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09宿屋

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 シモーヌがこくりと首肯しゅこうする。辛そうな表情だった。

「はい。私は自分がどこの誰だか分からぬまま、ただ人間が有する一般常識を覚えた状態で、孤独に山中を歩いていたんです。たまたま地下迷宮から地上に出てきていたモーグおじさまは、そんな私を発見するや、魔物のかてとするどころか逆に救ってくださいました」

 魔王モーグ。多数の人間たちに魔物や魔族をけしかけてきた、悪魔の支配者。だがその心にも、多少は人間味があったのだろうか。

「モーグおじさまには大変感謝しています。おじさまは優しかった。私を実の娘のように優しく育ててくれて……。私の居場所は、ずっとモーグおじさまの隣にあったんです」

 大粒の涙がシモーヌの瞳からこぼれ落ちる。声が震え、思い出したらしいモーグの最期に、嘆き悲しみが泣き声として吐き出された。

「それが、うう……! おじさま……おじさま……!」

 シモーヌは両の手首で目元をこするが、一度あふれ出した感情はなかなかせき止められないようだ。ピューロがおろおろとうろたえる。

「泣かないで、シモーヌ。話を戻しましょう。……お二人とも、今夜泊まる宿はないんですね?」

 俺は胸を張って自慢した。

「ああ。何せびた一文持ってないからな」

「威張らないでください。……それじゃあボクが住まわせてもらっている宿に来てください。何とか今夜だけでも泊めてもらえるようお願いしてみます」

「そいつはありがたい。すまねえな、恩に着る」

 俺は手を差し出した。ピューロが笑顔で握り返す。こいつはいいやつだな――俺はそう感じた。

「困ったときはお互い様です。それに、あなたは地下迷宮の魔物たちを一人で殲滅せんめつした、もの凄い実力者ですからね。おかげでボクら勇者一行は無傷で魔王に挑めましたから。そのお礼もさせてもらう意味で……」

「そうか。じゃあ遠慮なく甘えさせてもらおう。ほらシモーヌ、泣いてないで宿に行くぞ」

「は、はい……」

 俺はシモーヌの手首を引っ張りながら、ピューロの後に続いた。勝手知ったる我が家のごとく、彼の足取りはよどみない。やがて一軒の宿屋の前に辿り着いた。軒先に『風見鶏亭』とある。ここがピューロが住み込みで働いている店か。

 扉を開けた先に、割りと繁盛はんじょうしている店内が広がった。カウンターのこちら側には六つのテーブルが窮屈に並べられている。そこで酔客たちがカードやすごろくに夢中になっていた。ずいぶんとにぎやかだ。こちらに興味を持つものも数名いたが、すぐに振られたサイコロの行方を追った。

「ようピューロ、休憩はもういいのか?」

「はい、ゼペタさん。ありがとうございます」

 カウンターの向こうにいる、ゼペタと呼ばれた男が店主らしい。35歳ぐらいで、厚い頬肉が犬のようにぶら下がっている。つぶらな眼を俺とシモーヌの上に走らせた。

「その連れは?」

 司祭ナーポといい、商人ヒギンスといい、武闘家ピューロといい、店主ゼペタといい、俺は他人に頼ってばかりだ。その引け目を感じて、恥じ入って小声で返す。

「俺はムンチ。流浪のものです」

 シモーヌは涙をぬぐいながら、俺に続いて名乗った。

「私はシモーヌです。ムンチさんに同じく、です」

 ピューロがこうべを垂れて嘆願した。

「ゼペタさん、この二人は無一文なんです。このままじゃ夜の宿場街で野宿しなければなりません。ですから今夜だけ、ボクの部屋に2人を泊まらせてもよろしいでしょうか?」

「ふーむ……」

 司祭ナーポが食事を提供してくれたときと同様、15歳のいたいけな少女の涙は、訴えを切実に見せる効果があるようだ。ゼペタ親父はやがて口を開いた。

「そうだな……。今日の給金を半額にするならいいぞ」

 俺はつい反射的に言葉を出してしまう。

「がめついなあ」

 店主が眉間にしわを寄せた。手にしている杯が今にも砕けそうだ。

「何だと?」

 シモーヌが間に入って取り成そうとする。

「ま、まあまあ、二人とも」

 ピューロは言質げんちはすでに取ったとばかり、明るく断言した。

「じゃ、話は決まりましたね。ムンチさんとシモーヌは2階の一番奥の部屋へ先に入っててください。これが部屋の鍵です。それじゃ、ボクはもう一働きしてきます」

 てきぱきと進行させるピューロに流され、ゼペタはやれやれとばかりに深いため息を鼻から噴き出す。カウンターで飲んでいる別の客に呼ばれて、そちらへ向かった。

 俺とシモーヌはピューロに感謝する。

「すまねえな」

「ありがとうございます」

「いえいえ、それでは」

 俺たちは階段をのぼり、言われたとおりのピューロの部屋に入った。二人きりになると、シモーヌは全身を伸ばしながらうめく。

「さすがに疲れました。先に眠ってもよろしいでしょうか?」

 俺は室内のロウソクに火を移しながら応じた。

「ああ、勝手にしろ」

「ところで……」

「何だ?」

「ムンチさんの『鋼の爪』は、生まれつきの技術なのですか? それとも後天的な?」

 俺は慎重になって、質問に質問で返す。

「それを聞いてどうする気だ?」

 あくびを一つして、シモーヌは眠そうに目をすがめた。

「いえ、気になったものですから」

「しゃべる気はない。さっさと寝ろ」

「そ、そうですか……。はい、ではお休みなさい」

 シモーヌはピューロに遠慮したのか、ベッドを使わず、壁を背に床へ寝転がった。すぐにすやすや寝息を立て始める。熟睡というやつだ。

 俺は彼女をそっと抱き上げると、ベッドに寝かせてやった。毛布を肩までかけてやる。『転移』の術を使ったり、5年より前のことを覚えてなかったり、魔王モーグに気に入られたりした少女シモーヌ。

「まったく、何なんだ、こいつは……」

 俺は数奇な運命を辿る不思議な彼女の寝顔を、しばらく魅入られたように眺めていた。
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