北海帝国の秘密

尾瀬 有得

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終章【完結】

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 すべてを語り終えたトルケルは、起こしていた上体を後ろに倒した。顔は微かな疲労を滲ませつつ、満足げな笑みを浮かべている。

「なんだ、そのツラは。感想のひとつも聞かせてくれや」

 ヴァナは答えられず、椅子に座ったまま歯を食いしばる。しかしそれでも堪えきれず、涙が頬を濡らした。

 それを見たトルケルは、ぎょっとしたように大きな目を見開く。

「……おい、なにも泣くこたぁねえだろ」

「だって……」

 ヴァナは鼻をすすり、両手で顔を隠した。溢れる涙が指の隙間から垂れ、それは止まることなく手の甲を伝っていく。

「ったく、仕方ねえなあ……まあ……感想はその反応で十二分だな」

 滲む視界で、どこかばつが悪そうなトルケルの顔を見やりつつ、ヴァナは涙を拭った。

 火照った頬を両手で仰ぐと、窓から入る秋風も手伝って、だんだんと気持ちが落ち着いてくる。
 ヴァナはひとつ大きく息を吐いた。

 言葉がない。でもーー

 与太話と嘯きつつ語られたトルケルの半生。
 それは決して他言の許されぬ秘密。この国を揺るがす程の秘事。
 本物のクヌートの死に翻弄された人々の物語。

 我が子のために己の矜持を捨てた父トルケル。

 シグヴァルディによって仕立て上げられた本物以上の偽物の王、本当の名前もわからないトルケルの息子クヌート。

 そんな、二人の物語。

 ーーなんて、憐れな人たち。

 聴き終えた感想を言葉にするなら、それに尽きる。涙が溢れたのは、そんな彼らに対する憐れみからだった。

 ーーだって、

「思うのですが……クヌート陛下は、旦那様を本当の父親だとご存知だったのでは?」

 少し迷ったが、ヴァナは正直にそう告げた。
 そうすべきだと思ったのだ。どうしても口にせずにはいられなかった。

 クヌートがトルケルを父と思っていたのか。
 いたのなら、どうしてそう思い至ったのか。
 真実は分からない。

 母である『魔女』は口が聞けなかったはずだから、彼には伝えようもなかっただろう。名前も、特徴も、なにを想いトルケルと通じ合っていたのかも、なにもかも。

 でもきっと、分かっていたに違いない。
 ヴァナはそう思う。思わずにはいられない。

 トルケルは苦笑を浮かべ、小さく鼻を鳴らす。

「なぜそう思う?」

 細かい理屈は山のように思いつく。根拠というには薄弱でも、なぜだろう、確信めいたなにかが頭に渦巻いている。

 だが、ヴァナはあえて口にしなかった。

「理由なんてありません。私がそう思いたいからです」

「……へっ、まったく……どこかで聞いたな、それ」

 トルケル紡ぐ言葉が、語りながら纏っていた空気が、この話が実のところすべて真実なのではないかとヴァナに思わせた。

 だから、この話がすべてが真実という体で、ヴァナは考えを述べる。

「そもそも……初めてお会いしたときにご自身の従士にと請われたのだって、旦那様に傍にいて欲しかったからではないのでしょうか?」

 反応を窺おうと、ヴァナは一度言葉を切った。
 トルケルは無言だ。ただ、陽の光が差し込んでくる窓の外へ顔を向けている。

 眩しそうに目を細めているその顔は、ここではないどこかへ、ここにはいない誰かへ、思いを馳せているようにも見えた。

「もしそうだったとしたら……クヌート陛下があまりにもお可哀想です」

 ヨルヴィークで彼らが出会った時も。
 その後で共にイングランド征服を成した時も。
 きっとクヌートはそのつもりでいたのだ。

 そして、彼が是非にと最後に提示したデンマーク伯という立場は、きっと奪われた父子の昨日を取り戻すために用意したのだ。

「たとえあなたが自分が父親だと名乗り出なくとも、お互いにそれを心に秘めたままでも、あなたがいることでクヌート陛下に累が及んだとしても、あなたは王宮で余生を過ごされるべきでした。なのに……」

 でも、トルケルは選んだ。
 秘密など知らない体で彼の元を離れることを。
 自分に子などいないと、冷たく突き放して。

 なんと憐れな父子。
 共に秘密を知りながら知らない振りをし、共に親子であることを隠したまま、彼らは別れた。
 お互いのために、お互いの両手を血に染め上げて。

 二人はもう二度と会うことはないだろう。運命に、シグヴァルディの野心と欺瞞によって奪われた、本来あったはずの父子の時間を取り戻すことなく。

 これが憐れでなくてなんなのか。

「混乱を防ぐため、もうお二人にとって後には引けない状況だったのは、私にも理解できます。でも……あんまりではないですか。もうあなたたちに敵はいなかったはずです……!」

 迸るように言葉を紡ぐヴァナに、トルケルはじっと黙ったままだ。
 だから、止まらない。

 溢れ出すヴァナの非難は雨粒のように、ただただトルケルを打ちつける。

「なぜそうまで頑なに? もう十分ではないですか!」

 すでに政敵はいない。
 クヌートは、おそらくはスヴェン王を殺し、トルケルはシグヴァルディとハラルド、エドマンドを殺した。

 秘密を知る者はもう他にいない。その秘密によってクヌートの立場を脅かす存在も。いたとして、彼はもう、それを握りつぶせるほどの強大な力を持っている。

 彼はそうなろうとして、実際にそうなった。
 北海の支配者。比類なき帝王に。
 
「もうその秘密に価値はありません。あなたたちは勝ったのです。旦那様、あなたはご子息を取り返すことに成功したのです。たとえそれが傍目には王と従士という形でも、あなたはご子息の傍にいることができたはずです」

 話の中に出てきたクヌートは言った。

 この地上に楽土を作る。

 それは誰のためだった?
 
 他ならぬ、父のためではなかったか。
 父と、はばかりなく共にあるためではなかったか。表向きはそう見えなくとも。

 王として確固たる地位を築くことで、彼は身の安全を図り、そしてーー

「クヌート様が目指された楽土はもう、そこにあった。民、兵のためではない。あなただけのための楽土が。なのに、どうしてその思いを無下にされたのです。あの褒章は、御沙汰は、結実した陛下の願いそのものでした。旦那様、あなただってーー」

 知らず荒くなった息が言葉を詰まらせる。

 ーーあなただって、そのことに思い至らなかったはずがないでしょうに!

 息子の誘いを受けて、安息を得るべきだったのではないのか。
 平和に、心穏やかに、息子と、孫との日々を。

 それが戦士トルケルの行く末であるべきだった。
 ヴァルハラではなく、オーディンの御下ではなく。
 クヌートの傍であるべきだった。

 喉元から出かけたそんな言葉を呑みこみ、ヴァナは口を噤んだ。

 見れば、目を瞑り、じっと黙り込んでいたトルケルが、肩を震わせ始める。

「旦那……様?」

 顔を覗き込もうとすると、

「くく……ふふ……はははは……」

 トルケルは笑っていた。やや苦しさを滲ませた咳をしつつ、それでもトルケルは笑い続けた。
 まるでヴァナの怒りに満ちていた場の空気を一掃するような、激しい笑い声だ。

 む、とヴァナは鼻白む。

「……な、なにが、可笑しいのです?」

「くく……ははは……いや、だってよ……へへ」

 そこでまた、耐え難いというようにトルケルは腹を抱え、顔を俯ける。
 あまりに彼が笑い続けるので、ヴァナの頬が再び熱を帯びた。

 だんだんと羞恥が大きくなってくる。熱を込めて語り続けてきた自分が、なんだが馬鹿みたいに思えた。

 ようやく我に返り、ヴァナはぐっと唇を噛む。

 ーーそうよ……私ったら……

 トルケルの語り口に釣り込まれて益体のない考えをつらつらと述べてしまったが、そもそもこの話の真偽など確かめようがなく、また、真と言うにはあまりに荒唐無稽。

 クヌートがデンマーク王家の血を引かぬばかりか、本当は眼前のトルケルと出自も知れない『魔女』とやらとの子だなんて。

 ーーああ……嘘、なのね……

 トルケル自身、最初に与太話だと前置いていたではないか。ぜこれほどに心乱されてしまったのだろう。
 それはヴァナ自身もわからない。不思議な感覚だった。

 熱から冷め、気恥ずかしくなってヴァナが身を縮こませていると、やがて笑いの発作が収まったのか、トルケルは大きく息を吐いた。

「あーあ……へっ……馬鹿馬鹿しい。言っただろ? これは与太話さ。いちいち真に受けて考えやがって……この場限りの慰みさ」

「うう……」

 それにしては随分と真に迫って聞こえたのだ。信じてしまいたくもなる。
 ヴァナは上目遣いでトルケルを睨んだ。

「それは、そうですが……お話になる前に、命の保証はできないから他言無用と仰ったので……」

「はっ、当たり前だろうが。嘘でもこんな噂話が巷間に広まってみろ。出どころを辿ってぞろぞろと近衛兵がやってくる。もちろん、バレたら不敬罪でコレだぜ?」

 トルケルは舌をべえっと出して首を微かに傾けると、震える指先を喉元に当てて横に引いてみせた。

「それはそうですが……でも」

 尚も不満たっぷりにもごもごと口の中で呟くヴァナに、トルケルはいつもの飄々とした顔だ。

「いやあ、しかし、冥利に尽きるぜ。こんな与太話をそこまで真剣に受け取ってくれるとはよ。まあ、本当の体験も交えていたからな。どれがそうだったかを言うほど野暮じゃねえがな」

「うぐぐ……」

 道理で話が真に迫っていたわけである。
 聞き手の側からすれば、彼の半生の真偽など判別のしようもない。ましてヴァナはこの農場の外の世界を知らないのだから。

 唸るヴァナに、トルケルは悪戯をしかけた子供のように笑う。

「楽しんでもらえてなによりってとこかな?」

「うう……もう!」

 頬を膨らませてぷいと顔を背けると、トルケルはまたも笑い声を上げた。

「やれやれ。そうむくれるなよ。美人が台無しだ」

「びじ……! まだそんな風にふざけて……!」

「ふざけたつもりはねえんだが……ったく、拗ねちまって仕方ねえ女だなあ」

 トルケルは小さなため息をつき、震える両手を胸の前で組んだ。

「しかし、お前さんもちっとは面白ぇことを言いやがる……俺だけの楽土、か。へっ……なかなかどうして……」

「……なにが面白いのです?」

 トルケルは答えず、静かにこちらを見た。声のない、それでいて雄弁なその鳶色の瞳の深さに、ヴァナは怯む。吸い込まれたように、その目を逸らすことができない。

 そこから読み取れる彼の心情は、幾度も身体を重ねた先代とも、暮らしの介助をすることで僅かばかり心を通わせた先々代とも、日々の仕事を通じて奇妙に友情を感じた先代の妻や他の妾たちとも、誰とも違っている気がした。
 
 初めて見る感情の奔流だった。ただ、見つめていると胸の内から不思議と温かいものが込み上げてくる。

 時を忘れるほどの、長い視線の交錯。
 やがて、トルケルはふっと口元を綻ばせた。

「……いや、なんでもねぇよ。さて、いい暇つぶしになったぜ。少し眠る」

 表情はいつもの飄々とした彼の顔へ。
 今の時間もまた、嘘だったかのように。

 ヴァナは目を逸らし、小さなため息をつく。
 暇つぶしは終わりだ。いや、そもそもそんなに暇ではない。ビョルンはどうしただろうか? 汚れ物の洗濯まではさすがにやってはいまいがーー

「……かしこまりました。では私は仕事にーー」

 立ち上がろうとするヴァナを、トルケルは「待った」と引き止める。

「まだなにか?」

 ヴァナが眉を寄せると、トルケルは目を閉じ、震える指先であらぬ方向を指さした。

「子守唄代わりだ。聖書を読んでくれ。少しでいい」

「はあ」

 先ほどは要らないと言ったのに。それに子守唄とはまた、不遜な言い方だ。ヴァナ自身も熱心な信仰があるわけではないけれど。

「それは構いませんが、どうして急に?」

「……へっ、気が変わったんだよ。なに。話していたら昔を思い出してな。あの女も、毎日飽きもせず聖書を開いていた。クヌート陛下も。そんなに面白えなら聞いてみてもいいかと思ってよ?」

 口の端を上げ、トルケルはそう言った。ヴァナは苦笑して小さく首を横に振る。
 もう、騙されるものか。

「昔って、さっきのは与太話なのでしょう?」

「……言ったろ? いくらかは本当が混ざってる。丁度いいさ。金髪の美人に聖書。あいつと過ごした思い出に、仮初でも浸らせろや」

「……はあ」

 ならば『魔女』とやらは実在した? いや、なんだか信用ならないが……まあ、命令とあらば断る権利はない。

「お待ちを」

 言いおいて、ヴァナはその場を離れた。
 一度離れにある自分の住まいに向かい、部屋のチェストに自分の着替えとともにしまわれた聖書を取り出すと、再びトルケルの家に戻り椅子に腰掛ける。

「お待たせ致しました。旦那さーー」

 トルケルは話し疲れていたのか、すでに静かに胸を上下させていた。

 ーーまるで幼子ね。

 吹き出しつつ、ヴァナは椅子に聖書を置いてそっと毛布をかけ直す。 

 と、寝入ったばかりなのか、どこか夢うつつといった感じでトルケルの口元が微かに動いた。
 ヴァナは思わず息を止めて、そっと顔を近づける。

「……わかるさ……自分の子……一目で……」

 微かに聞こえたトルケルのうわ言。そして一筋の涙が、彼のしわがれた頬を伝った。

 聞こえた単語から察するに、

 ーークヌート陛下の……最後の問い?

 どくんとヴァナの胸が高鳴る。急に喉が渇き、身震いをする。顔が熱くなり、開いた窓の外から入り込む秋風が、頬を冷やす。

 それはきっと、彼が飲み込んだ答え。

 ーーやはりさっきのは……本当の話、なの?

「……お前も……よく、生きて……」

 ーーお前?

 組んでいた手が、震えて宙を彷徨う。ヴァナは思わずその手を握った。
 そうするべきだと思った。ぎゅっと握りしめた後、何故か胸が締め付けられた気がした。

 ーー誰のことを言っているのかしら。

 答えはない。あえて問いかけるのは、ヴァナにははばかられた。
 代わりに、こぼれ落ちた涙をすくい、服の袖で濡れた頬を優しく拭く。

 トルケルは目を閉じたままだ。ただ、聞こえるかどうかもわからないか細い声で、続けた。

「……ここが……俺の……楽土だ……」

 そして、トルケルはすうっと気持ちのよさそうな寝息を立て始めた。



 その日以来、彼がこの与太話を話すことはなく、ヴァナもまた彼の寝言について蒸し返そうとはしなかった。

 そうしたところで、いつものように煙に巻かれるだろうというのがひとつ。
 しかし一番の理由は、徐々にトルケルの口数が減り、起きているよりも眠っている時間が多くを占めるようになったからだ。

 盲いて、耳が遠くなり、ビョルンとヴァナの区別も曖昧になってからは、より一層老け込んでいった。

 それでも彼は、毎昼と毎晩の寝しなに聖書を読むことだけは、変わらずに命じてきた。

 何周を読み終えたか。
 二年の時を経た冬(一〇二三年)になると、『のっぽ』のトルケルは眠るように死んだ。

 傍にはヴァナと、ビョルンを含めた長年苦楽を共にした仲間が十四人。

 悲しみに暮れる彼らとは対照的に、トルケルの死に顔は実に穏やかであった。
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