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12 見えているものといないもの
しおりを挟む「ねえ! ちょっと!」
二十一時の消灯の時間を迎えてすぐ、律の病室内に同室の女性の声が木霊する。
「あんたしかいないでしょ! 無視するんじゃないよ!」
もしかしなくても、隣の女性は自分に話し掛けているのだろうか。
「私ですか?」
律は恐る恐る返事をする。
「そうに決まっているだろ! 全く、これだから今どきの若い奴は」
ぶつぶつと文句を言われているが、この会話が女性と交わす初めての会話な上、遅い時間も相俟って律の脳内処理が追いついてこない。
「どうかされましたか?」
ベッドから上半身だけを起こし、彼女との間にある仕切りのカーテンに向けて声を掛ける。
「あんた、食事制限はあるのかい?」
――こんな時間にわざわざ世間話を?
女性の意図が分からず律は困惑する。
「いえ、ないです……」
律がそう言葉を返すと、カーテン越しにガサガサとビニール袋を漁るような音が聞こえてくる。
そして間もなく律のカーテンが開かれると、手に何かを持つ女性が現れた。
「それなら、これやるよ」
そう言われ彼女から差し出されたものは、透明なプラスチック容器であった。
中には固形の食べ物らしきものが入っている。消灯しているため視覚からはその食べ物の種類までを判断することはできないが、微かに香ばしいお肉の匂いが律の嗅覚を刺激した。
「うちの旦那の手作りの唐揚げだよ。少し冷めちまってるけど、ここの飯に比べたら天と地の差だね」
気の強そうな顔つきの女性は、暗闇でも分かる程のニカッと豪快な笑みを浮かべ、律の手にその容器を預ける。
「いいんですか?」
「いいんだよ! たまにはガツンとくるやつ食べなきゃ元気になんてなるもんか。あんたもこれ食って早く元気になりな」
「あ、ありがとうございます」
律は気圧されながらもお礼を伝える。
「美味しそうな匂い……。旦那さんはお料理がお上手なんですね。早く食べたいです」
「今食べな。早い内が美味いから」
「え……」
本音と建前のどちらかと問えば、間違いなく後者の気持ちで早く食べたいと口にしたのだが、まさか真に受けられるとは思いもしなかった。
交流もない赤の他人が作った手料理だ。視覚的な確認ができない状態では流石に口に入れることを躊躇してしまう。
律は覚悟を決めると唐揚げに刺さっている爪楊枝を手に取り、そのまま口に含んだ。
「……すごい、美味しい!」
するとその唐揚げは律の予想を遥かに凌駕する美味しさであり、無意識に賞賛の言葉が律の口から零れ出た。
「だろう?」
律の反応を受け得意げに笑う女性は、そのまま律のベッド脇の椅子に腰掛ける。
「なあ、あんた仕事はどうしてるんだい? 独身か?」
「ひとりです。仕事も、今はしていません」
「そうか」
椅子に座る女性は、まるで律が抱いていた横暴な振る舞いの印象が一変したかのように、柔らかな態度で律に問い掛け始める。
「私はさ、こう見えて会社の責任者をしているんだ」
女性の意外な真相を知り、律は容器を手にしたまま目を丸くする。
「そうなんですね、すごい」
成程、というか、道理で、というか。
自己が強く変わった人だと思ってはいたが、会社を経営していると聞くとそれも腑に落ちる。きっと誤った認識な
のだろうが、世の中の社長や会長ともなると変わった人が多い印象だ。
だがそれにしても、よく部下たちは傍若無人な彼女についていけるなと、尊敬と同時に不憫に思う。
「そうなんだよ。私はどうにもこういう性格だ。いい社長ではないんだろうよ」
「え? いや、そんなことは」
まさか思っていることが顔に出ていたのかと、律は慌てて首を横に振る。
「……たださ、私の会社にもあんたぐらいの年の子たちが沢山いるからさ、せめてその子らの生活だけは守ってやりたいと思うのさ」
部下たちの顔を思い浮かべる女性の表情は、経営者というよりは優しいお母さんといったものに近かった。
「こんな私についてきてくれているわけだからな、責務は果たさなきゃな」
どこか遠くを見つめながら穏やかに言葉を吐く女性。それはまるで自分の責任を自らに言い聞かせているようにも見えた。
単なる一般社員に過ぎなかった律にその重圧は理解できないが、部下を守り部下の家族を守る経営者で居続けることが、如何に大変なことかぐらいは想像できる。
「なんだか、格好いいですね」
「全く。いつも綱渡りで生きてるようなもんだよ」
けらけらと笑う女性。律にとって未だに名前も分からない彼女は、どうやら律の考えていた人物像とは少しばかり相違があるのかもしれない。
だからといって普段の無遠慮な言動はどうかと思うのだが、今後は多少見え方も変わってくるだろう。
「あんたもさ、早くいい伴侶を見つけて、しゃんと楽しみなさいよ」
よっこいしょ、と重たそうに腰を上げる女性は、律に一言だけ残すと自分のベッドへ戻っていく。
「はい。ありがとうございます」
去り行く女性に律がお礼を伝えると、女性はすぐにベッドの中に潜ったのか、二人の部屋に再び静寂が訪れた。
それにしても驚きだ。律は自分の存在が同室の彼女にとって厄介でしかないと思っていた。今起きた会話を含めた出来事は、律の寝ぼけた妄想だったのではと思える程に予想外のものであった。自分の中で彼女に対し厄介な人というイメージが先行し、当人の人となりを知ろうともせず敬遠していたのだ。
今回の件で特段好意を抱いたわけではないのだが、それでも明日からは挨拶ぐらいは交わそうかと、少しだけ歩み寄ってもいいかと思えた。
いつもの日常にはない出来事に興奮し、今夜は眠りにつきにくくなると踏んだ律であったが、案外すんなりと、そう時間も経たない内に眠りに落ちていた。
*
律と同室の女性とのやり取りから一夜が明ける。
その日の律は起床後珍しく体調が悪く、朝食を残しすぐに横になっていた。
昨夜の唐揚げのお礼も兼ねて同室の彼女に挨拶をしようと考えていたのだが、体を起こすことができず会話の機会を逃してしまう。
だが、まだまだ時間はある。日中体調が良くなったら、まずは表の表札から彼女の名前を確認しよう。そしてそのままお礼を伝えに彼女に声を掛けにいくのだ。
そのようなことを考えながら、律は再び眠りにつく。
そうして次に目が覚めたのは、正午過ぎであった。
体調は落ち着き体も軽い。これなら自由に行動ができそうだ。
律はベッドから起き上がると、早速表札を確認すべく病室の外へと向かう。
そこで、ひとつの違和感に気が付く。
――表札に、自分の名前しか記されていないのだ。
急いで病室内へと戻り、女性のカーテンの中を覗く。
すると目に飛び込んできたのは一切物が置かれていないテーブル棚と、綺麗にシーツを張り直されたベッドであった。
「あら、樋口さん。起きられたのですね。調子はいかがですか?」
タイミング良く巡回に訪れた中村が、律の姿を見つけ声を掛ける。
「体調は大丈夫です。あの、同室だった方は……」
「矢作さんですか? 今日から入院先が変わりました」
……入院先が変わった?
いなくなった理由として真っ先に思い浮かんだ可能性は退院だったのだが、どうやら違ったらしい。
だが、何故わざわざ病院を変える必要があったのか。
「もしかして同室の私が嫌で……、迷惑を掛けていたとかでしょうか?」
律はおずおずとした態度で中村に問う。
「いいえ違いますよ。詳しくはお伝えできないのですが、より環境の整った病院で治療をすることになったのです」
今より更に医療設備の整った病院での治療。
その事実がどういうことを意味するのか、律は反射的に考えることを停止した。
転院が昨日今日で決まることはないだろう。本人にも早くから知らされていたに違いない。
「そうなのですか……」
それなのに昨夜彼女と会話を交わした際にはそのような素振りは一切見受けられなかった。
『元気な人はここにはいないよ』
昨日のマキの言葉が、律の頭の中を過る。
心臓を、誰かにぎゅっと掴まれたような気がした。
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