甘夏と青年

宮下

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4 特別ではない何気ない日々

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   *

「以上、今回の商談のご報告です」

 平日の昼下がり。
 部長である望月もちづきのデスクにて、先程終えたばかりの商談の報告を行う律。
 報告に対し望月からの返事はなく、律が提出した契約書にじっと目を通している。
 カタカタとパソコンのキーボードを打ち込む音や、ひっきりなしに鳴り響く電話の呼び出し音。部署内には電話対応や打ち合わせに勤しむ社員たちが数多く在席しており、常に活気に満ちている。

「また、来週先方で行われる展示会の決起集会に岡田所長よりご招待いただきました。差し入れ品を持参したいと考えておりますので、そちらにつきましては後程申請書を上げさせていただきます」

 今回氏の商談については、先方に幾度となく赴き話し合いを重ね、漸く両社の折り合いをつけることができ契約まで持ち込むことが可能となった。
 望月は契約書を読み思考を巡らせ終えたのか、一息ついたのちに律に顔を向け表情を緩めた。

「岡田さんは難しいお方だ。よくやった。ただ、納品後も気は抜かないように。定期的に訪問して良い関係を構築していってくれ」

「ありがとうございます」

「あと、その決起集会は俺も同行する。申請書の参加者に俺の名前も載せておいてくれ」

「かしこまりました」

「……それと、樋口」

 律が望月に対し一礼し自身のデスクへ戻ろうとしたところ、再度名前を呼ばれ振り返る。

「明後日の土曜、本社会議があるだろう? お前も参加することとなった」

「……え?」

 定期的に行われる本社会議には、通常、役職のない社員が参加することはない。
 律は自然と疑問を含んだ返事をしてしまう。

「会議計画書は後でお前のところに廻しておく。……まあ、あれだ。新しい名刺が貰える筈だ。やっと一歩前進だな。頑張れよ、樋口主任」

 ニッと口角を上げ、わざとらしく語尾を強調した望月。

「……っ! はいっ! ありがとうございます!」

 望月から吐かれた言葉の意味を理解した律は、喜びを隠しきれずに高揚した声で返事をしてしまった。

 高校卒業後すぐに今の会社へ入社し、今年で九年の月日が経った。
庶務業務から始まり営業補佐を経て、独り立ちができるようになったのが去年の話。そこそこの社員数を抱える会社だ。ひとつひとつのステップアップに時間がかかるのは珍しいことではない。
 それでも腐ることなく、背伸びをしながら挑戦し続けた結果、漸く名前の上に念願の役職を付けることが叶ったのだ。
 望月の元から自身のデスクへと戻る間に、よしっ、と小さくガッツポーズをする。

「聞こえていましたよ、律先輩」

 律が着席したと同時に、隣の席に座る女性からコソッと声を掛けられる。

「主任、おめでとうございます!」

「ありがとう、ゆうちゃん」

 律の後輩にあたる彼女は、同じ部署で総務を担当している南本みなもと優という女性だ。
 二つ年下なのだが、大卒組なので社歴はまだ浅い方である。
 小柄でくりっとした目つきをしており、一見アイドルのような風貌をしている優。それでいて細部まで気が回る面もあり、部署内での人気も高い。
 律も隣の席になったことがきっかけで、他の社員よりも親しくフランクに話せる間柄となっていた。

「ほんと、格好いいなあ。女性で営業で仕事ができて優しくて……。知ってます? 先輩、他の部署の女子にも人気なんですよ? もちろん私が一番先輩のことを好きなんですどね!」

「ちょっと、褒めすぎ。まだまだミスもあるし、怒られることもあるよ」

「先輩は謙虚過ぎます。私だったらもっと自慢するのに……」

 もうっ、と可愛らしく頬を膨らませる優。
 だが律にとっては謙虚はつもりは更々なく、寧ろまだ上を目指せると自分自身で思える程に、自分のことを野心家だと自覚している。

「ところで、今日は寺田課長と会うんですか?」

 優はきらきらとした瞳で律に尋ねる。
 優の言葉が差す寺田修吾しゅうごという男性は、他部署に配属されている律の同期社員であり、律が私生活においてお付き合いをしている相手でもある。
 律と同じく高卒組だが、仕事の勘や能力が秀でており、若くして課長という立場にまで上り詰めた会社のエースといっても過言ではない人物だ。
 立場上は役職が上の上司なのだが、同い年ということもあり、律にとっては友達の延長線上のような感覚に近いのかもしれない。

「どうだろう、今のところは会う予定はないけど」

「えー! せっかく嬉しいニュースなのに、伝えないんですか?」

「一応報告はするけど、あの人最近忙しそうだし……」

 二人の会話を遮るように、律のデスクの内線電話が鳴り響く。
 律は優に向け片手でごめんとジェスチャーをし、電話の受話器を手に取る。

「はい、二課の樋口です」

『お疲れ様です。一課の寺田です』

 受話器の向こうは、つい今しがた話題に上がっていた寺田であった。

「お疲れ様です。どうされましたか?」

『いえ、本日仕事終わりに軽く打ち合わせをしたいなと思いまして。わたくし的には……焼き鳥に生ビールの口なのですが、いかがでしょうか? 樋口主任』

 わざとらしく仰々しい口調をしているが、要は今日の仕事終わりの誘いである。

「承知いたしました。詳しい場所と時間は後程メールをいただけましたらと思います」

 律は笑いを堪えながらも口調を合わせ返答する。
 自分さえ昇格したことを先程知ったばかりだというのに、一体どこから情報を仕入れたのだろうか。
 二人はそれ以上会話を続けることなく、律も受話器を元に戻した。

「どなたですか?」

 横から優が尋ねる。

「寺田だったよ。今夜飲みに行くかって」

「寺田課長! さすがのタイミングですね」

 優は感心するように両手を合わせる。

「優ちゃんも暇だったら一緒に行こうよ」

「いいんですか?」

「うん、沢山食べて、奢ってもらおう!」

 華金ならぬ、華木だ。楽しみな予定が入ると俄然やる気が湧き出るものだ。
 しかし、今日中に終わらせておきたい仕事は山程存在している。パソコンの左上には大きめの付箋が複数枚貼っており、律の外出中にあったであろう電話の内容が書き留めてある。
 まずは折り返しの電話から始め、そのあとに新規で獲得した取引先の納入リストの整理といこう。

「よし、やりますか」

 律はぐっと背中を伸ばした後、前のめりにパソコンの画面へと向かい、手を動かし始めた。

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