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第三章 一世一代の大博打

これはただの手付金だから

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 夏が近づいている。
 昼に温められた地面が、漂う空気を熱する。
 夜になっても気温はやや高く、蒸し暑い。

「…………眠れない」

 決戦の時が近い、という緊張感に寝苦しさも加わりアリアは寝つけずにいた。
 ベッドから起き上がったアリアは、夜風に当たろうと部屋を出る。

 身に着けている生成色きなりいろの部屋着は、麻で出来た半袖のワンピースタイプ。
 こんな服装で外を出歩くなんて、王宮にいた頃には考えられない。

 しかし今は、アリアを見咎める者はいない。
 王女という肩書を失ったことで、新たに得たもののひとつだ。

「なんだか、自由って感じがするな」

 なんとも言えない開放感。
 少しだけ大人になった気分。
 出歩くのは建物の近くまでだけど。

 あまり遠くへ行って、またさらわれたら大変だ。
 ねっちり嫌味を言われるに違いない。
 主にアークから。

 月明かりと星明かりが、地面とアリアを照らす。
 生温かい風がアリアの身体を通り過ぎていった。
 心地よい、と評するには少々ベタつきが気になる。

「んーーーっ」

 アリアは湿った夜の空気を大きく肺に入れ、腕を上げて華奢な身体をグッと伸ばした。

「ん?」どこかから視線を感じる。
 辺りを見回してみるが、目につくところに人はいない。

(気のせい……かな?)

 首を傾げながら、視線を森の方へ向けると闇の中に光るものを見た。

(なにか、いる……)

 金色の光がふたつ。いや、もっとある。

 さすがにひとりで近づくわけにはいかない。
 アリアは目を凝らして、森の奥に広がる闇を視力で探った。

 一度気がついてしまえば、どんどん見えてくる。
 闇の中に無数に散らばる金色の光。

(もしかして……敵!?)

 ここは守護者が護る禁足地。
 外敵の侵入があれば、幾重にも張られた仕掛けが反応する。
 あの金色の光が侵入者であれば、当然見張りが気づくはず。
 これほど大量の敵が入り込むなど考えられない。

 考えられないが、戻って報告だけはしておこう。
 アリアはきびすを返し、森に背を向けて走った。


「むぷっ」

 走り出した瞬間、なにかにぶつかった。
 同時に鼻をくすぐる甘くスパイシーな香り。

 この匂いはよく知っている。
 ラキスがいつも吸っている葉巻の匂いだ。

「ラキス!?」
「アリアか。こんな時間になにをしている?」
「なにって……散歩?」
「ちゃんと寝ないと大きくならんぞ」
「なっ!!」

 アリアがとっさに胸を隠すと、ラキスは頭をポンとはたいた。

 あ……、そっちか。
 いや、そっちでも失礼なことに変わりはない。 
 アリアは頭に乗ったラキスの手を払いのける。

「子ども扱いするなっ!!」
「そういうセリフはもう少し大人らしくなってから言うんだな」

 出会ったときからずっと、重ね重ね失礼な男だ。
 これまでの付き合いで、ずいぶん慣れたけど――などと考えを巡らせ、それどころではなかったことを思い出す。

「いや、そんなことはどうでもいいんだ。ラキス! 森の中になにかがいる!!」

 アリアの訴えに「ほお」と返事をすると、ラキスはズカズカと森へ向かう。
 その様はあまりにも無遠慮。あまりにも無防備。

「ちょっ、ラキス。気をつけてよ。もしかしたら、大軍かもしれないんだ」

 さきほど見た金色の光を思い出し、ラキスの外套の裾を握って後についていく。

「せめて、せめて弓兵アーチャーくらい召喚してよぉ」

 アリアの声は届いているはずなのに、ラキスはすっかり無視をして歩みを進める。

 森の奥は闇に包まれている。
 ここまで来てはじめてラキスは「サモン」とつぶやいた。

 ホッと息を吐いたアリアの前に、ゴブリンの斥候スカウトが松明を持って現れた。
 暗いから斥候をぶのはわかるけれど、戦力としてはほとんどゼロに等しい。

「ラキスゥ……」

 不安で外套を掴む力が強くなってしまう。
 頭を地面の方へ向け、恐る恐る周囲に目を配る。

 斥候とともに森へ入って数メートル。
 ラキスがピタリと足を止めた。

「なにも、いないようだが?」
「へ?」

 そんなバカな、と思いつつ。
 アリアは顔を上げて周囲を見渡した。

「……あれ?」

 あれほどあった金色の光はどこへいったのか。
 どれほど目を凝らしてみても、光のかけらすら見つけることはできなかった。

「さ、さっきは本当に……」
「夢でも見たんだろう」
「夢? いやいや、寝つけなくて外に出たんだぞ」
「じゃあ幻か幽霊だ」

 それはそれで怖い。
 アリアの背筋にゾワゾワッと悪寒が走った。

 森を後にしたラキスが葉巻を取り出し、いつものように斥候が火を点ける。

「ふぅー」と吐き出された紫煙が、星の散らばる空へとふわふわと昇っていく。

「さあ、帰るぞ」
「……もう少し付き合ってよ。葉巻それ、吸い終わるまででいいから」

 いま戻ってもアリアは眠れそうにない。
 確かに見たはずの金色の光、あれは結局なんだったのか。

 正体を知ることは出来なくても、せめて心を落ち着かせたい。



 夜空の下、ふたりは地面に腰を下ろした。
 こうしているとラキスと初めて会った日のことを思い出す。

 焚き火もないし、白湯もないけれど。
 ラキスはあの日と同じく、葉巻をくわえていた。

「ラキスはどうしてボクを助けてくれるの?」
「お前が責任を取れと言ったんだろう。対価はお前のカラダ、違ったか?」
「違わない……けど」

 アリアはずっと気になっていた。
 はじまりはアリアが彼を巻き込んだから。

『対価はボクのカラダで払う』
『お前のカラダ? で手を打つ』

 そんなやりとりをしたのは確かだ。
 だけどきっと、いや確実に、ラキスはアリアの身体になど興味はない。

 アリアは男の子のような喋り方をしていても、華の十六歳乙女。

 異性からの目線の違いくらいはわかるつもりだ。
 ラキスがアリアを見る目は……家族を見る目とよく似ている。

 今まで一度だってアリアに手を出したことはない。それどころか、手を出す素振そぶりすら見せない。
 アリアはホッとすると同時に、情けなさも感じていた。

「ロゴールから救って貰った。ルシガーに捕まったときも助けてくれた。でも、ボクはまだ、なにも支払えてない」

 このままだと借りばかりがふくらんでいく。
 負い目ばかり背負うことになる。

 おずおずとラキスの顔を覗き込む。
 彼は「ふぅ」と煙を空へと吐き出した。

「後払いで構わん」
「それって、いつの話さ」
「そうだな……。お前次第じゃないか」

 ハッキリとは言わないが、これは「女としての魅力が無い」と言われているのと同じだ。

「……ムカつく」
「そうか」

 どうしてこうなってしまうのだろう。
 なぜこんなことでイライラしているのだろう。

 アリアはラキスに子ども扱いされると、いつも胸がキュッと苦しくなる。

「ムカつく!!」

 アリアは一際大きな声で悪態をつき、ラキスの胸元を掴んで顔を引き寄せた。

 唇が重なる。
 大人のキスというには程遠い、触れるか触れないかというギリギリの口づけ。
 それでも、ラキスが吸っていた葉巻の香りを唇越しに感じた。

 どれくらいの間、そうしていたのだろう。
 ものすごく長い時間だったようでもあり、一瞬のようでもあった。

 アリアは両手で押し出すように、ドンッとラキスの肩を突き飛ばして立ち上がる。

「こ、これは。手付金てつけきん、ただの手付金だからっ。さ、最後まで、ちゃんと責任もって仕事しろよな!」

 それだけ言い残して、アリアは部屋へと走った。
 残されたラキスがどんな顔をしていたのか、アリアは見る勇気は無かった。

 その夜、結局アリアが朝まで眠れなかったことは言うまでもない。

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