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2 その青年は、マキと名乗った
しおりを挟む台所から、まな板の上で甘夏を切る小気味良い音が聴こえてくる。
居間から庭へと通じる窓は開かれており、仕切りの網戸から流れる優しい風に、白いレースのカーテンがふわりと煽られ揺れ動いている。
テレビやスマートフォンから流れる音楽もなく、ただただ夏の音色が耳に届く。
それは虫の鳴き声だったり小鳥のさえずりだったり、はたまた近くを走る自動車の走行音だったり。ゆったりと流れる時間にさえ音階が隠されているかのように感じてしまう。
「お待たせ」
女性が皿いっぱいに載せた甘夏を運んでくる。
目の前のテーブルに置かれたその甘夏に、青年の頬が自然と緩んでしまう。
「美味しそうですね! いただきます」
僅かに砂糖のまぶされた瑞々しい甘夏の果肉の数々。青年は一房の甘夏にフォークを刺し、口の中へゆっくりと運んだ。
少しだけ酸味が強い甘夏と、舌の上でジャリッと感じる砂糖の甘さが、これ以上ないバランスで旨味を作り上げている。
「美味しいです!」
「そう? それなら良かった」
女性も対面側の椅子へと腰を下ろし、テーブルに両腕を乗せると前のめりに青年を見つめる。
「今更だけれど、お名前はなんておっしゃるのかしら」
にこにこと微笑みを浮かべる女性。
青年は言葉を返すべく、口に詰め込んでいた甘夏をごくりと飲み込んだ。
「名前は、――」
名前を伝えようと、青年は口を開く。
「――」
しかし、まるで発音した筈の言葉が存在しないかのように、その言葉は宙に溶けた。
「……うん?」
女性は不思議そうに首を傾げる。
ほんの少しの沈黙が生まれる。
彼女だけでなく、唇を刻んだ青年自身も、少しだけ寂しそうな苦い表情を浮かべている。
「――マキ、と言います」
漸く自分の名前を発音できたのだろうか。
マキと名乗る青年は、女性の目を見て改めて挨拶をした。
「マキ君。落とし物を拾って、わざわざ届けてくれて、本当にありがとう」
女性はマキに対し頭を下げる。
「いえ、こちらこそこんなに美味しいフルーツまでご馳走になって、ありがとうございます」
それ程のことでもないと、否定の意を込めて慌てて両手を振るマキに、女性は愛情の籠った笑顔を向ける。
「おばさんもね、初対面の人を誰でも家に上げるわけではないのよ。ただなんとなく、マキ君は懐かしい感じがしてね」
改めて向けられた女性の優しい眼差しに、マキは照れ笑いをしながらつい目を逸らしてしまう。
「僕もです」
恥ずかしがりながらも返事を返したマキは、ふと、女性の背後にある部屋に視線を向けた。
そこは畳の部屋で、壁沿いに仏壇が置かれている。
「おばさんには息子がいてね、その子、高校生の頃に交通事故で亡くなってしまったの。もう二十年以上経つのだけれど、なんだかマキ君を見たら思い出しちゃった。もし成長して大学生になっていたら、マキ君みたいな男の子に成長しているのかなって」
仏壇には三つの写真が並んである。マキが座っている位置からは距離があるため、その顔までは把握できない。
「あとね、律って名前の娘もひとりいるの。ずっと遠くで仕事をして暮らしていたのだけれど、数か月前に体を壊してしまって、今は近くの病院に入院しているの」
「……そうなんですね」
「おばさんもあんまり体が強くなくてね、まだ一度もお見舞いに行けていないの。それも言い訳でしかないのだけれど、駄目な母親ね」
自虐的に口元だけで笑う女性。
女性は若い頃から体が丈夫な方ではなかったが、二人目の律を出産してからは一層病弱な体になっていた。理解ある夫の支えもあり不自由のない生活を送れてはいるのだが、長時間ひとりで運転することに対しては未だ難しいところがある。
「そんなことはありません。えっと――」
途中で言葉に詰まるマキ。
女性はそんなマキの意図を汲み取り、愉快そうに吹き出してしまう。
「ふふ、私の自己紹介がまだだったわね。雅美というの、よろしくね」
雅美の自己紹介に、マキはぺこりと頭を下げる。
「すみません……。僕は、律さんに雅美さんの気持ちは伝わっていると思います」
マキは落ち着いた口調で、ゆっくりと自分の考えを言葉にする。
「僕も今、病気で入院している妹がいます。昔は素直じゃなくて家族にも甘えられないような女の子だったんですけど、久し振りに会いに行ったら大きくなっていて。人を思いやる気持ちや、自分の考えもちゃんと持っていて……」
妹との会話を思い出しているのだろうか。
マキは視線をテーブルに落としながらも、優しいお兄ちゃんといった笑みを浮かべている。
「だから、律さんも大丈夫です」
再度、雅美の目を真っ直ぐに捉え、言葉を伝える。
マキのその言葉には、不思議と確信のようなものが宿っていた。
無言で数回、雅美が小さく頷く。
「そうね、ありがとう」
雅美にとってもまた、マキの言葉に信頼し得るものを充分に感じ取っていた。
「もし律さんが退院したら、雅美さんのご飯や、美味しい甘夏を沢山食べさせてあげてくださいね」
「そうね、いっぱい食べてもらいましょう」
人間の心に予め深く根付いている温かさのようなもの。
その最も純粋であり、至高である幸福は、日常の小さなひとコマである二人の会話の中にどうやら隠れていたらしい。
窓から注ぎ込む透明な陽の光も相まって、それは都会の喧騒を忘れられるような、贅沢で優しいほんのひと時であった。
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