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伊央
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前の席に座る雫の後ろ姿は、後ろ姿なのにとても綺麗だ。
綺麗な男。
すっきりと刈り上げられた襟足に、真っ白なうなじ。
開け放たれたままの教室の窓から入り込む風は、薄茶色の猫っ毛を時折ふわふわと揺らしている。
「…伊央?」
ふいに振り返られ、どきっとする。
「また居眠りしてたの?プリント回して。」
前から後ろに回されてきたプリントを受け取ると、雫はそう言って少し笑った。
「…ちゃんと起きてた。」
「眠そうな顔してる。」
「元からこういう顔だから。」
「何だよそれ。」
笑ったまま前に向き直る雫の後ろ姿は、やっぱり綺麗だ。
見惚れていたなんて、言える訳がないだろ。
俺が中学から在籍している私立の中高一貫校に、雫が入学してきたのは高校からだ。
すらっとしたモデル体型と女子受けしそうな中性的で整った顔立ちは、一瞬で校内の話題を掻っ攫った。
廊下には雫を一目見ようと休み時間のたびに他クラスの女子が集まってくるから、煩くて仕方ない。
始めこそ男どもからやっかみを受けていたが、気取らず穏やかで優しい雫はすぐにクラスの中に溶け込んだ。
女子が苦手だと、たいてい男とばかりつるんでいて、そういう所も警戒心丸出しだったクラスの男子からすぐに受け入れられるきっかけになったんだろう。
高校生男子のくだらない話しや、下卑た話しを、輪の中心から少し離れた所で雫はいつも笑って聞いていた。
「…俺さあ、雫ならいけるかも。」
部活終わりのロッカールームで、同じクラスの奴が声をあげた。
「ああ、俺も、なんか、わかるわ。」
「だろ。」
「その辺の女子より綺麗だろ。」
「だよなあ。あれは、やばいよな。」
「俺、男も女もいけるから、雫はあり。」
「まじか!」
「俺は無理。女だけ。ああでも、一回ぐらいならいいかも。」
「そういう奴が、意外と一番はまったりしてな。」
「付き合ってる奴とかいんのかなあ?」
「誰もいないって、本人は言ってるけど、嘘だよな。」
「モテるもんなあ。女子が煩せえ。意外と男にも人気あるかも。お前みたいな奴に。告白しちゃえば?」
最初に言い出した奴が指差されて、真顔になっている。
「え、まじで付き合っちゃう?」
「その前に、速攻で振られるだろ。」
どわっと、大きな笑い声が上がり、癪にさわる。
みんな好き放題言い過ぎだ。シューズの紐が上手く解けなくて、イライラする。
「伊央は?一番仲良いだろ。」
「あ?俺?」
「…なんだよ、機嫌悪くね?」
「別に。雫のことそういう話題で取り上げんの、やめろよ。」
「こんなの、ただの冗談だろ。」
やっと紐が解けたシューズを乱暴に脱ぎ捨てると、その場は気まずい雰囲気に包まれた。
「…雫、付き合ってる奴いるから。」
驚くぐらい、すんなりと嘘が出た。
「ええええ、まじか!?」
「うわ、誰?」
「ショック!」
「伊央は、相手知ってんのかよ?」
「…知らない。」
そんな奴いない。だから、知る由もない。
翌日には、その相手が年上の綺麗なお姉さんだとか、芸能人だとか、根も葉もない噂が出回っていた。
なんであんな嘘を言ってしまったのか、自分でもよくわからない。
それなりに生きてきた。
それなりの学校に入って、それなりの生活で、それなりに友達や彼女がいて、いずれそれなりに仕事して結婚とかするんだろうと思っていた。
雫は父親を知らず、家計を助けるためにバイトをしているし、家事もほとんど自分でやっている。特待生で入学してきたから、成績もいい。
それが当たり前の雫を見ていると、なんとなく自分に何かが欠けている気がした。
雫といると、欠けた何かが埋められる。
親友だなんて、柄にも無いことを言い出したのは俺の方だ。
放課後の教室で、雫は少しだけ嬉しそうに、照れ臭そうに、はにかんで同意してくれた。
自分が発したその言葉に、ずっと囚われたまま身動きが取れない。
今日は遅くなると雫に連絡すると、わかったと素っ気ない返事が返ってくる。
俺が今誰といて、何をしようとしているのか、雫はきっと分かっている。
分かっていても何も言って来ないし、どれだけ女をとっかえひっかえしても、苦笑いするだけだ。
雫にとっての俺は仲のいい親友でしかあり得ないし、この関係はずっと平行線のまま変わることはないだろう。
隣で腕を組んでいる女は、耳の形が雫と似ている。
それだけの理由で付き合うことにした。
理由なんていつもそんなもんだ。
夜の街を歩きながらずっと何か話し掛けてくるが、適当に相槌を打ちながらホテルに入る。
耳だけを噛んだり舐めたりしていると、組み敷いている相手が雫の様に思えてくる。
声が煩い。
煩い口を口で塞ぐ。
誰を抱いていても、セックスの最中に思い浮かぶのは雫のことだけだ。
やることをやって、少しだけうたた寝をして起き上がると知らない女がいた。
こんな顔していたか?
化粧が薄れたからだけじゃない。元々、耳以外ほとんど見ていなかったせいだ。
似ていると思った耳は、どこが似ていたんだと思うぐらい、よく見れば全然似ていない。
気持ちが、すーっと萎えて行く。
泊まって行こうと言う女にホテル代を渡して部屋を出ると、外は真夜中で吐く息が真っ白になるぐらい冷え冷えとしていた。
早く帰ろう。
雫は俺のことなんて待っていない。深夜に帰ると、たいてい部屋の中はしんと静寂に包まれている。
それでも、どんなに遅くなっても必ず家に帰る。
せめて朝起きて一番に見る顔ぐらいは、雫がいい。
綺麗な男。
すっきりと刈り上げられた襟足に、真っ白なうなじ。
開け放たれたままの教室の窓から入り込む風は、薄茶色の猫っ毛を時折ふわふわと揺らしている。
「…伊央?」
ふいに振り返られ、どきっとする。
「また居眠りしてたの?プリント回して。」
前から後ろに回されてきたプリントを受け取ると、雫はそう言って少し笑った。
「…ちゃんと起きてた。」
「眠そうな顔してる。」
「元からこういう顔だから。」
「何だよそれ。」
笑ったまま前に向き直る雫の後ろ姿は、やっぱり綺麗だ。
見惚れていたなんて、言える訳がないだろ。
俺が中学から在籍している私立の中高一貫校に、雫が入学してきたのは高校からだ。
すらっとしたモデル体型と女子受けしそうな中性的で整った顔立ちは、一瞬で校内の話題を掻っ攫った。
廊下には雫を一目見ようと休み時間のたびに他クラスの女子が集まってくるから、煩くて仕方ない。
始めこそ男どもからやっかみを受けていたが、気取らず穏やかで優しい雫はすぐにクラスの中に溶け込んだ。
女子が苦手だと、たいてい男とばかりつるんでいて、そういう所も警戒心丸出しだったクラスの男子からすぐに受け入れられるきっかけになったんだろう。
高校生男子のくだらない話しや、下卑た話しを、輪の中心から少し離れた所で雫はいつも笑って聞いていた。
「…俺さあ、雫ならいけるかも。」
部活終わりのロッカールームで、同じクラスの奴が声をあげた。
「ああ、俺も、なんか、わかるわ。」
「だろ。」
「その辺の女子より綺麗だろ。」
「だよなあ。あれは、やばいよな。」
「俺、男も女もいけるから、雫はあり。」
「まじか!」
「俺は無理。女だけ。ああでも、一回ぐらいならいいかも。」
「そういう奴が、意外と一番はまったりしてな。」
「付き合ってる奴とかいんのかなあ?」
「誰もいないって、本人は言ってるけど、嘘だよな。」
「モテるもんなあ。女子が煩せえ。意外と男にも人気あるかも。お前みたいな奴に。告白しちゃえば?」
最初に言い出した奴が指差されて、真顔になっている。
「え、まじで付き合っちゃう?」
「その前に、速攻で振られるだろ。」
どわっと、大きな笑い声が上がり、癪にさわる。
みんな好き放題言い過ぎだ。シューズの紐が上手く解けなくて、イライラする。
「伊央は?一番仲良いだろ。」
「あ?俺?」
「…なんだよ、機嫌悪くね?」
「別に。雫のことそういう話題で取り上げんの、やめろよ。」
「こんなの、ただの冗談だろ。」
やっと紐が解けたシューズを乱暴に脱ぎ捨てると、その場は気まずい雰囲気に包まれた。
「…雫、付き合ってる奴いるから。」
驚くぐらい、すんなりと嘘が出た。
「ええええ、まじか!?」
「うわ、誰?」
「ショック!」
「伊央は、相手知ってんのかよ?」
「…知らない。」
そんな奴いない。だから、知る由もない。
翌日には、その相手が年上の綺麗なお姉さんだとか、芸能人だとか、根も葉もない噂が出回っていた。
なんであんな嘘を言ってしまったのか、自分でもよくわからない。
それなりに生きてきた。
それなりの学校に入って、それなりの生活で、それなりに友達や彼女がいて、いずれそれなりに仕事して結婚とかするんだろうと思っていた。
雫は父親を知らず、家計を助けるためにバイトをしているし、家事もほとんど自分でやっている。特待生で入学してきたから、成績もいい。
それが当たり前の雫を見ていると、なんとなく自分に何かが欠けている気がした。
雫といると、欠けた何かが埋められる。
親友だなんて、柄にも無いことを言い出したのは俺の方だ。
放課後の教室で、雫は少しだけ嬉しそうに、照れ臭そうに、はにかんで同意してくれた。
自分が発したその言葉に、ずっと囚われたまま身動きが取れない。
今日は遅くなると雫に連絡すると、わかったと素っ気ない返事が返ってくる。
俺が今誰といて、何をしようとしているのか、雫はきっと分かっている。
分かっていても何も言って来ないし、どれだけ女をとっかえひっかえしても、苦笑いするだけだ。
雫にとっての俺は仲のいい親友でしかあり得ないし、この関係はずっと平行線のまま変わることはないだろう。
隣で腕を組んでいる女は、耳の形が雫と似ている。
それだけの理由で付き合うことにした。
理由なんていつもそんなもんだ。
夜の街を歩きながらずっと何か話し掛けてくるが、適当に相槌を打ちながらホテルに入る。
耳だけを噛んだり舐めたりしていると、組み敷いている相手が雫の様に思えてくる。
声が煩い。
煩い口を口で塞ぐ。
誰を抱いていても、セックスの最中に思い浮かぶのは雫のことだけだ。
やることをやって、少しだけうたた寝をして起き上がると知らない女がいた。
こんな顔していたか?
化粧が薄れたからだけじゃない。元々、耳以外ほとんど見ていなかったせいだ。
似ていると思った耳は、どこが似ていたんだと思うぐらい、よく見れば全然似ていない。
気持ちが、すーっと萎えて行く。
泊まって行こうと言う女にホテル代を渡して部屋を出ると、外は真夜中で吐く息が真っ白になるぐらい冷え冷えとしていた。
早く帰ろう。
雫は俺のことなんて待っていない。深夜に帰ると、たいてい部屋の中はしんと静寂に包まれている。
それでも、どんなに遅くなっても必ず家に帰る。
せめて朝起きて一番に見る顔ぐらいは、雫がいい。
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