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第5章
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まだ傷跡の残るマリの顔を見て、ユアンは何度も謝った。
「ごめんね。ごめんね。マリ。こんな傷つけてしまうなんて。」
「大丈夫だよ!マリは騎士だから!こんなのへっちゃらなの!」
「でも、ごめんね。マリ、ありがとう。」
「大丈夫!それに、傷があってもマリは可愛いから!」
ニコッと笑うマリに、ユアンの顔も綻ぶ。
マリがいなければ、自分は今、こうして普通にはいられなかったと思う。
傷は浅いもので、跡が残るようなものではない。
それでも、マリを傷つけてしまう程我を忘れていた自分が、怖くてたまらない。
仕事に戻ると、部屋を出ようとしたマリが帰り際、ユアンに問う。
「ユアンさま、お家、帰らないよね?マリと一緒にここに、ずっといるよね?」
ずっと、ずっと考えていたことだ。
あの日から、ずっと。
そろそろ心を決めねばならない。
いや、もう、とっくに決まっていたのだ。
ユアンは、マリへと静かに微笑んだ。
翌朝、ユアンの部屋を訪れたのは、カイゼルではなかった。
…家へ、帰るか?
昨日、そう問うてきたカイゼルの言葉は、異なる響きをもって、ユアンには捉えられていた。
…もう、家へ帰れ
事実、今朝からカイゼルは訪れて来ない。
「………カイゼル様に、いつでもいいので、時間を下さいと、そう伝えてもらえますか?」
どこか思い詰めたようなユアンの姿に、使用人は部屋を出ると、すぐにカイゼルへその旨を伝えた。
昼前には向かう旨を伝えさせ、カイゼルは溜まった仕事を捌き出した。
執務室の中は静かだ。
いつも、これほど静かだっただろうか?
いつもいるユアンの方を見遣れば、そこには誰もいない。
ユアンにあてがっていた机の上には、やりかけの書類が綺麗に整理されている。
書類の上には小さな箱が置かれていた。
手作りのその箱を開けると、そこにはカイゼルがユアンへと贈ったあの髪留めが、ひっそりと入れられている。
使い込まれて、少し痛んでいる。
箱の周りに丁寧に貼られていたのは、あのときの包装紙だ。
この数カ月、ユアンはいつもこの席にいた。
本人は気が付かれていないと思っているようだが、時折カイゼルのことを、ちらちらと盗み見していたことを、カイゼルは知っていた。
小さなときからそうだった。
セレンの影に隠れ、時折ちらちらとカイゼルのことを、盗み見する。
「…何が、気になるんだろうな。」
ふっと、カイゼルは笑った。
セレンには、何と伝えようか。数少ない友人を失うことになるかもしれないが、それも、もう仕方のないことかもしれない。
ここは、また空席になるのだろう。
ユアンが来る前の、いつもの日常に戻るだけだ。
きりがいい所まで書類を捌き切り、カイゼルはユアンの部屋へと向かった。
「…入るぞ。」
相変わらず、じっと外を眺めていたユアンがその視線をカイゼルへと向ける。
「急にお呼びだてして、申し訳ありません。それに、このような格好のままで…」
ユアンはまだ寝台の上だ。
「構わん。話しがあるのだろう。」
カイゼルは寝台の傍に腰を下ろした。
「今朝は、食べたか?」
「少し、だけ。」
「そうか。」
ユアンはなかなか話し出さない。
カイゼルも先を促そうとしないので、2人の間には、沈黙だけが漂う。
「…………………………」
「…………………………」
「…帰るか?」
口火を切ったのは、カイゼルだった。ユアンからは、言い出しにくいかと思っての事だ。
「…帰れ、と、そう仰るのですか?」
カイゼルを見上げるユアンの瞳は不安げに揺らいでいる。
「…帰りたいのだろう。」
「…………。」
「何も気にする必要はない。あの事は、忘れろとは言わんが、無かったことと思えばよい。事実を知る者は一部だけで、誰も他言することはない。」
「…………。」
「…………すまなかったな。他に頼める者がいなかった。」
「………カイゼル様。」
「なんだ?」
「お願いがあるのです。」
「ああ、なんだ?言ってみろ。」
「カイゼル様の、妻にして下さい。」
思いがけない言葉に、眉を顰めてユアンを見据えると、ユアンも真っ直ぐにカイゼルを見据えている。
ユアンの瞳には、確固たる意思が窺えた。
「…お前は、何を言っているのか、わかっているのか?」
カイゼルを見据える瞳は揺らがない。
「ずっと、考えていたのです。」
「………何故だ?意味がわからん。」
「以前、条件は満たしていると仰って頂きました。」
「妻にはならないと、話していたではないか。」
「気が変わったのです。」
「何故だ?わたしに、責任を取れと、そう言いたいのか?」
ユアンは、首を横に振る。
「責任を取って欲しいなど、考えてもおりません。………ですから、お願いなのです。わたしを、娶って下さいませんか?」
全くと言っていい程、想像もしていなかったユアンの言葉に、カイゼルは何も答えることができなかった。
「ごめんね。ごめんね。マリ。こんな傷つけてしまうなんて。」
「大丈夫だよ!マリは騎士だから!こんなのへっちゃらなの!」
「でも、ごめんね。マリ、ありがとう。」
「大丈夫!それに、傷があってもマリは可愛いから!」
ニコッと笑うマリに、ユアンの顔も綻ぶ。
マリがいなければ、自分は今、こうして普通にはいられなかったと思う。
傷は浅いもので、跡が残るようなものではない。
それでも、マリを傷つけてしまう程我を忘れていた自分が、怖くてたまらない。
仕事に戻ると、部屋を出ようとしたマリが帰り際、ユアンに問う。
「ユアンさま、お家、帰らないよね?マリと一緒にここに、ずっといるよね?」
ずっと、ずっと考えていたことだ。
あの日から、ずっと。
そろそろ心を決めねばならない。
いや、もう、とっくに決まっていたのだ。
ユアンは、マリへと静かに微笑んだ。
翌朝、ユアンの部屋を訪れたのは、カイゼルではなかった。
…家へ、帰るか?
昨日、そう問うてきたカイゼルの言葉は、異なる響きをもって、ユアンには捉えられていた。
…もう、家へ帰れ
事実、今朝からカイゼルは訪れて来ない。
「………カイゼル様に、いつでもいいので、時間を下さいと、そう伝えてもらえますか?」
どこか思い詰めたようなユアンの姿に、使用人は部屋を出ると、すぐにカイゼルへその旨を伝えた。
昼前には向かう旨を伝えさせ、カイゼルは溜まった仕事を捌き出した。
執務室の中は静かだ。
いつも、これほど静かだっただろうか?
いつもいるユアンの方を見遣れば、そこには誰もいない。
ユアンにあてがっていた机の上には、やりかけの書類が綺麗に整理されている。
書類の上には小さな箱が置かれていた。
手作りのその箱を開けると、そこにはカイゼルがユアンへと贈ったあの髪留めが、ひっそりと入れられている。
使い込まれて、少し痛んでいる。
箱の周りに丁寧に貼られていたのは、あのときの包装紙だ。
この数カ月、ユアンはいつもこの席にいた。
本人は気が付かれていないと思っているようだが、時折カイゼルのことを、ちらちらと盗み見していたことを、カイゼルは知っていた。
小さなときからそうだった。
セレンの影に隠れ、時折ちらちらとカイゼルのことを、盗み見する。
「…何が、気になるんだろうな。」
ふっと、カイゼルは笑った。
セレンには、何と伝えようか。数少ない友人を失うことになるかもしれないが、それも、もう仕方のないことかもしれない。
ここは、また空席になるのだろう。
ユアンが来る前の、いつもの日常に戻るだけだ。
きりがいい所まで書類を捌き切り、カイゼルはユアンの部屋へと向かった。
「…入るぞ。」
相変わらず、じっと外を眺めていたユアンがその視線をカイゼルへと向ける。
「急にお呼びだてして、申し訳ありません。それに、このような格好のままで…」
ユアンはまだ寝台の上だ。
「構わん。話しがあるのだろう。」
カイゼルは寝台の傍に腰を下ろした。
「今朝は、食べたか?」
「少し、だけ。」
「そうか。」
ユアンはなかなか話し出さない。
カイゼルも先を促そうとしないので、2人の間には、沈黙だけが漂う。
「…………………………」
「…………………………」
「…帰るか?」
口火を切ったのは、カイゼルだった。ユアンからは、言い出しにくいかと思っての事だ。
「…帰れ、と、そう仰るのですか?」
カイゼルを見上げるユアンの瞳は不安げに揺らいでいる。
「…帰りたいのだろう。」
「…………。」
「何も気にする必要はない。あの事は、忘れろとは言わんが、無かったことと思えばよい。事実を知る者は一部だけで、誰も他言することはない。」
「…………。」
「…………すまなかったな。他に頼める者がいなかった。」
「………カイゼル様。」
「なんだ?」
「お願いがあるのです。」
「ああ、なんだ?言ってみろ。」
「カイゼル様の、妻にして下さい。」
思いがけない言葉に、眉を顰めてユアンを見据えると、ユアンも真っ直ぐにカイゼルを見据えている。
ユアンの瞳には、確固たる意思が窺えた。
「…お前は、何を言っているのか、わかっているのか?」
カイゼルを見据える瞳は揺らがない。
「ずっと、考えていたのです。」
「………何故だ?意味がわからん。」
「以前、条件は満たしていると仰って頂きました。」
「妻にはならないと、話していたではないか。」
「気が変わったのです。」
「何故だ?わたしに、責任を取れと、そう言いたいのか?」
ユアンは、首を横に振る。
「責任を取って欲しいなど、考えてもおりません。………ですから、お願いなのです。わたしを、娶って下さいませんか?」
全くと言っていい程、想像もしていなかったユアンの言葉に、カイゼルは何も答えることができなかった。
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