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9 マキという青年
しおりを挟むそれからというものの、律とマキは約束した中庭で頻繁に会う間柄となっていた。
二人の会話の内容は、本当にどうでもいいようなことばかりだ。
マキはあまり自分のことは話さず、その上律のことも詮索してこない。
律が喋りたい時に喋りたい内容を聞き、それを面白おかしく広げてくれる。
律はそんなマキを、年下ながらにできた子だなと感心していた。
「これが元彼?」
マキに元彼の写真が見たいとしつこくせがまれた律は、渋々ポケットからスマートフォンを取り出し、寺田とのツーショット写真を見せる。
「ていうか律、この写真と今、顔が違うじゃん。ちゃんと化粧しなよ。いい歳なんだし」
「煩いなあ。どうせ知り合いと会うことないし、別にいいでしょ」
「俺と会うじゃん! ちゃんと気合入れて来てよ」
これは遠巻きに不細工だと言われているのだろうか。
マキに言われたからといって化粧をするのも癪なのだが、本気を出したらそれなりに見られる顔なんだぞと思わせたい。
律は、明日からはしっかりと化粧をしてやろうと決意する。
「因みに何でその人とは別れたの? 嫌いになったの?」
マキから素朴な質問を受ける律。
「嫌いになったとかじゃないけど……」
実際に、寺田のことは嫌いになったわけではない。
寺田は律が辛い時にはいつも傍で支えてくれた。今回も、入院当初は一日に何通も連絡が届き、それこそ見舞いに訪れようとまでしてくれていた。
律にとって寺田は紛れもなく大切な人である。そしてだからこそ、人間としての価値が沈んでいく自分をこれ以上見てほしくなく、いつしか律にとって寺田の隣にいることが苦痛となっていた。
「私が弱かったから。彼の励ましとか……優しさが、息苦しくなって。自分のことが醜く思えて。そういう自分勝手な理由。恥ずかしいよね」
律は指を弄りながら、情けないように空笑いする。
別れ話自体も律からの一方的なものだった。
ぐちゃぐちゃな自分の気持ちを電話越しにそのまま伝えると、最初は断られ説得もされた。
それでも一緒にいることが辛いと、彼の想いを踏みにじる言葉を投げかけ、お願いだから別れてほしいと言い続けることしかできなかった。
彼の心も、プライドも、大いに傷付けたに違いない。……再び合わせる顔もない。
「私には勿体ないくらいの、本当に良い人だったんだけどね」
間違いなく嫌われ、恨まれてしまったと思っているのだが、以前より頻度は少なくなったものの未だに定期的に連絡が来る。内容は決まって律の体調の確認だ。
良心か、はたまた良い男であったことを演じているのだろうか。
長い時間を共に過ごし、性根から良い奴であることを知っている筈なのに、そういった思考に陥る自分は本当にとんでもなく卑屈な人間になったなと、最早笑いしか出てこない。
だからこそ、これ以上彼の印象を歪め、疎ましく嫌いになりたくなかったことも、別れを決心した理由のひとつなのかもしれない。
「ふーん、まあ比較的どうでもいいけど」
マキは自分から聞いたにも関わらず、まるで興味のないような反応を見せた。
「律はさ、最近体調は落ち着いてる?」
そのまま唐突に話題を変え、律の病状の心配を始める。
急な話の転換に律は呆気にとられたが、正直好きな話題ではなかったため、空気が変わったことにほっと胸をなで下ろした。
「平気。マキこそ妹ちゃんは大丈夫?」
「調子良いよ。最初は元気なかったけど、今は会う度にニコニコしてる」
「それなら良かった」
律に年下の姉妹はいないが、もし存在していたならば寵愛している自信がある。
昔から子どもが好きで、会社の同僚の子どもと会うだけでも可愛くて仕方がなかった。特に妹がいたら、可愛い洋服を沢山プレゼントしていただろう。一緒にショッピングに行くことも楽しいに違いない。
とはいえ、年上の兄弟はいたのだが。
「私ね、実はお兄ちゃんがいたの。私がちっちゃい時に事故で亡くなっちゃって、私はあんまり覚えていないんだけどね。だから私が昔入院していた時も、お兄ちゃんが傍にいてくれたらってよく思ってた。お母さんは体が弱かったから、お見舞いもそんなに来れなかったの」
律と兄とは十二歳も歳が離れていた。律が五歳の時に亡くなったため、兄のはっきりとした記憶は残ってはいないが、きっと優しい人だったのだろうと思い出の中の兄を勝手に美化している。
「だからさ、妹ちゃんのお見舞い、沢山してあげてね。絶対嬉しいから」
律の言葉にマキは笑顔で頷いた。
「……律はさ、お見舞いに来れなかったお母さんのこと恨んでる?」
マキが珍しく踏み込んだ質問をしてくる。
「んー……、恨むとかはなかったけど、寂しかったかな。当時はお母さんの体調とかよく理解できていなかったし。今はその辛さも分かるから仕方なかったことだと思えるけど」
「そっか。じゃあ退院したら、久し振りに家に帰って会えるね」
律はマキの言葉に複雑な表情しか浮かべられず、声に出して返事をすることはできなかった。
恨みはしていない。
しかし、周りの子たちに比べ自分だけ体が弱く、母と出かけることもできなかった幼少期。父も自分より母に寄り添っている印象を抱いていたため、学生の頃は両親とあまり良い関係を築けていなかった。
『丈夫に産んであげられなくてごめんね』
律が幼少期の頃、高熱を出し自宅の敷布団の中でうなされていた時に母から掛けられた言葉だ。
律の目をじっと見つめ、切り裂かれたかのような辛い表情で放たれたその言葉。律にとっては申し訳ないと思われる方が辛かった。
沢山熱を出してごめんなさい。
夜中も起こしちゃってごめんなさい。
――丈夫に生きられない自分でごめんなさい。
律にとって話し相手もいなかった幼少期は、そんな思いしか湧いてこなかった。
喧嘩も反抗期もなかったが、どこか壁があり他人行儀のような関係性。
それも相俟って、律は高校卒業後、遠く離れた土地での就職を希望しすぐに家を出た。
兄が亡き今、家庭を手伝える人は自分しかいないことも理解していた。
それでも律は自分の弱い感情を優先してしまったのだ。
それに対する罪悪感もあり、卒業後は一度も実家に帰っておらず、母の顔も見ていない。
心配は掛けたくなかったため、たまに連絡は取っているのだが、今更どんな顔をして会えばいいのか分からなかった。
……きっと、沢山傷付けた。
「――律、日が暮れてきた。今日はもう病室に戻ろう」
暗い表情を浮かべる律に、マキは優しく微笑み、それ以上何を言うでもなく律を病棟の入り口まで見送る。
病室に戻り、自分のベッドに寝そべる律。
今までは平気だった病室での時間も、マキと会い始めてからは、どこか寂しさを感じるようになっていた。
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