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エピローグ最終話・姉弟
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ずっと、考えていたことだった。
「………えっ」
「お父様のことも、お母様のことも、お兄様のことも。誰のことも許さなくていいんです。許さないままでも家族の形は保ったままですし、あの人たちも許してほしいなんて浅ましいことは考えていないでしょう」
「………」
「だから、距離を置くのはどうですか?僕と一緒に家を出て、物理的な距離を取るんです。僕と一緒に起業しましょう」
「………タイム」
「はい」
額を抑え、姉にしては珍しい表情でこちらを見遣った。ゆるゆると緩慢な仕草で紅茶を口に含み、ソーサーにカップを戻すと、しばらくしてからまたティーカップに口をつけ、何度かそれを繰り返して、やっと目が合う。心なしか力の入っていない眼力は、探る様な色に満ちていた。
「………本気かしら」
「本気です」
「………ど、どうして私なの?」
恐る恐る、どこか聞きづらそうに訪ねてきた姉は、どうやら本当に理由が察せないらしかった。
「前々から思ってたんですが」
一呼吸置いてから、声に出した。
「お姉様は、きっと、働くことがお好きですよ」
「……え?」
幼い表情で目を瞬かせた姉に、安心させる様な声色を心がけて話しかける。
「お姉様、言いましたよね。結婚が憂鬱だと」
「は、はい。そうね」
「僕と一緒に来れば、女のくせに事業を起こした変人として嫁の貰い手が無くなります」
「…………」
絶句している彼女の姿を見て、自然と口角が上がった。畳み掛けるように、頭で用意していた言葉を投げかける。
「勿論王子様と堅苦しい結婚生活を送らないで済みますし、お父様達とも距離を置くことで、お互い理性的に関係を続けられます。社交の場に出る回数もぐんと減りますし、学園で学んだことを活かせます。女性に必要ないと言われてきた知識や学が、何よりも助けになるんです。
それに、僕と一緒に仕事をして、楽しくないはずがありません。一緒に来ませんか、お姉様」
____自分と一緒にいて、楽しくないはずがない。
キッパリとそう言い切ったレオンの姿を見て、ソフィアの心が微かに揺らいだ。
どこかで、ずっと夢見ていたことだ。
社交の場に出るよりも、刺繍をすることのほうが好きだった。
化粧をするよりも、本を読むほうが楽しかった。
噂話に興じるよりも、討論に花咲かせる男性達のほうが羨ましかった。
夢の中の自分は、小さな帽子屋さんを営んでいて、そこでは男も女も関係ない。時折花売りがやってきて、店の前にそれを飾ると、その華やかさに釣られて人が入る。売り上げはマチマチだけれど食べるのには困らなくて、自分の裁縫を、お客さんがニコニコと褒めてくれる。
小さな子供がキャンバスに描いたような、稚拙な、ふわふわとした空想だった。
侯爵家に生まれた一人娘。その立場の重さは生まれた時から教え込まれてきたし、その立場故恵まれた生育環境が与えられてきた。
だから、頭の中で思い描くことはあれど、実行しようなんて考えたこともない。そんなことを、周りの環境が許してくれるはずも無かった。
でも、今なら?
両親と兄と距離を置きたいから、と言えば、彼等は強く反発できない。まして、縁を切る訳でもないのだから、止めることは不可能だろう。レオンが事業を起こすことを父は知っているらしいし、最悪家督を継ぐお兄様さえ残れば、渋々ソフィアの出奔も了承してくれるはずだ。
もし、本当にそうなれば、後ろ指を指されるだろう。
貴族のくせに、女のくせに、と。今まで優しくしてくれた人に軽蔑もされるだろう。第二王子の婚約者候補で、侯爵令嬢という揺らがぬ地位を見越して善意を施してくれたのだから。
ああ、でも。
「お姉様、お返事は今じゃ無くてもいいですよ。色々と考えることは山積みですから。お父様達からしてみれば、償いの機会を奪われることが何よりも苦しいでしょうし、そういう面で言うとお姉様も本意ではないでしょう?」
「………そうね」
「でも、覚えておいてください。お姉様には選択肢がある。僕の手を取って家を出るもヨシ。お嫁に行って王子様に尽くすのもヨシ。僕はいつでも待ってますから、ヨボヨボのおばあちゃんになってからだって構いません。決断して頂くのは」
「レオン」
「はい」
「私がいたら、少しは役に立つのかしら」
「勿論です。お姉様がいるだけで楽しいですし、どちらかと言うと富裕層向けの営業が多くなるので、そういった点でも大変心強いです」
「私がいたら嬉しいかしら」
「はい。お姉様が居てくれるだけで百人力です」
ニッコリと、ソフィアの背を押す様にレオンが微笑んだ。
既にその時、心は決まっていた。いつか後悔する時がくるかもしれない。上手くいく保証なんて、どこにも無いのだ。そもそも目論見は外れて、お父様はこの決断を尊重してくれないかもしれない。
けれど、でも。
「………レオン、私ね、貴方にどうやったら恩返しができるだろうって、ずっと考えていたの。それが今、やっと形になって目前に現れてくれたみたい」
「………!それって」
「一緒にやってみたいわ。………しばらく二人三脚ね」
思えば、この数ヶ月間は目まぐるしかった。
ナタリーのいた日々は辛いものだったけど、あの耐え抜いた日々も無駄では無かったのだろう。現に姉弟の仲は深まり、あの食事会が起業のきっかけにもなっている。家族はまだ元の形には戻れないけれど、現状維持を許してくれる環境がここにはある。これからの人生がどうなるのか分からないし、心の傷は癒えないが、前を向くきっかけはいつもレオンが与えてくれた。
「…………まさか、この場で返事を貰えるとは思いませんでした。でも、いいんですか?僕と一緒に来るということは、貴族令嬢としての幸せは無いということですよ」
「いいの。私、きっと向いていないんだわ、そういうの」
「まあどこに行ってもお姉様は引く手数多だと思いますけど……。ですが、そうと決まれば話は早いですね。何人か使用人を引き抜いてもいいという話になっています。お姉様が来ると聞けば、ミカエルらもついてくるでしょうし。さあ、これからやることは砂粒よりも多いですよ。お姉様にやっていただきたいこともリスト化しておきます。まだ事業を発表する段階にも至ってませんし……コネ作りにも奔走しないと。ああそれから……」
「レオン」
「ん?」
「頑張りましょうね」
ありがとう、と内心で呟きながら、ソフィアはそっと笑った。
「………えっ」
「お父様のことも、お母様のことも、お兄様のことも。誰のことも許さなくていいんです。許さないままでも家族の形は保ったままですし、あの人たちも許してほしいなんて浅ましいことは考えていないでしょう」
「………」
「だから、距離を置くのはどうですか?僕と一緒に家を出て、物理的な距離を取るんです。僕と一緒に起業しましょう」
「………タイム」
「はい」
額を抑え、姉にしては珍しい表情でこちらを見遣った。ゆるゆると緩慢な仕草で紅茶を口に含み、ソーサーにカップを戻すと、しばらくしてからまたティーカップに口をつけ、何度かそれを繰り返して、やっと目が合う。心なしか力の入っていない眼力は、探る様な色に満ちていた。
「………本気かしら」
「本気です」
「………ど、どうして私なの?」
恐る恐る、どこか聞きづらそうに訪ねてきた姉は、どうやら本当に理由が察せないらしかった。
「前々から思ってたんですが」
一呼吸置いてから、声に出した。
「お姉様は、きっと、働くことがお好きですよ」
「……え?」
幼い表情で目を瞬かせた姉に、安心させる様な声色を心がけて話しかける。
「お姉様、言いましたよね。結婚が憂鬱だと」
「は、はい。そうね」
「僕と一緒に来れば、女のくせに事業を起こした変人として嫁の貰い手が無くなります」
「…………」
絶句している彼女の姿を見て、自然と口角が上がった。畳み掛けるように、頭で用意していた言葉を投げかける。
「勿論王子様と堅苦しい結婚生活を送らないで済みますし、お父様達とも距離を置くことで、お互い理性的に関係を続けられます。社交の場に出る回数もぐんと減りますし、学園で学んだことを活かせます。女性に必要ないと言われてきた知識や学が、何よりも助けになるんです。
それに、僕と一緒に仕事をして、楽しくないはずがありません。一緒に来ませんか、お姉様」
____自分と一緒にいて、楽しくないはずがない。
キッパリとそう言い切ったレオンの姿を見て、ソフィアの心が微かに揺らいだ。
どこかで、ずっと夢見ていたことだ。
社交の場に出るよりも、刺繍をすることのほうが好きだった。
化粧をするよりも、本を読むほうが楽しかった。
噂話に興じるよりも、討論に花咲かせる男性達のほうが羨ましかった。
夢の中の自分は、小さな帽子屋さんを営んでいて、そこでは男も女も関係ない。時折花売りがやってきて、店の前にそれを飾ると、その華やかさに釣られて人が入る。売り上げはマチマチだけれど食べるのには困らなくて、自分の裁縫を、お客さんがニコニコと褒めてくれる。
小さな子供がキャンバスに描いたような、稚拙な、ふわふわとした空想だった。
侯爵家に生まれた一人娘。その立場の重さは生まれた時から教え込まれてきたし、その立場故恵まれた生育環境が与えられてきた。
だから、頭の中で思い描くことはあれど、実行しようなんて考えたこともない。そんなことを、周りの環境が許してくれるはずも無かった。
でも、今なら?
両親と兄と距離を置きたいから、と言えば、彼等は強く反発できない。まして、縁を切る訳でもないのだから、止めることは不可能だろう。レオンが事業を起こすことを父は知っているらしいし、最悪家督を継ぐお兄様さえ残れば、渋々ソフィアの出奔も了承してくれるはずだ。
もし、本当にそうなれば、後ろ指を指されるだろう。
貴族のくせに、女のくせに、と。今まで優しくしてくれた人に軽蔑もされるだろう。第二王子の婚約者候補で、侯爵令嬢という揺らがぬ地位を見越して善意を施してくれたのだから。
ああ、でも。
「お姉様、お返事は今じゃ無くてもいいですよ。色々と考えることは山積みですから。お父様達からしてみれば、償いの機会を奪われることが何よりも苦しいでしょうし、そういう面で言うとお姉様も本意ではないでしょう?」
「………そうね」
「でも、覚えておいてください。お姉様には選択肢がある。僕の手を取って家を出るもヨシ。お嫁に行って王子様に尽くすのもヨシ。僕はいつでも待ってますから、ヨボヨボのおばあちゃんになってからだって構いません。決断して頂くのは」
「レオン」
「はい」
「私がいたら、少しは役に立つのかしら」
「勿論です。お姉様がいるだけで楽しいですし、どちらかと言うと富裕層向けの営業が多くなるので、そういった点でも大変心強いです」
「私がいたら嬉しいかしら」
「はい。お姉様が居てくれるだけで百人力です」
ニッコリと、ソフィアの背を押す様にレオンが微笑んだ。
既にその時、心は決まっていた。いつか後悔する時がくるかもしれない。上手くいく保証なんて、どこにも無いのだ。そもそも目論見は外れて、お父様はこの決断を尊重してくれないかもしれない。
けれど、でも。
「………レオン、私ね、貴方にどうやったら恩返しができるだろうって、ずっと考えていたの。それが今、やっと形になって目前に現れてくれたみたい」
「………!それって」
「一緒にやってみたいわ。………しばらく二人三脚ね」
思えば、この数ヶ月間は目まぐるしかった。
ナタリーのいた日々は辛いものだったけど、あの耐え抜いた日々も無駄では無かったのだろう。現に姉弟の仲は深まり、あの食事会が起業のきっかけにもなっている。家族はまだ元の形には戻れないけれど、現状維持を許してくれる環境がここにはある。これからの人生がどうなるのか分からないし、心の傷は癒えないが、前を向くきっかけはいつもレオンが与えてくれた。
「…………まさか、この場で返事を貰えるとは思いませんでした。でも、いいんですか?僕と一緒に来るということは、貴族令嬢としての幸せは無いということですよ」
「いいの。私、きっと向いていないんだわ、そういうの」
「まあどこに行ってもお姉様は引く手数多だと思いますけど……。ですが、そうと決まれば話は早いですね。何人か使用人を引き抜いてもいいという話になっています。お姉様が来ると聞けば、ミカエルらもついてくるでしょうし。さあ、これからやることは砂粒よりも多いですよ。お姉様にやっていただきたいこともリスト化しておきます。まだ事業を発表する段階にも至ってませんし……コネ作りにも奔走しないと。ああそれから……」
「レオン」
「ん?」
「頑張りましょうね」
ありがとう、と内心で呟きながら、ソフィアはそっと笑った。
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