北海帝国の秘密

尾瀬 有得

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一章⑦

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 ゆっくりと歩を進めて兄貴に近寄ると、兄貴はすっと椅子から立ち上がろうとした。すぐさま俺は距離を詰めて、両手をひじ掛けに置いてそれを遮った。

 顔を近づけると、兄者の顔に随分と皺が刻まれているのがよく見えたよ。目には疲れが滲んでいた。

 はっ、御年五十も過ぎてる上に、でけえ秘密を抱え込んじまったんだ。心労の絶えない数年だったろうからな。

 憐れな野郎だ……ほんの少しだが、不覚にもそう思っちまった。
 解き放たれようとしていた俺の怒りは再びしまい込まれたよ。

「……兄者。もう一度言うが愚策でしたな。俺の女と娘はどこです?」

 兄者は俺をじっと見据えながら無言を貫いた。

「……なら、質問を変えましょう。クヌート殿下、いや、俺の息子は今どこです?」

 そこで兄貴は口元を皮肉気にゆがめて、重々しく口を開いた。

「今頃になって父親面か、愚かな弟よ。知ってどうする」

「決まってんでしょう。こんな馬鹿はやめさせる」

 ふっと兄貴の口元から漂う臭ぇ息が俺の鼻をついた。今思い出しても気分が悪くなるね。

「もう後戻りはできん。クヌートは半月前にすでにここを発った。スヴェン王の使者より、ノーサンブリアの貴族の娘と仮祝言の準備が整ったという話でな。本国へ呼び戻されたのだ」

「くそったれが……」

 これには俺も頭を抱えた。俺の知らないところで、この大馬鹿野郎のクソ兄貴の博打はそんなところまで進んじまってたのかってな。

 クヌートに成りすましている俺の子は、もう王宮だ。今から取り返しに行くか?

 でも、どうやって? 乗り込んでいって「はい、どうぞ」とすんなりいくわけもない。

 なにより、目の前のこの男がそれを許さない。

「なあ、兄者。分かってんのか? 上手くいくわけがねえ」

「確かに危ない橋だ。だが、お前こそ分からんのか? イングランド征服は間もなく成るだろう。スヴェン王はデンマーク、イングランド双方を治める王となる。クヌートはその第二王位継承者。我らヨーム戦士団の手の者が両国を統べる王と成り得るのだぞ?」

 兄貴の目は芯から自分の策謀が上手くいくと思い込んでいた。いや、上手く運ばなければならないという、まるで追われる者の恐れにも似た色が見え隠れしていた。

 俺は想像したよ。クヌートを傀儡として権力を握る兄貴の姿を。眼前の、重そうな身体を椅子に預けている老いた兄貴が、金ぴかの王冠を頭に戴いている姿を。

 吐き気がしたね。過ぎた野心に肥えた白い豚が分不相応に着飾っているように思えてならなかった。

「そこまでして、あんたが得るものはなんだ、兄者。それが戦士の長のすることかよ」

「万物の神オーディンとて策を張り巡らし己の権力を確立した。私はこの地上でそれを成す。己のためだけではない。これはヨーム戦士団のためだ」

「神を引き合いに出してよくぞ言ったな。反吐が出るぜ、兄者」

「なんとでも言うがいい。私はお前のように自分のことだけ考えていられる立場ではない。戦馬鹿のお前が、降ってわいた己の息子に情が湧いたとでもいうのか?」

「……悪いかよ。ああ?」

 俺にとって問題なのは、その身代わりをしているのが俺の息子だってことだ。へっ、兄貴の言う通りさ。

 それまで存在さえ知らなかったというのに今更だとは思ったがね。俺は自分の息子がそんな危ない橋を渡ることを強いられているのが、とにかく我慢ならなかったんだ。

 俺は兄貴を睨みながら必死に頭を働かせた。

 どうすべきか。今後、俺がどう動けば息子にとって最善なのか。

 そして――女たちはどこだ? 従わせるための人質にしたというなら、まだヨムスボルグにいる可能性が高い。ならばまずは――

 そんな時、部屋の入り口に気配を感じて俺は振り返った。

 そこに立っていたのは見知った顔で、兄貴の子飼いの戦士だった。名前は忘れたがね。

 そいつは俺と兄貴の様子を見て一瞬怯んだ様子を見せたが、すぐに腰の剣に手をかけようとした。兄貴は神妙な顔で、静かにそれを手で制したよ。

「大事ない。なに、児戯のごとき兄弟喧嘩だ。何用か?」

 兄貴に言われ、そいつは剣から手を放して恭しく礼をした。

「は。ご差配の通り進んでおります。ついてはこちらの手筈も整いましたので、ご報告を」

「そうか。では計画通りに進める」

 兄貴は鷹揚に頷いて、そいつを下がらせた。俺もいったんは気を落ち着けて、ひじ掛けから手を放して再び兄貴と向き合った。

「手筈だ?」
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