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第11話

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 今日は我がフォーリー家の領内にある草原に来ている。バスケットにサンドイッチと飲み物を詰め、正午から日暮れまで、そこで静かな時間を過ごすのが最近のお気に入りなのだ。

 誰かが置いていったのか、それとも大いなる自然の営みの結果なのか、ちょうど座りやすい形の岩があり、その上にハンカチを敷いて腰を下ろし、ただじっと地平線を見つめる。何もしない、誰とも会わない時間というのは、なかなかに贅沢なものだなと一人思う。これまで煩わしいことが多かったから、なおさら――

 だが、その静寂は馬の嘶きによって破られた。聞こえてきたのは、後ろからである。私が振り返ると、ずっと向こうで立派な体躯の馬が前足を持ち上げ、立ち上がるような姿勢を取っていた。

 野生の暴れ馬……?

 一瞬そう思ったが、よく見ると馬には豪奢な鞍がついており、その上に黒髪の青年が跨っている。先程は見る角度の問題でわからなかったのだ。青年の顔立ちは非常に美しかったが、険しかった。馬の手綱を懸命に引きながら、「静まれっ!」と何度も叫んでいる。

 彼の身なりと馬の立派さから察するに、どこかの貴族の子弟が遠乗りに来て、何かのトラブルが起こって馬が暴れ出したというところだろう。黒髪の青年の乗馬技術は非常に高く、馬が跳ねまわっても何とか振り落とされることはなかったが、これ以上馬が興奮すると危ない。私は慌てて彼の元に駆け寄った。

 そんな私の姿を視界にとらえたのか、黒髪の青年は血相を変えて叫んだ。

「近寄っては駄目だ! ノームは興奮している! 蹴られてしまうぞ!」

 ノームとは、この立派な馬の名前だろう。私は彼に対して「大丈夫です」と言い、つかず離れずの距離を保って、馬の正面に立った。興奮している馬の後ろ側には、間違っても立ってはいけない。後ろ足の一蹴りで、屈強な男性でもたちまち絶命してしまう。

 もちろん、興奮している馬が相手の場合正面に立つのも危ないのだが、このまま放っておいたら黒髪の青年は落馬してしまうだろう。立派で大きな馬だから、騎乗位置も当然高い。その高さから馬の力で地面に放り捨てられれば、9割以上の確率で即死。奇跡のような残り1割で命が助かったとしても、一生残る身体の障害を負うことは間違いない。

 それを見過ごすことなど、人としてできるはずがなかった。私は決死の覚悟で馬をなだめる。すると、少しずつ馬の気性が落ち着いていった。予期せぬ事態に驚き、恐怖していただけで、もともとはとても素直な馬なのだろう。

 やがて、馬は完全に平静を取り戻した。私は魂が抜け出るかと思うほど大きな吐息を漏らし、額の汗を拭う。こんなに冷や汗をかいたのは、恐らく人生で初めてに違いない。無理もないか。ほんの少し運命の巡り合わせが悪ければ、黒髪の青年か私のどちらか、あるいはその両方が死んでいてもおかしくなかったのだから。
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