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序章②
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ヴァナには昔の記憶がない。一番最初の記憶は自分を覗き込む、この農場の先代の主の顔だ。およそ十年ほど前である。
聞けばこの農場のほど近くの海岸にたった一人打ち上げられていたのを、通りすがりの小作人が見つけたとか。生きていたのはまさしく奇跡だったという。
当然、身上について尋ねられたが、そのせいなのか記憶がない。言葉は理解できたが、名前も分からず、本当の歳も分からず。
とりあえず見た目が十五かそこらということで便宜上そう定められ、ヴァナという名前が付けられたのもその時だ。そのまま主によってこの農場に引き取られることになった。
当初は簡単な畑仕事の手伝いや食事の手伝いなどをしていたが、やがてヴァナは主の寝室に呼ばれるようになり、妾となった。
どうやら拾った折から主はその気だったのだろう。農場にはヴァナだけではなく、そうした側仕えという体の妾が多数いたということも(奴隷(スレイル)、自由民(ボーンディ)問わずだ)、その時に知った。
主が方々にそうした妾を抱えていたこともあって、三日と空けずに呼ばれることもあれば、ぱたりと呼ばれない時期もあった。
もちろん夜の相手だけが仕事ではなく、農場の小作人たちの食事の支度や洗濯、水汲みに、離れに住む年老いた先々代の介護など、ヴァナの仕事は多岐に渡り、目まぐるしい毎日であった。
それもあってか、純粋に女手を求める本妻からは冷遇されることもなく、あれは一種の病気であろうというのが女たち全員の共通の見解だった。
多くの妾達が主の子を孕んでいく中にあって、ヴァナは不思議と子は授からなかった。
やがて主と夜を共にする回数は徐々に減っていき、二年もするとぷっつりとなくなった。最初はあれだけ容姿を褒めそやしていたのに興味が失せたのであろうかと、ヴァナは少しだけ我が身の虚しさを覚えたものだ。
そんな主は随分と多くの子供を産ませたが、それに比して労働意欲も旺盛で、デンマーク有数の規模を誇るこの農場にあって一番の働き者だった。
しかし、その働き過ぎがたたったのだろう。五十を超えずに亡くなったのが四年ほど前の話。ヴァナが二十三の時だ。
男女問わず多くの者がその死を惜しむ中、後を継いだのは本妻の四男である。
取りつかれたように農場を大きくしていった主と違い、四男は慎重な性格で、また思慮深い男でもあった。
大きくなり過ぎた農場を維持することを早々に放棄し、奴隷身分にあった男たちは解放し小作人として雇い入れ、他の多くの異母兄弟と農場の土地を平等に分配。自分は跡継ぎに見合う程度に、それでいてがめついと言われない程度の奥ゆかしい相続を受け取った。
主の子を産んだ他の妾達は今やすっかり大奥様である。しかし、子を成さなかったヴァナは自由を与えられても宙ぶらりんだ。
雇い主であった主ももういない。記憶がないから帰る土地も分からないし、家族も分からないから、どこへ行くあてもない。
そこでヴァナは、当面の間は農場において欲しいと四男に頼み込んだ。
そうしてとりあえず食うに困らない程度に日々の雑務をこなす毎日にありつき、ほんの半月ほど前に突如にこの農場に現れたトルケルにこうして身請けされ、彼の側仕えとなって今に至る。
と、そこまで語り終えると、トルケルはやれやれと僅かに首を振った。
「……つまらんなぁ。なんというか……熱量が足りねえよ。よくも自分の人生をそんなに淡々と他人事みてえに話せるもんだ」
「そんなことを仰られても」
ヴァナはここまで喋らせておいてと、不満に口を尖らせる。記憶がないことも手伝ってか、ヴァナ自身も自分の人生をどこか他人事のように感じているのは確かだが、そもそもそんなに面白おかしい話ではない。
「ではどんなお話をお望みで? いっそ聖書でもお読みしましょうか?」
そう言うと、トルケルは目を丸くする。
「へえ、大した特技だな。お前さん、聖書が読めるってか?」
「はあ。どういうわけだか、記憶がなくとも身につけた言葉というのは失わないようで」
ヴァナがそれに気づいたのはこの農場に来てからしばらくのこと。離れで暮らしていた主の父親、つまり先々代の世話をしている際、そこにあった聖書を偶然見たのがきっかけだ。
「大旦那様にも驚かれました。それから亡くなるまでの間、時折読み聞かせて差し上げるのが仕事に加わりました。聖書は形見として頂戴しております。私の唯一の財産です」
同時に先々代からは、あまり触れ回らない方がいい、とも釘を刺された。
ラテン語で書かれている聖書を解するほどの教養を一体どこで身につけたのか、それはヴァナの出自にも関わることである。
その特技があらぬ噂を呼び、もしかしたら何事かこの農場に災禍を招くのではと先々代は危惧したのだろう。
ヴァナとしても、やれ他の者にも読んでくれなどと請われて仕事が増えてはたまらないので、黙ってその言葉に従った。
農場でこの事実を知るのは、今やヴァナ自身とこの場にいるトルケルだけだ。不思議と彼にはその秘密を明かしてもいいような気がしたのである。
「いかがでしょうか? 結構面白いですよ」
ヴァナが持ってこようかと立ち上がろうとすると、トルケルは皮肉気にへっと笑った。
「いや、いい。あいにく俺ぁその神の教えってのが嫌ぇでな」
「そうですか、残念です」
ヴァナが顔を俯けると、トルケルは少し考え込んだ後、ふんと鼻を鳴らした。
「……仕方がねえなあ。交代だ」
「はあ、交代?」
顔を上げるヴァナに、トルケルは悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「聞き役の交代さ。手本を見せてやる。俺の方が面白れぇ話を聞かせてやろうってんだ」
「はあ」
そんな話のタネを持っているなら、最初からそうして欲しいものである。
ただ、とトルケルはどこか遠くを見るような顔で窓の外を睨む。
「退屈はしねえが、決して他言はするな。命の保証はできねえぞ」
「まあ。そんなもの、生まれてこの方、保証された記憶がありませんね」
ヴァナが思わず口元に手を当ててくすりと笑うと、こちらを向いたトルケルの目が鋭く刺し貫く。
「冗談で言ってるんじゃねえんだ。約束しろ。お互いの、この場限りの慰みだとな」
あまりに鬼気迫る様子なので、ヴァナは唇を結んで居住まいを正した。
「承知しました。お約束致します」
トルケルはじっとヴァナを見つめた後、すぐにいつもの飄々とした顔に戻った。
「なーんちゃってな……なに、暇を持て余している身で思い付いた、ちょっとした与太話さ。それを真実という体で面白おかしく聞いてくれや。暇つぶしには丁度いいだろ?」
「私はそれほど暇ではないのですが。まあ、旦那様のお言いつけであれば、謹んで拝聴致しますけれど」
元より主人が話を聞けというなら、雇われの身であるヴァナに断る権利はないのだ。
ヴァナがベッド脇に椅子を持ってきて腰かけると、トルケルは子供じみた笑みを浮かべた。その顔はどこか、ヴァナが心の奥底に思い描いていた、顔も知らない父を感じさせた。
そしてトルケルは語り出す。
それは確かに決して他言の許されない、後に北海帝国と称されることになるイングランド、ノルウェー、デンマークの三国を統べる王、クヌートの知られざる秘密であった。
聞けばこの農場のほど近くの海岸にたった一人打ち上げられていたのを、通りすがりの小作人が見つけたとか。生きていたのはまさしく奇跡だったという。
当然、身上について尋ねられたが、そのせいなのか記憶がない。言葉は理解できたが、名前も分からず、本当の歳も分からず。
とりあえず見た目が十五かそこらということで便宜上そう定められ、ヴァナという名前が付けられたのもその時だ。そのまま主によってこの農場に引き取られることになった。
当初は簡単な畑仕事の手伝いや食事の手伝いなどをしていたが、やがてヴァナは主の寝室に呼ばれるようになり、妾となった。
どうやら拾った折から主はその気だったのだろう。農場にはヴァナだけではなく、そうした側仕えという体の妾が多数いたということも(奴隷(スレイル)、自由民(ボーンディ)問わずだ)、その時に知った。
主が方々にそうした妾を抱えていたこともあって、三日と空けずに呼ばれることもあれば、ぱたりと呼ばれない時期もあった。
もちろん夜の相手だけが仕事ではなく、農場の小作人たちの食事の支度や洗濯、水汲みに、離れに住む年老いた先々代の介護など、ヴァナの仕事は多岐に渡り、目まぐるしい毎日であった。
それもあってか、純粋に女手を求める本妻からは冷遇されることもなく、あれは一種の病気であろうというのが女たち全員の共通の見解だった。
多くの妾達が主の子を孕んでいく中にあって、ヴァナは不思議と子は授からなかった。
やがて主と夜を共にする回数は徐々に減っていき、二年もするとぷっつりとなくなった。最初はあれだけ容姿を褒めそやしていたのに興味が失せたのであろうかと、ヴァナは少しだけ我が身の虚しさを覚えたものだ。
そんな主は随分と多くの子供を産ませたが、それに比して労働意欲も旺盛で、デンマーク有数の規模を誇るこの農場にあって一番の働き者だった。
しかし、その働き過ぎがたたったのだろう。五十を超えずに亡くなったのが四年ほど前の話。ヴァナが二十三の時だ。
男女問わず多くの者がその死を惜しむ中、後を継いだのは本妻の四男である。
取りつかれたように農場を大きくしていった主と違い、四男は慎重な性格で、また思慮深い男でもあった。
大きくなり過ぎた農場を維持することを早々に放棄し、奴隷身分にあった男たちは解放し小作人として雇い入れ、他の多くの異母兄弟と農場の土地を平等に分配。自分は跡継ぎに見合う程度に、それでいてがめついと言われない程度の奥ゆかしい相続を受け取った。
主の子を産んだ他の妾達は今やすっかり大奥様である。しかし、子を成さなかったヴァナは自由を与えられても宙ぶらりんだ。
雇い主であった主ももういない。記憶がないから帰る土地も分からないし、家族も分からないから、どこへ行くあてもない。
そこでヴァナは、当面の間は農場において欲しいと四男に頼み込んだ。
そうしてとりあえず食うに困らない程度に日々の雑務をこなす毎日にありつき、ほんの半月ほど前に突如にこの農場に現れたトルケルにこうして身請けされ、彼の側仕えとなって今に至る。
と、そこまで語り終えると、トルケルはやれやれと僅かに首を振った。
「……つまらんなぁ。なんというか……熱量が足りねえよ。よくも自分の人生をそんなに淡々と他人事みてえに話せるもんだ」
「そんなことを仰られても」
ヴァナはここまで喋らせておいてと、不満に口を尖らせる。記憶がないことも手伝ってか、ヴァナ自身も自分の人生をどこか他人事のように感じているのは確かだが、そもそもそんなに面白おかしい話ではない。
「ではどんなお話をお望みで? いっそ聖書でもお読みしましょうか?」
そう言うと、トルケルは目を丸くする。
「へえ、大した特技だな。お前さん、聖書が読めるってか?」
「はあ。どういうわけだか、記憶がなくとも身につけた言葉というのは失わないようで」
ヴァナがそれに気づいたのはこの農場に来てからしばらくのこと。離れで暮らしていた主の父親、つまり先々代の世話をしている際、そこにあった聖書を偶然見たのがきっかけだ。
「大旦那様にも驚かれました。それから亡くなるまでの間、時折読み聞かせて差し上げるのが仕事に加わりました。聖書は形見として頂戴しております。私の唯一の財産です」
同時に先々代からは、あまり触れ回らない方がいい、とも釘を刺された。
ラテン語で書かれている聖書を解するほどの教養を一体どこで身につけたのか、それはヴァナの出自にも関わることである。
その特技があらぬ噂を呼び、もしかしたら何事かこの農場に災禍を招くのではと先々代は危惧したのだろう。
ヴァナとしても、やれ他の者にも読んでくれなどと請われて仕事が増えてはたまらないので、黙ってその言葉に従った。
農場でこの事実を知るのは、今やヴァナ自身とこの場にいるトルケルだけだ。不思議と彼にはその秘密を明かしてもいいような気がしたのである。
「いかがでしょうか? 結構面白いですよ」
ヴァナが持ってこようかと立ち上がろうとすると、トルケルは皮肉気にへっと笑った。
「いや、いい。あいにく俺ぁその神の教えってのが嫌ぇでな」
「そうですか、残念です」
ヴァナが顔を俯けると、トルケルは少し考え込んだ後、ふんと鼻を鳴らした。
「……仕方がねえなあ。交代だ」
「はあ、交代?」
顔を上げるヴァナに、トルケルは悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「聞き役の交代さ。手本を見せてやる。俺の方が面白れぇ話を聞かせてやろうってんだ」
「はあ」
そんな話のタネを持っているなら、最初からそうして欲しいものである。
ただ、とトルケルはどこか遠くを見るような顔で窓の外を睨む。
「退屈はしねえが、決して他言はするな。命の保証はできねえぞ」
「まあ。そんなもの、生まれてこの方、保証された記憶がありませんね」
ヴァナが思わず口元に手を当ててくすりと笑うと、こちらを向いたトルケルの目が鋭く刺し貫く。
「冗談で言ってるんじゃねえんだ。約束しろ。お互いの、この場限りの慰みだとな」
あまりに鬼気迫る様子なので、ヴァナは唇を結んで居住まいを正した。
「承知しました。お約束致します」
トルケルはじっとヴァナを見つめた後、すぐにいつもの飄々とした顔に戻った。
「なーんちゃってな……なに、暇を持て余している身で思い付いた、ちょっとした与太話さ。それを真実という体で面白おかしく聞いてくれや。暇つぶしには丁度いいだろ?」
「私はそれほど暇ではないのですが。まあ、旦那様のお言いつけであれば、謹んで拝聴致しますけれど」
元より主人が話を聞けというなら、雇われの身であるヴァナに断る権利はないのだ。
ヴァナがベッド脇に椅子を持ってきて腰かけると、トルケルは子供じみた笑みを浮かべた。その顔はどこか、ヴァナが心の奥底に思い描いていた、顔も知らない父を感じさせた。
そしてトルケルは語り出す。
それは確かに決して他言の許されない、後に北海帝国と称されることになるイングランド、ノルウェー、デンマークの三国を統べる王、クヌートの知られざる秘密であった。
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