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最終章
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ユアンは暗がりの中を歩いていた。
微かにユアンを呼ぶ声が聴こえる。
ユアンを呼ぶ声を辿って行こうとするのに、歩けば歩く程、なぜかその声は遠のいて行く。
もう、疲れた。
歩きたくない。
座り込もうとするユアンの前で、不思議な扉が開いた。
ここへ向かっていたのだろうか?
恐る恐るその扉を開くと、壁なのか床なのか境目が曖昧な薄暗い空間の中に見知らぬ女の人がいる。
「あなたまで、ここに来てしまったの?」
女の声は、少し低めでそれでも良く通る凛とした声だ。
「勝手に入って、申し訳ありません。わたしのことを、知っているのですか?」
「知らないけど、知っているの。」
女は溜め息をつくと、女の目の前にある椅子に腰掛けるよう、ユアンへと勧めた。
女の脇にある小さな卓には、綺麗な水がなみなみと注がれた透明な水差しと、水飲みが置かれている。
「あの、ここは……」
ユアンは部屋の中を見回す。部屋というより、そこはただの、境目が曖昧な空間でしかない。
「そうね。どこなのかしらね。私にもよく分からないのよ。」
女は座ったままだが、痩せてすらっとした体躯は、きっとユアンよりも背が高い。
ユアンは酷く喉が渇いていることに気が付いた。
目の前に置かれた水は、なぜだか、とても美味しそうに見える。
「あの、喉がとても渇いていて、そのお水を少し分けてもらえますか?」
いつもなら決してそんなことはしないのに、ユアンはその水飲みに手を伸ばした。
「駄目よ!」
女は伸ばされた手を握りしめ、首を横に振る。
女がユアンに触れた途端、ユアンの中には見知らぬ女の記憶の断片が次々に流れ込んできた。
愛想のない自分に、せめて子をなすぐらいがお前の務めだと、両親からずっと言い続けられていたこと。
ずっと側にいた、使用人の息子。
いつしか芽生えた恋心。
決められた婚姻。
愛想のないお前を娶ってくれる夫となる人に仕え、子をなすことが義務だと送り出されたあの日。
ずっと側で見守りたいと、嫁ぎ先の騎士になってくれた、愛する人。
愛する人の死。
何も言わずに見守る夫。
子をなさなくてもいいと、そう言ってくれる夫。
子をなせないと知ったときの絶望。
いつしか夫の子を欲しいと思っていた自分に気がついた罪悪感。
見守ってくれる夫に吐く酷い言葉。
だって、私はもう死んでしまうのだから。
ユアンは思わず女の手を振り払った。
「あなたは……」
「私のことを知っているの?」
「それは……」
「私はずっとここにいるの。どうしてかしら、ここから出られない。」
「わたしも、もう出られないのでしょうか…。会いたい。ここから出て、会いたい。」
「誰に、会いたいの?」
「………カイゼル様に。
あなたは、フィーネ様なのでしょう。」
フィーネは数回瞬きし、哀しそうに笑った。
「そうだわ。私の名前はフィーネだった。夫はカイゼルと言う名だった。ずっとここにいると、そんなことも忘れてしまうのね。」
「帰りたい。カイゼル様の所に。カイゼル様もきっと待っていてくれるから。」
「あの人のこと、愛しているのね。」
ユアンは何度も頷く。
「だって、ずっとそばにいるって約束したから。帰らなきゃ、帰りたい…」
「大丈夫よ。あなたは、まだ大丈夫。ここを出て、あなたを呼ぶ声のする方をずっと辿って行けば、大丈夫。」
「でも、さっきは無理でした…。」
「よおく耳を澄まして聴けば、あなたならわかるはずよ。さあ、もう行きなさい。」
「お水…最後にお水を…」
ユアンはもう喉がからからで、フィーネの前に置かれた水を飲みたくて堪らない。
「駄目。これは駄目なの。早くあの人の所へ帰って。あの人がきっと用意してくれるから、ね。」
「…フィーネ様は?ずっと、ここから出られない?どうしたら、出られますか?」
「私も思い出したわ。私をずっと待っている人の所へ行かないと。あなたのおかげよ。ありがとう。」
扉から出ようとして、ユアンはもう一度振り返える。
「カイゼル様は誤解しているけど、フィーネ様はカイゼル様の子を……」
「いいのよ。あの人には何も言わないで。あなたをあの人の所へ戻すことができたら、わたしもきっとここを出られるから。」
「それじゃあ、ぼくは、行きます。フィーネ様ありがとうございます。フィーネ様も、かならずここを出て下さい。」
立ち上がって手を振るフィーネは、やはりすらりと背が高く、綺麗な人だった。
扉を出ると、また同じ暗がりが広がっている。
ユアンを呼ぶ声が聴こえる。
ユアンは耳を澄まして、その方角を辿る。
次第にはっきりと、その声が聴こえてくる。
カイゼルの声だ。
カイゼル様、どこ?
どこにいるの?
ぼくもう、喉が渇いて堪らない。
これ以上歩けない。
助けて、カイゼル様。
一際大きな声がユアンへと届く。
「ユアン!」
ユアンはその声が響く元へ、最後の気力を振り絞って走り出した。
微かにユアンを呼ぶ声が聴こえる。
ユアンを呼ぶ声を辿って行こうとするのに、歩けば歩く程、なぜかその声は遠のいて行く。
もう、疲れた。
歩きたくない。
座り込もうとするユアンの前で、不思議な扉が開いた。
ここへ向かっていたのだろうか?
恐る恐るその扉を開くと、壁なのか床なのか境目が曖昧な薄暗い空間の中に見知らぬ女の人がいる。
「あなたまで、ここに来てしまったの?」
女の声は、少し低めでそれでも良く通る凛とした声だ。
「勝手に入って、申し訳ありません。わたしのことを、知っているのですか?」
「知らないけど、知っているの。」
女は溜め息をつくと、女の目の前にある椅子に腰掛けるよう、ユアンへと勧めた。
女の脇にある小さな卓には、綺麗な水がなみなみと注がれた透明な水差しと、水飲みが置かれている。
「あの、ここは……」
ユアンは部屋の中を見回す。部屋というより、そこはただの、境目が曖昧な空間でしかない。
「そうね。どこなのかしらね。私にもよく分からないのよ。」
女は座ったままだが、痩せてすらっとした体躯は、きっとユアンよりも背が高い。
ユアンは酷く喉が渇いていることに気が付いた。
目の前に置かれた水は、なぜだか、とても美味しそうに見える。
「あの、喉がとても渇いていて、そのお水を少し分けてもらえますか?」
いつもなら決してそんなことはしないのに、ユアンはその水飲みに手を伸ばした。
「駄目よ!」
女は伸ばされた手を握りしめ、首を横に振る。
女がユアンに触れた途端、ユアンの中には見知らぬ女の記憶の断片が次々に流れ込んできた。
愛想のない自分に、せめて子をなすぐらいがお前の務めだと、両親からずっと言い続けられていたこと。
ずっと側にいた、使用人の息子。
いつしか芽生えた恋心。
決められた婚姻。
愛想のないお前を娶ってくれる夫となる人に仕え、子をなすことが義務だと送り出されたあの日。
ずっと側で見守りたいと、嫁ぎ先の騎士になってくれた、愛する人。
愛する人の死。
何も言わずに見守る夫。
子をなさなくてもいいと、そう言ってくれる夫。
子をなせないと知ったときの絶望。
いつしか夫の子を欲しいと思っていた自分に気がついた罪悪感。
見守ってくれる夫に吐く酷い言葉。
だって、私はもう死んでしまうのだから。
ユアンは思わず女の手を振り払った。
「あなたは……」
「私のことを知っているの?」
「それは……」
「私はずっとここにいるの。どうしてかしら、ここから出られない。」
「わたしも、もう出られないのでしょうか…。会いたい。ここから出て、会いたい。」
「誰に、会いたいの?」
「………カイゼル様に。
あなたは、フィーネ様なのでしょう。」
フィーネは数回瞬きし、哀しそうに笑った。
「そうだわ。私の名前はフィーネだった。夫はカイゼルと言う名だった。ずっとここにいると、そんなことも忘れてしまうのね。」
「帰りたい。カイゼル様の所に。カイゼル様もきっと待っていてくれるから。」
「あの人のこと、愛しているのね。」
ユアンは何度も頷く。
「だって、ずっとそばにいるって約束したから。帰らなきゃ、帰りたい…」
「大丈夫よ。あなたは、まだ大丈夫。ここを出て、あなたを呼ぶ声のする方をずっと辿って行けば、大丈夫。」
「でも、さっきは無理でした…。」
「よおく耳を澄まして聴けば、あなたならわかるはずよ。さあ、もう行きなさい。」
「お水…最後にお水を…」
ユアンはもう喉がからからで、フィーネの前に置かれた水を飲みたくて堪らない。
「駄目。これは駄目なの。早くあの人の所へ帰って。あの人がきっと用意してくれるから、ね。」
「…フィーネ様は?ずっと、ここから出られない?どうしたら、出られますか?」
「私も思い出したわ。私をずっと待っている人の所へ行かないと。あなたのおかげよ。ありがとう。」
扉から出ようとして、ユアンはもう一度振り返える。
「カイゼル様は誤解しているけど、フィーネ様はカイゼル様の子を……」
「いいのよ。あの人には何も言わないで。あなたをあの人の所へ戻すことができたら、わたしもきっとここを出られるから。」
「それじゃあ、ぼくは、行きます。フィーネ様ありがとうございます。フィーネ様も、かならずここを出て下さい。」
立ち上がって手を振るフィーネは、やはりすらりと背が高く、綺麗な人だった。
扉を出ると、また同じ暗がりが広がっている。
ユアンを呼ぶ声が聴こえる。
ユアンは耳を澄まして、その方角を辿る。
次第にはっきりと、その声が聴こえてくる。
カイゼルの声だ。
カイゼル様、どこ?
どこにいるの?
ぼくもう、喉が渇いて堪らない。
これ以上歩けない。
助けて、カイゼル様。
一際大きな声がユアンへと届く。
「ユアン!」
ユアンはその声が響く元へ、最後の気力を振り絞って走り出した。
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