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腐らない死体
しおりを挟む何処からやって来たのか、或いはずっと隠れていたのか。
2061年。人類は謎のウィルスの脅威にさらされていた。
2058年に米国アリゾナ州の墓地で一人目の感染者が見つかって以降、爆発的に世界中に広まったEー529S08型、通称ゾンビウイルス。
このウィルスについては未だ不明な点が多いが、ゾンビと言っても死体が動いて人を襲うような事はない。
ただ、死亡から何ヵ月経っても遺体が腐蝕しないのだ。
なんだ、そんな事かと思うかも知れない。
しかしこのウィルスが原因でいつまでも死者を埋葬せず、死体と共に暮らす者達が増えている。
彼らの理屈としては死んだとはいえ愛すべき家族、恋人、友人だ。
腐らないのであれば埋葬の必要はなく、いつまでも自分の側に置いておきたいと言うのだ。
そして国外のみならず日本でも、そういった風潮が広がりつつあった。
何か新しい変化が起こると必ずそこに便乗しようとする者がいる。
この物語の主人公、オカベもその一人である。
ゾンビウィルス騒動の半年後、彼は20年勤めた会社を突然退社すると『あんしんデッド』という小さな会社を起こした。
その主な事業内容は腐らない死体と暮らす遺族をターゲットに、死者が快適に眠れる寝具を販売するというものだ。
周囲の予想に反してここのところ売れ行きは好調で、雑誌やテレビ番組でも紹介されるほど人気を博している。
────そんな、ある日。
「お前も俺が薄情だと思うか?!」
男の剣幕にやや気圧されながらも、オカベは顔面に得意の作り笑いを張り付けた。
誰も薄情とは思っていない。それどころかなんの興味もないのが本音だ。
オカベからすれば商品が一つでも多く捌ければ、それで良いのである。
目の前の男は白髪混じりの角刈りで、中肉中背よりやや肥っている。しかし大工仕事で自然と鍛えられた鎧のような筋肉は奇形のアルマジロを想わせた。
いかにも昔気質の職人肌、頑固そうな男だ。
アルマジロ男、ハマグチは胸ポケットから今時珍しい旧式煙草を取り出すとレーザーライターで火を着けた。煙突のように窄めた口からポワポワと無法者の狼煙が上がる。
年若いウェイトレスが目敏くそれを見付け、小走りになって奥へと引っ込んだ。
どう対処したものか店長に相談でもするのだろう。
旧式煙草の使用は多くの地域が条例で厳しく禁止している悪質行為だというのに、全席禁煙のファミリーレストランでそれをやるのだから非常識と思われて当然だ。
このアルマジロはどこの博物館から逃げ出してきたのだろうか。
「おい、聴いてんのか!」
ハマグチはゴツい拳で机を叩いた。
かなり苛ついた様子だが、オカベはわざと焦らすようにコーヒーカップに口をつけた。
怒鳴られようが睨まれようが会話の主導権はこちらが握っている。
ハマグチのような単細胞はオカベにとって絶好のカモだった。
「奥様はなんと仰っておられますか?」
これがこの場合の必勝法だ。
案の定、ハマグチは怒りの表情を少し曇らせると頭をかきむしった。
「俺は断固反対したんだが。…………ウチのが四六時中泣き喚いて、アンタんとこに頼もうって煩くてよ」
「そうですか。御主人は納得されないまま、悲しみに暮れる奥様の為に私共に御依頼を」
ハマグチがそう答える事は判っていたので逃げ道を塞いでやった。
面子、体裁。男はそう言ったものを馬鹿みたいに大事にする。
ならばこちらから美談となるよう誘導してやれば話が早い。
「俺だって別に、納得してねえ訳じゃねえよ」
そろそろ書類を出す準備でもするかな。
机の下でオカベの指が膝の革鞄にそっと触れた。
「御安心下さい。当社独自の研究から誕生した特許技術により『夢のゆりかご布団』は、本当に眠っているだけではないかと思うような安らぎを故人様と御夫婦にもたらします」
旅館やホテルで使い古した布団を買い集め、シーツの中にL.E.D.とバッテリーを組み込んだだけのインチキ商品だが、物は言いようである。
「眠ってる、だけ…………」
バレる心配はない。
子供を亡くしたばかりの親に正常な判断などまず不可能なのだから。
そしてすがり付く。
本当に眠っているだけではないかという幻想に。
そんなワケ、ねえだろ。
「そうです。
息子さんは眠ってるだけ、です」
裏腹にオカベは憐憫を装いながらハマグチのドングリ眼をじっと見つめた。
煙が眼に染みただけとは言い訳出来ぬほど、大粒の涙が次から次に溢れ落ちてゆく。
「判った。契約する」
よし、それでいい。
それにしても汚い泣き顔だ。
「ときにオカベさん。あの噂、本当なのかね?」
数分後。契約書に判を押し終えたハマグチがぽつりと口を開いた。
ゾンビウィルスの感染者は昆虫ならサナギの状態で、時が来れば甦るだなんて。
オカベは引き寄せた朱肉の赤が血で濁ったような、不気味な違和感を覚えた。
なんだ、それは。
「そんな話は」
────初耳だ。
どこからわいて出たデマだろう。
この現象が起きて直ぐ、世界中の医者、科学者、検死官、病理学者が揃って太鼓判を押した。
ゾンビウィルスの感染者は間違いなく生命活動が停止している、死者である、と。
一度死んだ人間は復活などしない。
して、堪るものか。
長年勤めた会社を辞めてまで挑んだ一世一代の大勝負。
現在は波に乗っているとはいえ「あんしんデッド株式会社」は未だ二千万もの負債を抱えている。
もう後戻りは出来ない。
腐らない死体が本当に甦ってしまうのか、早急に確かめておく必要があった。
オカベは煙草臭いファミレスを出るとその日の内に静岡県から電車を乗り継ぎ、兵庫県の北部へレンタカーを走らせた。もし噂が事実なら日本人初の感染者、ヤマギシオサム氏の遺体に何らかの変化が起こる筈だと睨んだからである。
「あら、貴方はたしか」
斜陽の照り付ける中、車を降りてすぐ年配の女性に声をかけられた。
「御無沙汰しております、奥様」
ヤマギシオサム氏の妻、ミカ婦人は帽子を脱ぐと上品に微笑んだ。
その後ろで一枚の絵画のように聳える西洋建築の赤い屋根が当時の記憶を甦らせる。
三年前の八月。オカベにとっての国内初仕事となったのがここ、ヤマギシ邸だった。
ミカ婦人が一週間のフランス旅行を終えて帰宅すると、七十二歳の夫が冷たくなっていた。
死因は急性心不全。俗に言う心臓麻痺だ。
ごく軽い認知症であったこと以外は医者要らずの健康体だったそうだから、人間の人生と言うのは何が起こるか判らない。
死亡推定時刻は婦人が関西空港から日本を発った日の夜。
つまり一週間もの間、真夏の高温にさらされて遺体が放置されていた事になる。
しかし周囲の人々が死臭に気付く事は無かった。
劣悪な環境下だったにも関わらず、遺体がまったく腐らなかったからだ。
「営業でたまたま近くを通りかかったものですから、宜しければベッドの定期メンテナンスをと思いまして。
さほど時間は掛かりませんし、もちろん無償でやらせて頂きますよ」
婦人は二つ返事で門戸を開いてくれた。
広い玄関からまっすぐに伸びた左右の廊下の壁には高価そうな陶芸品や、大小の額縁に入れられた名画が何枚も飾られている。
婦人が言うに高齢者の独り暮らしという事情から、階段を使わなければならない二階エリアは全て物置にあてているらしい。
それでも尚、この邸は一階だけで部屋数が八部屋もあるので、生活するには充分なのだという。
庭園を臨む夫婦の寝室に案内され、オカベは艶のあるラベンダー色のカーペットを三年ぶりに踏んだ。
大きな白木のクローゼットに年代物の鳩時計、天蓋付のダブルベッドのシーツには皺一つない。
夫婦の写真が一枚も見当たらない事以外は、あの頃と何も変わっていないように思えた。
二人は誰もが羨む程のおしどり夫婦ぶりで有名だったらしいが、オカベはこの婦人の事を初対面の頃から疑っている。
彼女は認知症気味の夫に家を任せ、一週間も外出していたにもかかわらず、一度も家に連絡しなかったのだ。
何らかの方法で心臓麻痺に見せかけて夫を殺害し、アリバイ作りの旅行をしていたのではないか。
もしそれが事実ならこの婦人も困る訳である。
己の手で殺した夫が生き返ってしまっては。
電気スタンドみたいにひょろ長い身体を青く光るベッドに横たえ、ヤマギシオサムは眠ったように死んでいた。
オカベはホッと胸を撫で下ろすとヤマギシの遺体の前に行き、恭しく合掌して目を閉じた。
────そのまま大人しく、くたばってるんだぞ。
異常なし。あの噂はやはりデマだったようだ。
配線に不具合がないかシーツの中から指を這わせながら、オカベは質の悪い悪戯を思い付いた。
不安にしてくれたお返しに婦人に隠れてこっそり、この電気スタンド男の手の甲を思いっきり抓ってやろうというものだ。
なあに、三年も死に続けてるんだから今更起きやしない。
するすると手を伸ばすとすぐ、枯れ枝のような老人のささくれだった指にぶつかった。
とっくに干からび、白骨化する予定だった死者の指である。
皺だらけなのは否めないが冷たい肌には未だ、奇跡的な弾力が残されている。
なんとも奇妙な感覚がオカベの頭を駆け巡った。
老人の手の甲を親指と中指で軽く摘み、ギュッと斜めに抓る。
万が一にもこれで飛び起きたりしたら。
オカベは恐る恐るも素早く、老人の顔を見た。
しかしヤマギシオサムは瞼を閉じたまま、微動だにせず死に続けている。
生き返る訳がないという思いがより強い確信へと変わり、満足するには充分な無反応だった。
いつの間にか腰が引け、呼吸が乱れている事に気付き、オカベは抓っていた右手をゆっくり離した。
────カチャ。
電化製品のスイッチを入れたような。
なんだ、今の音は。
『夢のゆりかご布団』が故障したのだろうか。
しかし配線が問題なく繋がっている事はいま確認したばかり。
コンセントと商品を結ぶ電気コードが断線でもしたのだろうか。
ベッドに手をつきコードの方を振り向こうとした瞬間。
「あっ」
コードが足に引っ掛かり、オカベは前のめりに転んだ。
その体を受け止めたのは細い腕。
覆い被さる直前だったヤマギシオサムの腕だ。
老人の虚ろな、そしてこれ以上ないほど見開かれたオカベの目と目が合う。
「…………ミカ。こいつは誰だ?」
初対面ではないが初めて聴く声にオカベは震え上がった。
生きている、ヤマギシオサム。なんて事だ。
ヤマギシオサムが生き返ってしまった!
金縛りのように目を逸らす事が出来ず、身体を動かす事も出来ず、オカベはヤマギシの顔を見続け────ぐしゃ。
突然、風を切る音と共にYシャツに生暖かい何かが飛び散った。
それがなんなのかオカベは直ぐに理解した。
ぐしゃり、グシャり、ぐシャ、り。銀色の何かが降り下ろされる度、電気スタンドが真っ赤になって壊れてゆく。
止めろ。止めろよ。心臓が激しく脈を打ち、声もなく唇がパクパク空回りする。
半身を返り血で染めながら夫の頭部をゴルフクラブで破壊する老女を、止めなければ。
最初の一撃でオカベに触れていたヤマギシの腕はだらりと力を失っていた。
二打目、三打目、その全身は痙攣したように揺れていたが、これは単に婦人の渾身の力による衝撃のせいだ。
六打目を降り下ろしてから、ミカ婦人は幽鬼のようにオカベの方を見た。
べったりとドス黒い血が全身を濡らしている。
「こ、こ、これは殺人」
「違うわ」
室内照明が反射して鈍く光るゴルフクラブの先端で、狂った老女が微笑んだ。
────何も違わない。だって見たんだ。あの人、生きていた。目が合って、話を。
「本当にそうかしら?」
ベッドの脇に凶器を立て掛けると、ミカ婦人はオカベの手を優しく握った。
「貴方も困るのでしょう?だから確かめに来た」
見抜かれていた。
やはりこの人は夫を初めから殺す気で。
「死んだ人は二度と生き返らないわ。
もし生き返ったとしたらそれはもう、別のものよ」
違う。あの腐らない死体は、婦人の名前を呼んでいた。どういう理屈かは判らないが、あれは確かにヤマギシオサム氏本人だった。
「…………別のものなのよ」
教会で聖書を朗読するように婦人は繰り返した。
この夫婦の過去に何があったのかは知らない。
しかし今ならはっきりとヤマギシミカの真意が判る。
愛しい人を自分の側に、だと。
違う、違う、違う!
この女は三年間、ずっと見張っていたのだ。
あり得ない奇跡に備え夫が万が一甦っても、こうして息の根を確実に止められるように。
オカベは運悪く、恐ろしい殺害現場に居合わせてしまった。
しかし心の何処かで妙な安心を得たのも事実であり、彼女がやらなければもしかしたら自分が手を下していたかも知れないと考えると、また震えが止まらなかった。
狂った光景を見て自分も狂ってしまったのか、全身を襲う震えの向こうには使命感があり、それは神の姿をしていた。
「埋めてしまいましょう。こんなもの」
自分の声ではないような言葉が出た。
────貴方なら判ってくれると思っていたわ。
それから二人は一言も喋らず、ヤマギシオサムだったものを近くの裏山に埋めた。
「やっぱり、腐るのかしらね?」
帰り道、ミカ婦人は冷蔵庫の生鮮食品を心配するような口振りで言った。
あれだけの損壊と出血だ。
頭蓋骨は破壊されているだろうし、おそらく脳も原型を留めていない。
そうなるとやはり。
「…………今度こそ腐るでしょうね」
前例がないので断言する事は誰にも出来ない。
だが、あえてオカベは言い切った。
埋葬したのは腐敗を危惧しての事だ。
それに戸籍上は死亡扱いとはいえ、頭の半分を破壊された遺体を見て怪しまない者はいない。
となれば見つかり難い場所へ隠す必要が出てくる。
死体遺棄、損壊。
生き返った事実さえ隠蔽出来れば万が一発見されても罪状はそれだけで済む。
死んでいる者は殺しようがないのだから。
「何を考えているか、当てましょうか?」
この老婦人のか細い声には魔力が宿っている。
おそらく腐らない死体などという馬鹿げた現象にさえ巻き込まれなければ、この人は完全犯罪をやってのけただろう。
「貴方は他の死体も生き返らないように殺して回るのよ。
職業柄、腐らない死体が国内の何処に何体あるかは熟知しているもの。そうすればこれからだって」
「いいえ、奥様。噂になっている事実から想像するに、そういった事は既に世界中で誰かがやっています。暗躍と言うやつです。なにぶんビジネスの世界は競争が激しいですから。
ですので、私の仕事は今日で終わりです」
少し驚いた様子で運転席のオカベを婦人は見た。
しかし数秒後、何事かに思い当たると深い皺が刻まれた口角をふっと緩めた。
「そういう事ね」
「そういう事です」
翌日の朝、鹿児島の某所にて。
オカベは真新しいラベンダー色の法衣を身に纏っていた。
黒い烏帽子を被り、手には大粒の数珠と青磁の香炉を携えている。
いずれもフリーマーケットで手に入れたいかがわしい中古品だ。
インターホンを鳴らすと家人の女性の声がした。
「私、先日お電話を差し上げました『甦らせ屋』のオカベと申します」
遺族に選んでもらうのが一番良い。
一度死んだ人間を生き返らせたいのか、それとも────。
数年後、オカベの会社は上場一部へと登りつめた。
しかし世界中で死体が生き返っても、その影響で世界人口が増加する事は無かった。
つまり、死を望まれる人間は何処にでもいると言う事だ。
「今からあなたの大切な人を甦らせます。
本当に、宜しいのですね?」
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