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エピソード25 心と体の癒し

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〈エピソード25 心と体の癒し〉

 一日経っても精魂が戻らない勇也はベッドの上で倒れ込むようにして寝そべっていた。その横には茶トラの猫がいて、眩く光る手を翳している。

 それは何とも柔らかな光で、自分の精神が心地良く揺蕩うのを感じる。まるで温水に浸かっているかのようだ。

 式神のネコマタは、羅刹神との戦いで魔力と反発する神気の力を借り、それを大きく振るった反動で動けなくなった勇也に向かって癒しの法術をかけていたのだ。

 ここがネコマタの一番の見せ場だと言えたし、本人の意気込みも大きい。

 ネコマタは不貞腐れる時もあるが、普段の言動からも分かる通り、基本的に根の良い奴なのだ。

 だから、自分の中のエネルギーをかなり消耗することを覚悟で、癒しの法術をかけていた。

 一方、それを見守るイリアは看病するように勇也の患部に濡れたタオルを何度も取り換えながら置いている。

 それはまるで病院の看護婦のようだった。

 勇也もメイド服じゃなくてナース服を着ければ良いと冗談を言いたくなる。お喋りができる状態ではないので口にはしないが。

 でも、そのくらい、今のイリアは看護婦のような様になっていたし、イリアならナース服だけでなく、どんな服を身に着けさせても、それを違和感なく着こなして見せるだろう。

 まさに、一流のアイドルだし、イリアの容姿ならあらゆる雑誌のトップページを飾ることも夢ではないはずだ。

 そう思えるだけの抜きん出た華がイリアにはある。

 そんな二人の献身的な看病に多大なる感謝しながら勇也は気持ち良さそうに目を瞑る。

 護封箱の中に引っ込んでいることが多いネコマタはともかく、イリアとは一緒に暮らしていて良かったとしみじみと思った。

「よーし。これくらいで良いだろ。もう動いても体は痛くならないと思うぜ、勇也」

 ネコマタがそう太鼓判を押すように言うと、勇也は今まで痛みで軋んでいた腕をゆっくりと持ち上げる。
 すると、絶え間なく襲ってきていた激痛が嘘のように消えていた。

「あ、ありがとう、ネコマタ」

 勇也は倦怠感こそあったものの痛みが何も感じなくなった体を大きく動かして見せる。

 やはり、痛みは走らないし、まるで、生き返ったような心地だ。黄泉の国から舞い戻るとはこのことか。

 今更ながら、生きていることは、ただ、それだけで素晴らしいと思える。

「良いってことよ。勇也には水月堂の饅頭をたくさん食わせてもらったからな。おいらだって、その分くらいは働くよ」

 ネコマタはお腹を大きく突き出しながら得意げに言った。

「そう言ってくれると助かる。でも、本当に纏わりつくような痛みがなくなったな。お前の力も大したもんだよ」

 水月堂の饅頭を食わせてやっただけの価値はあったし、この次は奮発して栗の入ったどら焼きも買ってやるかな。

 ま、働きに見合う分の報酬を渡すのは吝かではない。

「へへーん。おいらだって一応は神だからな。これくらいのことができなきゃ、そこらの野良猫と一緒になっちまうぜ」

 ネコマタは手放しで褒められて気を良くしたのか、白い毛になっているお腹を肉球で何度もポンポンと叩いた。
 それを見て、相変わらず扱いやすい性格をしている奴だなと、勇也も笑壺に入るような顔をしながら自分の顎を撫でる。

「確かにな。よし、近い内にまた水月堂で饅頭を買ってやる。しかも、今度は前よりも値段の高いやつだ」

 勇也は必要以上にケチケチしていた昔とは違い、良い形でお金が使えるようになってきたことを実感する。

 やっぱり、お金は使わなきゃ駄目だ。

 別に無理して使うことはないが、それでも良いお金の使い方というものは日頃からしっかりと学んでおかなければ。
 でないと、かえって損をすることになりかねない。

「そいつは嬉しいな。やっぱり、新しいご主人様が勇也で良かったぜ。ソフィアも勇也においらを託すなんて見る目があるなぁ」

「まったくだ。ソフィアさんも俺とお前の相性はよく考えてくれていたのかもな。だから、こうして意気投合ができてる」

「聡明なソフィアなら、そうかもな」

「ああ。何事も信頼して任せられるような関係でなければ、主従の関係なんて成り立たないものさ」

 勇也は時代劇で使われた言葉を思い出しながら言った。

「その通りだな。まあ、おいらは人間よりもずっと長生きだし、虫の好かないご主人様にも何度か出会ったけど、勇也は今までで一番良いご主人様だ」

 ネコマタは勇也のことを本当に高く評価しているようだった。それだけに、その評価を裏切ることにならなければ良いが、と勇也も憂える。

 まあ、下僕である式神に愛想を付かされるようでは、人知を超えた力を求められる裏の世界では生きていけないな。

「そこまで持ち上げられると恥ずかしくなるな」

 勇也も視線を泳がせながらボリボリと頬を掻く。でも、ネコマタの他意のない賛辞に悪い気はしていなかった。

「だけど、本当に凄いですよ、ネコマタさんは。あれだけ調子の悪そうだったご主人様を全快させるなんて。この機会に私にも癒しの法術の使い方を教えてくださいよ」

 横から強請るように口を挟んだのはイリアだ。が、ネコマタの反応はなぜか渋いし、何とも言い難そうな素振りで口を開く。

「うーん、そうは言ってもイリアには無理だと思うよ」

 ネコマタは急に難しい顔をして、イリアの期待に満ちた顔を上目遣いに見た。

「どうしてですか?」

 イリアの眉根が八の字の形を作るように寄った。

「はっきりとしたことは分からないんだけど、イリアからは神様というよりは悪魔に近い力の質を感じるんだ」

 ネコマタも確かな考察を持っているわけではなく、感覚に頼っているような口振りで言った。

 勇也もイリアを例えるなら悪魔じゃなくて天使だろと言いたくなった。が、戦っている時のイリアの横顔を記憶から引っ張り出すと、やっぱり悪魔かなと思ってしまう。

「そうなんですか? でも、私は悪魔ではありませんよ。魔術や悪魔の世界に通じるような名前は付けられているみたいですけど」

「そっか。となると、おいらの感じ方が間違っているのかもしれないな。でも、このエネルギーの波長は悪魔のものによく似てるんだけどなー」

 ネコマタは腕を組みながら不明瞭さを感じさせるような言い方をした。

「じゃあ、尋ね方を変えますけど、どうして悪魔だと癒しの法術が身に着けられないんですか?」

 イリアは悩ましさを見せているネコマタに追い打ちをかけるが如く、鋭く切り込むように質問した。

「おいらだって、専門家じゃないからあんまり詳しくは説明できないけど、悪魔って奴は基本的に自分を癒すことはできても、他人を癒すことはできないことが多いんだよ」

 創造神の僕の中でも他者を癒すことができないような者たちが悪魔へと墜ちやすいという雑知識は勇也もダーク・エイジのサイトで手に入れていた。

「へー」

 平静を装うようにわざとらしく間延びした声を発するイリアの目には懊悩するような感情が見え隠れしていた。
 それを見て、ネコマタも何とも申し訳なさそうなショボンとした顔をする。

「その代わり、攻撃力や自己治癒力は半端ないんだけどな。ま、生まれ持った性質の違いってやつさ。ただの式神のおいらとしては、そうとしか言いようがない」

 ネコマタは励ますようにイリアの肩を叩くと、何事も役割分担が大事なんだよなと付け加えるように言った。

「なるほど。だから、ネコマタさんは生まれ持った性質故に攻撃的な力がほとんどないんですね」

 イリアは悪気はないのだろうが、自らの心の燻ぶりをぶつけるような言い方をする。これには自分を卑下しがちなネコマタも少しだけ気分を害したような顔をした。

「ちょっと悔しいけど、そういうことだな。神様だって色んなタイプがいるのさ。もちろん、式神もな」

 ネコマタはひょうげるように言うと、首を竦めながら言葉を続ける。

「ただ、創造神に創られた悪魔はそうじゃないみたいだし、今のおいらじゃ、悪魔に似た波長を持つイリアを教えることはできないよ」

 ネコマタの止めを刺すような言葉を聞くや、イリアもがっくりと肩を落として項垂れた。

「なら、今は諦めるしかないというわけですか。でも、私は何と言われようと、いつか必ず誰かを癒せるような力を身に着けて見せます」

 イリアは一転して万丈の気を吐くように言った。

「その意気込みは良いと思うな。悪魔はともかく神様のやることを常識で図ろうとしても、上手くいかないことが多いし」

「では、神様である私なら、努力次第で道が開ける可能性はあるってことですね」

「その通りだよ。神様の可能性はそれこそ無限だ。どんなに難しいことでも、諦めさえしなければできるようになる可能性はあるよ」

「さすがネコマタさんですね。説得力のあることを言ってくれますし、おかげで私も希望が持てるようになりました」

 イリアは意気揚々とした声で言った。

「それは良かった。ま、おいらはどこまでもイリアのやることを応援しているから頑張ってくれよ」

 ネコマタがイリアのやる気を後押しするように言って話を締め括ると、見計らったかのようなタイミングでピンポーンと玄関のチャイムを鳴らす音が聞こえてくる。

 まだ横になっていたかったが、家主ではないイリアに顔を出させるわけにはいかないと思いベッドから立ち上がる。

 その間も玄関のチャイムは聞く者を苛立たせるように、しつこく鳴り続ける。

 それを受け、勇也は完全に元のコンディションを取り戻した顔で自室を出る。

 玄関まで辿り着くと最近、特に多い新聞の勧誘だったら嫌だなと思いながら玄関のドアを開けた。

「よっ、勇也。元気にしていたか?」

 ドアの前にいたのは武弘と雫の幼馴染コンビだった。二人ともラフで涼しそうな恰好をしていて手には少し大き目のバッグを持っている。

 これには勇也も思わず鼻白んでしまった。

「……こ、こんにちは、柊君」

 雫はいつも以上に緊張しているのか、ぼそぼそとした聞き取りにくい声で挨拶をする。そこがまた初々しいし、イリアにもこのお淑やかさは見習ってもらいたい。

「二人ともどうしたんだよ?」

 武弘が自宅に押しかけてくるのは別段、珍しいことではないが、雫も一緒だというのは初めてのパターンだった。

 それだけに、心が色を為すように湧き立つのを感じる。

 まさか、お見舞いに来てくれたのかとも思ったが勇也はすぐにその可能性を否定した。

 自分が動けなくなるほどの肉体的なダメージを受けていたことを、この二人が知るはずがない。

「どうしただと? 夏休みなのに連絡一つ寄こさないから、様子を見に来たんだよ。って、言うのは建前でこれから俺たちとプールに行かないか?」

 武弘は悪巧みでもしていそうな顔でニヤリと笑う。この笑みには警戒しないと痛い目に遇う。

「プールか。そう言えば、夏休みにプールに行ったことなんてここ数年、なかったな」

 武弘の思惑はともかく、この暑さならプールは悪くないかもしれないと勇也も思う。今の自分の体には活力が戻っていたし、それは良い形で発散したい。

「俺とて同じだ。学校の授業以外でプールに行ったことなんて、小学生の時の市民プール以来だからな」

「俺はその市民プールにさえ、一度も行ったことがないよ」

「そうか。とにかく、雫がプールのチケットを四枚ももらったんだ。しつこく勧誘してきた保険屋からな」

 武弘が雫にさり気なく目配せすると雫はおずおずとした態度で口を開く。

「め、迷惑かな……」

 雫にこんな乞うような顔をされたら健全な少年である勇也としては断るすべを持たなかった。

「そんなことはないよ、宮雲さん。ちょうど体を動かしたいと思ってたところだし、グッドタイミングさ」

 勇也は雫の厚意を無下にするわけにはいかないと思い、そう快諾していた。それから、何とも体裁が悪そうに続けて口を開く。

「そのプールにはイリアも行って良いのか? イリアなら今、家にいるし、あいつを残して自分だけ楽しむのも気が引けるんだが」

 勇也は散々世話になっているイリアを除け者にすることはできないと思いながらそう申し出る。

 今のイリアは家族みたいなものだし、彼女に対して後ろめたい気持ちを抱くのは嫌だった。

「別に構わないが、あの外国人と一緒にいるだと。お前ら一体、どういう関係だ?」

 さすがの武弘も驚きを隠せないといった表情を浮かべたし、これには勇也も針の筵のような気分になる。
 ここは面の皮を厚くして、誤魔化すしかないな。

「いや、遠い親戚同士だよ。別にお前が想像しているようなことは何もないし、変な邪推はしてくれるな」

 勇也は例え嘘だと分かっていても、すぐに自分の状況を察してくれる武弘の頭の回転の良さを信頼しながら言った。

「良いだろう。なら、これで決まりだし、今日までの期限のチケットが一枚も無駄にならなくて良かった。やはり、持つべきものは友達だし、雫も別に構わないな?」

 武弘は全てを見抜いたかのような顔で笑うと、雫に同意を求める。それを受け、雫は虚を突かれたような顔をする。

「……うん」

 雫はぎこちなく返事をしたものの、顔の表情の方は柔らかく綻ばせていた。

 それを見て、勇也も雫が嫌な顔をしなくて良かったと胸を撫で下ろす。

 これが普通の女の子だったら絶対に腹に一物があるような顔をしただろうし、やっぱり、雫の心は綺麗だ。

 ちなみに、武弘や雫が手にしているのはプールのためのバッグに違いない。

 もし、自分が断っていたら、武弘と雫は二人でプールを楽しんでいただろうし、それは勇也としても甚だ面白くなかった。

 やっぱり、自分は雫のことを異性として意識していると再確認させられる。

 が、ではイリアはどうなのかと自問してみたが、気が急いていたせいか明確な答えは出なかった。

 そう考えた後、勇也は雫やイリアの水着姿は可愛いだろうなと心の中で鼻を伸ばす。

 燦然と輝くであろう二人の水着姿を目の保養にできるのなら、疲れているなんて気の抜けことは言ってはいられない。

 むしろ、二人の水着姿から元気を頂くようなつもりでいなければ。

 こうして、勇也は激戦の後遺症から立ち直ったばかりだというのに、早くも真夏のプールに行く運びとなった。


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