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第5部 赤壁大戦編
歴史解説 諸葛孔明前史 中編(従父、兄編)
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三国志で最も有名な人物、諸葛亮、字は孔明(以下、孔明で統一)。前編では彼の両親の死と故郷を去るまでを解説した。この中編では従父・諸葛玄とおまけとして兄・諸葛瑾が呉に仕える以前について解説していく。
◎従父・諸葛玄
では、これより孔明の新たな保護者、従父・諸葛玄について解説しよう。
諸葛玄の予章太守任命以前の経歴は不明である。だが、荊州の劉表と旧知であったとあるので、もしかしたら朝廷に出仕したことがあったのかもしれない。
予章太守時代の事績については、諸葛亮伝本文、諸葛亮伝注の『献帝春秋』、劉繇伝注の『献帝春秋』の三ヶ所に記録されている。では、その文章を比較してみよう。
諸葛玄は袁術の任命により予章太守となり、孔明らを引き連れて赴任した。同じ頃、朝廷では朱皓(本編未登場)を予章太守に任命し、諸葛玄と交代させた。諸葛玄は旧知であった荊州牧・劉表を頼り、彼のもとに身を寄せた。諸葛玄が亡くなると、孔明は自ら農耕を行った。[諸葛亮伝]
初め予章太守・周術(本編未登場)が病死したので、劉表は諸葛玄を予章太守とし、南昌においた。一方、朝廷では周術の後任として朱皓を派遣した。朱皓は揚州牧・劉繇と協力し、諸葛玄を攻撃、諸葛玄は撤退し、西城に駐屯し、朱皓が南昌に入った。197年、西城の民衆が反乱を起こし、諸葛玄を殺してその首を劉繇に届けた。[諸葛亮伝注、献帝春秋]
劉繇は彭沢に軍営を置くと、笮融(本編、サクユウ、22話より登場)を派遣し、朱皓に加勢させて、諸葛玄を討伐させた。諸葛玄を追い出すと笮融は、今度は朱皓を殺し、自身が予章の支配者となった。[劉繇伝注、献帝春秋]
諸葛亮伝の注も劉繇伝の注も共に『献帝春秋』からの引用である。『献帝春秋』自体は散佚してしまっているので、元の文章がどういう構成であったのかは不明。なお、別の箇所ではあるが、引用を行った裴松之は、『献帝春秋』の内容に対して、いい加減だとして批判している。
しかし、諸葛亮伝本文の内容も少ないので、本文を中心としながら、『献帝春秋』で補う形で整理していこうと思う。
まず、両書では任命者が袁術に劉表と食い違っているが、これは袁術で良いと思う。当時、袁術は揚州の他の太守を何人も無断で任命しているのに対し、劉表は揚州の太守を任命した例が他に見られない。
また、この頃(193年~195年頃)の劉表は、表向き朝廷(李傕政権)とは友好関係にあり、それに真正面から対立する人事を行うように思えないからだ。おそらく後に諸葛玄が劉表を頼った結果の逆算から、『献帝春秋』は劉表を任命者としたのだろう。
袁術に任命された諸葛玄が予章太守として南昌(町の名前、南昌県は予章郡の郡治(現代で言うところの県庁所在地)になる)に入った後に、李傕政権に任命された朱皓が予章郡に入ったが、諸葛玄のために南昌に入ることが出来なかった。
この朱皓とは先に登場した朱儁の子である。
李傕政権に招かれた朱儁は太僕(大臣の一つ)、そして太尉(大臣最高位の一つ)と昇進していく。192年後半~193年のことである。しかし、195年に政変が起こる。195年2月、李傕は同じく政権を運営していた樊稠を殺し、郭汜と対立する。朱儁はこの対立の仲介を行おうとしたが、郭汜に人質とされ、これに憤り、急死してしまう。
李傕、郭汜の対立は195年すぐのことで、朱儁の死もそれから離れてはいないだろう。ならば、朱皓が太守に任命されたのは、おそらく194年中であり、それより前に諸葛玄が任命されたことになる。
そこへ孫策に敗れた揚州牧の劉繇が予章へ逃げ込んできた。おそらく195年内のことだろう。
劉繇は部下の笮融を派遣し、朱皓とともに諸葛玄を攻撃させ、これにより諸葛玄は南昌を追い出され、西城に籠った。
『讀史方輿紀要』によると、予章城の西に子城がある。諸葛玄が退いた西城とはここだという。
子城とは大城に付随した小城のこと。南昌県の城市の北に鄱陽湖(湖の名)を要し、そこから流れる贛水(贛江、川の名)が南昌のすぐ西側を南北に通っている。退却した先がすぐ隣では攻められてしまうので、あるいはこの川を挟んだ形で西城は南昌と隣接していたのかもしれない。
『献帝春秋』の記述によれば、諸葛玄は197年までこの西城にいるので、一年以上、この城で粘ったことになる。
それはこの川が防壁になったこともあるだろうが、それ以上に敵に内紛が起こったことが理由だろう。
劉繇の命令を受け、諸葛玄を追い払った笮融は朱皓を殺し、自らが予章の支配者となった。そのため劉繇は笮融と戦い、これを破り、笮融は逃走中に住民によって殺された。[劉繇伝]
この予章での内紛が展開されている間、諸葛玄は袁術に見切りを付け、劉表に鞍替えして援助を得ることにしたのだろう。甥の孔明らが荊州に逃れたのもこの頃の事かもしれない。
諸葛玄は袁術を裏切ることにした。
諸葛玄が南昌を追われた195年の冬、袁術は自ら皇帝に即位すると発言した。この時は部下の閻象(本編、エンショー、21話より登場)に反対され、取り止めとなったが、結局、197年に即位することとなる。[袁術伝]
こういった袁術の皇帝僭称に反感を持った面もあるかもしれないが、それ以上に現実的な問題があったのだろう。
おそらく、諸葛玄は劉繇が予章に侵入してきた時や笮融の侵攻時に再三、袁術に救援を要請したことだろう。だが、袁術からの援軍は来ず、西城に孤立無縁となった。諸葛玄がどの段階で劉表を頼ったのかは不明だが、援軍が来ない以上、いつまでも袁術だけを頼ることはできない。自分を見捨てた相手に義理もないだろうから、劉表に鞍替えしたのだろう。
南昌より北西に進めば劉表の治める江夏郡に出る。地理的な近さに加え、諸葛玄と劉表は旧知であったというなら、頼る先として適当であろう。
ただ、諸葛玄が劉表と旧知なのは、諸葛玄が予章太守として赴任して以降の可能性もある。諸葛玄のいる予章郡は荊州南部に隣接し、この頃、劉表は荊州南部を完全に支配下に置けておらず、また、袁術とも対立関係にあった。そこで劉表は予章太守である諸葛玄に近づいたのかもしれない。
諸葛玄と劉表と縁はいずれの頃かは定かではないが、ともかく諸葛玄は劉表を頼りとし、劉表は彼を支援した。
では、何故、劉表は諸葛玄を受け入れ、彼への支援を約束したのか。
劉表はかつて李傕政権より安南将軍・荊州牧に任じられたことは前に述べた。劉表は李傕に近しく、袁術と対立しているのであるなら、本来なら、李傕政権が任じた朱皓(あるいは劉繇)を支援し、袁術が任じた諸葛玄と対立する関係である。だが、この頃になると天下の情勢が変わっていた。
195年、政権を担っていた李傕・郭汜らが対立したことは先ほど述べたが、それにより献帝が長安を脱出、李傕や郭汜らの追撃に遇いながらも、196年の7月、洛陽に到着する。
そして、献帝は各地の群雄に支援を要請、これに劉表が応じ、董卓によって廃墟となった洛陽の復興作業に乗り出した。しかし、同じく要請に応じた曹操は、同年9月、献帝を自身の拠点である許都に移してしまった。
この曹操の無断での献帝取り込みの一件は、洛陽を復興していた劉表を激怒させたらしく、197年1月、南陽郡の張繡と劉表が手を組み、曹操と対立し、以降、しばしば劉表・張繡は曹操領へ侵攻することとなる。[武帝紀、後漢書・孝献帝紀、趙岐伝]
この劉表に対して、曹操は戦いもしたが、一方で懐柔し、和解しようと計っていたようである。
曹操は御史中丞(官吏の監察・弾劾を司る官)・鍾繇を派遣して、劉表を鎮南将軍に任じ、さらに左中郎将(宮中の警備隊長の一つ)・祝耽を派遣して節を授け、督交揚二州(一説に督交揚益三州とする)とした。[劉鎮南碑]
劉鎮南碑には誰が任じたかは書いていないが、鍾繇が御史中丞となるのは、献帝が長安を脱出し、曹操と連絡を取って以降のことであるから、おそらく、曹操のよって行われた人事であろう。
また、督交楊二州(交州、揚州の総督、または益州を含む三州の総督)としたのは、196年、曹操が袁紹に大将軍の位を譲ったが、この時さらに袁紹を督青幽并三州(青州、幽州、并州の総督)としたことを受けてのことであろうから、これとほぼ同時期と見てよいだろう。
しかし、劉表は結局、曹操に靡くことはなく、208年に曹操による荊州征伐を受けるまで対立は続くことになる。
諸葛玄が劉表に投降したのは、まさにこういった情勢の最中であった。
劉表からすれば李傕政権が潰れた今、劉繇を支援する理由はなく、劉表自身は揚州の督となったが、実際に揚州を支配しているわけではない。そこで予章太守諸葛玄を擁し、予章を手に入れれば、揚州支配の足掛かりになると判断したのだろう。
諸葛玄勢が小城に籠り、197年まで耐えたのもこの劉表からの援軍が来ることを信じたからだろう。
だが、諸葛玄の記録では劉表の援軍に関する記述がない。また、劉表側にも劉繇と戦ったという記述もない。元々、記録が多くなく、書き漏らしの可能性もあるが、もしかしたらこの時、劉表から援軍は来なかったのかもしれない。
ここからは想像だが、諸葛玄から劉表と手を組んだと聞かされ、援軍の到着を信じて西城に籠ったのに、一年以上経過しても劉表からの援軍は到着しない。当然、諸葛玄はその責任を追及される。ついに我慢の限界に達し、西城の人たちは諸葛玄を殺したのではないだろうか。
諸葛玄と共に西城に籠っていたのは、諸葛玄の縁者や使用人もいるだろうが、多くは南昌の人たちではないだろうか。
郡の官吏や郡兵はその地域の出身者である場合が多い。郡の官吏や郡兵、その家族を中心とした人達が諸葛玄に同行したのだろうが、彼らは諸葛玄に忠誠を誓って同行したわけではないだろう。
南昌に攻めてきた笮融はこれまでも殺人や略奪を度々行い、評判の悪い人物であり、さらに率いている丹揚兵は勇猛で知られていた。そういった連中が攻めてくると聞けば、恐怖するのは自然だろう。
南昌の人たちは避難のつもりで諸葛玄に付き従い、西城に移った。だが、諸葛玄が言っていた劉表からの援軍はいつまで経っても来ず、一年以上が経過した。しかも、その間に恐れていた笮融は死に、予章の支配者は劉繇に変わった。
劉繇は孫策と敵対した関係で小説等では悪役や無能な人物に描かれるが、皇族の血を引く名門の出身で、自身も清廉な人格者として知られていた。
一度は諸葛玄に従った南昌の人たちは、笮融なら何をするかわからない恐怖があるが、劉繇なら頭を下げれば許されると考えたのではないだろうか。少なくとも一度でも諸葛玄に従った奴は許さん、皆殺しだとはならないだろう。そこで彼らは諸葛玄の首を手土産に劉繇に降伏したのではないだろうか。
こうして諸葛玄は死に、予章は劉繇の治めるところとなったが、劉繇もまもなく病死し(おそらく199年頃)、孫策に降伏した太史慈(本編、タイシジ、19話より登場)によって劉繇の残党は吸収された。予章は新たに予章太守に任命された華歆(本編、カキン、63話より登場)が治めたが、199年には孫策が予章に侵攻し、華歆は降伏。予章は孫策領となった。[華歆伝、諸葛亮伝、孫策伝、劉繇伝、太史慈伝、孫賁伝]
余談になるが、何故、劉表は諸葛玄の援軍に現れなかったのか。可能性を考えて劉表の弁護してみようと思う。
もちろん、劉表が全く援軍を出さなかった可能性もあるが、予章郡が孫策領になった後、劉表は度々予章郡へ侵攻している。
しかし、それならば予章太守である諸葛玄が手元にいた方がより予章侵攻の大義名分を得て、有利に侵攻できたはずである。なのに何故、諸葛玄を見殺しにし、それでもなお予章を手に入れようとしたのか。
おそらくだが、劉表は諸葛玄への援軍を出した。だが、なんらかの事情で到着しなかったのではないか。
ここで少し予章郡の地理を整理しておこう。
予章郡の中心地であり、諸葛玄の一連の戦いの舞台となった南昌の北には鄱陽湖という湖がある。その湖の脇、北東の方角に進むと、劉繇が最初に駐屯した彭沢に至り、さらに進むと後に呉の首都となる建業(この頃の名前は秣陵)やこの当時、袁術が本拠地にしていた寿春へ行くことができる。
反対に北西の方角に進むと、後に劉表軍と孫策・孫権軍が度々戦った艾・西安・海昏・建昌といった地域があり、さらに進むと劉表領の江夏郡にたどり着く。なお、南には交州があるが、予章郡の南部は山ばかりなので、南下しようとすると大変な苦労が予想される。
さて、この劉表領との間にある海昏・建昌等の地域だが、孫策伝に以下のような記述がある。
袁術の死後、その勢力を吸収した廬江太守劉勲(本編未登場)は意気盛んだったが、孫策は表向きは劉勲と同盟を結び、この当時、“予章の上繚の宗民(独立勢力)たちが万余”いたので、孫策は劉勲をけしかけ、宗民を攻撃させてその武力を手に入れるよう勧めた。劉勲が宗民討伐に出発すると、孫策はその隙に廬江を攻め落とした。[孫策伝]
ここに出てくる上繚とは繚水(川の名)の上流地域という意味で、海昏や建昌、艾等を含む地域一帯を指す。
また注に引く『江表伝』にはこうある。劉勲は袁術の勢力を吸収したが、食糧が不足したので、従弟の劉偕(本編未登場)をやって予章太守華歆に食糧の買い入れを申し込んだ。華歆のところも食糧が不足していたので、“海昏と上繚にて、その地の宗帥(独立勢力のボス)”から三万石の米を得ようとした。だが、劉偕はこの地に赴いて1ヶ月余り経ったが、わずか数千石を手に入れただけであった。そこで劉偕は劉勲に海昏を軍で攻めて食糧を奪うよう提案、劉勲は海昏を攻めたが、宗帥は邑を空っぽにして逃げ隠れ、劉勲は何も得ることができなかった。[孫策伝]
これらの記述によれば、当時の予章の海昏の地域一帯には宗帥が率いる宗民という集団がいたようである。この宗民についてちくま学芸文庫版の訳本の注では、地方独立勢力で、宗教的な結社とも、異民族との関係を持つともいうが、詳しくは不明とある。
どういった集団なのか具体的にはわからないが、海昏の地域一帯には宗民(宗族とも)と言われる万余の人たちを率いる独立勢力がいたようだ。
また、先ほどの孫策が劉勲に海昏の宗民をせめるよう勧めた時の逸話にて、孫策はこの海昏地域について、交通が不便と述べており、さらに当時、劉勲の許にいた劉曄(本編、リューヨー、64話より登場)は「上繚は小さいとはいえ、城は固く壕は深く、攻めるに難しく、守るに易いところです」と述べ、劉勲の上繚征伐に反対した[劉曄伝]
実際に地図を見てみると、この海昏や建昌あたりの予章郡北西部は長江や鄱陽湖からの支流がいくつも流れ、山脈に囲まれた地域である。おそらく孫策が述べた「交通が不便」とはこういった地形を指しているのだろう。この地形が天然の要塞となり、独立性の高い地域となっていたのだろう。
さらに劉曄の言葉から、その中に堅固な城が建っていたことがわかる。その堅固な城に万の人が暮らし、独立状態を保っていたのである。
話を戻すが、おそらく、劉表の軍は諸葛玄の救援に赴きたくても、この海昏一帯の地域を通過できなかったのではないだろうか。
劉表の勢力については過去に『歴史解説 袁家の滅亡と博望の戦い』にて触れたので詳しいことはそちらに譲るが、劉表の勢力が荊州全域に及ぶのは200年頃、長沙太守張羨(本編、チョーゼン、91話名のみ登場)を倒して以降のことで、この頃はまだ荊州北部の三郡+αぐらいにしか勢力が及んでいない。
その劉表が201年に南陽郡攻略に出した兵力が約一万程度なので、この時の諸葛玄への救援はそれと同程度か、より少ない数であったろう。
前述したように山川に囲まれた海昏一帯は、おそらく軍隊が通れるルートも限られており、迂回して南昌にたどり着くことができなかったのだろう。後に予章郡が孫策領になって以降の話だが、劉表対孫策の予章郡を巡る攻防についてこのような記述がある。
劉表の従子・劉磐(本編、リュウバン、62話より登場)はしばしば予章郡の艾・西安などの諸県に攻め込んできた。そこで孫策は予章郡の海昬や建昌の近辺六県を割き、太史慈を建昌都尉に任じ、海昏にその役所を置き、六県の統治と劉磐からの防衛を行わせた。[太史慈伝]
これは200年頃の出来事だろう。劉表側からは劉磐が攻め込み、孫策側からは太史慈が赴き防いでいる。
劉磐は艾や西安といった予章郡北西部を荒らすのみで、その先にある南昌にまで踏み込めていない。太史慈がよく防いでいたとも読めるが、もしかしたらこの時もまだ海昏地域の宗民により阻まれていたのかもしれない。
また、孫策もわざわざ海昏地域の六県を別に割き、予章郡から切り離して建昌都尉を設置し、太史慈に任せたのも、劉磐からの侵攻もあるだろうが、この地域の特殊性によるところも大きいのではないだろうか。
しかし、海昏一帯がこういった排他的で独立性の高い地域であるなら、当然、地元民である南昌の人達は知っていたはずで、諸葛玄が劉表へ援軍を求める時にそのことを伝えているはずである。
これを諸葛玄は楽観的に考えていたのだろう。あるいは甥の孔明や救援の使者らが荊州に無事にたどり着いているので安心したのかもしれない。だが、少数で移動するのと軍隊が動くのではわけが違う。結局、劉表からの援軍は海昏一帯に阻まれ到着せず、南昌の人達が指摘した通りになったことで、諸葛玄は信用を失い、見捨てられることになったのではないだろうか。
◎兄・諸葛瑾の行方
ここで荊州へ移った孔明に行く前に彼の兄・諸葛瑾のことについて先に解説しておこう。
孔明の兄・諸葛瑾は、字を子瑜。孔明より七歳年長の174年生まれ。彼が若い頃、洛陽で学び、後に帰郷したことは前編に書いた。孔明が故郷を去り、従父・諸葛玄とともに予章に行く時に、彼は別行動を取ることになる。
諸葛瑾は漢末、戦乱を避け江東に移住した。その頃ちょうど孫策が死去した頃で、孫権(本編、ソンケン(チュー坊)、64話より登場)の姉の婿・弘咨(本編未登場)によって評価され、孫権に推挙された。[諸葛瑾伝]
諸葛瑾伝の記述には不可解なことが二点ある。まず一つは、何故、孔明や諸葛玄らと別行動して江東に移ったのか。そして、もう一つは孫権に仕えた時期である。
孔明らが故郷を去ったのは193年頃、その翌年頃には諸葛玄は予章太守に就任していたと思われる。対して、孫策が死んで孫権に代替わりした頃なら、諸葛瑾が孫権に仕えたのは、早くても200年頃の出来事となる。彼は長い期間無職だったのだろうか?
確かに何のコネもなく江東に来たのなら、すぐ孫権に仕えられないのは仕方がない。しかし、わざわざ諸葛玄から離れて、数年無為に過ごしたのだろうか。
考えられるのは、従父・諸葛玄が袁術によって予章太守に任命されたのように、諸葛瑾もまた袁術に仕えていたのではないだろうか。
彼らが故郷を去ったと思われる193年の時、諸葛瑾は20歳(数え年)、大人として扱われる年齢だ。袁術から何かしら仕事を与えられても不思議はない。
しかし、20歳成り立ての、そこまで名門というわけでもない(おそらく袁術陣営には諸葛氏以上の名門がいくらも加わっていただろう)若者に大役が任せらられるとも思えない。その彼一人に弟たちの面倒までは大変であろうから、孔明たちは従父の諸葛玄についていったのだろう。
そして、袁術が死亡した199年前後に江東に渡ったとすれば、年数的にも辻褄が合うのではないか。
ただ、記録のないことであるので、これはあくまでも辻褄合わせのための仮説にすぎない。
◎従父・諸葛玄
では、これより孔明の新たな保護者、従父・諸葛玄について解説しよう。
諸葛玄の予章太守任命以前の経歴は不明である。だが、荊州の劉表と旧知であったとあるので、もしかしたら朝廷に出仕したことがあったのかもしれない。
予章太守時代の事績については、諸葛亮伝本文、諸葛亮伝注の『献帝春秋』、劉繇伝注の『献帝春秋』の三ヶ所に記録されている。では、その文章を比較してみよう。
諸葛玄は袁術の任命により予章太守となり、孔明らを引き連れて赴任した。同じ頃、朝廷では朱皓(本編未登場)を予章太守に任命し、諸葛玄と交代させた。諸葛玄は旧知であった荊州牧・劉表を頼り、彼のもとに身を寄せた。諸葛玄が亡くなると、孔明は自ら農耕を行った。[諸葛亮伝]
初め予章太守・周術(本編未登場)が病死したので、劉表は諸葛玄を予章太守とし、南昌においた。一方、朝廷では周術の後任として朱皓を派遣した。朱皓は揚州牧・劉繇と協力し、諸葛玄を攻撃、諸葛玄は撤退し、西城に駐屯し、朱皓が南昌に入った。197年、西城の民衆が反乱を起こし、諸葛玄を殺してその首を劉繇に届けた。[諸葛亮伝注、献帝春秋]
劉繇は彭沢に軍営を置くと、笮融(本編、サクユウ、22話より登場)を派遣し、朱皓に加勢させて、諸葛玄を討伐させた。諸葛玄を追い出すと笮融は、今度は朱皓を殺し、自身が予章の支配者となった。[劉繇伝注、献帝春秋]
諸葛亮伝の注も劉繇伝の注も共に『献帝春秋』からの引用である。『献帝春秋』自体は散佚してしまっているので、元の文章がどういう構成であったのかは不明。なお、別の箇所ではあるが、引用を行った裴松之は、『献帝春秋』の内容に対して、いい加減だとして批判している。
しかし、諸葛亮伝本文の内容も少ないので、本文を中心としながら、『献帝春秋』で補う形で整理していこうと思う。
まず、両書では任命者が袁術に劉表と食い違っているが、これは袁術で良いと思う。当時、袁術は揚州の他の太守を何人も無断で任命しているのに対し、劉表は揚州の太守を任命した例が他に見られない。
また、この頃(193年~195年頃)の劉表は、表向き朝廷(李傕政権)とは友好関係にあり、それに真正面から対立する人事を行うように思えないからだ。おそらく後に諸葛玄が劉表を頼った結果の逆算から、『献帝春秋』は劉表を任命者としたのだろう。
袁術に任命された諸葛玄が予章太守として南昌(町の名前、南昌県は予章郡の郡治(現代で言うところの県庁所在地)になる)に入った後に、李傕政権に任命された朱皓が予章郡に入ったが、諸葛玄のために南昌に入ることが出来なかった。
この朱皓とは先に登場した朱儁の子である。
李傕政権に招かれた朱儁は太僕(大臣の一つ)、そして太尉(大臣最高位の一つ)と昇進していく。192年後半~193年のことである。しかし、195年に政変が起こる。195年2月、李傕は同じく政権を運営していた樊稠を殺し、郭汜と対立する。朱儁はこの対立の仲介を行おうとしたが、郭汜に人質とされ、これに憤り、急死してしまう。
李傕、郭汜の対立は195年すぐのことで、朱儁の死もそれから離れてはいないだろう。ならば、朱皓が太守に任命されたのは、おそらく194年中であり、それより前に諸葛玄が任命されたことになる。
そこへ孫策に敗れた揚州牧の劉繇が予章へ逃げ込んできた。おそらく195年内のことだろう。
劉繇は部下の笮融を派遣し、朱皓とともに諸葛玄を攻撃させ、これにより諸葛玄は南昌を追い出され、西城に籠った。
『讀史方輿紀要』によると、予章城の西に子城がある。諸葛玄が退いた西城とはここだという。
子城とは大城に付随した小城のこと。南昌県の城市の北に鄱陽湖(湖の名)を要し、そこから流れる贛水(贛江、川の名)が南昌のすぐ西側を南北に通っている。退却した先がすぐ隣では攻められてしまうので、あるいはこの川を挟んだ形で西城は南昌と隣接していたのかもしれない。
『献帝春秋』の記述によれば、諸葛玄は197年までこの西城にいるので、一年以上、この城で粘ったことになる。
それはこの川が防壁になったこともあるだろうが、それ以上に敵に内紛が起こったことが理由だろう。
劉繇の命令を受け、諸葛玄を追い払った笮融は朱皓を殺し、自らが予章の支配者となった。そのため劉繇は笮融と戦い、これを破り、笮融は逃走中に住民によって殺された。[劉繇伝]
この予章での内紛が展開されている間、諸葛玄は袁術に見切りを付け、劉表に鞍替えして援助を得ることにしたのだろう。甥の孔明らが荊州に逃れたのもこの頃の事かもしれない。
諸葛玄は袁術を裏切ることにした。
諸葛玄が南昌を追われた195年の冬、袁術は自ら皇帝に即位すると発言した。この時は部下の閻象(本編、エンショー、21話より登場)に反対され、取り止めとなったが、結局、197年に即位することとなる。[袁術伝]
こういった袁術の皇帝僭称に反感を持った面もあるかもしれないが、それ以上に現実的な問題があったのだろう。
おそらく、諸葛玄は劉繇が予章に侵入してきた時や笮融の侵攻時に再三、袁術に救援を要請したことだろう。だが、袁術からの援軍は来ず、西城に孤立無縁となった。諸葛玄がどの段階で劉表を頼ったのかは不明だが、援軍が来ない以上、いつまでも袁術だけを頼ることはできない。自分を見捨てた相手に義理もないだろうから、劉表に鞍替えしたのだろう。
南昌より北西に進めば劉表の治める江夏郡に出る。地理的な近さに加え、諸葛玄と劉表は旧知であったというなら、頼る先として適当であろう。
ただ、諸葛玄が劉表と旧知なのは、諸葛玄が予章太守として赴任して以降の可能性もある。諸葛玄のいる予章郡は荊州南部に隣接し、この頃、劉表は荊州南部を完全に支配下に置けておらず、また、袁術とも対立関係にあった。そこで劉表は予章太守である諸葛玄に近づいたのかもしれない。
諸葛玄と劉表と縁はいずれの頃かは定かではないが、ともかく諸葛玄は劉表を頼りとし、劉表は彼を支援した。
では、何故、劉表は諸葛玄を受け入れ、彼への支援を約束したのか。
劉表はかつて李傕政権より安南将軍・荊州牧に任じられたことは前に述べた。劉表は李傕に近しく、袁術と対立しているのであるなら、本来なら、李傕政権が任じた朱皓(あるいは劉繇)を支援し、袁術が任じた諸葛玄と対立する関係である。だが、この頃になると天下の情勢が変わっていた。
195年、政権を担っていた李傕・郭汜らが対立したことは先ほど述べたが、それにより献帝が長安を脱出、李傕や郭汜らの追撃に遇いながらも、196年の7月、洛陽に到着する。
そして、献帝は各地の群雄に支援を要請、これに劉表が応じ、董卓によって廃墟となった洛陽の復興作業に乗り出した。しかし、同じく要請に応じた曹操は、同年9月、献帝を自身の拠点である許都に移してしまった。
この曹操の無断での献帝取り込みの一件は、洛陽を復興していた劉表を激怒させたらしく、197年1月、南陽郡の張繡と劉表が手を組み、曹操と対立し、以降、しばしば劉表・張繡は曹操領へ侵攻することとなる。[武帝紀、後漢書・孝献帝紀、趙岐伝]
この劉表に対して、曹操は戦いもしたが、一方で懐柔し、和解しようと計っていたようである。
曹操は御史中丞(官吏の監察・弾劾を司る官)・鍾繇を派遣して、劉表を鎮南将軍に任じ、さらに左中郎将(宮中の警備隊長の一つ)・祝耽を派遣して節を授け、督交揚二州(一説に督交揚益三州とする)とした。[劉鎮南碑]
劉鎮南碑には誰が任じたかは書いていないが、鍾繇が御史中丞となるのは、献帝が長安を脱出し、曹操と連絡を取って以降のことであるから、おそらく、曹操のよって行われた人事であろう。
また、督交楊二州(交州、揚州の総督、または益州を含む三州の総督)としたのは、196年、曹操が袁紹に大将軍の位を譲ったが、この時さらに袁紹を督青幽并三州(青州、幽州、并州の総督)としたことを受けてのことであろうから、これとほぼ同時期と見てよいだろう。
しかし、劉表は結局、曹操に靡くことはなく、208年に曹操による荊州征伐を受けるまで対立は続くことになる。
諸葛玄が劉表に投降したのは、まさにこういった情勢の最中であった。
劉表からすれば李傕政権が潰れた今、劉繇を支援する理由はなく、劉表自身は揚州の督となったが、実際に揚州を支配しているわけではない。そこで予章太守諸葛玄を擁し、予章を手に入れれば、揚州支配の足掛かりになると判断したのだろう。
諸葛玄勢が小城に籠り、197年まで耐えたのもこの劉表からの援軍が来ることを信じたからだろう。
だが、諸葛玄の記録では劉表の援軍に関する記述がない。また、劉表側にも劉繇と戦ったという記述もない。元々、記録が多くなく、書き漏らしの可能性もあるが、もしかしたらこの時、劉表から援軍は来なかったのかもしれない。
ここからは想像だが、諸葛玄から劉表と手を組んだと聞かされ、援軍の到着を信じて西城に籠ったのに、一年以上経過しても劉表からの援軍は到着しない。当然、諸葛玄はその責任を追及される。ついに我慢の限界に達し、西城の人たちは諸葛玄を殺したのではないだろうか。
諸葛玄と共に西城に籠っていたのは、諸葛玄の縁者や使用人もいるだろうが、多くは南昌の人たちではないだろうか。
郡の官吏や郡兵はその地域の出身者である場合が多い。郡の官吏や郡兵、その家族を中心とした人達が諸葛玄に同行したのだろうが、彼らは諸葛玄に忠誠を誓って同行したわけではないだろう。
南昌に攻めてきた笮融はこれまでも殺人や略奪を度々行い、評判の悪い人物であり、さらに率いている丹揚兵は勇猛で知られていた。そういった連中が攻めてくると聞けば、恐怖するのは自然だろう。
南昌の人たちは避難のつもりで諸葛玄に付き従い、西城に移った。だが、諸葛玄が言っていた劉表からの援軍はいつまで経っても来ず、一年以上が経過した。しかも、その間に恐れていた笮融は死に、予章の支配者は劉繇に変わった。
劉繇は孫策と敵対した関係で小説等では悪役や無能な人物に描かれるが、皇族の血を引く名門の出身で、自身も清廉な人格者として知られていた。
一度は諸葛玄に従った南昌の人たちは、笮融なら何をするかわからない恐怖があるが、劉繇なら頭を下げれば許されると考えたのではないだろうか。少なくとも一度でも諸葛玄に従った奴は許さん、皆殺しだとはならないだろう。そこで彼らは諸葛玄の首を手土産に劉繇に降伏したのではないだろうか。
こうして諸葛玄は死に、予章は劉繇の治めるところとなったが、劉繇もまもなく病死し(おそらく199年頃)、孫策に降伏した太史慈(本編、タイシジ、19話より登場)によって劉繇の残党は吸収された。予章は新たに予章太守に任命された華歆(本編、カキン、63話より登場)が治めたが、199年には孫策が予章に侵攻し、華歆は降伏。予章は孫策領となった。[華歆伝、諸葛亮伝、孫策伝、劉繇伝、太史慈伝、孫賁伝]
余談になるが、何故、劉表は諸葛玄の援軍に現れなかったのか。可能性を考えて劉表の弁護してみようと思う。
もちろん、劉表が全く援軍を出さなかった可能性もあるが、予章郡が孫策領になった後、劉表は度々予章郡へ侵攻している。
しかし、それならば予章太守である諸葛玄が手元にいた方がより予章侵攻の大義名分を得て、有利に侵攻できたはずである。なのに何故、諸葛玄を見殺しにし、それでもなお予章を手に入れようとしたのか。
おそらくだが、劉表は諸葛玄への援軍を出した。だが、なんらかの事情で到着しなかったのではないか。
ここで少し予章郡の地理を整理しておこう。
予章郡の中心地であり、諸葛玄の一連の戦いの舞台となった南昌の北には鄱陽湖という湖がある。その湖の脇、北東の方角に進むと、劉繇が最初に駐屯した彭沢に至り、さらに進むと後に呉の首都となる建業(この頃の名前は秣陵)やこの当時、袁術が本拠地にしていた寿春へ行くことができる。
反対に北西の方角に進むと、後に劉表軍と孫策・孫権軍が度々戦った艾・西安・海昏・建昌といった地域があり、さらに進むと劉表領の江夏郡にたどり着く。なお、南には交州があるが、予章郡の南部は山ばかりなので、南下しようとすると大変な苦労が予想される。
さて、この劉表領との間にある海昏・建昌等の地域だが、孫策伝に以下のような記述がある。
袁術の死後、その勢力を吸収した廬江太守劉勲(本編未登場)は意気盛んだったが、孫策は表向きは劉勲と同盟を結び、この当時、“予章の上繚の宗民(独立勢力)たちが万余”いたので、孫策は劉勲をけしかけ、宗民を攻撃させてその武力を手に入れるよう勧めた。劉勲が宗民討伐に出発すると、孫策はその隙に廬江を攻め落とした。[孫策伝]
ここに出てくる上繚とは繚水(川の名)の上流地域という意味で、海昏や建昌、艾等を含む地域一帯を指す。
また注に引く『江表伝』にはこうある。劉勲は袁術の勢力を吸収したが、食糧が不足したので、従弟の劉偕(本編未登場)をやって予章太守華歆に食糧の買い入れを申し込んだ。華歆のところも食糧が不足していたので、“海昏と上繚にて、その地の宗帥(独立勢力のボス)”から三万石の米を得ようとした。だが、劉偕はこの地に赴いて1ヶ月余り経ったが、わずか数千石を手に入れただけであった。そこで劉偕は劉勲に海昏を軍で攻めて食糧を奪うよう提案、劉勲は海昏を攻めたが、宗帥は邑を空っぽにして逃げ隠れ、劉勲は何も得ることができなかった。[孫策伝]
これらの記述によれば、当時の予章の海昏の地域一帯には宗帥が率いる宗民という集団がいたようである。この宗民についてちくま学芸文庫版の訳本の注では、地方独立勢力で、宗教的な結社とも、異民族との関係を持つともいうが、詳しくは不明とある。
どういった集団なのか具体的にはわからないが、海昏の地域一帯には宗民(宗族とも)と言われる万余の人たちを率いる独立勢力がいたようだ。
また、先ほどの孫策が劉勲に海昏の宗民をせめるよう勧めた時の逸話にて、孫策はこの海昏地域について、交通が不便と述べており、さらに当時、劉勲の許にいた劉曄(本編、リューヨー、64話より登場)は「上繚は小さいとはいえ、城は固く壕は深く、攻めるに難しく、守るに易いところです」と述べ、劉勲の上繚征伐に反対した[劉曄伝]
実際に地図を見てみると、この海昏や建昌あたりの予章郡北西部は長江や鄱陽湖からの支流がいくつも流れ、山脈に囲まれた地域である。おそらく孫策が述べた「交通が不便」とはこういった地形を指しているのだろう。この地形が天然の要塞となり、独立性の高い地域となっていたのだろう。
さらに劉曄の言葉から、その中に堅固な城が建っていたことがわかる。その堅固な城に万の人が暮らし、独立状態を保っていたのである。
話を戻すが、おそらく、劉表の軍は諸葛玄の救援に赴きたくても、この海昏一帯の地域を通過できなかったのではないだろうか。
劉表の勢力については過去に『歴史解説 袁家の滅亡と博望の戦い』にて触れたので詳しいことはそちらに譲るが、劉表の勢力が荊州全域に及ぶのは200年頃、長沙太守張羨(本編、チョーゼン、91話名のみ登場)を倒して以降のことで、この頃はまだ荊州北部の三郡+αぐらいにしか勢力が及んでいない。
その劉表が201年に南陽郡攻略に出した兵力が約一万程度なので、この時の諸葛玄への救援はそれと同程度か、より少ない数であったろう。
前述したように山川に囲まれた海昏一帯は、おそらく軍隊が通れるルートも限られており、迂回して南昌にたどり着くことができなかったのだろう。後に予章郡が孫策領になって以降の話だが、劉表対孫策の予章郡を巡る攻防についてこのような記述がある。
劉表の従子・劉磐(本編、リュウバン、62話より登場)はしばしば予章郡の艾・西安などの諸県に攻め込んできた。そこで孫策は予章郡の海昬や建昌の近辺六県を割き、太史慈を建昌都尉に任じ、海昏にその役所を置き、六県の統治と劉磐からの防衛を行わせた。[太史慈伝]
これは200年頃の出来事だろう。劉表側からは劉磐が攻め込み、孫策側からは太史慈が赴き防いでいる。
劉磐は艾や西安といった予章郡北西部を荒らすのみで、その先にある南昌にまで踏み込めていない。太史慈がよく防いでいたとも読めるが、もしかしたらこの時もまだ海昏地域の宗民により阻まれていたのかもしれない。
また、孫策もわざわざ海昏地域の六県を別に割き、予章郡から切り離して建昌都尉を設置し、太史慈に任せたのも、劉磐からの侵攻もあるだろうが、この地域の特殊性によるところも大きいのではないだろうか。
しかし、海昏一帯がこういった排他的で独立性の高い地域であるなら、当然、地元民である南昌の人達は知っていたはずで、諸葛玄が劉表へ援軍を求める時にそのことを伝えているはずである。
これを諸葛玄は楽観的に考えていたのだろう。あるいは甥の孔明や救援の使者らが荊州に無事にたどり着いているので安心したのかもしれない。だが、少数で移動するのと軍隊が動くのではわけが違う。結局、劉表からの援軍は海昏一帯に阻まれ到着せず、南昌の人達が指摘した通りになったことで、諸葛玄は信用を失い、見捨てられることになったのではないだろうか。
◎兄・諸葛瑾の行方
ここで荊州へ移った孔明に行く前に彼の兄・諸葛瑾のことについて先に解説しておこう。
孔明の兄・諸葛瑾は、字を子瑜。孔明より七歳年長の174年生まれ。彼が若い頃、洛陽で学び、後に帰郷したことは前編に書いた。孔明が故郷を去り、従父・諸葛玄とともに予章に行く時に、彼は別行動を取ることになる。
諸葛瑾は漢末、戦乱を避け江東に移住した。その頃ちょうど孫策が死去した頃で、孫権(本編、ソンケン(チュー坊)、64話より登場)の姉の婿・弘咨(本編未登場)によって評価され、孫権に推挙された。[諸葛瑾伝]
諸葛瑾伝の記述には不可解なことが二点ある。まず一つは、何故、孔明や諸葛玄らと別行動して江東に移ったのか。そして、もう一つは孫権に仕えた時期である。
孔明らが故郷を去ったのは193年頃、その翌年頃には諸葛玄は予章太守に就任していたと思われる。対して、孫策が死んで孫権に代替わりした頃なら、諸葛瑾が孫権に仕えたのは、早くても200年頃の出来事となる。彼は長い期間無職だったのだろうか?
確かに何のコネもなく江東に来たのなら、すぐ孫権に仕えられないのは仕方がない。しかし、わざわざ諸葛玄から離れて、数年無為に過ごしたのだろうか。
考えられるのは、従父・諸葛玄が袁術によって予章太守に任命されたのように、諸葛瑾もまた袁術に仕えていたのではないだろうか。
彼らが故郷を去ったと思われる193年の時、諸葛瑾は20歳(数え年)、大人として扱われる年齢だ。袁術から何かしら仕事を与えられても不思議はない。
しかし、20歳成り立ての、そこまで名門というわけでもない(おそらく袁術陣営には諸葛氏以上の名門がいくらも加わっていただろう)若者に大役が任せらられるとも思えない。その彼一人に弟たちの面倒までは大変であろうから、孔明たちは従父の諸葛玄についていったのだろう。
そして、袁術が死亡した199年前後に江東に渡ったとすれば、年数的にも辻褄が合うのではないか。
ただ、記録のないことであるので、これはあくまでも辻褄合わせのための仮説にすぎない。
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