後漢の司徒(大臣最高位の一つ)・崔烈(本編、サイレツ、92話名のみ登場)の子、西河太守・崔均(本編未登場)(鈞とも書く)の弟。
父・崔烈は要職を歴任したが、霊帝が売官(霊帝は役職を金銭で売買した)を行うと、大金で最高位の司徒の役職を買い、世間から批判された。兄・崔均もこの父の官位購入を激しく非難した。後に西河太守となると袁紹に同調。反董卓の軍に加わると、父である崔烈は董卓によって投獄された。その後、李傕が長安を攻めると王允らとともに殺された。兄・崔均は父の復讐を願ったが、まもなく病死した。
崔州平が荊州に来たのは崔均の死後のことであろう。名家出身だが、父の売官で悪評を得て、荊州の名士とはあまり交際できず、また、父兄という保護者の失った崔州平はよそ者で保護者を失ったばかりの孔明と気が合ったのかもしれない。
徐庶は予州穎川郡の人。字は元直。元の名は福。元々名家の出身ではなかった。若い頃、任侠を好み剣の名手であった。人に頼まれて仇討ちをし、役人に捕らえられたが、仲間によって助け出された。この事件の後、思うところあって服装を整え、学問に励んだ。塾では彼が以前無法者だったので学生は付き合おうとしなかったが、謙虚な態度で行動を慎んだ。初平年間(190~193年)に戦乱から逃れて荊州に移った。後に劉備に招かれ、孔明を推薦した。
徐庶は名家の出身ではなかった。(これを正史では『単家(寒門)の出身』と書き、小説三国志演義ではこれを『単という姓の家の出身』と誤読し、物語当初、徐庶は単福の名で登場する)だが、学問に目覚めると私塾に通い、荊州に逃れても遊学しているところを見るに、この単家の出身というのも、先祖や親族に官僚になった者がいなかっただけで、家自体は裕福だったのではないだろうか。なお、『水経注図』によると、荊州での徐庶の家は襄陽の城市外の西側、壇渓(劉備が蔡瑁の暗殺から逃れて的盧で川を飛び越えた場所)の側、崔州平宅と並んで建っていた。
石韜は予州穎川郡の人。字は広元。同郷の徐庶と親しくなり、共に荊州に移った。
孟建は予州汝南郡の人。字は公威。ある時、孟建が故郷を懐かしみ、帰りたいと言うと、孔明は彼に「中原には士大夫がたくさんいる。遊楽は故郷にあるとは限らない」と言った。
石韜や孟建の出自はよくわからない。徐庶らと親しくしたところを見ると、そこまで名家でもないのかもしれない。なお、彼らの同郷で同姓(同郷同姓は親族の可能性が高い)の人物は正史には見当たらない。
徐庶、石韜、孟建らは、後に荊州が曹操の領土となると、曹操の配下となり、後に徐庶は右中郎将(宮中の警備隊長の一つ)となり、御史中丞(官吏の監察・弾劾を司る官)にまで昇進した。石韜は郡の太守、典農校尉(郡の屯田管理者)を歴任し、孟建は涼州刺史となり、最終的に征東将軍となった。
なお、後に孔明は魏への北伐を決行し、涼州へ侵攻するが、その時の涼州刺史がこの孟建であった。
崔州平のその後はよくわからない。『新唐書』(唐について書かれた正史)の宰相世系(宰相を務めた人物の系譜)の崔氏の系譜には、崔鈞、字は州平、西河太守とあるが、おそらく兄・崔均(鈞とも書く)の経歴と混同しているのであろう。曹操に降ったのかもわからない。あまり出世しなかったが、あるいは早くに亡くなったのかもしれない。前述の『魏略』(魏で書かれた歴史書)の記録に孔明の友人として徐庶、石韜、孟建の名はあっても崔州平の名はないのは、彼が魏で知名度がなかったからであろうか。
◎孔明の婚姻
その名を龐徳公・司馬徽らに認められた孔明は、具体的な年月は不明だが、結婚することとなった。
相手は黄承彦(本編未登場)の娘(本編、コウゲツエイ、75話より登場)である。
黄承彦は高邁にして爽快、先の見通しがたち、朗らかな人物で、沔南の名士であった。彼は孔明に「君は妻を探していると聞くが、私には醜い娘がいる。赤毛で色黒だが、才知は君とお似合いだ」といった。孔明がこの話を承知したので、すぐさま車に乗せて娘を送り届けた。当時、この話は人々の笑いの種となり、郷里では「孔明の嫁選びを真似するな。黄承彦の醜女をもらうはめになるぞ」との諺が流行った。[諸葛亮伝注・襄陽記]
孔明の嫁となった黄承彦の娘についてはいくつもの伝説がある人物ではあるが、史料に見えない話が多いので彼女について詳述はしない。
ここでは孔明の義父となった黄承彦について解説していく。
黄承彦は前述した襄陽記によると“沔南の名士”だそうだ。沔南とはややこしい言い方である。沔水(川の名前、、もしくは漢水、現漢江)は漢中から流れ、江夏(現武漢付近)で長江に合流する、長江の最大の支流である。沔南とはつまりこの川の南側の地域を指すが、取りようによっては範囲が広くなりすぎてしまう。
だが、黄承彦は襄陽周辺の人という解釈で良いと思う。まず、参照した『襄陽記』という本はその名のとおり、襄陽にゆかりの人物や地理を紹介する本である。また、この『襄陽記』に掲載された廖化(本編未登場)の紹介文では、『(襄陽郡)中盧侯国の人。沔南の名家である』と襄陽出身者を沔南と記載されている。なお、中盧侯国は襄陽県のすぐ隣に位置し、劉表の重臣・蒯越(本編、カイエツ、63話より登場)の出身地でもある。これらから見て、『襄陽記』の沔南は襄陽周辺の地域程度の意味と解釈して良いのではないだろうか。
さて、黄承彦だが、『襄陽記』には別の人物の箇所にも登場している。それは蔡瑁(本編、サイボウ、63話より登場)に関する記事である。
漢末は蔡氏の最盛期である。蔡諷(本編未登場)は妹を太尉・張温(本編、チョーオン、8話より登場)に嫁がせ、上の娘を黄承彦に嫁がせ、下の娘を劉表の後妻とした。これは蔡瑁の妹である。[襄陽記]
蔡瑁の姉妹のうち姉が黄承彦に、妹は劉表に嫁いだ。つまり、蔡瑁、劉表と黄承彦は義理の兄弟であった。そしてその黄承彦の娘ということは蔡瑁、劉表の姪にあたる。この婚姻により孔明は蔡瑁、劉表らと親戚になったということでもあった。
孔明の姻戚はこれだけではない。彼には姉が二人いた。
蒯祺(本編未登場)の妻は孔明の上の姉であった[襄陽記]
龐徳公の子・山民(本編、ホウサンミン、92話名のみ登場)は高名があり、孔明の下の姉を娶り、魏の黄門吏部郎となったが、早逝した[襄陽記]
蒯祺は正史三国志にも『劉封(本編、リュウホウ、66話より登場)伝』に房陵太守として登場している。襄陽記に記載されていることから、襄陽の人、おそらく劉表の重臣・蒯越、蒯良(本編、カイリョウ、63話名のみ登場)らの同族だろう。
龐徳公はすでに紹介している。孔明に臥龍と名付けた人物である。なお、同じく鳳雛と名付けられた龐統は龐徳公の従子、山民の従兄弟なので孔明と龐統も親戚である。龐氏もまた襄陽の名家であった。また劉表が荊州に来たばかりの頃、襄陽に居座る賊を説得しに赴いた使者として龐季(本編未登場)という人物が登場している。この龐季もおそらく襄陽龐氏、龐徳公らの同族だろう。龐徳公個人は劉表に仕えなかったが、龐氏自体は劉表に初期から協力する一族であった。
孔明は婚姻関係を結び、荊州牧・劉表、襄陽の名家・蔡氏、黄氏、蒯氏、龐氏と親族となっていた。
さて、孔明は一般的には劉表には仕えず、あえて距離を取っていたと言われている。
だが、この婚姻関係を見て果たしてそうだと言えるだろうか。
孔明は明らかに劉表政権に接近している。また、孔明は自らを管仲・楽毅になぞられるほど、社会に出て自分の力を奮いたいと思っている。たまたま劉備が荊州にやってきて孔明を迎え入れたから世に出ることが出来たが、もし出会えなかったら、自分を管仲・楽毅になぞられるような青年がそのまま隠者のような生活を送るつもりだったのだろうか。
むしろ、孔明は劉表に仕えようとしていたのではないだろうか。そして採用しなかったのは劉表の方ではないか。
◎劉表の豪族連合政権
では、なぜ劉表は孔明を採用しなかったのか。
孔明は学業に優れ、劉表から距離を取っているとはいえ荊州で知られた名士・龐徳公、司馬徽らに高く評価され、また、劉表や荊州の名家の親戚でもある。なぜ、採用しないということがあるのだろうか。
その一番の理由は荊州出身者ではないということではないだろうか。
次にあげる一覧は孔明とほぼ同時期、つまり劉表政権が安定し始めた190年代後半から200年代前半頃に荊州にいた人材とその出身地、そして劉表政権で得た役職をまとめたものである。
韓嵩(本編、カンスウ、79話より登場)(荊州義陽郡)→別駕、従事中郎
向朗(本編、ショウロウ、74話より登場)(荊州襄陽郡)→臨沮県の長
潘濬(本編未登場)(荊州武陵郡)→江夏郡の従事、湘郷県の令
李厳(本編、リゲン、63話より登場)(荊州南陽郡)→いくつかの郡県の長
劉先(本編未登場)(荊州零陵郡)→別駕
龐統(荊州襄陽郡)→郡の功曹
伊籍(本編、イセキ、63話より登場)(兗州山陽郡)→記載なし
裴潜(本編、ハイセン、92話より登場)(司隷河東郡)→賓客の礼で対応
和洽(本編未登場)(予州汝南郡)→賓客の礼で対応
王粲(本編、オウサン、63話より登場)(兗州山陽郡)→劉表は尊重せず
徐庶(予州穎川郡)→記載なし
崔州平(冀州博陵郡)→記載なし
石韜(予州穎川郡)→記載なし
孟建(予州汝南郡)→記載なし
ここではその就任した役職の内容にまでは言及しない。
以上から劉表政権において荊州出身者(よりいうなら荊州豪族出身者)と他州出身者とでは扱いに大きな違いがあることがわかる。
劉表は初め荊州に来た時、単身で訪れ、配下と呼べる者はいなかった。そこへ襄陽の豪族である蔡瑁・蒯越・蒯良らが手を貸すことでようやく荊州をその支配下に置くことができた。劉表政権を運営する上において荊州豪族の協力は不可欠であった。そして、荊州豪族は劉表に協力することで自分たちの権益を守り、より力をつけることができた。
このような協力体制であったために、劉表政権での採用者は荊州豪族が優先されることとなった。
もちろん、政権には非荊州人も参加していた。
傅巽(本編、フソン、79話より登場)がその代表例だろう。彼は涼州北地郡の出身だが、東曹掾の役職に就いている。だが、彼は劉表政権参与前にすでに朝廷に出仕し、尚書郎を務めていた。
また、上記にて賓客の例で対応されたとある和洽は荊州に来る前に故郷にて孝廉に上げられ、大将軍に招かれたが、応じなかった人物で、裴潜の家は代々名門として知られ、父裴茂(本編未登場)は県令、郡太守を歴任した後、尚書となり、後に段煨(本編未登場)らと共に李傕を討ち、その功で列侯となった。裴潜自身の前歴は不明だが、その出自からある程度の評判を持っていたのではなかろうか。
なお、余談ではあるが、裴潜の一族は後世にも名門として繁栄し、唐代には17人もの宰相を輩出した。また、その一族の中には正史『三国志』に注を付した裴松之(裴潜の弟の六世の孫)や飛鳥時代に日本に来た裴世清(聖徳太子が隋の煬帝に送った『日出る処の天子…』の国書に対する返礼の使者を務めた)等がいる。
話を戻すが、王粲の祖父・王暢(本編、92話名のみ登場)は三公を務め、劉表の青年時代の学問の先生であった。また、王粲自身も後漢の大学者・蔡邕(本編未登場)の評価を受け、17歳で司徒府に招かれたが、董卓の乱の真っ最中だったために就任せず、荊州へ避難してきた人物であった。だが、劉表はかつての先生の孫を風采が上がらない容姿と、大雑把な性格を嫌いあまり尊重しなかった。(ただ、王粲は後に荊州を継いだ劉琮に対し、曹操に帰服するよう説得しており、肩書きは不明ながら政権そのものには参加していた可能性が高い)
このように劉表政権においてよそ者が役職に就くことは稀で、既に朝廷の役職に就いた経験者、郷里や都で名士の評価を受け、孝廉や役職の誘いがあった者といった荊州以前から名声のある者に限られていたのだろう。
それでも多くは賓客として尊重されても、具体的な役職は貰えず、荊州豪族以上の発言力を持つことはできなかった。上述の和洽や裴潜もそうだが、杜襲(本編、トシュウ、41話より登場)(予州穎川の人)や趙儼(本編、チョウゲン、41話より登場)(予州穎川の人)のように一度は劉表の元に来ながら、結局去ってしまった者が多いのはこういった理由が大きかったのではなかろうか。
翻って孔明を見てみると、荊州以前はまだ未成年なので仕方がないのだが、役職に就いた経験はなく、名声を得たのも荊州に着いてからのことである。孔明は劉表政権の募集要項に合致していない。劉表政権にとってその人物が頭が良いとか有能であるとかは二の次三の次であり、まず第一に家であった。
おそらく孔明は当初、学問に励み、名士の評価を得るという正攻法で世に出ようとしたが、劉表政権の採用枠はほとんど荊州豪族の子弟で埋まり、採用されず、それならと婚姻関係によって親族となったが、諸葛氏自体が権勢を持ったわけではないので、それでも採用されなかったのだろう。
これにより孔明は劉表に就職出来ず、隆中に籠ることとなった。彼のこの頃の胸中は知る由もないが、孔明はこれ以降、自らどこかに赴き仕官することはなかった。
◎まとめ
後に三国志を代表する人物となる諸葛孔明が劉備と出会うまでの前半生を整理してみた。
孔明は10歳ぐらいの頃に母を失い、12歳ぐらいで父を失い、13の頃に故郷を去った。その後は従父に従い予章に移ったが、そこでも戦乱に巻き込まれ、結局、17歳で荊州にたどり着き、そこでようやく落ち着くことができた。そういう時代であったとはいえ、波乱万丈な少年期を過ごしたといえる。
それでも腐ることなく、勉学に励み、積極的に人と交流していたのだから立派な人物といえるだろう。
だが、たどり着いた劉表政権下の荊州では豪族の力が強く、学問だけで身を立てることが叶わず、巧みに婚姻関係を結び、政権有力者の親族となってもなお、採用には至らなかった。
だが、司馬徽や徐庶ら、孔明の能力を知り、惜しむ者がいた。彼らによって孔明の名は劉備の知るところとなり、207年、劉備自ら三度草蘆を訪ね、孔明は遂に世に出る機会を得ることとなった。
自ら管仲・楽毅に準える大志を持った孔明は、同じく大志を持つ劉備と合致し、後に彼の軍師となり、その大業を助けることとなった。
◎孔明前半生略年表
174年、兄・諸葛瑾、生まれる
181年、諸葛孔明、生まれる
孔明1歳
184年2月、黄巾の乱勃発
孔明4歳
188年頃?、兄・諸葛瑾、洛陽へ遊学
孔明8歳
189年4月、霊帝崩御、少帝即位
9月、董卓、少帝を廃し、献帝を即位させる
孔明9歳
190年1月、反董卓連合挙兵、袁紹を盟主とする
2月、董卓、洛陽を捨てて、長安に遷都する
この頃?、孔明の母・章氏死去
孔明10歳
191年4月、董卓自ら長安に移動する
朱儁、反董卓連合と内通するが、董卓に発覚し、荊州に逃亡する
この頃、孫堅、朱儁とともに洛陽入り
7月、袁紹、韓馥を脅し、冀州を奪う
曹操、東郡太守となり、東武陽を本拠地とする
11月、泰山太守・応卲、攻めてきた青州黄巾賊を破る
青州黄巾賊、渤海を攻め、公孫瓚と東光で戦う、公孫瓚、これを破る
この年、朱儁、董卓打倒の檄文を出し、徐州刺史・陶謙、これに応ず
この年、袁術、孫堅に命じ、劉表を攻めさせる
この頃?、父・諸葛珪死去、
孔明11歳
192年1月、董卓の将・李傕、郭汜、朱儁を破る
孫堅、劉表との戦いで戦死(前年説あり)
曹操、黒山賊、於夫羅を破る
袁紹対公孫瓚、界橋の戦い、袁紹勝利
4月、董卓、王允・呂布に殺される
青州黄巾賊、東平にて兗州刺史・劉岱を討つ
東郡太守・曹操、寿張にて青州黄巾賊を討ち、冬、これを降伏させる
曹操、兗州牧となる
6月、李傕ら、長安を落とす
王允、殺害され、呂布、逃亡す
8月、李傕ら、馬日磾と太僕・趙岐を各地に派遣する
9月、李傕・車騎将軍、郭汜・後将軍、樊稠・右将軍、張済・鎮東将軍となる
10月、劉表、荊州牧に昇進する
この年、朱儁、李傕政権に参加する
孔明12歳
193年春、劉表、袁術を攻める
袁術、曹操・劉表らに敗れ、南陽を捨てて、揚州に逃走する
袁術、徐州伯と称する
この頃、陶謙を徐州牧に、趙昱を広陵太守に、王朗を会稽太守に任命する
6月、朱儁、太尉となる
陶謙、泰山郡の華・費を奪い、任城を攻略する
曹操の父曹嵩死去
秋、曹操、陶謙を征討す
劉備、陶謙の救援に赴く
この年、琅邪王劉容、薨去
この年、孫策、袁術の命で長江を渡る
この頃?、孔明ら故郷を去る
諸葛瑾20歳、孔明13歳
194年、陶謙、上表して劉備を予州刺史とする
夏、曹操、再び徐州征伐
呂布、曹操が留守の兗州を奪う
曹操、呂布と戦うが、飢餓のため引き上げる
この年、飢饉により穀物が高騰する
陶謙、死去。劉備、徐州を託される
7月、太尉・朱儁を罷免する
4月~7月、旱により飢饉となる
この年、揚州刺史・劉繇、孫策と曲阿で戦い、劉繇、破れる
この年、馬日磾、袁術に勾留され寿春にて死去
この頃?、孔明の従父・諸葛玄、袁術により予章太守に任命される
孔明14歳
195年春、李傕、樊稠を殺し、郭汜と争う
曹操、呂布を破り、呂布、劉備の元に走る
この頃?、朱儁憤死
7月、献帝、長安を脱出し、洛陽を目指す
冬、袁術、自ら帝位に登ろうとするが、臣下のの反対にあい、断念する
この年、諸葛玄、予章太守となるが、朱皓と太守の地位をめぐって争う
孔明15歳
196年7月、献帝、洛陽に到着する
曹操、洛陽に赴き、献帝を迎える。
9月、許に遷都する
曹操、大将軍・武平侯となる
10月、袁紹、太尉に任命されるも受けず、曹操、大将軍の位を袁紹に譲る
曹操、司空・車騎将軍となる
呂布、徐州を奪い、劉備、曹操の元に逃走する
この年、張済、南陽に逃走し、戦死する。甥・張繡が継ぎ、宛に駐屯する
この頃?、諸葛玄、劉表に属す
孔明16歳
197年1月、諸葛玄、死去
孔明、荊州に移住する
曹操、宛に赴き、張繡、降伏するが、反撃に遭い敗北する
春、袁術、皇帝を僭称する
この年、長江、淮南地域で飢餓
孔明17歳
198年4月、裴茂・段煨、李傕を討つ
12月、曹操、呂布を殺す
孔明18歳
199年6月、袁術死去
劉備、徐州で曹操に対し反乱を起こす
孔明19歳
200年4月、孫策死去、弟・孫権継ぐ
10月、官渡の戦い
この頃?、兄・諸葛瑾、孫権に仕える
諸葛瑾27歳、孔明20歳
201年9月、劉備、劉表の元に走る
孔明21歳
207年、劉禅、生まれる
三顧の礼、孔明、劉備に仕える
孔明27歳
208年、赤壁の戦い
孔明28歳
〔参考文献〕
・書籍
陳寿著 今鷹真・井波律子・小南一郎訳 『正史三国志』(全八巻) 筑摩書房 1993年
范曄撰 李賢等注 『後漢書』(全六巻) 中華書局出版 1965年
狩野直禎 『諸葛孔明』 人物往来社 1966年
植村清二 『諸葛孔明』 中央公論社 1985年
中林史朗 『諸葛孔明語録』 明徳出版社 1986年
宮川尚志 『諸葛孔明(新装版)』 光風社 1988年
中国綜合地図出版編 『中国綜合地図集』 中国綜合地図出版社 1990年
東晋次 『後漢時代の政治と思想』 名古屋大学出版会 1995年
渡邉義浩 『「三国志」の政治と社会 史実の英雄たち』 講談社 2012年
柿沼陽平 『劉備と諸葛亮 カネ勘定の「三国志」』 文藝春秋 2018年
長田康宏 『三国志群雄太守県令勢力図(上)』 同人誌 2018年
・論文
上田早苗 「後漢末期の襄陽の豪族」 『東洋史学』(28号) 1970年
狩野直禎 「後漢書列伝六十一朱儁伝訳稿」 『史窓』(58号) 2001年
・サイト
資治通鑑 維基文庫
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91
三国志、全文検索 http://www.seisaku.bz/sangokushi.html
全三国文
https://zh.m.wikisource.org/zh-hans/%E5%85%A8%E4%B8%89%E5%9C%8B%E6%96%87
襄陽記
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%A5%84%E9%99%BD%E8%A8%98
水経注
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B6%93%E6%B3%A8?uselang=ja
讀史方輿紀要
https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%AE%80%E5%8F%B2%E6%96%B9%E8%BC%BF%E7%B4%80%E8%A6%81
むじん書院
http://www.project-imagine.org/mujins/
季漢書
http://blog.livedoor.jp/jominian/
てぃーえすのメモ帳
https://t-s.hatenablog.com/
思いて学ばざれば
https://mujin.hatenadiary.jp/
いつか書きたい『三国志』
http://3guozhi.net/
もっと知りたい!三国志
https://three-kingdoms.net
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