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第3章〜芸州編(其の参)〜

第32話

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「ギシ……ギシ……」
 水門は水圧で押し潰されそうな音を立てていた。それを命綱でくくられた人々が支えている。溜池ためいけの水面は限界を超え、畦道あぜみちに積み重ねているかます(土嚢)にまで達していた。
 俺はその景色に愕然がくぜんとした。もはや一刻の猶予もないのだ。

 水門の側では辰太郎が指揮を執っていた。
「大助、平谷村がやられたそうじゃ。まずいぞ」
「平谷……何処だ?」
「大助さま、押村の北側にある村ですよ」
「土砂崩れで水門が崩壊したらしい。そこは矢野郷へ通じる川が主流じゃが、二郷川にも支流がある」
「では更に増水するのか?」
「ああ、ここも放流を止める訳にはいかん。これ以上降ったら街道の半分は水没する!」
「クソッ!!」
 見上げた空に怒鳴ってみたが、無情にも雨が降りそそぎ俺の顔を濡らすだけだった。
「……忠吾郎、関所へ伝令を頼む。直ちに避難だ」
「あ、はい!」
「終わったら神社へ戻れ!」
「あの、大助さまはどうされるのですか?」
「俺と六郎はここへ残る。この水門が肝となる」
「分かりました。では!」

 明方になると雨脚が更に強まった。富盛の郎党も疲れ果てている。そこへ追い討ちをかけるように押村から伝令が届いた。
「押村の水門が決壊だあーっ!!」
「濁流が押し寄せてくるぞー!!」
「ゴオーーッ、バジャン、ゴオーーッ……!!」
 波しぶきを上げて泥水が流れ込む。その勢いは二郷川を越え、ついに街道へ氾濫した。
 山村の富盛、国宗家は高台に拠点を構えているが、面前、神田家は平地の屋敷が多い。一瞬で流されるだろう。俺は「避難してるはず」と、そう願った。

「大助、もう我等も限界じゃ。水門が持たん。開口を広げるぞ」
「辰太郎、この状況で……か?」
「ああ、街道は氾濫しとるが、さっきの濁流はおさまり水位は戻っている。今しかない」
「よし、俺も手伝おう!」
 この水門が崩壊するよりマシと思ったが、開口を広げるのは危険を伴うことだった。水圧に耐えきれず途中で扉が破壊される心配があるのだ。それによっては人が流されることも考えられる。

「ここは本家が行う。辰二郎、辰三郎……良いな」
「よし、任せろ!」

 縄で括られた富盛兄弟は、左右に分かれて水門の開口を少しずつ広げる作業に入った。俺を含め郎党たちは1段高い位置から兄弟の命綱を持ち、彼らが転落しないよう援護する。無論、俺らも縄を括って大木へと繋げていた。

「慎重にやれよ、辰三郎!」
「くっ……そうは言っても扉が曲って開かん」
「中央へ行ってこじ開けるか」
「辰二兄イ、大丈夫か? 流水被ったら落ちるぞ」
「落ちても命綱がある」
「チッ、分かったよ。ワイも行くで!」
 少し開いた引戸の開口からは、滝のように泥水が流れ落ちている。そこへ2人が手を突っ込み、扉を開けようと試みる。

「うおおおおおおおおおおっ!」
「兄イ、少し開いたぞ!」
「もうちょいじゃ」

──その時だった。

「バギッ……バギバギバギッ……」
「なっ……!?」
「ドオオオオオオオオオオオオーーッ!!」
「うわぁーっ!!」
 水門の開口からあふれ出た激しい流水の圧力により、扉が割れてしまったのだ。そして濁流の勢いにのみ込まれた辰三郎は転落した。
「辰三郎ーー!?」
 ググッと命綱が引っ張られる。前方に居た郎党たちも体勢を崩し落下しそうになるが、慌てて斜面を駆け上る。だがその時、無情にも辰三郎を繋ぐ縄が千切れてしまった。
「ああっ!!」
 その瞬間、辰三郎が濁流と共に茶色い河川へと消えた。

「……!!」

 誰もが唖然あぜんとする。
「辰三郎ーーっ、待ってろお!!」
 俺は咄嗟に縄を解き、斜面を下った。
「若っ、無茶ですぞ!!」
「辰三郎ーー!!」
 凄い勢いで流される辰三郎を見て、俺は夢中で後を追う。やがて流木に引っかかった辰三郎を助けようと、濁流の中へ飛び込んだ。

「若ーーっ!!」



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