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序章①
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秋晴れの空。陽光の下では、農場の小作人が麦の種蒔きを行っていた。耳をそばだてれば彼らの話声が聞こえる。前回は豊作のようだったから、調子はすこぶる明るい。
風に森の木々が揺れ、大きく広がる麦畑のそこかしこに作業に没頭する男たちの姿が散見されるのは、農業に適したデンマーク東部、スコーネ地方のこの時期には珍しくない光景だ。
ヴァナは馬小屋の側にある井戸から水を汲み上げながら、その様子をぼんやりと眺める。
種蒔きの作業が終わる頃には寒くなり始め、ここに来て何度となく過ごした冬が来る。着ているリネンのドレスとエプロンに、ウールの外套が欲しくなる季節である。
頭に巻いたスカーフから零れる金色の髪が微かな風に揺れ、その風の冷たさに思わずくしゃみをすると、ヴァナは再び桶を下ろした。食べ終えた食器を洗うためだ。
あと一回くらいだろうか。そんな算段をつけ、あかぎれの目立つ手で、桶を汲み上げると、「おい、女」と声がかかった。
声の主を見やれば、そこに立っているのは顔の左半分、額から目にかけて大きな切創のある長い黒髪の男。
残る右目は猛獣のような迫力を放ち、三つ編みにした顎髭を蓄えた口元は薄い唇を固く引き結んでいる。
歳は確か三十四、五と言っていたか。その割に顔つきは少し若々しさが残っているが、濃い鼠色のコートを着込んだ身体は熊のように頑健で、腰のベルトに差した剣は柄の部分が相応に使い込まれている様が見て取れる。
男は戦士である。十四、五人ばかりを伴ってこの農場にやってきたのは半月ほど前だ。
「ビョルン様」
ヴァナが頭を下げると、ビョルンは馬小屋の隣に建つ家屋を顎でしゃくる。
「大将がお呼びだ」
「はい。ですが」ヴァナは先ほどから井戸の水をためていた桶に浸かる食器を指さす。「これを洗ってからでも構いませんか?」
先ほど朝食を食べ終えたばかりなのだ。卓を囲んでいたのは、件の大将とビョルン、そして自分である。話があるなら片付けの後でもよかろう。
だが――
「それは俺がやる」
嘘だろう、というヴァナの顔を見て取ったか、ビョルンは小さくため息をついた。
「なんだ。俺に皿洗いができねえとでも思ってるのか?」
「いえ、そんなことは……」
別に気分を害した様子はない。どこか慣れているという顔である。
「確かに普段はしねえ。だが、俺は大将の手下だ。大将は俺に命令する権利を持つ」
「はあ」
「女。お前は大将に雇われた側仕えだ。つまり立場は俺と同じ。その大将が、お前の仕事を俺に代われ、お前を自分のところに呼んで来い、と俺に命を下した」
「……? はあ」
「分かったらさっさと行け。あの人ぁ待つのが嫌ぇだ」
そう言って犬を追い払うように手を振るビョルンに急かされ、ヴァナはとぼとぼと歩き出した。
小屋の前に立ってヴァナが元居た場所に目をやると、大男が身体を丸めて一生懸命に皿を洗っている、ある意味で異様な光景が見える。
思わずくすりと笑いそうになって、ヴァナは咳払いをした。
「失礼します」
小屋に入ると、右手側の窓際に粗末な作りのベッドがある。顔を向けると、そこには藍色のチュニックを着た男が寝そべっていた。
背丈だけなら先程のビョルンを超える、巨人と見紛うばかりの巨躯である。しかし、頬はこけ身体は薪のように細く、顔に刻まれた皴は六十手前という割に深く、頭の後ろで結んだ長い頭髪も顎髭も既に色が抜けて真っ白だ。
ビョルンのいう大将。トルケルである。
トルケルはぎょろりとした大きな目をこちらに向け、にっと歯を見せて笑った。
「おう。待ちわびたぜ」
「お待たせしました、旦那様」
「へっ、こうして寝そべってるだけってのは時間の流れが遅くていけねえ。起こしてくれ」
そう言ってトルケルは、震える指でこちらに寄るように示す。ヴァナは黙って従った。
ヴァナの手を借りて上体を起こすと、トルケルはふうとひとつため息をつく。
「まったく、齢は取りたかねえもんだ。この『のっぽ』のトルケル様がこのザマとはよ」
ヴァナは微かに笑みを浮かべ、返事をしなかった。
彼のあだ名は農場の男たちの間でも有名らしい。高名な戦士であったらしく、時折思い出したように見せる鋭い目つきからも、それは想像に難くない。この農場でも格別の扱いを受けていることから、おそらくは相応の立場にいた人物なのだろう。
だが、今の彼はほぼ寝たきりの状態である。身体を起こすのも今のように誰かの手がいる。手が震えるから食事もヴァナが食べさせてやらねばならないし、下の世話も然り。
それでもあまり悲壮感を感じられないのは、どこか飄々とした態度に依るのだろうか。歳を取り、思うがままに自らの身体を操れないことさえ面白がるような、トルケルの普段の様子から、そんな印象をヴァナは持っている。
――不思議な方。とても皆が言うような恐ろしい人には見えないけれど。
老いが彼をそうさせているのか。それとも元来こういう気性なのか。
いずれにせよ、ビョルンをはじめとした強面の戦士たちを従えてやってきた彼のことを、ヴァナは恐ろしいと思ったことはない。その気安さに、ついつい側仕えにあるまじき口調で受け答えてしまうことも珍しくない。しかもトルケルはそれを咎めるでもなく、むしろそんなヴァナとのやり取りを楽しんでいる節もある。我ながらいい雇い主に恵まれたものである。
「他になにかご用はございますか?」
ヴァナが問うと、トルケルは「おう」と歯を見せて笑いながらこちらを見た。
「適当に話をしてくれ」
「はあ」一瞬、言葉の意味が分からず、ヴァナは思わず口を開けた。「話、とは?」
「なんでもいい。俺が面白きゃ、なんでもな」
「突然にそんなことを仰られても……」
「早くしろ。俺ぁ気が短ぇ」
気まぐれな男だ。出会ってそれほど経たないが、すでにこうした無茶をいきなり言い出されることにはヴァナも慣れつつあった。
「はあ。では――」
仕方がないので、ヴァナは自身の身の上話を語り始めた。
風に森の木々が揺れ、大きく広がる麦畑のそこかしこに作業に没頭する男たちの姿が散見されるのは、農業に適したデンマーク東部、スコーネ地方のこの時期には珍しくない光景だ。
ヴァナは馬小屋の側にある井戸から水を汲み上げながら、その様子をぼんやりと眺める。
種蒔きの作業が終わる頃には寒くなり始め、ここに来て何度となく過ごした冬が来る。着ているリネンのドレスとエプロンに、ウールの外套が欲しくなる季節である。
頭に巻いたスカーフから零れる金色の髪が微かな風に揺れ、その風の冷たさに思わずくしゃみをすると、ヴァナは再び桶を下ろした。食べ終えた食器を洗うためだ。
あと一回くらいだろうか。そんな算段をつけ、あかぎれの目立つ手で、桶を汲み上げると、「おい、女」と声がかかった。
声の主を見やれば、そこに立っているのは顔の左半分、額から目にかけて大きな切創のある長い黒髪の男。
残る右目は猛獣のような迫力を放ち、三つ編みにした顎髭を蓄えた口元は薄い唇を固く引き結んでいる。
歳は確か三十四、五と言っていたか。その割に顔つきは少し若々しさが残っているが、濃い鼠色のコートを着込んだ身体は熊のように頑健で、腰のベルトに差した剣は柄の部分が相応に使い込まれている様が見て取れる。
男は戦士である。十四、五人ばかりを伴ってこの農場にやってきたのは半月ほど前だ。
「ビョルン様」
ヴァナが頭を下げると、ビョルンは馬小屋の隣に建つ家屋を顎でしゃくる。
「大将がお呼びだ」
「はい。ですが」ヴァナは先ほどから井戸の水をためていた桶に浸かる食器を指さす。「これを洗ってからでも構いませんか?」
先ほど朝食を食べ終えたばかりなのだ。卓を囲んでいたのは、件の大将とビョルン、そして自分である。話があるなら片付けの後でもよかろう。
だが――
「それは俺がやる」
嘘だろう、というヴァナの顔を見て取ったか、ビョルンは小さくため息をついた。
「なんだ。俺に皿洗いができねえとでも思ってるのか?」
「いえ、そんなことは……」
別に気分を害した様子はない。どこか慣れているという顔である。
「確かに普段はしねえ。だが、俺は大将の手下だ。大将は俺に命令する権利を持つ」
「はあ」
「女。お前は大将に雇われた側仕えだ。つまり立場は俺と同じ。その大将が、お前の仕事を俺に代われ、お前を自分のところに呼んで来い、と俺に命を下した」
「……? はあ」
「分かったらさっさと行け。あの人ぁ待つのが嫌ぇだ」
そう言って犬を追い払うように手を振るビョルンに急かされ、ヴァナはとぼとぼと歩き出した。
小屋の前に立ってヴァナが元居た場所に目をやると、大男が身体を丸めて一生懸命に皿を洗っている、ある意味で異様な光景が見える。
思わずくすりと笑いそうになって、ヴァナは咳払いをした。
「失礼します」
小屋に入ると、右手側の窓際に粗末な作りのベッドがある。顔を向けると、そこには藍色のチュニックを着た男が寝そべっていた。
背丈だけなら先程のビョルンを超える、巨人と見紛うばかりの巨躯である。しかし、頬はこけ身体は薪のように細く、顔に刻まれた皴は六十手前という割に深く、頭の後ろで結んだ長い頭髪も顎髭も既に色が抜けて真っ白だ。
ビョルンのいう大将。トルケルである。
トルケルはぎょろりとした大きな目をこちらに向け、にっと歯を見せて笑った。
「おう。待ちわびたぜ」
「お待たせしました、旦那様」
「へっ、こうして寝そべってるだけってのは時間の流れが遅くていけねえ。起こしてくれ」
そう言ってトルケルは、震える指でこちらに寄るように示す。ヴァナは黙って従った。
ヴァナの手を借りて上体を起こすと、トルケルはふうとひとつため息をつく。
「まったく、齢は取りたかねえもんだ。この『のっぽ』のトルケル様がこのザマとはよ」
ヴァナは微かに笑みを浮かべ、返事をしなかった。
彼のあだ名は農場の男たちの間でも有名らしい。高名な戦士であったらしく、時折思い出したように見せる鋭い目つきからも、それは想像に難くない。この農場でも格別の扱いを受けていることから、おそらくは相応の立場にいた人物なのだろう。
だが、今の彼はほぼ寝たきりの状態である。身体を起こすのも今のように誰かの手がいる。手が震えるから食事もヴァナが食べさせてやらねばならないし、下の世話も然り。
それでもあまり悲壮感を感じられないのは、どこか飄々とした態度に依るのだろうか。歳を取り、思うがままに自らの身体を操れないことさえ面白がるような、トルケルの普段の様子から、そんな印象をヴァナは持っている。
――不思議な方。とても皆が言うような恐ろしい人には見えないけれど。
老いが彼をそうさせているのか。それとも元来こういう気性なのか。
いずれにせよ、ビョルンをはじめとした強面の戦士たちを従えてやってきた彼のことを、ヴァナは恐ろしいと思ったことはない。その気安さに、ついつい側仕えにあるまじき口調で受け答えてしまうことも珍しくない。しかもトルケルはそれを咎めるでもなく、むしろそんなヴァナとのやり取りを楽しんでいる節もある。我ながらいい雇い主に恵まれたものである。
「他になにかご用はございますか?」
ヴァナが問うと、トルケルは「おう」と歯を見せて笑いながらこちらを見た。
「適当に話をしてくれ」
「はあ」一瞬、言葉の意味が分からず、ヴァナは思わず口を開けた。「話、とは?」
「なんでもいい。俺が面白きゃ、なんでもな」
「突然にそんなことを仰られても……」
「早くしろ。俺ぁ気が短ぇ」
気まぐれな男だ。出会ってそれほど経たないが、すでにこうした無茶をいきなり言い出されることにはヴァナも慣れつつあった。
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