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エピソード32 起死回生の一手

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〈エピソード32 起死回生の一手〉

 イリアとヴァルムガンドルは距離を保ちながら上空で対峙すると、両者とも敵愾心の火花を散らせるように応戦し始める。

 イリアは激しくスパークする特大の光の玉を放ち、ヴァルムガンドルは空中でも直線状に突き進む光の塊を繰り出した。

 両者の戦いは誰の加勢もできないほど苛烈なもので、まさに本物の神と悪魔の戦いだと言えた。

 勇也は互いに好戦的な性格を持つイリアとヴァルムガンドルの足枷が解き放たれたような戦いを見詰める。

 正直、自分が立ち入れるような余地は全くない。

 見ているだけがやっとの状況だ。

 だからこそ、何かできることはないのか、そう考えたものの無様に地面を這いつくばることしかできない。

 今の自分はあまりにも情けなく、そして、無力だった。

 勇也は体の痛みが耐え難いほど酷いものだったので、それを何とかするためにポケットから護封箱を取り出す。

 護封箱の蓋を開けると中から光の球体が出てきて、それはたちまち猫の形を取った。

「ボロボロだけど大丈夫か、勇也!」

 顕現したネコマタがびっくりしたような顔で声をかけてきた。

 さすがのネコマタもいつものようなのほほんとした様子は見せられないようで、その顔には大きな危機感が滲み出ていた。

「大丈夫なものか。とにかく、癒しの法術をかけてくれないか。体中が痛くて死にそうなんだ」

 勇也は血でも吐くように声を絞り出して言った。

「分かった。何とかして治してやるから、待ってろ」

 そう早口で言うと、ネコマタは光り輝く手を勇也の体に向かって翳す。すると、勇也も体の痛みが徐々にだが引いていくのが分かった。

 癒しの法術の力はちゃんと利いている。

 しかし、いかんせん受けたダメージが大きすぎるので、イリアが時間を稼ぐように戦っている内に傷が治るかどうかは分からない。

 仮に傷が完全に癒えたとしても、本気を出したヴァルムガンドルに対しては何もできないだろう。
 
 手も足も出せずに再び叩きのめされるのがオチだし、今度こそ屍にさせられる。

 一方、イリアは最初こそ対等な戦い振りを見せていたが、次第にヴァルムガンドルの力に押され始める。

 ヴァルムガンドルの力は底無しな感じだったし、イリアの力が尽きる方が早いだろう。

 今のイリアは風前の灯火と言って良い。

 それでも、イリアは最後まで諦めずに戦うはずだ。自分のように、もう駄目だと諦念に支配されて、屈したりはしない。

 それが上八木イリアという名の女神の在り方だし、彼女の設定を作ったのは自分なので、イリアが巨悪を前にして退くことはあり得ない。

 だけど、自分が半ば押しつけてしまっているその設定こそがイリアを死地に追い込んでいるのだ。

 このような事態に陥ることは全く予期できなかったとはいえ、何て軽はずみなことをしてしまったんだと後悔の念に圧し流されそうになる。

 そんなことを勇也が考えている内に、イリアはヴァルムガンドルの攻撃を避けるだけで精一杯になる。

 可憐なメイド服の裾はズタズタに引き裂かれていたし、肌も所々が血を流しながら裂傷している。

 それは見るからに痛々しく、正視することを躊躇わせた。

 それでもイリアの横顔は凛冽としていて、ヴァルムガンドルへの怯懦に負けるような素振りはこれっぽっちもなかった。

 むしろ、この時ほどイリアの顔が眩く見えた時もない。

 おそらく、イリアは自分の命をこの戦いで使い切ろうとしているのだ。この町の平和を守るために、全てを擲とうとしているのだ。

 何という清冽な覚悟だ。

 ヴァルムガンドルは光りの塊ではかわし続けられ、埒が明かないと思ったのか、急速に間合いを詰めると直接、大剣で切り伏せようとしてくる。

 接近戦に持ち込まれたらイリアに勝ち目はない。

 その上、ヴァルムガンドルの大剣は輝くだけでなく、紫色のオーラも纏っていて、そのオーラがイリアの服に触れるとその部分が紫色の炎で勢い良く燃え上がった。

 あれは掠るだけでも、かなりのダメージを受けてしまうぞ。

 とうとう逃げられなくなったイリアは迫りくる大剣を華奢な腕で握り締めるステッキで受け止めた。

 余程、頑丈なのか、玩具のようなステッキは折れはしなかったが、ヴァルムガンドルの大剣から発せられるオーラはイリアの手を燃やし始めた。

 イリアは弾かれたようにヴァルムガンドルと距離を取ると、間合いを維持するために弾幕を張るように光の玉を放った。

 が、ヴァルムガンドルは目を見張る神業のような剣技で、向かってくる光の玉を悉く弾き返すと再びイリアと切り結ぼうとする。

 イリアはマシンガンのように光の玉を放ち続けたが、躍動するように進み出てくるヴァルムガンドルを寄せつけないようにすることは叶わない。

 そして、遂にヴァルムガンドルの大剣の一撃はイリアの体を的確に捉えると、肩から胸の辺りまでをバッサリと袈裟懸けに切り裂いた。

 大量の鮮血が宙を舞ったが、それでも傷は思ったよりも浅かったのか、イリアは決死の遁走を計り、またヴァルムガンドルと距離を取った。

「このままじゃ、イリアが殺されちまうし、早く治してくれ、ネコマタ!」

 勇也は痛む体を無理やり動かして懸命に立ち上がろうとした。が、それをネコマタが強い口調で止める。

「無理に動いたら駄目だ、勇也。お前だって相当なダメージを負ってるし、死にたいのか!」

 ネコマタも勇也に負けず劣らずハラハラした顔で上空を見ている。イリアのことを心配しているのは勇也だけではない。

「でも……」

 勇也は焦慮な気持ちに流されつつ口籠った。

「早く体を治して、ここから逃げるんだ。イリアはきっとそのための時間を稼ごうとしている」

 ネコマタの言葉に勇也は目を剥いた。

「俺だけ、ここから逃げろって言うのか! そんなことできるはずがないだろ!」

 勇也の口から喉が腫れ上がるような激情が迸った。が、ネコマタは動じるわけでもなく、どこか達観したような面持ちで首を振る。

 それを見て、勇也はネコマタが本気で逃げろと言っているのだということを激痛の中で理解した。

「でも、勇也が頑張ったって、もう何もできやしない。イリアの気持ちを無駄にしたら駄目だ」

 ネコマタの言葉はやるせない響きに満ちていた。

「そんな……」

 勇也は言葉を失ってしまう。

 イリアを見捨てるくらいなら死んだ方がマシだと言いたかったが、そのイリアが自分を助けるために必死に命を張ってくれている。

 それを無駄にすることはイリアをより悲しませ、不幸にするのではないか。自分のつまらない意地で彼女の思いを踏み躙って良いのか。

 この世には意地やプライドよりも大切なものがたくさんある。イリアの戦う後姿はそのことを象徴しているのではないか。

 それを見てもまだ幼児のような駄々をごねるつもりなのか。

 だが、そうと分かっていても、やっぱり、自分はイリアを見捨てることなんてできない。できるはずがない。

 イリアは孤独に独り暮らしをしていた自分の家族になってくれた女の子だから……。

 それは認めるのは恥ずかしいけれど、本当に嬉しいことだったんだ。態度ではイリアとの生活を迷惑がっていたけど、あれは本心じゃなかった。

 今ならはっきりと言える。

 本当は彼女との生活が嬉しくて、楽しくてしょうがなかったんだ。

 もう家族は失いたくない。二度と失ったらいけないんだ!

 父さんも母さんも生きているのに俺の傍からいなくなってしまったから。

 だから、イリアだけはいつまでも俺の傍にいて欲しい。もう二度と俺を一人にしないで欲しい。
ずっと俺の心を支え続けて欲しい。

 それが幼児のような我が儘だということは自分が一番、よく理解している。

 でも、引き下がることはできない。

 ここで引き下がったら、もう二度と胸を張って人生を歩むことはできなくなると思えるから。

 どのみち、ここで逃げてもヴァルムガンドルはモニュメントの秘密を知る自分を殺しにどこまでも追ってくるだろう。

 それなら、死を覚悟してイリアと共に華々しく戦って散った方が後悔しなくて済む。

 最後の最後までイリアと一緒にいよう。

 それが本当に短い期間ではあるけれど、俺の偽ることのない幸せなんだ。

 その思いだけは誰にも変えられない。変えてはいけないんだ!

 そう勇也が慙愧の念すら感じるように思ったその時、着ている服の内側の胸ポケットからするりとスマホが落ちた。

 勇也がぎこちなくスマホを手にすると、幸いにもスマホは革のケースに包まれていたので奇跡的に壊れてはいなかった。

 でも、誰かに電話したところで助けに来てくれることはないだろう。

 ソフィアさんなら、とも思ったが途中で考えるのを止めた。彼女はこの件については助けることはできないとちゃんと警告したのだから。

 仮に、彼女をここに呼び寄せることができても死人が多くなるだけだろう。あのヴァルムガンドルには誰も敵わない。

 そう全てを諦めかけたその時、勇也の脳裏に天啓のような刺激が暴れ巡った。

「そうだ、これだ!」

 生き返ったような顔をした勇也はそう叫ぶと、起死回生の一手を打つためにスマホを操作し始めた。

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