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9 不思議の国の王女
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中原たちが再び磐船講エントランスに立ったのは、美希の襲撃を受けてから約一時間半後のことだった。トレーニングになるからと亜沙美を背負って移動していた美希は、身体が程よく温まっており準備万全だ。
「まさか一日に二回も来ることになるとは……」
うんざりした調子で言う中原のふくらはぎを、かなたは脳内で蹴飛ばした。あまり身体が丈夫な方ではなく、他の三人に比べて干支一回りほども歳上の中原には、そろそろ徒歩での移動が苦痛になりつつある。亜沙美のように率直には口にしなかったが。
「じゃあ行くよ。準備はいい?」
「もうダメであります。受付前の椅子で休みましょう」
美希は突入の覚悟を迫り、亜沙美は突入しての休憩を提案する。世界観を共有していないため、会話が咬み合わない。
「まあ身構えずに入りましょう。休憩には私も賛成です」
「何だね君たちは」
四人は背後から声をかけられ、めいめいに振り返った。ひときわ早く反応した美希だけは、試合中の格闘技選手のように腰を低く落とし身構えている。声の主は黒いスーツに赤いネクタイを締めた長身の男性で、全身からどことなく前時代的な雰囲気を漂わせていた。タイトルが縦書き赤文字の色あせた映画のポスターから抜け出てきたような印象だ。モノクロ映画の音声よろしく、声が篭って聞こえたなら完璧だっただろう。
「失礼しました、私たちは布留川女学院のもので……」
「おおそうか、そういえば矢加部がそのようなことを言っていたね。こちらこそ失礼した、僕は初瀬という。四月からここで主に財務を担当している」
美希も郷土史研究部という身元詐称をさせる予定だったが、初瀬と名乗る昭和男は学校名だけで納得してしまった。
「お嬢さんはおそらく図書区画にいるか、そうでなければ和室区画を探すといい。どちらかで勉学に励んでいるはずだ。本来は水先案内ぐらいすべきなのだろうが、これでなかなか忙しい身でね。ああそこの童女、食べカスはこぼさないようにしてくれたまえよ。ここの連中は掃除が苦手だ。館内には明るいかね?」
「あ、ああ、一度見て」
初瀬は早口で次々とまくしたて、かなたが言い終えるのも待たずに、それは結構ではまた、と挨拶して建物東側へと早足で歩き去った。
「……絶対なにか勘違いされてるな」
「まあ、よしとしましょうか。それほど問題はなさそうだし」
「千花を探してることを知ってた。やっぱり……何だろう?」
事態をよく飲み込めていない美希を促し、中原たちは再び磐船講の敷居をまたいだ。
「今まで、数え始めてから約四百二十万五千粒ほどの食べカスをこぼしてきました。私は罪深い人間です。悪魔の手先です」
「気にしなくていいよ……」
相変わらず館内に人の姿はなく、四人はいたって平穏無事に入場できた。潜入経験のあるかなたを先頭に、四人は図書区画へと向かう。
「本当に何もなかったね。さっきの人もなんか、悪者って感じじゃないし」
「まだ分からないよ。上辺だけならいくらでも取り繕えるものだ」
「まあ、一目で秘めたる悪意が分かるなら、誰も騙されたりしませんしね」
「なにこれすごい。教会?」
美希が感嘆の声を上げた対象は、途中にあるパイプオルガンだった。
「女学院にあるものよりは小規模ですが、これってかなりメンテナンスが必要なものでは……」
「かなたちゃん弾けますよね」
「いやピアノならできるけど……たぶんいろいろ違うでしょ。賛美歌なら歌えるけどね」
亜沙美は初瀬の指摘に一応気を使っているのか、個包装された一口大のチョコレートコーティングクッキーを選んで食べている。これなら食べている最中に口を開けたりしない限り食べこぼしはない、と中原が思った矢先に亜沙美は咳き込んだ。
道のりはそれほど複雑でない筈が、かなたは道を間違い和室区画に到着した。靴を脱いで畳に座れる小上がりのような場所で、自由に立ち入れる休憩スペースとして使われているようだ。道を間違えたことに気付かれないよう、かなたが積極的に入口に向かうと、格子戸の向こうにぼんやりと人影が見えた。把手に指をかけるよりも先に戸が開き、人影が全貌を表す。以前にかなたと亜沙美が出会った、長い髪の、威圧的な美しさを持った少女だ。
「千花!」
その姿を見るなり美希が叫び、駆け寄った。少女はやはり雛母離千花だったようだ。
「美希? どうしてここに」
「だって、突然二週間も休むんだもん。大丈夫?」
「ごめんね、急に。でも、お父さんが学校に連絡したはずだけど……」
美希は、教師たちが事情を説明してくれなかったことや、職員室で聞いた磐船講に関する不穏な噂について話した。もちろん後者については、美希の早とちりに起因する全くの誤解なのだが。
「そんなひどいこと、してないのに」
「でもよかった、病気とかじゃなくて」
「美希には話そうと思ったんだけど、急に……そちらの皆さんは?」
かなたと亜沙美には少し前に会っているが、名前は聞いていなかった。むろん中原は初対面だ。
「あ、この人たちはね。……なんて言えばいいんだろ? 被害者?」
「私は布留川女学院の教師で、中原浹といいます。こちらの二人は生徒で」
「蓮見かなたです。よろしく頼む」
「わ私めは降矢亜沙美と申しまして」
「私は雛母離千花といいます。布留川女学院って、仙寿山の上にある、教会みたいなきれいな学校でしょう?」
かなたの露骨に芝居がかった態度や今にも礼拝を始めそうな亜沙美に気を留めた様子もなく、千花は楚々として挨拶した。浅く会釈をした際に、長く艶のある髪がハープの弦のように肩から垂れ、千花は右手で掬って再び肩にかける。その気品あふれる仕草と髪の合間から漏れる高貴な光を目の当たりにした亜沙美は、邪悪な存在が聖なる光を浴びて溶ける感覚に打ち震えた。
入口で出会った初瀬が、千花と布留川女学院について矢加部から何事か聞いている口ぶりだったことを中原は思い出した。千花自身も女学院について、なにか知っているようだ。
「それより千花、ここに住んでるって本当?」
「ええ。ここが家っていうわけじゃないのよ。ここはお父さんの……仕事場?」
「そうだったんだ。じゃあどうして?」
うん、と小さく相槌を打っただけで千花は口ごもり、うつむいて美希以外の三人を一瞥した。その涙を流す天使像のような退廃的な美しさを、亜沙美は映像記録能力を総動員して脳裏に焼き付けた。
「我々はちょっと図書区画にでも行っていましょう」
美希以外には話しにくいようだったため、中原は席を外すことにした。再来訪の目的はすでに果たせているわけで、布留川の三人はこのまま帰ってしまっても特に問題ないのだ。
千花に見とれて目を見開いたまま動かない亜沙美を引きずるように中原たちが退散すると、美希は千花の隣の座布団に腰を下ろした。肩を寄せて座卓に並び、千花は卓上にあったノートや教科書を閉じる。
「私ね……あの学校に行きたくない。お父さんに言ったの」
「なんで? 何があったの?」
「美希は小学校から、ずっと一緒にいてくれたから……この村の中で、私の実家がちょっと扱いが特殊だったの知ってるでしょう?」
「昔のことはあんまりよく知らないけど……なんか桑田のキモハゲとか、変な呼び方してたよね。イラツメさまとかって」
桑田というのは、二人の中学時代に社会科を担当していた年配の教師だった。異常なほど迷信深く、進路指導と称して動物霊の除霊やUFOへの祈りを勧奨したりした。気に入られた不幸な生徒は、樹脂で固めたコガネムシの殻を繋いで作ったブレスレットなどをプレセントされていたため、ほとんどの生徒から気味悪がられていた。桑田は教員免許状を持たない非常勤講師だったそうだ。
「昔、おじいさんがやっていた事業のせいで、うちの先祖を神様みたいに思ってる人がね、お年寄りのなかに少しいるらしいの」
「うん……高校に入ってから増えたよね、そういう人」
「それでね、その人たちが私を変に特別扱いしてきて……私はそんなの好きじゃないし、お父さんも、そういうことはしないでって学校には言ったんだけど」
「……嫌がらせとか、受けてた?」
千花は悲痛な面持ちで、静かに頷いた。
彼女を特別視する教師はみな狷介な老人で、指摘されて速やかに態度を改める柔軟な精神の持ち主はいなかった。事あるごとに千花を依怙贔屓する教師が複数おり、当然それは他の生徒の嫉妬を呼ぶ。そんな状況が入学から一ヶ月も続くと、何の罪もない千花が、クラスや学年はおろか学校規模で孤立していた。
美希がかなたたちを襲撃した遠因とも言える千花の祖父は、名を雛母離尚嗣といった。根拠のない自信で行動する山師で、同時代的にはありふれた話だが、バブル経済の終焉とともに経済的に凋落した。地価と株価の上昇を無根拠に前提とした、実体経済からあまりにかけ離れた投資判断の誤りが主因である。だが実業を行っていなかったため銀行借入が無く、資産価値の暴落を受け容れて事態を収めることができた。
そして次に目をつけたのが、千花の曽祖父が持っていた、休眠状態にあった単立宗教法人格「磐船講」だった。経済的苦境に陥っていた胡散臭い投資仲間を役員に迎え、表向きは天明教と名乗り、饒速日命をご神体に据え、神道と民間信仰と九字護身法と天気予報をミックスした胡散臭い教義で布施を煽った。
最初の数年は、主に近隣住民を対象として大成功を収めた。牛久大仏を超える巨大ご神体建立や宇宙船のようなデザインの本部建設など、胡散臭く景気のよい話題で怪気炎を上げていた。だが一九九〇年代中頃、新興宗教団体による無差別殺人事件が世界中を震撼させると、風向きは一変する。信者への過激なマインドコントロールや経済的囲い込みが仇になり、脱会した元信者やその家族による訴訟やが相次いだ。教団内部では報酬を巡って役員たちが対立し、さらには雛母離尚嗣の病臥によって、組織は脆くも瓦解を始める。尚嗣の病状はその後回復したものの、天明教の活動は一九九七年に終息した。
関係の浅かった者と極度に深かった者は離れていったのだが、水素水やマイナスイオン程度にご利益を得ていた層は、困ったことに信仰を捨てなかった。それらの一部が天明教と雛母離家を同一視し、現在も神聖視を続けている。これについて、現代表の矢加部は天明教の終焉を明言している。だが雛母離家と矢加部自身に血縁関係がないためか、頑迷な元信徒たちは彼の言葉に耳を貸さない。
図書区画に着くとすぐに、中原と亜沙美は椅子に腰掛けてぐったりとテーブルに突っ伏した。常日頃から亜沙美は授業以外ほとんど部屋から出ず、お菓子を食べながら何らかの画面を眺めていることが多い。バリエーションは、見ているのがパソコンのディスプレイかスマートフォンか、といった程度でしかなかった。
ううとかああとか疲れたといった語を発するだけの二人を横目に、かなたは暇つぶしに書棚を見回して興の乗りそうな本を探した。どれも背表紙に「尾輿村図書館」と書かれたシールが貼られており、かつては公共施設だったことを顕していた。
「とりあえず十分……三十分くらい休みましょう。と言うか我々は、別にここに残ってる必要もなさそうですけど」
「千花様はなぜお休みあそばしていたのでしょう」
「あまり詮索しないほうがいいと思うな」
「それがいいでしょう、デリケートな問題が絡んでるようですし。最適な聞き役は我々ではない」
ようやく一息ついた様子で蔵書に目を向けた中原はともかく、亜沙美はまだ喋ると食べる以外の行動に移れそうにない。二人は書棚を渉猟し、かなたは磐船講を訪れた口実を思い出して、背表紙の日焼けした「雲雀野市の歴史」を手に取った。無関心にパラパラとページをめくると、なぜか中年男性の顔写真とカネに絡んだ単語ばかりが目につく。不思議に思ってカバーを外してみると、中身は「雲雀野市の経営者百選」という本だった。発行者は現在の雲雀野市長らしく、見返しには芸能人のようなサインが書かれている。そこには水産加工会社の経営者や、建設会社でカネの使い込みがバレた経営者や、ツチノコ探索会社を設立したが一年で倒産した経営者などが載っていた。「雲雀野市の経営者百選」を探してカバーを外してみると、中身は「セーラー服と豊島園」だった。かなたはため息をついて本を棚に戻すと、区画の外へ歩き出した。
「蓮見さん、どちらへ?」
「き、聞くな変態! ……トイレ!」
館内図にあったトイレの位置を思い出しつつ、ガラス張りの中庭を横目に総合受付の前を通りかかった。すると、かなたとそう背丈の変わらない年齢不詳の男が、裏返ったような声で話しかけてきた。
「ワタシ犯人じゃないんです! その気はなかったの!」
なんか解決した! かなたは叫びそうになったが、あまりにも唐突なため一応様子を見た。年齢どころか性別も不詳な感のある奇妙な男は、なぜか怯えきっている。
「えーあー、ひ雛母離さんの」
かなたが何とか口を開くと、男は幾分態度を緩めた。
「あら。あらそうなのねおおおお嬢さんのお友達だったの。でも矢加部さんに用があるときは私に話して頂戴ね。受付の羽鳥にまず話を通すのね!」
羽鳥と名乗った男は早口でまくし立てながら徐々に後ずさり、逃げるように総合受付の奥へ引っ込んでしまった。自分の席らしきデスクに戻ると、全く初瀬さんたら、などと独り言を呟きながらパソコンに向かって仕事を始めたようだ。
改めて総合受付を見ると、カウンターには風船を犬や花の形に加工したバルーンアートが飾ってある。色の違う二種類の風船を組み合わせて花冠と子房を造形したものが、カウンターと羽鳥のデスクに幾つも散りばめられている。
「これ全部私が作ったの。よろしければ子犬でも剣でも作ってさしあげてよ風船はいつでも持っているの!」
バルーンアートに気付いたのを見て取ると、羽鳥は心底嬉しそうに自慢した。
かなたは逃げ出した。
取り調べを受けている容疑者が、自分は犯人ではないと否定しつつも、口を滑らせて当事者しか知り得ない情報を喋ってしまう……という展開はミステリーではありふれたものだ。だが今回は状況が突飛すぎて、かなたが追っている件について言っていたのかどうかも疑わしい。公園での柳澤たちとのやり取りを監視されていたという可能性はあるが、亜沙美の見た映像では犯人は太っていたはずだ。目撃情報と合致しない。
「一応、あとで柳澤に連絡を入れておくか……」
かなたは煮え切らない気持ちのまま総合受付を後にし、建物中央の広場へと戻ってきた。建物内に複数あるトイレのうち一つが、パイプオルガンのあるこの場所から北側、イベントホール東側の長い通路脇にある。かなたがその通路に近づくと、男子トイレから話し声が聞こえてきた。どうやら電話でなにか相談しているようだ。かなたは咄嗟にかつ無意味に身を隠す。通路の右手前には都合よく、自動販売機とスツールの置かれた小さな休憩スペースが設けてあった。大声で喋っているわけではないが、人気のない館内は空調の小さな稼動音以外の物音がなく、耳をそばだてれば盗み聞きも難しくない。
「そうだ。ようやく撒いた種が収穫ということだ。まさか件の女性が、自ら相談に訪れるとは思いもしなかったがな。リキゾウ氏はいつも、小さな家庭菜園を熱心に手入れしていたそうだよ。ああ、十中八九その倉庫で間違いないだろう。夜のうちに確認は入れておこう。都合よくと言っては申し訳ないが、その女性は身の回りのことに手一杯で、リキゾウ氏の資産管理はほとんど手付かずだ。いや、その工場は随分前に手放しているぞ。ナノハ食品という会社に売ったんだ。おそらくそれを元手に、ロシア流れの品を手に入れたんだろう。ああ、きっと相当足元を見られただろうな、一本千ドルは取られたのじゃないか? とはいえ、彼の人脈あってのことだ。僕らでは足がついてしまうだろうさ。ははは、よせやい、僕はなにもこの国を無法地帯にしたいんじゃないぞ」
その声、口調は最近どこかで耳にしたような、そんな気がする。奇妙な会話だったが、続く内容はかなたを戦慄させた。
「ああ。もちろん早いほうがいいな。アームロール車はすぐ手配できるか? 人足は二、三人もいればいいだろうが、重機はあったほうがいいかもな。無論僕も手伝おうじゃないか。善は急げだ、来週の日曜にでも決行しよう。いやそうじゃない、七日だ。そう。僕の身辺整理なんてすぐさ。見も知らぬ同志が私財をなげうって準備してくれた革命物資五百丁、なんとしても盗み出し、いや言葉が悪いな、我々の手で革命の粮とせねばな」
トイレからエアドライヤーの音がして、リノリウムの床を蹴る硬い靴音が近付いてきた。かなたはガタガタ震えながら必死で息を殺していたため、姿を確かめることはできなかった。
足音が充分に遠ざかったことを確認して、かなたはニンジャのように休憩スペースから出てトイレに駆け込んだ。興奮のあまり手や膝の震えが止まらず、落ち着くまで個室に籠もっていた。
ついに私が主人公の世界が訪れた!
窃盗事件の計画らしきものと遭遇し、その情報を知っているのは唯一自分だけだ。
世界を救えるのは自分だけなのだ。
落ち着きを取り戻すと手を洗ってトイレを後にし、ジャケットの裾を翻して揚々と図書区画に戻った。
「蓮見さん、無事戻りましたか。ではそろそろ帰りますか?」
中原の問いかけに、いやもうちょっと、と生返事をし、先ほど間違って手にした「雲雀野市の歴史」を再び引っ張り出す。「コモリフーズ株式会社」とタイトルが振られたページには工場内外の写真とともに「代表取締役社長 小森力蔵氏」の短いインタビューが載っていた。
<――私たちはプロレタリアの精神を忘れず、労働と雄傑の業へと進むのです――>
インタビューを読み飛ばすと、記事の末尾に年商や所在地が記されていた。
スマートフォンの地図アプリで、記事の住所を検索する。同地は震災で被災したため工場は操業停止しているはずだが、建物は残っているようだ。建物名は「ナノハ食品 雲雀野工場」となっている。
トイレの声が密談していたのは、この人物のことで間違いなさそうだ。中原がいなければ、かなたは亜沙美の手を取って舞い踊っていただろう。彼に目論見を知られれば、制止されることは疑いない。あとは小森力蔵の住所だが、入口付近にあった公衆電話に電話帳が備えてあったのを思い出した。
「ちょっと……えーと、家に連絡」
「かなたちゃんお忙しそうで」
あまり気の利いた口実が思いつかなかったが、構わずエントランスに向かった。
公衆電話は通じていないようだったが、古い電話帳は残されている。その黄色の電話帳の「こ」の項をいくら探しても、個人名が全く載っていない。個人宅の電話番号が載っているのは緑色の電話帳であることを、かなたは知らなかった。さらには緑の電話帳であっても、権利者の掲載拒否などで電話番号が未記載ということもままあるのだが。
自分の力で事件を解決しマイアミビーチの熱い風に吹かれながらエンディングを迎える手段はまだあるはずだ、と妄想しながら電話帳を閉じる。
「チーフ、やっぱりまだいましたか」
「あ、柳澤」
入り口の自動ドアが空き、柳澤と杏子が姿を見せた。かなたは掴んだネタをこの段階で柳澤に渡してしまいたくはないし、柳澤は磐船講を訪れた理由をかなたにだけは話したくない。当人たちは気付かないが、杏子は二人の間に流れる白々しい空気を感じ取った。
「な、何だ……役所での聞き込みは終わったのか」
「ええそりゃあ、時間ばかりかかって。……全く何の収穫もなく」
「中原先生の車がまだ公園にあったので、迎えに来たんです」
「そうそう。そうだ、その先輩は?」
「ああ、こっちだ。たぶんまだ本を読んでるかな」
いつもとは違った方向に不自然な会話だったが、当人たちは秘密保持に腐心していて気にならなかったようだ。
警察関係者二人を伴って図書区画に戻ったが、中原は相変わらず本を読み、亜沙美はテーブルで脱力したまま舌先でキャラメルを弄んでいる。その赤くぬらぬらとうごめく舌を見て、杏子は瞳孔が開いて血圧が上がった。
「そろそろ時間も時間なんで、迎えに上がりましたよ」
「柳君、わざわざここへ?」
「ときに先輩、ちょっといいですか……」
柳澤が本棚の間にいる中原に近づく。かなたは何事か閃いたようだ。
「先生、私ちょっと額田さんたちのところへ!」
「ええ? ああ、はい。それじゃあ用が済んだらまたここに」
「そろそろ動きます」
亜沙美もやや遅れて、だらだらとスーツケースを引きずってかなたの後を追った。
「お、ちょうどいいや。実は先輩、俺らがここに来た理由というのがですね」
柳澤は、公園で出会った小森千鶴について説明した。彼女の話を聞く限り、犯人はこの磐船講と何らかの接点がある人物のようだ。
「なるほど。確かに、他に疑うべきところもなさそうですし」
「そうなんです。ただまあ、こんな状況に先輩とあの子らを巻き込むことになっちまって、これは本当に申し訳ない」
「まあ、まあ。今のところ、我々に危害が及ぶことはなさそうですから。それより……」
「くれぐれも、かなたちゃんには知られないように、ということですね」
「進藤さんも、彼女をご理解されたようで」
まるで時代劇の悪代官のように密談しているが、当のかなたはすでに違う獲物に食らいついている。
「で、まあ、一応ここでも聞き込みをせにゃならんのですけど、先輩ここの責任者の人とか、誰か会いました?」
「ええ、矢加部氏という方が代表です。話のわかる方だったと思いますよ」
「矢加部って……! うーん、先輩の見立てがそれなら大丈夫か。事務所とかどこだろう」
「今はたぶん、農作業をされているはずです。案内しましょうか」
「農作業……?」
宗教団体による農作業と聞いた杏子の脳内では、農民たちが鉢巻に稲穂を差して雨乞いの儀式をしていた。
「かなたちゃん、あまねちゃんたちが何やら秘密の会話をしていたようです。男同士の」
「言われてみれば、確かに怪しかった……今はいいや。これは世界の平和がかかった、重大な事件なんだ」
「ほほう」
亜沙美をはじめ一部の女生徒は、中原のことを「あまねちゃん」と呼ぶ。男女どちらとも取れる名前を揶揄するようなニュアンスと、親しみが半々に込められた愛称だ。
中原たちに届かないよう小声で話しながら、かなたたちは図書区画を出て左に進んでいた。再び和室区画を訪れると、格子戸は閉まっており、中の様子はよく見えない。
「静かです」
「どこか行っちゃったかな……」
「これは英語でピーピングと言います」
「どうしたの?」
亜沙美が目を細めて格子戸の隙間から室内の様子を伺おうとすると、同時に美希がドアを開け、不思議そうに目を丸くしていた。
「あ……お話終わった?」
「うん。だいたい」
「えっと、その、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「世界平和にかかわるお話だそうです」
「なんかよく分かんないけど……いいよね?」
美希は部屋の奥で正座している千花に声をかけた。千花はかなたたちの方を向き、妖艶な微笑みで応える。その蠱惑的な笑顔に、亜沙美ばかりかかなたまで少し赤面してしまった。
二人は部屋に上がり、座卓を挟んでかなたが千花の正面に、亜沙美がその隣りに座った。亜沙美は千花の正面に座るのがあまりにも面映ゆく、夏のアスファルトに落ちたアポロチョコのようにピンクと黒が混じり合って溶けてゆく自分を想像していた。
「みなさん、美希をここまで案内してくれたんでしょう? ありがとうございます」
「うん、まあ、案内と言うか何と言うか」
「でも、どうしてここに? お二人は布留川女学院と言ってましたよね?」
「前に強度試験がどうとかって言ってなかった?」
郷土史研究部という語が、美希には上手く伝わっていなかったようだ。かなたたちを建築会社の社員か何かだと思っていたのだろうか。
「郷土史研究……はまあいいや。雲雀野自然公園って、わかる?」
「南方五百メートルほどの場所にある、うらぶれた公園です」
「たぶん。このへんで公園って一個しかないよね」
「そこでね、事件があったんだ」
「私たちが第一発見者でございます」
めずらしく亜沙美までもが得意になっている。
かなたは公開する情報を選別しつつ、まず雲雀野自然公園で起きた事件の内容はありのままを話した。千花の手前、柳澤の内偵依頼については秘匿し、事件について聞き込みに来たということにする。なぜそんなことを一介の女子高校生が教師同伴でやっているのか、という追求はされなかった。かなたがあまりに自信に満ちた態度だったため、千花と美希は面白半分で聞き入ってくれた。
「美希だめよ、あなたいつも考えるより先に動いちゃうんだから」
「ごめん。だって千花が強制労働? させられてると思って」
「そんなこと、あるはずないでしょう。でもありがとう。それにしても、蓮見さんたちに怪我がなくてよかったわ。前に美希、男子を殴りつけて怪我をさせたでしょう」
「殴ったりしてないよ、師匠に禁じられてるんだから! だって木刀なんか振り回してたから、危ないし折ってやったんだ。そうしたら手首を痛めたとか言って」
成人男性でも力を込めて膝に叩きつけなければ折れないような木刀を、真剣白刃取りのポーズで叩き折る美希を、かなたは想像していた。事実はその通りである。
「そういえば千花、かなたさんたち先輩だよ。布留川女学院の二年だって」
「あ、ごめんなさい! 美希と一緒だったから、同級生だと思って」
「い、いや、構わないよ。それより……」
「それよりお菓子でもおひとつどうぞ」
かなたは自分の用向きを切り出そうとしたが、亜沙美が手持ちのお菓子を座卓に広げた。さまざまな味と形のチョコレートがパラフィン紙に包まれた状態で箱詰めされており、これまで亜沙美が常食していた物よりも高級感がある。
「そういえばずっと食べてたね。なにこれ戦闘糧食?」
「魂の糧でございます」
亜沙美は早速、率先して丸いオレンジがかった色のトリュフチョコを手に取った。美希はその様子を興味深そうに眺め、不器用に包みを開いてガナッシュチョコを口に運んだ。
「そういえば美希、こういうお菓子あんまり食べないよね。あんまりって言うか……美希?」
自身もひとつ手に取りながら千花が言うと、チョコレートを口に含んだ美希の目尻から涙がこぼれ落ちた。他の三人は突然のことに、呆然としたり怯えたりしている。
「これ、すごい、美味しい……」
「ずいぶんお好きなようで」
有名菓子店の高級チョコレートではあるのだが、食べ物で涙を流すという状況は三人の想像を絶していた。百円程度で買えるようなスイーツではないが、パティシエを夢見ていた虚弱体質の妹が生涯最後に作ってくれたチョコレートなどといったような、例外的な価値が内包されたものでもないのだ。
「そういえば前に、師匠がこういうのくれたことがあって……このくらいの大きさで、なんかよくわからない記号が書かれてたんだけど。なんか茶色くて甘いのの中に、サクサクしたのが入ってて……それもすごく美味しかった。けど、ここまでじゃなかったな……」
美希は指で三センチほどの四角を作りながら、そう述懐した。
「熊がどうとか言ってた。クジマさんが好きなんだって」
「たぶん、それもチョコレートかな……」
「美希、お菓子嫌いなわけじゃなかったんだ? 食べてるの見たことなかったから、嫌いなんだと思ってた」
「そういえば、お母さんはお菓子食べちゃダメ、って言ってたかな。これがそうだったんだ……これが……」
陶然とした表情で、美希はじっとチョコレートの箱を見つめている。彼女の身のこなしやクジマという師匠の隠れ家を思い起こせば、お菓子を食べたことがない程度で驚くべきではないのかも知れない。
「美希のお母さん、そういうところ厳しかったもんね。お弁当のご飯もヒエとかアワとかで、おかずも何だかよく分からない草とか」
「うん、お弁当以外食べちゃダメって言われてた。でも、本当は時々師匠に缶詰とか貰ってたんだけどね」
「そのかわり美希のお弁当、すごかったわよね。こんな大きさの二段重で、彩りが綺麗で」
「お母さんにずっと足りない少ないって言ってたら、ああなっちゃった。なんか全部野草とか? 有機栽培? とか言ってたけど」
美希の運動量なら、並の食事では不足なのも無理はない。
ヒエもアワも縄文時代までは日本中でよく栽培され、稲作伝来以前は主要作物だったと考えられている。近年になって、白米に比べて高い栄養価から存在が見直されつつあるが、そのヒエやアワだ。ちなみにペットショップで小鳥の餌として売っているものも、原料はヒエやアワである。
布留川女学院の二人はただ呆然と、二人の会話を聞いているしかなかった。どうやら美希の母親は、食に関して大変気を使っているらしいことは会話から推察できる。
この二人は仲が良いだけあって、共に常識の枠が極めて大きいのかもしれない。
もう一個ちょうだい、と美希が網状にホワイトチョコがかけられたものに手を伸ばした。今度は嗚咽したりせず、ゆっくりと口に含んだチョコレートを舌の上で溶かしている。幸福感に満ちた純真な笑顔だ。普段の食事が雑穀と謎の草では無理もない。
「額田さん、ちょっと聞きたいんだけど」
口内のチョコレートが溶け切った頃合いを見計らって、かなたはようやく用件を切り出した。美希はまだ甘美な余韻を愉しんでいるようで、口を開けずに首の動きとまばたきで応答する。
「このあたりで、小森さんっていう家、知らない?」
「コモリさん?」
「小森って、玲くんぐらいしか知らないなあ。小学校までいた」
「この地域には、小森さんという名字がいっぱいいるんです。ただ、その小森くんの家が、本家とか呼ばれていたようですけど」
「小学校まで……というと、転校したとか?」
「いや……何ていうか、登校拒否? みたいなの」
「中学時代までは登校していたんですけど、徐々に来なくなっていって」
「小森くんって、なんかプライド高いけど気弱かったもんね……一回先生と家に行ったことあるけど、部屋から出てこなくて、お母さんにプリント渡しただけだった」
「あれ? でも、その小森くんの話じゃないですよね?」
ここに来た段階では、かなたはトイレで聞いた企みについて、全て話した上で協力を仰ごうと考えていた。特に美希の力は、味方にできれば心強いことこの上ない。だが、小森家の誰かが美希たちの知り合いである可能性を考慮して、一部脚色を加えることにした。彼女ら経由で大人たちに知れ渡ると、せっかくの獲物を横取りされてしまう。
「いや、今の時点では何とも言えない、かな。ええと……これからする話はとても重大なことなので、冷静に聞いてほしい」
座卓に肘をついて身体を乗り出し声のトーンを落として話すかなたに、全員が聞き耳を立てる。聞く側の全員が面白半分だが。
「じつは私は、磐船講に関係する人物について、ある秘密を知っていたんだ。今日の本当の目的は、その調査だ」
「ここで仕事をしている人……ですか?」
「その男はどうやら、小森さんの持つ土地に隠してあるものを、盗み出そうとしているらしい。何か、というのは今のところ分からない。金銭かもしれないし、危険なものかもしれない」
「なにそれ小森埋蔵金とか? なんか面白そう」
「美希」
釣れた! かなたは胸中で叫んだ。控えめに言っても雲雀野市最強の高校生である、美希の関心を引けたのだ。今のかなたには小森という人物の所在さえわからず、土地勘のある者のガイドが絶対に必要だ。トイレで聞いた「家庭菜園の倉庫」とやらも、重要なものが隠されている以上、何らかのセキュリティが施されている可能性は高い。それに対しても、これまで目の当たりにしてきた美希の能力は必ず役立つだろう。
「もちろん、我々の手でどうこうできる問題じゃない。最終的には警察の手に委ねようと思う。だが情報の裏は取っておくべきだと思うんだ」
「かなたちゃん、いつの間にそんなネタを拾ったのです?」
ついさっきトイレに行った時、とは言えず、うんまあ有力な情報筋から、と却って疑惑を生むような返答をした。磐船講を訪れたのはこの調査のためだ、というのも誇張が過ぎるとは思ったが、もう後には引けない。
「調査は早速、明日行いたいと思う。額田さん、案内してくれるだろうか?」
「いいよ。日曜は訓練休みだし」
「そう言えば、聞いたことがあります。この地域に、財宝か何かが隠されているとか」
「雛母離埋蔵金あるの?!」
「いくら古い家でも、うちには何もないわよ……お父さんそういうものに興味がなくて、お金が必要だったときにほとんど売ってしまったらしいわ」
「今はないのか…」
千花はその容貌に違わず家柄も高貴なようだが、目下のところ富豪ではないらしい。
「じゃあ、その財宝っていうのは?」
「買い物に行った時、地元のおばさま方が噂話しているのを聞いたの。一度じゃないから、ずいぶん広まっている話みたい」
「何か関係があるのか、あるいは……まあいい。私が得た情報では、来週の日曜日に回収するそうだ。それまでに確認して、内容次第で警察に報せればいいさ」
「月曜日からはあたしも学校と訓練あるし、明日じゃなきゃ付き合えないや」
「美希、怪我をさせたりしちゃダメよ」
かなたはここに至るまで、この二人の関係は姫君と従者のようなものかと思っていたのだが、これではまるで母と男児だ。
「それじゃ、明日の十時に。……待ち合わせ場所は、どうしよう?」
「ここじゃダメかな? でなきゃ師匠の家使わせてもらうか」
「道順は記憶していますが、また歩くのは……」
あまり歩いていない亜沙美が言う。
「そうですね、この場所は他の方も利用するフリースペースなので、私が今借りている部屋はどうでしょう? 私に会いに来たことにすれば、怪しまれることもないでしょうし。案内しますよ」
「住んでるとこは別なんだ」
「ここは、もうしばらくしたら作業を終えた人たちが休憩にやってくるはずよ。今は空いてるし、図書館が近いから使わせてもらっているけど」
そう言って千花は、ノートや筆記用具をまとめ始めた。
「よろしければ、これ全部どうぞ」
亜沙美はまだ半分以上残っているチョコレートの箱を、美希に差し出した。この子はお菓子を与えれば、きっと寮まで担いで帰ってもくれるだろう。
「いいの? でも家に持って帰ったら、たぶんお母さんに怒られるな……」
「それじゃ、こちらへ。一時的に控室を使わせてもらっているんです。チョコレートは、うちに保管しておいたら? また来たときに食べればいいわ」
「そうする」
柳澤に決定的な情報を提示してふんぞり返る自分を妄想しながら、かなたは千花に続いて和室を出た。
和室区画に沿って通路を右に行くとパイプオルガン、和室を迂回するように左に二回曲がると小会議室がある。中に誰かいたようだが、ガラス窓にはカーテンが下りていて室内の様子は分からなかった。小会議室は総合受付の裏手にあり、一枚のドアで繋がっている。受付にはパソコンやコピー機などのOA機器がいくつかあり、事務所として機能しているようだ。この建物内では例外的に人がほぼ常駐していて、千花たちが通りかかった時には二人の男性が事務仕事をしているようだった。バルーンアートまみれのデスクでパソコンに向かい、ひたすら領収書の情報を打ち込む背の低い男は、先ほどかなたに怯えきった態度で接した羽鳥、もう一人のネクタイ姿の男は初瀬だった。
「おや、お嬢さん、そちらはお友達でしたか。いや結構なことだ」
「こんにちは、初瀬さん」
千花は絵に描いたような美しいお辞儀をし、他の三人もそれに倣った。
千花は父から初瀬の人となりを聞いており、以前は財務官僚だったという。なぜそんな地位にあった男が、非営利団体の資金管理の手伝いなどを志したのか問うと、こういう場に日本の未来があるのだと語ったそうだ。そして「志も能力もある奴は大勢いるんだ。だがそれでも、あの集団は内側からは変わりようがない。どのみち私はドロップアウトだがね」と自嘲したという。羽鳥は仕事の手を休めずにかなたの方を一瞥して、ばつが悪そうに顔を伏せた。なぜそんな態度を取られるのかは不明だ。物証がないのであくまで不明だ。
「さて、私はまた用事ができてしまってね、今日はこれで失礼するよ。仕事は全て片付いているので特に問題無いと思うが、父君によろしく」
「今度は何ですの初瀬さん」
「婦人会の会合だ」
初瀬は早口で言いながら、壁のハンガーにかけていた背広の上着を取って袖を通す。それじゃ後を頼むよ、と羽鳥に声をかけ、足早な靴音を響かせて立ち去った。
千花と父親は、イベントホール舞台裏にある楽屋のうちの二つを、生活スペースとして使っている。楽屋には浴室や洗面台も備え付けてあり、炊事以外に生活上困る点はない。他にも設備の充実した楽屋はいくつかあるが、千花たちの部屋以外は使われていないようだった。
ライトグレーを基調とした室内には、備え付けの棚や化粧台とはデザインの異なったベッド、小型の冷蔵庫なども運び込んである。置かれている会議テーブルは折り畳んで、椅子は積み重ねて片付けることが可能な形状で、これらはもともとこの施設にあったものだ。親とは別室をあてがわれているようで、思春期の少女に対する配慮もなされている。
「千花、こんなとこに住んでたんだ。なんか大変だね」
「贅沢言うと、ちょっと居心地は良くないけど……短い期間だけだから」
「そうなの?」
千花の感覚としては、さながら避難生活のような状態らしい。
かなたが室内に入ると、千花がチョコレートを冷蔵庫に仕舞おうとしていた。中にはスイカなどが入っていて、亜沙美は庫内を凝視している。冷蔵庫が閉じられたため視線を逸らすと、入口正面の壁掛け時計が目についた。
「五時七分、です」
「門限だ! 五時の音楽聞こえなかったよね?!」
布留川女学院学生寮の門限は五時三十分だ。尾輿地区では午後五時になるとドヴォルザークの「遠き山に日は落ちて」が流れるのだが、かなたたちの耳には聞こえなかった。イベントホールなども備えた建物だけあって防音ができており、室内まで音が届かなかったのだ。
「私たち、そろそろ帰らなきゃ。今日はありがとう」
「こちらこそ、美希がお世話になりました」
「門限? 大変だね。あ、チョコレートありがとう。千花、あれやっぱり持って帰る」
「私はべつに、盗み食いなんてしないわよ」
「遅れたら寮母先生に叱られます。あまねちゃんを探さないと」
「先生、時間に気付いてるかな……」
「まさか一日に二回も来ることになるとは……」
うんざりした調子で言う中原のふくらはぎを、かなたは脳内で蹴飛ばした。あまり身体が丈夫な方ではなく、他の三人に比べて干支一回りほども歳上の中原には、そろそろ徒歩での移動が苦痛になりつつある。亜沙美のように率直には口にしなかったが。
「じゃあ行くよ。準備はいい?」
「もうダメであります。受付前の椅子で休みましょう」
美希は突入の覚悟を迫り、亜沙美は突入しての休憩を提案する。世界観を共有していないため、会話が咬み合わない。
「まあ身構えずに入りましょう。休憩には私も賛成です」
「何だね君たちは」
四人は背後から声をかけられ、めいめいに振り返った。ひときわ早く反応した美希だけは、試合中の格闘技選手のように腰を低く落とし身構えている。声の主は黒いスーツに赤いネクタイを締めた長身の男性で、全身からどことなく前時代的な雰囲気を漂わせていた。タイトルが縦書き赤文字の色あせた映画のポスターから抜け出てきたような印象だ。モノクロ映画の音声よろしく、声が篭って聞こえたなら完璧だっただろう。
「失礼しました、私たちは布留川女学院のもので……」
「おおそうか、そういえば矢加部がそのようなことを言っていたね。こちらこそ失礼した、僕は初瀬という。四月からここで主に財務を担当している」
美希も郷土史研究部という身元詐称をさせる予定だったが、初瀬と名乗る昭和男は学校名だけで納得してしまった。
「お嬢さんはおそらく図書区画にいるか、そうでなければ和室区画を探すといい。どちらかで勉学に励んでいるはずだ。本来は水先案内ぐらいすべきなのだろうが、これでなかなか忙しい身でね。ああそこの童女、食べカスはこぼさないようにしてくれたまえよ。ここの連中は掃除が苦手だ。館内には明るいかね?」
「あ、ああ、一度見て」
初瀬は早口で次々とまくしたて、かなたが言い終えるのも待たずに、それは結構ではまた、と挨拶して建物東側へと早足で歩き去った。
「……絶対なにか勘違いされてるな」
「まあ、よしとしましょうか。それほど問題はなさそうだし」
「千花を探してることを知ってた。やっぱり……何だろう?」
事態をよく飲み込めていない美希を促し、中原たちは再び磐船講の敷居をまたいだ。
「今まで、数え始めてから約四百二十万五千粒ほどの食べカスをこぼしてきました。私は罪深い人間です。悪魔の手先です」
「気にしなくていいよ……」
相変わらず館内に人の姿はなく、四人はいたって平穏無事に入場できた。潜入経験のあるかなたを先頭に、四人は図書区画へと向かう。
「本当に何もなかったね。さっきの人もなんか、悪者って感じじゃないし」
「まだ分からないよ。上辺だけならいくらでも取り繕えるものだ」
「まあ、一目で秘めたる悪意が分かるなら、誰も騙されたりしませんしね」
「なにこれすごい。教会?」
美希が感嘆の声を上げた対象は、途中にあるパイプオルガンだった。
「女学院にあるものよりは小規模ですが、これってかなりメンテナンスが必要なものでは……」
「かなたちゃん弾けますよね」
「いやピアノならできるけど……たぶんいろいろ違うでしょ。賛美歌なら歌えるけどね」
亜沙美は初瀬の指摘に一応気を使っているのか、個包装された一口大のチョコレートコーティングクッキーを選んで食べている。これなら食べている最中に口を開けたりしない限り食べこぼしはない、と中原が思った矢先に亜沙美は咳き込んだ。
道のりはそれほど複雑でない筈が、かなたは道を間違い和室区画に到着した。靴を脱いで畳に座れる小上がりのような場所で、自由に立ち入れる休憩スペースとして使われているようだ。道を間違えたことに気付かれないよう、かなたが積極的に入口に向かうと、格子戸の向こうにぼんやりと人影が見えた。把手に指をかけるよりも先に戸が開き、人影が全貌を表す。以前にかなたと亜沙美が出会った、長い髪の、威圧的な美しさを持った少女だ。
「千花!」
その姿を見るなり美希が叫び、駆け寄った。少女はやはり雛母離千花だったようだ。
「美希? どうしてここに」
「だって、突然二週間も休むんだもん。大丈夫?」
「ごめんね、急に。でも、お父さんが学校に連絡したはずだけど……」
美希は、教師たちが事情を説明してくれなかったことや、職員室で聞いた磐船講に関する不穏な噂について話した。もちろん後者については、美希の早とちりに起因する全くの誤解なのだが。
「そんなひどいこと、してないのに」
「でもよかった、病気とかじゃなくて」
「美希には話そうと思ったんだけど、急に……そちらの皆さんは?」
かなたと亜沙美には少し前に会っているが、名前は聞いていなかった。むろん中原は初対面だ。
「あ、この人たちはね。……なんて言えばいいんだろ? 被害者?」
「私は布留川女学院の教師で、中原浹といいます。こちらの二人は生徒で」
「蓮見かなたです。よろしく頼む」
「わ私めは降矢亜沙美と申しまして」
「私は雛母離千花といいます。布留川女学院って、仙寿山の上にある、教会みたいなきれいな学校でしょう?」
かなたの露骨に芝居がかった態度や今にも礼拝を始めそうな亜沙美に気を留めた様子もなく、千花は楚々として挨拶した。浅く会釈をした際に、長く艶のある髪がハープの弦のように肩から垂れ、千花は右手で掬って再び肩にかける。その気品あふれる仕草と髪の合間から漏れる高貴な光を目の当たりにした亜沙美は、邪悪な存在が聖なる光を浴びて溶ける感覚に打ち震えた。
入口で出会った初瀬が、千花と布留川女学院について矢加部から何事か聞いている口ぶりだったことを中原は思い出した。千花自身も女学院について、なにか知っているようだ。
「それより千花、ここに住んでるって本当?」
「ええ。ここが家っていうわけじゃないのよ。ここはお父さんの……仕事場?」
「そうだったんだ。じゃあどうして?」
うん、と小さく相槌を打っただけで千花は口ごもり、うつむいて美希以外の三人を一瞥した。その涙を流す天使像のような退廃的な美しさを、亜沙美は映像記録能力を総動員して脳裏に焼き付けた。
「我々はちょっと図書区画にでも行っていましょう」
美希以外には話しにくいようだったため、中原は席を外すことにした。再来訪の目的はすでに果たせているわけで、布留川の三人はこのまま帰ってしまっても特に問題ないのだ。
千花に見とれて目を見開いたまま動かない亜沙美を引きずるように中原たちが退散すると、美希は千花の隣の座布団に腰を下ろした。肩を寄せて座卓に並び、千花は卓上にあったノートや教科書を閉じる。
「私ね……あの学校に行きたくない。お父さんに言ったの」
「なんで? 何があったの?」
「美希は小学校から、ずっと一緒にいてくれたから……この村の中で、私の実家がちょっと扱いが特殊だったの知ってるでしょう?」
「昔のことはあんまりよく知らないけど……なんか桑田のキモハゲとか、変な呼び方してたよね。イラツメさまとかって」
桑田というのは、二人の中学時代に社会科を担当していた年配の教師だった。異常なほど迷信深く、進路指導と称して動物霊の除霊やUFOへの祈りを勧奨したりした。気に入られた不幸な生徒は、樹脂で固めたコガネムシの殻を繋いで作ったブレスレットなどをプレセントされていたため、ほとんどの生徒から気味悪がられていた。桑田は教員免許状を持たない非常勤講師だったそうだ。
「昔、おじいさんがやっていた事業のせいで、うちの先祖を神様みたいに思ってる人がね、お年寄りのなかに少しいるらしいの」
「うん……高校に入ってから増えたよね、そういう人」
「それでね、その人たちが私を変に特別扱いしてきて……私はそんなの好きじゃないし、お父さんも、そういうことはしないでって学校には言ったんだけど」
「……嫌がらせとか、受けてた?」
千花は悲痛な面持ちで、静かに頷いた。
彼女を特別視する教師はみな狷介な老人で、指摘されて速やかに態度を改める柔軟な精神の持ち主はいなかった。事あるごとに千花を依怙贔屓する教師が複数おり、当然それは他の生徒の嫉妬を呼ぶ。そんな状況が入学から一ヶ月も続くと、何の罪もない千花が、クラスや学年はおろか学校規模で孤立していた。
美希がかなたたちを襲撃した遠因とも言える千花の祖父は、名を雛母離尚嗣といった。根拠のない自信で行動する山師で、同時代的にはありふれた話だが、バブル経済の終焉とともに経済的に凋落した。地価と株価の上昇を無根拠に前提とした、実体経済からあまりにかけ離れた投資判断の誤りが主因である。だが実業を行っていなかったため銀行借入が無く、資産価値の暴落を受け容れて事態を収めることができた。
そして次に目をつけたのが、千花の曽祖父が持っていた、休眠状態にあった単立宗教法人格「磐船講」だった。経済的苦境に陥っていた胡散臭い投資仲間を役員に迎え、表向きは天明教と名乗り、饒速日命をご神体に据え、神道と民間信仰と九字護身法と天気予報をミックスした胡散臭い教義で布施を煽った。
最初の数年は、主に近隣住民を対象として大成功を収めた。牛久大仏を超える巨大ご神体建立や宇宙船のようなデザインの本部建設など、胡散臭く景気のよい話題で怪気炎を上げていた。だが一九九〇年代中頃、新興宗教団体による無差別殺人事件が世界中を震撼させると、風向きは一変する。信者への過激なマインドコントロールや経済的囲い込みが仇になり、脱会した元信者やその家族による訴訟やが相次いだ。教団内部では報酬を巡って役員たちが対立し、さらには雛母離尚嗣の病臥によって、組織は脆くも瓦解を始める。尚嗣の病状はその後回復したものの、天明教の活動は一九九七年に終息した。
関係の浅かった者と極度に深かった者は離れていったのだが、水素水やマイナスイオン程度にご利益を得ていた層は、困ったことに信仰を捨てなかった。それらの一部が天明教と雛母離家を同一視し、現在も神聖視を続けている。これについて、現代表の矢加部は天明教の終焉を明言している。だが雛母離家と矢加部自身に血縁関係がないためか、頑迷な元信徒たちは彼の言葉に耳を貸さない。
図書区画に着くとすぐに、中原と亜沙美は椅子に腰掛けてぐったりとテーブルに突っ伏した。常日頃から亜沙美は授業以外ほとんど部屋から出ず、お菓子を食べながら何らかの画面を眺めていることが多い。バリエーションは、見ているのがパソコンのディスプレイかスマートフォンか、といった程度でしかなかった。
ううとかああとか疲れたといった語を発するだけの二人を横目に、かなたは暇つぶしに書棚を見回して興の乗りそうな本を探した。どれも背表紙に「尾輿村図書館」と書かれたシールが貼られており、かつては公共施設だったことを顕していた。
「とりあえず十分……三十分くらい休みましょう。と言うか我々は、別にここに残ってる必要もなさそうですけど」
「千花様はなぜお休みあそばしていたのでしょう」
「あまり詮索しないほうがいいと思うな」
「それがいいでしょう、デリケートな問題が絡んでるようですし。最適な聞き役は我々ではない」
ようやく一息ついた様子で蔵書に目を向けた中原はともかく、亜沙美はまだ喋ると食べる以外の行動に移れそうにない。二人は書棚を渉猟し、かなたは磐船講を訪れた口実を思い出して、背表紙の日焼けした「雲雀野市の歴史」を手に取った。無関心にパラパラとページをめくると、なぜか中年男性の顔写真とカネに絡んだ単語ばかりが目につく。不思議に思ってカバーを外してみると、中身は「雲雀野市の経営者百選」という本だった。発行者は現在の雲雀野市長らしく、見返しには芸能人のようなサインが書かれている。そこには水産加工会社の経営者や、建設会社でカネの使い込みがバレた経営者や、ツチノコ探索会社を設立したが一年で倒産した経営者などが載っていた。「雲雀野市の経営者百選」を探してカバーを外してみると、中身は「セーラー服と豊島園」だった。かなたはため息をついて本を棚に戻すと、区画の外へ歩き出した。
「蓮見さん、どちらへ?」
「き、聞くな変態! ……トイレ!」
館内図にあったトイレの位置を思い出しつつ、ガラス張りの中庭を横目に総合受付の前を通りかかった。すると、かなたとそう背丈の変わらない年齢不詳の男が、裏返ったような声で話しかけてきた。
「ワタシ犯人じゃないんです! その気はなかったの!」
なんか解決した! かなたは叫びそうになったが、あまりにも唐突なため一応様子を見た。年齢どころか性別も不詳な感のある奇妙な男は、なぜか怯えきっている。
「えーあー、ひ雛母離さんの」
かなたが何とか口を開くと、男は幾分態度を緩めた。
「あら。あらそうなのねおおおお嬢さんのお友達だったの。でも矢加部さんに用があるときは私に話して頂戴ね。受付の羽鳥にまず話を通すのね!」
羽鳥と名乗った男は早口でまくし立てながら徐々に後ずさり、逃げるように総合受付の奥へ引っ込んでしまった。自分の席らしきデスクに戻ると、全く初瀬さんたら、などと独り言を呟きながらパソコンに向かって仕事を始めたようだ。
改めて総合受付を見ると、カウンターには風船を犬や花の形に加工したバルーンアートが飾ってある。色の違う二種類の風船を組み合わせて花冠と子房を造形したものが、カウンターと羽鳥のデスクに幾つも散りばめられている。
「これ全部私が作ったの。よろしければ子犬でも剣でも作ってさしあげてよ風船はいつでも持っているの!」
バルーンアートに気付いたのを見て取ると、羽鳥は心底嬉しそうに自慢した。
かなたは逃げ出した。
取り調べを受けている容疑者が、自分は犯人ではないと否定しつつも、口を滑らせて当事者しか知り得ない情報を喋ってしまう……という展開はミステリーではありふれたものだ。だが今回は状況が突飛すぎて、かなたが追っている件について言っていたのかどうかも疑わしい。公園での柳澤たちとのやり取りを監視されていたという可能性はあるが、亜沙美の見た映像では犯人は太っていたはずだ。目撃情報と合致しない。
「一応、あとで柳澤に連絡を入れておくか……」
かなたは煮え切らない気持ちのまま総合受付を後にし、建物中央の広場へと戻ってきた。建物内に複数あるトイレのうち一つが、パイプオルガンのあるこの場所から北側、イベントホール東側の長い通路脇にある。かなたがその通路に近づくと、男子トイレから話し声が聞こえてきた。どうやら電話でなにか相談しているようだ。かなたは咄嗟にかつ無意味に身を隠す。通路の右手前には都合よく、自動販売機とスツールの置かれた小さな休憩スペースが設けてあった。大声で喋っているわけではないが、人気のない館内は空調の小さな稼動音以外の物音がなく、耳をそばだてれば盗み聞きも難しくない。
「そうだ。ようやく撒いた種が収穫ということだ。まさか件の女性が、自ら相談に訪れるとは思いもしなかったがな。リキゾウ氏はいつも、小さな家庭菜園を熱心に手入れしていたそうだよ。ああ、十中八九その倉庫で間違いないだろう。夜のうちに確認は入れておこう。都合よくと言っては申し訳ないが、その女性は身の回りのことに手一杯で、リキゾウ氏の資産管理はほとんど手付かずだ。いや、その工場は随分前に手放しているぞ。ナノハ食品という会社に売ったんだ。おそらくそれを元手に、ロシア流れの品を手に入れたんだろう。ああ、きっと相当足元を見られただろうな、一本千ドルは取られたのじゃないか? とはいえ、彼の人脈あってのことだ。僕らでは足がついてしまうだろうさ。ははは、よせやい、僕はなにもこの国を無法地帯にしたいんじゃないぞ」
その声、口調は最近どこかで耳にしたような、そんな気がする。奇妙な会話だったが、続く内容はかなたを戦慄させた。
「ああ。もちろん早いほうがいいな。アームロール車はすぐ手配できるか? 人足は二、三人もいればいいだろうが、重機はあったほうがいいかもな。無論僕も手伝おうじゃないか。善は急げだ、来週の日曜にでも決行しよう。いやそうじゃない、七日だ。そう。僕の身辺整理なんてすぐさ。見も知らぬ同志が私財をなげうって準備してくれた革命物資五百丁、なんとしても盗み出し、いや言葉が悪いな、我々の手で革命の粮とせねばな」
トイレからエアドライヤーの音がして、リノリウムの床を蹴る硬い靴音が近付いてきた。かなたはガタガタ震えながら必死で息を殺していたため、姿を確かめることはできなかった。
足音が充分に遠ざかったことを確認して、かなたはニンジャのように休憩スペースから出てトイレに駆け込んだ。興奮のあまり手や膝の震えが止まらず、落ち着くまで個室に籠もっていた。
ついに私が主人公の世界が訪れた!
窃盗事件の計画らしきものと遭遇し、その情報を知っているのは唯一自分だけだ。
世界を救えるのは自分だけなのだ。
落ち着きを取り戻すと手を洗ってトイレを後にし、ジャケットの裾を翻して揚々と図書区画に戻った。
「蓮見さん、無事戻りましたか。ではそろそろ帰りますか?」
中原の問いかけに、いやもうちょっと、と生返事をし、先ほど間違って手にした「雲雀野市の歴史」を再び引っ張り出す。「コモリフーズ株式会社」とタイトルが振られたページには工場内外の写真とともに「代表取締役社長 小森力蔵氏」の短いインタビューが載っていた。
<――私たちはプロレタリアの精神を忘れず、労働と雄傑の業へと進むのです――>
インタビューを読み飛ばすと、記事の末尾に年商や所在地が記されていた。
スマートフォンの地図アプリで、記事の住所を検索する。同地は震災で被災したため工場は操業停止しているはずだが、建物は残っているようだ。建物名は「ナノハ食品 雲雀野工場」となっている。
トイレの声が密談していたのは、この人物のことで間違いなさそうだ。中原がいなければ、かなたは亜沙美の手を取って舞い踊っていただろう。彼に目論見を知られれば、制止されることは疑いない。あとは小森力蔵の住所だが、入口付近にあった公衆電話に電話帳が備えてあったのを思い出した。
「ちょっと……えーと、家に連絡」
「かなたちゃんお忙しそうで」
あまり気の利いた口実が思いつかなかったが、構わずエントランスに向かった。
公衆電話は通じていないようだったが、古い電話帳は残されている。その黄色の電話帳の「こ」の項をいくら探しても、個人名が全く載っていない。個人宅の電話番号が載っているのは緑色の電話帳であることを、かなたは知らなかった。さらには緑の電話帳であっても、権利者の掲載拒否などで電話番号が未記載ということもままあるのだが。
自分の力で事件を解決しマイアミビーチの熱い風に吹かれながらエンディングを迎える手段はまだあるはずだ、と妄想しながら電話帳を閉じる。
「チーフ、やっぱりまだいましたか」
「あ、柳澤」
入り口の自動ドアが空き、柳澤と杏子が姿を見せた。かなたは掴んだネタをこの段階で柳澤に渡してしまいたくはないし、柳澤は磐船講を訪れた理由をかなたにだけは話したくない。当人たちは気付かないが、杏子は二人の間に流れる白々しい空気を感じ取った。
「な、何だ……役所での聞き込みは終わったのか」
「ええそりゃあ、時間ばかりかかって。……全く何の収穫もなく」
「中原先生の車がまだ公園にあったので、迎えに来たんです」
「そうそう。そうだ、その先輩は?」
「ああ、こっちだ。たぶんまだ本を読んでるかな」
いつもとは違った方向に不自然な会話だったが、当人たちは秘密保持に腐心していて気にならなかったようだ。
警察関係者二人を伴って図書区画に戻ったが、中原は相変わらず本を読み、亜沙美はテーブルで脱力したまま舌先でキャラメルを弄んでいる。その赤くぬらぬらとうごめく舌を見て、杏子は瞳孔が開いて血圧が上がった。
「そろそろ時間も時間なんで、迎えに上がりましたよ」
「柳君、わざわざここへ?」
「ときに先輩、ちょっといいですか……」
柳澤が本棚の間にいる中原に近づく。かなたは何事か閃いたようだ。
「先生、私ちょっと額田さんたちのところへ!」
「ええ? ああ、はい。それじゃあ用が済んだらまたここに」
「そろそろ動きます」
亜沙美もやや遅れて、だらだらとスーツケースを引きずってかなたの後を追った。
「お、ちょうどいいや。実は先輩、俺らがここに来た理由というのがですね」
柳澤は、公園で出会った小森千鶴について説明した。彼女の話を聞く限り、犯人はこの磐船講と何らかの接点がある人物のようだ。
「なるほど。確かに、他に疑うべきところもなさそうですし」
「そうなんです。ただまあ、こんな状況に先輩とあの子らを巻き込むことになっちまって、これは本当に申し訳ない」
「まあ、まあ。今のところ、我々に危害が及ぶことはなさそうですから。それより……」
「くれぐれも、かなたちゃんには知られないように、ということですね」
「進藤さんも、彼女をご理解されたようで」
まるで時代劇の悪代官のように密談しているが、当のかなたはすでに違う獲物に食らいついている。
「で、まあ、一応ここでも聞き込みをせにゃならんのですけど、先輩ここの責任者の人とか、誰か会いました?」
「ええ、矢加部氏という方が代表です。話のわかる方だったと思いますよ」
「矢加部って……! うーん、先輩の見立てがそれなら大丈夫か。事務所とかどこだろう」
「今はたぶん、農作業をされているはずです。案内しましょうか」
「農作業……?」
宗教団体による農作業と聞いた杏子の脳内では、農民たちが鉢巻に稲穂を差して雨乞いの儀式をしていた。
「かなたちゃん、あまねちゃんたちが何やら秘密の会話をしていたようです。男同士の」
「言われてみれば、確かに怪しかった……今はいいや。これは世界の平和がかかった、重大な事件なんだ」
「ほほう」
亜沙美をはじめ一部の女生徒は、中原のことを「あまねちゃん」と呼ぶ。男女どちらとも取れる名前を揶揄するようなニュアンスと、親しみが半々に込められた愛称だ。
中原たちに届かないよう小声で話しながら、かなたたちは図書区画を出て左に進んでいた。再び和室区画を訪れると、格子戸は閉まっており、中の様子はよく見えない。
「静かです」
「どこか行っちゃったかな……」
「これは英語でピーピングと言います」
「どうしたの?」
亜沙美が目を細めて格子戸の隙間から室内の様子を伺おうとすると、同時に美希がドアを開け、不思議そうに目を丸くしていた。
「あ……お話終わった?」
「うん。だいたい」
「えっと、その、ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「世界平和にかかわるお話だそうです」
「なんかよく分かんないけど……いいよね?」
美希は部屋の奥で正座している千花に声をかけた。千花はかなたたちの方を向き、妖艶な微笑みで応える。その蠱惑的な笑顔に、亜沙美ばかりかかなたまで少し赤面してしまった。
二人は部屋に上がり、座卓を挟んでかなたが千花の正面に、亜沙美がその隣りに座った。亜沙美は千花の正面に座るのがあまりにも面映ゆく、夏のアスファルトに落ちたアポロチョコのようにピンクと黒が混じり合って溶けてゆく自分を想像していた。
「みなさん、美希をここまで案内してくれたんでしょう? ありがとうございます」
「うん、まあ、案内と言うか何と言うか」
「でも、どうしてここに? お二人は布留川女学院と言ってましたよね?」
「前に強度試験がどうとかって言ってなかった?」
郷土史研究部という語が、美希には上手く伝わっていなかったようだ。かなたたちを建築会社の社員か何かだと思っていたのだろうか。
「郷土史研究……はまあいいや。雲雀野自然公園って、わかる?」
「南方五百メートルほどの場所にある、うらぶれた公園です」
「たぶん。このへんで公園って一個しかないよね」
「そこでね、事件があったんだ」
「私たちが第一発見者でございます」
めずらしく亜沙美までもが得意になっている。
かなたは公開する情報を選別しつつ、まず雲雀野自然公園で起きた事件の内容はありのままを話した。千花の手前、柳澤の内偵依頼については秘匿し、事件について聞き込みに来たということにする。なぜそんなことを一介の女子高校生が教師同伴でやっているのか、という追求はされなかった。かなたがあまりに自信に満ちた態度だったため、千花と美希は面白半分で聞き入ってくれた。
「美希だめよ、あなたいつも考えるより先に動いちゃうんだから」
「ごめん。だって千花が強制労働? させられてると思って」
「そんなこと、あるはずないでしょう。でもありがとう。それにしても、蓮見さんたちに怪我がなくてよかったわ。前に美希、男子を殴りつけて怪我をさせたでしょう」
「殴ったりしてないよ、師匠に禁じられてるんだから! だって木刀なんか振り回してたから、危ないし折ってやったんだ。そうしたら手首を痛めたとか言って」
成人男性でも力を込めて膝に叩きつけなければ折れないような木刀を、真剣白刃取りのポーズで叩き折る美希を、かなたは想像していた。事実はその通りである。
「そういえば千花、かなたさんたち先輩だよ。布留川女学院の二年だって」
「あ、ごめんなさい! 美希と一緒だったから、同級生だと思って」
「い、いや、構わないよ。それより……」
「それよりお菓子でもおひとつどうぞ」
かなたは自分の用向きを切り出そうとしたが、亜沙美が手持ちのお菓子を座卓に広げた。さまざまな味と形のチョコレートがパラフィン紙に包まれた状態で箱詰めされており、これまで亜沙美が常食していた物よりも高級感がある。
「そういえばずっと食べてたね。なにこれ戦闘糧食?」
「魂の糧でございます」
亜沙美は早速、率先して丸いオレンジがかった色のトリュフチョコを手に取った。美希はその様子を興味深そうに眺め、不器用に包みを開いてガナッシュチョコを口に運んだ。
「そういえば美希、こういうお菓子あんまり食べないよね。あんまりって言うか……美希?」
自身もひとつ手に取りながら千花が言うと、チョコレートを口に含んだ美希の目尻から涙がこぼれ落ちた。他の三人は突然のことに、呆然としたり怯えたりしている。
「これ、すごい、美味しい……」
「ずいぶんお好きなようで」
有名菓子店の高級チョコレートではあるのだが、食べ物で涙を流すという状況は三人の想像を絶していた。百円程度で買えるようなスイーツではないが、パティシエを夢見ていた虚弱体質の妹が生涯最後に作ってくれたチョコレートなどといったような、例外的な価値が内包されたものでもないのだ。
「そういえば前に、師匠がこういうのくれたことがあって……このくらいの大きさで、なんかよくわからない記号が書かれてたんだけど。なんか茶色くて甘いのの中に、サクサクしたのが入ってて……それもすごく美味しかった。けど、ここまでじゃなかったな……」
美希は指で三センチほどの四角を作りながら、そう述懐した。
「熊がどうとか言ってた。クジマさんが好きなんだって」
「たぶん、それもチョコレートかな……」
「美希、お菓子嫌いなわけじゃなかったんだ? 食べてるの見たことなかったから、嫌いなんだと思ってた」
「そういえば、お母さんはお菓子食べちゃダメ、って言ってたかな。これがそうだったんだ……これが……」
陶然とした表情で、美希はじっとチョコレートの箱を見つめている。彼女の身のこなしやクジマという師匠の隠れ家を思い起こせば、お菓子を食べたことがない程度で驚くべきではないのかも知れない。
「美希のお母さん、そういうところ厳しかったもんね。お弁当のご飯もヒエとかアワとかで、おかずも何だかよく分からない草とか」
「うん、お弁当以外食べちゃダメって言われてた。でも、本当は時々師匠に缶詰とか貰ってたんだけどね」
「そのかわり美希のお弁当、すごかったわよね。こんな大きさの二段重で、彩りが綺麗で」
「お母さんにずっと足りない少ないって言ってたら、ああなっちゃった。なんか全部野草とか? 有機栽培? とか言ってたけど」
美希の運動量なら、並の食事では不足なのも無理はない。
ヒエもアワも縄文時代までは日本中でよく栽培され、稲作伝来以前は主要作物だったと考えられている。近年になって、白米に比べて高い栄養価から存在が見直されつつあるが、そのヒエやアワだ。ちなみにペットショップで小鳥の餌として売っているものも、原料はヒエやアワである。
布留川女学院の二人はただ呆然と、二人の会話を聞いているしかなかった。どうやら美希の母親は、食に関して大変気を使っているらしいことは会話から推察できる。
この二人は仲が良いだけあって、共に常識の枠が極めて大きいのかもしれない。
もう一個ちょうだい、と美希が網状にホワイトチョコがかけられたものに手を伸ばした。今度は嗚咽したりせず、ゆっくりと口に含んだチョコレートを舌の上で溶かしている。幸福感に満ちた純真な笑顔だ。普段の食事が雑穀と謎の草では無理もない。
「額田さん、ちょっと聞きたいんだけど」
口内のチョコレートが溶け切った頃合いを見計らって、かなたはようやく用件を切り出した。美希はまだ甘美な余韻を愉しんでいるようで、口を開けずに首の動きとまばたきで応答する。
「このあたりで、小森さんっていう家、知らない?」
「コモリさん?」
「小森って、玲くんぐらいしか知らないなあ。小学校までいた」
「この地域には、小森さんという名字がいっぱいいるんです。ただ、その小森くんの家が、本家とか呼ばれていたようですけど」
「小学校まで……というと、転校したとか?」
「いや……何ていうか、登校拒否? みたいなの」
「中学時代までは登校していたんですけど、徐々に来なくなっていって」
「小森くんって、なんかプライド高いけど気弱かったもんね……一回先生と家に行ったことあるけど、部屋から出てこなくて、お母さんにプリント渡しただけだった」
「あれ? でも、その小森くんの話じゃないですよね?」
ここに来た段階では、かなたはトイレで聞いた企みについて、全て話した上で協力を仰ごうと考えていた。特に美希の力は、味方にできれば心強いことこの上ない。だが、小森家の誰かが美希たちの知り合いである可能性を考慮して、一部脚色を加えることにした。彼女ら経由で大人たちに知れ渡ると、せっかくの獲物を横取りされてしまう。
「いや、今の時点では何とも言えない、かな。ええと……これからする話はとても重大なことなので、冷静に聞いてほしい」
座卓に肘をついて身体を乗り出し声のトーンを落として話すかなたに、全員が聞き耳を立てる。聞く側の全員が面白半分だが。
「じつは私は、磐船講に関係する人物について、ある秘密を知っていたんだ。今日の本当の目的は、その調査だ」
「ここで仕事をしている人……ですか?」
「その男はどうやら、小森さんの持つ土地に隠してあるものを、盗み出そうとしているらしい。何か、というのは今のところ分からない。金銭かもしれないし、危険なものかもしれない」
「なにそれ小森埋蔵金とか? なんか面白そう」
「美希」
釣れた! かなたは胸中で叫んだ。控えめに言っても雲雀野市最強の高校生である、美希の関心を引けたのだ。今のかなたには小森という人物の所在さえわからず、土地勘のある者のガイドが絶対に必要だ。トイレで聞いた「家庭菜園の倉庫」とやらも、重要なものが隠されている以上、何らかのセキュリティが施されている可能性は高い。それに対しても、これまで目の当たりにしてきた美希の能力は必ず役立つだろう。
「もちろん、我々の手でどうこうできる問題じゃない。最終的には警察の手に委ねようと思う。だが情報の裏は取っておくべきだと思うんだ」
「かなたちゃん、いつの間にそんなネタを拾ったのです?」
ついさっきトイレに行った時、とは言えず、うんまあ有力な情報筋から、と却って疑惑を生むような返答をした。磐船講を訪れたのはこの調査のためだ、というのも誇張が過ぎるとは思ったが、もう後には引けない。
「調査は早速、明日行いたいと思う。額田さん、案内してくれるだろうか?」
「いいよ。日曜は訓練休みだし」
「そう言えば、聞いたことがあります。この地域に、財宝か何かが隠されているとか」
「雛母離埋蔵金あるの?!」
「いくら古い家でも、うちには何もないわよ……お父さんそういうものに興味がなくて、お金が必要だったときにほとんど売ってしまったらしいわ」
「今はないのか…」
千花はその容貌に違わず家柄も高貴なようだが、目下のところ富豪ではないらしい。
「じゃあ、その財宝っていうのは?」
「買い物に行った時、地元のおばさま方が噂話しているのを聞いたの。一度じゃないから、ずいぶん広まっている話みたい」
「何か関係があるのか、あるいは……まあいい。私が得た情報では、来週の日曜日に回収するそうだ。それまでに確認して、内容次第で警察に報せればいいさ」
「月曜日からはあたしも学校と訓練あるし、明日じゃなきゃ付き合えないや」
「美希、怪我をさせたりしちゃダメよ」
かなたはここに至るまで、この二人の関係は姫君と従者のようなものかと思っていたのだが、これではまるで母と男児だ。
「それじゃ、明日の十時に。……待ち合わせ場所は、どうしよう?」
「ここじゃダメかな? でなきゃ師匠の家使わせてもらうか」
「道順は記憶していますが、また歩くのは……」
あまり歩いていない亜沙美が言う。
「そうですね、この場所は他の方も利用するフリースペースなので、私が今借りている部屋はどうでしょう? 私に会いに来たことにすれば、怪しまれることもないでしょうし。案内しますよ」
「住んでるとこは別なんだ」
「ここは、もうしばらくしたら作業を終えた人たちが休憩にやってくるはずよ。今は空いてるし、図書館が近いから使わせてもらっているけど」
そう言って千花は、ノートや筆記用具をまとめ始めた。
「よろしければ、これ全部どうぞ」
亜沙美はまだ半分以上残っているチョコレートの箱を、美希に差し出した。この子はお菓子を与えれば、きっと寮まで担いで帰ってもくれるだろう。
「いいの? でも家に持って帰ったら、たぶんお母さんに怒られるな……」
「それじゃ、こちらへ。一時的に控室を使わせてもらっているんです。チョコレートは、うちに保管しておいたら? また来たときに食べればいいわ」
「そうする」
柳澤に決定的な情報を提示してふんぞり返る自分を妄想しながら、かなたは千花に続いて和室を出た。
和室区画に沿って通路を右に行くとパイプオルガン、和室を迂回するように左に二回曲がると小会議室がある。中に誰かいたようだが、ガラス窓にはカーテンが下りていて室内の様子は分からなかった。小会議室は総合受付の裏手にあり、一枚のドアで繋がっている。受付にはパソコンやコピー機などのOA機器がいくつかあり、事務所として機能しているようだ。この建物内では例外的に人がほぼ常駐していて、千花たちが通りかかった時には二人の男性が事務仕事をしているようだった。バルーンアートまみれのデスクでパソコンに向かい、ひたすら領収書の情報を打ち込む背の低い男は、先ほどかなたに怯えきった態度で接した羽鳥、もう一人のネクタイ姿の男は初瀬だった。
「おや、お嬢さん、そちらはお友達でしたか。いや結構なことだ」
「こんにちは、初瀬さん」
千花は絵に描いたような美しいお辞儀をし、他の三人もそれに倣った。
千花は父から初瀬の人となりを聞いており、以前は財務官僚だったという。なぜそんな地位にあった男が、非営利団体の資金管理の手伝いなどを志したのか問うと、こういう場に日本の未来があるのだと語ったそうだ。そして「志も能力もある奴は大勢いるんだ。だがそれでも、あの集団は内側からは変わりようがない。どのみち私はドロップアウトだがね」と自嘲したという。羽鳥は仕事の手を休めずにかなたの方を一瞥して、ばつが悪そうに顔を伏せた。なぜそんな態度を取られるのかは不明だ。物証がないのであくまで不明だ。
「さて、私はまた用事ができてしまってね、今日はこれで失礼するよ。仕事は全て片付いているので特に問題無いと思うが、父君によろしく」
「今度は何ですの初瀬さん」
「婦人会の会合だ」
初瀬は早口で言いながら、壁のハンガーにかけていた背広の上着を取って袖を通す。それじゃ後を頼むよ、と羽鳥に声をかけ、足早な靴音を響かせて立ち去った。
千花と父親は、イベントホール舞台裏にある楽屋のうちの二つを、生活スペースとして使っている。楽屋には浴室や洗面台も備え付けてあり、炊事以外に生活上困る点はない。他にも設備の充実した楽屋はいくつかあるが、千花たちの部屋以外は使われていないようだった。
ライトグレーを基調とした室内には、備え付けの棚や化粧台とはデザインの異なったベッド、小型の冷蔵庫なども運び込んである。置かれている会議テーブルは折り畳んで、椅子は積み重ねて片付けることが可能な形状で、これらはもともとこの施設にあったものだ。親とは別室をあてがわれているようで、思春期の少女に対する配慮もなされている。
「千花、こんなとこに住んでたんだ。なんか大変だね」
「贅沢言うと、ちょっと居心地は良くないけど……短い期間だけだから」
「そうなの?」
千花の感覚としては、さながら避難生活のような状態らしい。
かなたが室内に入ると、千花がチョコレートを冷蔵庫に仕舞おうとしていた。中にはスイカなどが入っていて、亜沙美は庫内を凝視している。冷蔵庫が閉じられたため視線を逸らすと、入口正面の壁掛け時計が目についた。
「五時七分、です」
「門限だ! 五時の音楽聞こえなかったよね?!」
布留川女学院学生寮の門限は五時三十分だ。尾輿地区では午後五時になるとドヴォルザークの「遠き山に日は落ちて」が流れるのだが、かなたたちの耳には聞こえなかった。イベントホールなども備えた建物だけあって防音ができており、室内まで音が届かなかったのだ。
「私たち、そろそろ帰らなきゃ。今日はありがとう」
「こちらこそ、美希がお世話になりました」
「門限? 大変だね。あ、チョコレートありがとう。千花、あれやっぱり持って帰る」
「私はべつに、盗み食いなんてしないわよ」
「遅れたら寮母先生に叱られます。あまねちゃんを探さないと」
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