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一章 雨だれ石を穿つ
-12- 屋敷の主人は
しおりを挟むそんな八重を見ていた当主は「八重ちゃん」と声を掛けてから言った。
「本当にごめんなさいね? 使用人達には、しっかり八重ちゃんの面倒を見るように言い付けてあるけど、それでも〝不備〟があったら教えて頂戴ね?」
「……へっ…………」
「色々と面倒な〝しがらみ〟があって、使用人達全員を解雇するのは難しいのだけど――」
「そっ……! そ、そんなこと……! わ、私は、大丈夫ですので……!」
自分が理由で火焚の屋敷に仕えている使用人達が、軒並み解雇になってしまったら八重にとっては寝覚めが悪い。
蚕業を営む商家の娘であるからか、従業員達を路頭に迷わせるような結果を引き起こすことは、恐ろしいものだと八重は認識している。
火蝶一族の本家に仕えている使用人なら、尚更に解雇された後の末路は考えたくもない。
「八重ちゃんったら、相変わらず優しいのねぇ」
そう八重を評価しながら、当主は「で・も」と呟き、狩人のような目をして言った。
「主人を噛むような躾のなってない犬は、ちゃんと言い聞かせなくちゃ、その子にとっても良くないでしょう?」
「あ、う……」
「だ・か・ら。その子の為を思うなら、悪いことは悪いって報告するのよ? 良い?」
「……は……はぃ……」
まるで自分が叱られているかのような感覚になり、八重はきゅっと肩を縮こまらせた。
「ふふっ。良い子ね、八重ちゃん」
やはり、火蝶一族の本家当主を務めているだけあって、火焚玲子と言う人物は傑物であると感じる会話であった。
その後、当主は火焚の屋敷に八重を置いて、火蝶神社へ向かっていった。
屋敷を離れる直前、当主は「なるべく、様子を見にくるつもりだけど……」と言っていたが、八重は当主に負担をかけさせまいと「だ、大丈夫です」と答えてしまった。
そんな八重を当主は困ったような笑顔で見ていた。まるで、八重の心を見透かすように。
当主を見送った後、八重は他人の家としか思えない屋敷の中に足を踏み入れた。今日から、ここが自分が暮らしていく場所だとは信じられない。
草履を脱いで玄関を上がった先に、立っていた人物と目があって八重は身体の芯が冷たくなるのを感じた。
当主より少しだけ若く見える壮年の女性――古参の女中だ。
値踏みするような冷たい視線に八重は覚えがあった。
実家である火縄が根を下ろしている村の住民や、火縄に仕えている使用人たちからも、度々同じ視線を向けられていたから。
目の前に立っている人物によく思われていないことが、軽蔑の視線からひしひしと伝わってきて、八重は両手を握りしめて背中を丸めた。
「……八重様」
「はっ、はい……っ?」
冷ややかな声で呼び掛けられ、八重は緊張しながら古参の女中の顔を見上げた。
「くれぐれも、お一人での行動はお控えください」
「……え?」
「田舎から上がって来られたばかりで分からないことだらけでしょう? そんな方が帝都内で問題に巻き込まれるようなことが起こっては、わたくし共としても対処しかねますので」
「……」
「屋敷内のことは、わたくしにお任せください。八重様は屋敷内で、ごゆっくりお過ごしくださいませ。その方がわたくし共としましても、安心して仕事に取り掛かることができます」
そう言って、古参の女中は底冷えのする目で八重を見下しながら、口角だけは綺麗に上げてみせた。
一見、上京したばかりの八重の身を案じているように聞こえる。
しかし、古参の女中が言わんとしていることは、八重には充分に伝わった。
ただ、屋敷の中で大人しくしていろ。
自分達の手を煩わせるな。
屋敷内のことに口も手も出すな。
お前は歓迎されていないことを自覚しろ。
――そんな言葉の棘が、八重の心に何本も突き刺さる。
これまでの人生で一体何本の棘が刺さってきただろうか。
この棘が抜ける日は来るのだろうか。
「…………はい……。部屋に、居ます……」
「ごゆっくりお過ごしください」
そう言って、古参の女中は人の良さそうな笑顔を浮かべて、くるりと身を翻して立ち去っていった。最後にこれ見よがしな溜息を残して。
ついさっき当主に案内された部屋までの廊下を、八重はとぼとぼと歩いていく。
足音一つ立てるだけで、嫌悪の目を向けられるような肩身の狭さを感じながら。
自室に到着してすぐ、八重は自身の着物が入っている荷物の紐を解き始めた。
袋から出てくる着物は全て火縄の家で仕立てられたものだ。
母の透子が仕立てた物や、自ら仕立てた着物もある。
その全てから温かな空気を感じ、一つ一つ取り出す度に抱き締めずには居られなかった。
(帰りたい……っ)
口にできない思いを八重は何度となく心の中で呟いた。
しかし、それは最早できない。
姉の千重の代わりを務めると自分で決意したからには、やり遂げなければ。
軍務で旅立った旦那様の帰りを待つ以外にない。
この冷たい空気が漂う火焚の屋敷で。
――ゆっくりと荷解きしていると、中庭に通じている縁側の方から、地面を打ち鳴らす雨音が聞こえてきた。
梅雨の時期に入った今日この頃は、気が付けば雨が降っている。
この雨模様の中、両親や、旦那様、義母が歩いて行っているのかと思うと、少しだけ気掛かりだった。
(雨に濡れて、寒い思いをしていなければ良いのだけど……)
そんな事を思いながら、荷解きを終えた八重は縁側の障子を少しだけ開けて中庭の景色を眺めた。
一つ一つの雨音が心に染み入ってくるような感覚。
それらを受け止める器から、ぽろぽろと〝雨粒〟が溢れていきそうだった。
それでも、静かに降り続ける雨景色を眺める以外に、八重の心を癒す物は火焚の屋敷にはなかったのである――
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