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4 磐船講
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磐船講が拠点としている建物は、六年前までは学心館と呼ばれていた。図書館や体育館、イベントホールなども備えた複合型の公共施設だ。十三年前、尾輿村の自治体が国からの補助金を頼りに建設したが、運営費をまかなえるだけの利用者を獲得することができなかった。新たな活路が見いだせないまま維持管理費だけが嵩み、耐えかねた自治体が五年前に売りに出し、磐船講の所有となった。
雲雀野自然公園から磐船講への道のりは、緩やかな上り坂が連なっている。交通量が少ないためアスファルトのあちこちから逞しい雑草が頭を出し、道路は所々ひび割れていた。途中の歩道には丸太が横たわっている。先日の台風で飛ばされてきたものらしい。
「うーん仕方ない。私たちは布留川女学院の郷土史研究部の顧問と部員、という嘘で通しましょう」
「身分詐称は潜入捜査の基本だからな」
「入会案内みたいなものを何も持っていないのに、入信や見学希望ですというのも不自然ですからね。もちろん本当のところも言えませんし。何かあったら結果は私が全て請け負うので、安心して歴史大好きですというような顔をしていてください」
スーツケースを引いて坂道を登る亜沙美は、朦朧とした顔でキョウドシケンキュウブキョウドシケンキュウブと呟いている。
「でもそれじゃ、あまり詳しくは調べられないんじゃ」
「私達の役割はその程度のものでしょう。友好的に応対してくれるならそれでよし。なにか態度を硬化させるような話題でもあれば、それを柳君に伝えてこの件はお仕舞い、というのが落としどころです」
不満げなかなたをよそに、亜沙美は時々頷きながらチョコウエハースを口に運んでエネルギーを補給した。
「でも郷土史とかでいいんですか? 布留川にそんな部活ないですけど」
「地元出身の坂本先生が言っていたんですが、磐船講というのは、どうもかなり歴史が長いそうで、千年以上という説もあるそうです」
「カルトとかじゃないのか……残念だ」
「……そのへんを、話を広げる糸口にできるんじゃないかと」
中原は郷土史に特別強い関心があるわけではないが、なかなか興味を引く話ではあった。せっかくなので個人的に色々聞いてみるのもいいか、そう思えば足取りも軽くなる。
潜入方法の相談をしつつ三人が歩を進めると、やがて右手側に続いていた雑木林が途切れ、視界が開けた。
「おや? あの建物ですか」
ゆるやかな坂を登りきった先に見えてきたのは、白を基調とした曲線的なデザインが印象的な、現代的な建物だった。三人とも磐船講の建物を見たことはなく、思い思いに老朽化した公民館や体育館のような姿を想像していた。
中原たちのいる歩道から見える面はほとんどガラス張りで、上部に白いカーテン状の傘のような屋根が乗っていた。建物は外形が左右非対称で、真上から見ると西洋梨のような形をしている。思い描いていたのとは程遠い、近代的な洗練された建築だった。ちなみにかなたは、昼間なのに周囲が薄暗い廃校跡に怪しげな篝火がゆらめくダンジョンを妄想していた。周辺には駐車場や遊歩道などもあり、南側の低地には菜園らしき緑地が見える。
「こんなに広い駐車場があるじゃないですか……」
出発前に十数分の歩行すらも嫌がっていた亜沙美が愚痴をこぼす。体力の限界を迎えたわけではないが、単に体を動かすのが嫌いなのだ。中原の自家用車は、公園の駐車場に置いたままだ。
「うーん、せめて制服なら策を弄さずとも……」
中原は生徒二人を見ながら、もしかしたら怪しまれるかもしれない、と危惧を覚えた。一見男装とも取れるかなたのジャケットは左前で女性用のものだが、高校生が六月にリクルートスーツ姿で歩き回るというのは珍しい。亜沙美は黒とピンクの、アポロ十一号宇宙船型チョコレートが、チョコレート菓子を食べながら歩いているような姿をしている。この二人のいでたちに、初見で学生という単語を想起する人は少ないだろう。中原の心中を察してか、かなたはブラウスの胸元に引っ掛けていたサングラスを手にした。
「蓮見さん、それだけはやめて」
「チッ。じゃあ、学生に見えればいいんですね?」
「それはそうですが」
「亜沙美ちゃん、制服と学生証持ってるよね」
「いつなんどきでも」
亜沙美のスーツケースには、お菓子以外も入っているのだ。かなたは、どうだ準備は万端だ、とでも言いたげな顔をしている。
「じゃあ、学生証だけ用意しておいてもらえますか。その辺の木陰で着替えるわけにもいかないですし」
「あ、当たり前だ!」
大きな声で密談しながら磐船講に近づいてゆく三人の後ろ姿を、野生動物のような眼が雑木林の奥から見つめていた。
雑木林を見上げて、中原が感心したようにつぶやく。
「珍しい、これを見てください」
「な、なんだ! やっぱり着替えろって言うんでしょう! それとも二匹の蛇がなんか絡み合ってる姿とか見せるんだろう! いやらしい!」
「落ち着いてください」
「かなたちゃん深く考えちゃダメ」
中原の視線の先には、小さな緑のあけびが実っている。あけびの蔓は樹木に絡んで伸びているので、かなたの妄想は少し当たっていた。
すいませえん、という中原の声が磐船講のエントランスホールにこだまする。建物西側にある正面入口は、風除室を挟んだ二重のガラス製自動ドアだった。ドアは正常に動いていたため、三人は何の苦労もなく建物内に侵入した。中に入るとすぐ左側に、数段の上り階段とその先にガラス張りの小規模なイベントホール、右手前には頭上に大型プラズマディスプレイが据え付けられた無人の施設案内所がある。正面には道幅の広いメイン通路があり、そこから各区画への通路が左右に枝分かれしている。イベントホール入り口脇には公衆電話があり、電話帳も配備されてあった。
「ずいぶん大きな施設ですが、そんなに大きな教団なんですかね」
「武器の保管や訓練には、これくらい必要だろうな」
「……」
二分ほど待ってみたが応答はなく、さりとて建物内を無断で歩き回るのは気が引ける。案内所脇には館内図の立て看板があったが、図書館や体育館などと表記されている。公共施設だった当時のものを、そのまま置いているようだ。
かなたが階段を登ってイベントホールを覗いてみると、集会らしきものが催されているようだった。参加人数は十人程度だ。防音がしっかりしていて、内部の音は外に全く漏れ出ない。白い作務衣のような服を着た男が一人、スポットライトを浴びて壇上に立っており、コルコバードのキリスト像のように両手を広げて何事か演説をしているようだった。
「うわあ、ホンモノだ……」
かなたが口を滑らせたのを聞きつけ、中原も様子を確認しに来た。よく見れば、聴衆にはホンモノらしからぬ点も目につく。壇上の男がポーズの通り陶酔して演説しているのであれば、多くの場合聴衆もまた熱狂しているものだ。だが彼らは、おおよそ統一感のない気軽な姿勢で聞いている。また壇上にいるのは一人だけで、背広姿の教団幹部や怪しげな舞踏を舞うダンサーなどもいない。
「怪しくないとは言えませんが、なんだかホームルームと大差ない様子ですね」
「いーやまだ油断はできない」
暇を持て余した亜沙美が窓際にあるガラスケースの前に座り、部分的に焼け焦げた木製の弓を凝視して脳内録画しだした頃、ようやく集会が終わったようだ。聴衆たちはホール上手側にある出入り口から退出し、エントランスへは誰も向かってこなかった。だが壇上の男は中原たちに気付いていたらしく、お待たせしましたとでも言うように手を振った。ホール内を眺めていた二人に緊張が走り、かなたはとっさにサングラスを掛けた。
ホールの分厚い二重ガラス戸を開けて現れた男は、古墳時代の衣褌と作務衣を合わせたような白いコスチュームを着ている。端正な顔つきで、中原と同年齢か少し若い程度に見えた。
「ようこそ。ご参拝ですか? ……僕への」
参拝と聞いて、何か祀っているのかと質問しようとした中原の思考を、続く一語が彼方に吹き飛ばした。かなたは一瞬意味が理解できず、その後絶句した。中原はその男の笑顔に、黒や紫色の不気味な後光が差して見えた。
「冗談です」
訪問者たちが二の句を継げずにいるのを見兼ねてか、男は居住まいを正した。
「失礼しました。私は当会の代表で、矢加部と申します」
まだ狼狽したままのかなたをよそに、中原が応じる。
「ええ、あー、私たちは、布留川女学院の、郷土史研究部のもので、私は顧問の中原浹と申します。こちらは部員の蓮見さんと、あっちは降矢さん」
「ほう、あの女学院の」
「なんでも磐船講さんはこの地に千年以上の歴史を持つ、たいへん稀有な教団だと」
「左様で」
「そこで、部の活動としまして、その来歴などいろいろお話を伺えないかということで、言ってみれば取材要請と言いますか」
「取材……僕への? 冗談です」
この人は昼間から酔っ払っているんだろうか? 中原は呆気にとられていた。微醺を帯びている様子は見受けられないし、仮にそう質問したら、はい自分に酔っています、という返事が返ってくることは容易に想像できる。とりあえず、教祖とか唯一神ではなく代表と名乗ったことに関してだけ、常識的な会話ができる可能性を感じる。
「ここの歴史ですか……申し訳ないが、僕では期待には応えられませんね」
「何か……問題でも?」
ようやく調子を持ち直したかなたが訝しげに問うが、特に隠し事をしている様子はなかった。
「あまり話せることは多くないですが、まあこちらに……」
矢加部は案内所そばにある、白い丸テーブルと椅子を勧めた。
彼の言によると、明確な起源は分からないものの、歴史が古いことは確かなようだった。一説には、飛鳥時代に蘇我氏との勢力争いに敗れ、当地に逃れてきた物部氏の一派が開祖と言われている。歴史資料も過去には幾つか存在したのだが、大正時代に火事で焼失してしまったらしい。
「残っているのはほら、そこの弓だけです。なんでも物部の大連配下の靫負部が使ったものだとか。でも千年以上も前の弓が、そんな状態で残っているわけないでしょう」
磐船講の伝統を証明する唯一の品について、矢加部は軽く言い捨てて笑っている。
「僕も少しは調べてみたんですが、そもそも飛鳥時代に物部氏が落ち延びるとしたら西国で、この東北地方なんて当時の朝廷側文化から見たら未開の地です。ましてや勢力争いに負けたからと言って、八十物部と謳われた一族郎党まるごと、明日香の地を追放されたわけでもない。その後も物部氏の系譜は、連綿と歴史に名を残していますし」
明快な歴史的解説に触れるに連れ、中原の表情は好奇心に緩んでいった。亜沙美は矢加部や施設内をゆっくり見回しながら、チョコがけコーンパフを食べ続けている。
「僕の前までは、ずっと同じ家系が代表を世襲していて、その人達だったらまだ何か、一族に伝わる口頭伝承とかあったのかも知れませんが」
「矢加部さんは、代表に就かれてどのくらいですか?」
「十二年ですかね。珍しいでしょう、普通宗教団体のトップといえば、背広の爺さんとかもじゃもじゃの怪しい爺さんとか空飛ぶ爺さんとかじゃないですか。まあその、代表だった一族と縁あって、僕が継ぐことになったんですが」
話すにつれ、矢加部の口調が砕けてきたのを中原たちは感じていた。
「さて、申し訳ないが、そろそろ作業に行かなくちゃいけない」
そう言って、矢加部は椅子から立ち上がった。
「お忙しい中、ありがとうございます」
「役に立つ話は何もなくって……ああそうだ、もし館内を見て回りたければご自由にどうぞ。ただ、ここの会議室と和室、調理室とこのへんの区画は入居者のプライベートスペースなので、立ち入りは一応避けてください。あとここ、中央の総合受付、いろんな処理をやってる事務所なので」
館内案内図の立て看板を指し示しながら、矢加部が続ける。
「びっくりするくらい何もないですけどね。中原先生でしたか、先生には個人的に聞きたいこともあったが、今日は仕方ない。それから、もし入居者の方に会うことがあったら、一応こんにちは、くらいでいいので挨拶はしてください。見学は時々あるんですが、うちは少し神経質な人が多いので」
「コンニチハ」
「オリジナル言語による謎の挨拶とかは、無いです」
では、と普通に挨拶して出口へ向かう矢加部の背中に、かなたが訊いた。
「作業とは、一体何を?」
「農作業です。僕個人への参拝や取材は、いつでもどうぞ」
紫色の発光エフェクトをきらめかせながら、矢加部は西側出入口から屋外へと消えた。
中原たちのいるフロア外周の壁面ガラスには、立木の模様が印刷された茶色いフィルムが貼られていた。採光のため半透明になっているので、外の様子は視認できる。建物を出て左側の窓沿いを歩いて行く矢加部の姿を目で追うと、建物南側を十メートルほど降りた先に平地が広がっており、そこで多様な野菜が栽培されているようだった。
「どんな活動をしてるのか聞いてないじゃないですか!」
「うーん、なんだか、喋るのが上手いというか……話しているとあちらのペースに引き込まれてしまいましたね」
「伊達に教祖はやってないということか……」
かなたは例によって、わけの分からない納得をしている。ゆっくり喋っていたかと思えば急に早口になったり、抑揚の効いた矢加部の喋り方は長広舌でも不快感がなく、思わず聞き入ってしまったのだった。
「ところで、見たいですか? この施設内」
「うん、まあ、一応」
中原の質問にはそう答えたものの、実のところ、何か怪しいものが発見できるような雰囲気は少しも感じていなかった。矢加部が立ち入りを遠慮するよう要請したエリアに押し入って調べたところで、犯罪の証拠が出てくるという確信は全く持てなかったのだ。
「じゃあちょうどいい、私はここで少し休みます。見学が終わったら戻ってきてください。駅まで送りますから」
「駅までですか」
「想像してください。自分の車で女子寮に生徒を送り届けた翌日、私の立場がどんなことになっているかを」
「ぬう」
亜沙美の抗議を軽く流し、中原は買い物袋からサンドイッチを取り出した。柳澤から事件について連絡を受けたのが正午近くだったため、自分の食事と亜沙美対策用のお菓子を買い込んでから現場に訪れたのだ。
「十五分後に会おう。もし時間までに現れなければ連絡をくれ」
中原はかじりついたサンドイッチからこぼれたレタスを左手で受け止めながら頷き、かなたは案内所を後にした。亜沙美も、紐で繋がれているかのようにスーツケースを引いてついてゆく。
中原は、かなたの連絡先など知らなかった。
布留川女学院教職員のメールアドレスは緊急連絡先として関係者に公開されており、生徒各人に割り振られたIDとパスワードがあれば、女学院のイントラネット内で閲覧が可能だった。ただし、あくまで緊急連絡用で、通常は学校の情報共有システムを介しての連絡が推奨されている。生徒個人のアドレスに関しては、個人情報保護の観点から公開はされていない。
そういった理由で生徒側は中原のアドレスを知ることはできるのだが、当のかなたはアドレスが公開されている事自体を忘れていた。一方で、男性教師が女生徒のアドレスを個人的に知っていたなら、それは問題視されるだろう。
矢加部の言った通り、館内には怪しいものは何もなかった。OA機器もテーブルもないガラス張りの会議室や、音響機材の運び出されたイベントスペースは、無機質な薄暗い空間以上でも以下でもない。
図書区画には、まだ書籍が千冊以上も残されている。施設閉鎖にともなって自治体が蔵書を別の図書館に移したが、あまりにも借り手がいなかったり老朽化で新品に買い換えた残滓である。図書館として十分とは言い難いが、大衆受けするタイトルが間引かれてストイックな書籍が揃っている。そこでは中学校高学年程度の年齢と思われる少年が二人、文学全集の並ぶ書棚の前で楽しそうに会話していた。
「じゃあこれ! トマス・ピンチョン」
「何だよそれすっげー弱そう。俺これ! スタンダール」
「そっちこそ何だよ。めっちゃ普通そうじゃん」
「んじゃ次……あっこれスゲー、ビクトル・ユゴー!」
「うわ何か強そう! 俺ここらで……ドストエフスキー!」
「なんかこのへんラスボス揃ってね? ロシア文学ヤバくね!」
「ヤバイねロシア」
矢加部と同じデザインの服を着た少年たちは、目を瞑って書棚から本を引き抜き、謎の対戦ゲームらしきものを続けていた。
建物中央付近には、ガラス張りで全方位から望める楕円形をした中庭がある。その中庭に沿った通路の西側、メイン通路と繋がった広場には、パイプオルガンと観賞用のベンチが設置してあった。ほかに、案内所のある西側エントランス以外にも東、南、北の各方角に出入口を見つけたが、東側は封鎖されているようだ。
かなたと亜沙美は何事もなく館内を一周した。十五分どころか五分で戻れそうなペースだ。だが板壁と格子戸で区切られた畳敷きの区画で、初めて矢加部以外の磐船講関係者から話しかけられた。案内図には和室と表記されていた場所だ。
「見学の方ですか?」
鈴の鳴るような声の主は、かなたたちと同年輩らしき髪の長い少女だった。和風のビスクドールとでも言うべき恐ろしく端整な顔立ちで、彼女もまた矢加部の着ていた衣褌のような服に身を包んでいる。よく見ると上着の裾がスカート状になっており、どうやら女性用のようだ。
その少女の美術品のような面立ちと圧倒的なほど高貴な雰囲気に、侵入者の二人は完全に気後れしてしまった。
「あ、はい。見学で」
「見学させていただいております」
亜沙美が謙譲語で対応するのは平常運転なのだが、鳩のように首を振っているため普段よりも声が震えている。より感受性が豊かで且つ精神が不安定な者ならば、手を合わせて拝んだり地面に平伏して泣き出したりしたことだろう。少女はそうですか、と微笑み、
「私はここに住んでいる、雛母離と申します。どうぞごゆっくり」
自信に満ちた笑顔を四つの瞳に焼き付け、図書区画の方へと静かに歩いて行った。手にはノートと教科書らしき本を持っているようだった。
二人はその後ろ姿を、しばらく呆然と眺めていた。
「美人データベースの最高位が更新されました」
亜沙美が目を爛々と光らせながら通知する。
あの少女と比べたら、自分はいつも浮足立ってばかりで――ほんの二言を交わしただけなのに、かなたは明確な劣等感を覚えていた。外見が整っているかどうかということではなく、自身に満ちていながら自然なありようが、とても羨ましい。
あの雛母離という少女、そして奇妙な雰囲気をまとった矢加部という男――この場所は、外とは隔絶された異世界なのかもしれない。
ヨーグルトを食べ終わって謎の焦げた弓を眺めていた中原の元に二人が戻ってきたのは、十分後の事だった。あまり晴れやかでないかなたの表情と相変わらずの亜沙美を見て、では帰りましょうか、と呼びかけた。
「こっちを行きましょう、ちょっと近道になっているみたいです」
三人は建物の外に出ると、敷地内南西部の遊歩道を通って帰路についた。往路とは違う道のりだ。
「何事もなくて何よりです、複数の意味で。柳君にはあとで私から伝えておきましょう」
「そういえば、あそこに住んでるっていう女の子に会いましたよ、私たちと同じくらいの。ヒナモリ、って言ってたかな」
「ヒナモリ……けっこう珍しい名字ですね。学院にいたかな……もしくは剣根高校の生徒でしょうかね」
「うちにいるなら絶対知ってると思う。雰囲気ぜんぜん違ったし」
「万物を土下座させる力を持った人形のような、物凄い美少女です」
亜沙美の訳のわからない表現では、中原は山羊の角が生えた悪魔像や金剛力士像を想像せざるを得なかった。無論土下座するかどうかも疑わしい。
敷石で舗装された遊歩道の先に、ステンレス製の車止めポールが見えてきた。道の右手側は木々の密度が薄く磐船講の建物が望めるが、左手側に立ち並ぶ紫陽花の先は深い雑木林で、広葉樹の葉が視界を遮っている。
「そうだ。今後、もしかしたら型通りの事情聴取くらいは」
あるかもしれません、と中原が台詞を結ぼうとすると、左手側の木の葉が強くざわめいた。紫陽花の葉が乱暴に掻き分けられ、舞い散る。
「死ねえ!」
鋭い叫び声が平穏を裂き、長大な棒状の凶器が低い風切音を上げて振り下ろされた。小柄な人影が抱えた長さ四メートルほどの丸太が、中原から数十センチメートルほどの石畳に打ち付けられる。丸太の先端が敷石を砕き、地面に突き刺さった。中原はとっさに右腕を広げてかなたと亜沙美を庇うが、それ以上は為すところがなかった。戦慄する三人の目には、人影は小柄な少女のように見える。その少女が、身の丈の倍以上ある丸太を持ち上げた。
「チ・カ・を……返・せ・え!」
少女は叫びながら丸太を振りかぶり、丸太の先端に引っかかったFRP製の敷石が空高く放り上げられられた。
「い・わ・ふね・こ……」
少女が丸太を振り下ろそうとするが、それは圧倒的な暴力によって阻止された。かなたが素早く前に出て少女の左側面から足を払い、背中を地面に叩きつけた、というのは後日のかなたの妄想である。実際に少女を制止したのは、当の少女が自ら放り上げた、分厚い辞書ほどもある敷石の破片だ。まるで持ち主のもとに戻るかのように落下してきたFRP製の瓦礫は、少女の頭部を直撃し見事に昏倒させたのだった。
数秒間の沈黙が流れる。
「大丈夫、ですか?」
この中原の言葉は、誰に向けられたものだろうか。女生徒二人は共に尻もちをついて倒れ、かなたに至っては涙目になっている。
丸太を手放して大の字に倒れた小柄な少女は、かなたたちとそう変わらぬ年齢のようだ。まるで軍服のような深緑色の上下と目深にかぶった帽子、その下には意外なほど愛嬌のある面立ちの小さな顔が見える。直径十センチを超え、数十キロもの重さになろうかという丸太を振り回していた人物だと、外見から予測できる者は地球上に存在しないだろう。
「どうしましょうか。これ」
かなたよりも先に平常心を取り戻した亜沙美が、スカートについた砂を払い落としながら少女の顔を覗き込む。倒れた拍子にカップ容器から散乱してしまったポテトスナックについて言った、という可能性もある。
「……そういえば、磐船講と叫んでいたね」
「うーん、我々は磐船講の関係者と勘違いされて、それが元で襲われた……?」
やや涙声のかなたがようやく立ち上がった。少女の言動から中原はそう推察したが、襲撃される理由には心当たりなどあろう筈もない。
「これは、救急車を呼ぶべきなんでしょうか」
「息はしてますね。血も出ていないかな」
「この敷石は本物の石じゃなくて、FRP製の軽いやつですね。しかしFRPというのは繊維強化プラスチック、ものすごく頑丈な筈では……」
かなたが恐る恐る、大の字で空を仰ぎ眠る豪胆な襲撃者の容態を確認した。敷石は、軽量とは言っても2キログラム程度はある。そんなもので頭部を強打して無事に済むものだろうか。
「矢加部氏に助けを求められればいいんですけど……そうすると少々ややこしくなりそうですね」
「とりあえず……公園まで運ぼう。ここに放置していくのはさすがに可哀想だし、なにか聞けるかも」
「ああ、厄介事が次から次へと……」
中原がため息をつきながら頷き、少女を抱え上げようとする。
「待て! おお女の子に! さわるな変態!」
かなたがひどい罵倒の言葉を吐き、私がやるから、と少女を抱き起こして背負おうとした。だが人が自ら掴まってくれる場合と違い、意識のない脱力した人間を背負うのは大変な労力を要する。結局、亜沙美の肩を借り、二人で運ぶことになった。
「せ先生は、……それ。亜沙美ちゃんのバッグ」
かなたは教師を顎で使い、雲雀野自然公園へと歩み始めた。
雲雀野自然公園から磐船講への道のりは、緩やかな上り坂が連なっている。交通量が少ないためアスファルトのあちこちから逞しい雑草が頭を出し、道路は所々ひび割れていた。途中の歩道には丸太が横たわっている。先日の台風で飛ばされてきたものらしい。
「うーん仕方ない。私たちは布留川女学院の郷土史研究部の顧問と部員、という嘘で通しましょう」
「身分詐称は潜入捜査の基本だからな」
「入会案内みたいなものを何も持っていないのに、入信や見学希望ですというのも不自然ですからね。もちろん本当のところも言えませんし。何かあったら結果は私が全て請け負うので、安心して歴史大好きですというような顔をしていてください」
スーツケースを引いて坂道を登る亜沙美は、朦朧とした顔でキョウドシケンキュウブキョウドシケンキュウブと呟いている。
「でもそれじゃ、あまり詳しくは調べられないんじゃ」
「私達の役割はその程度のものでしょう。友好的に応対してくれるならそれでよし。なにか態度を硬化させるような話題でもあれば、それを柳君に伝えてこの件はお仕舞い、というのが落としどころです」
不満げなかなたをよそに、亜沙美は時々頷きながらチョコウエハースを口に運んでエネルギーを補給した。
「でも郷土史とかでいいんですか? 布留川にそんな部活ないですけど」
「地元出身の坂本先生が言っていたんですが、磐船講というのは、どうもかなり歴史が長いそうで、千年以上という説もあるそうです」
「カルトとかじゃないのか……残念だ」
「……そのへんを、話を広げる糸口にできるんじゃないかと」
中原は郷土史に特別強い関心があるわけではないが、なかなか興味を引く話ではあった。せっかくなので個人的に色々聞いてみるのもいいか、そう思えば足取りも軽くなる。
潜入方法の相談をしつつ三人が歩を進めると、やがて右手側に続いていた雑木林が途切れ、視界が開けた。
「おや? あの建物ですか」
ゆるやかな坂を登りきった先に見えてきたのは、白を基調とした曲線的なデザインが印象的な、現代的な建物だった。三人とも磐船講の建物を見たことはなく、思い思いに老朽化した公民館や体育館のような姿を想像していた。
中原たちのいる歩道から見える面はほとんどガラス張りで、上部に白いカーテン状の傘のような屋根が乗っていた。建物は外形が左右非対称で、真上から見ると西洋梨のような形をしている。思い描いていたのとは程遠い、近代的な洗練された建築だった。ちなみにかなたは、昼間なのに周囲が薄暗い廃校跡に怪しげな篝火がゆらめくダンジョンを妄想していた。周辺には駐車場や遊歩道などもあり、南側の低地には菜園らしき緑地が見える。
「こんなに広い駐車場があるじゃないですか……」
出発前に十数分の歩行すらも嫌がっていた亜沙美が愚痴をこぼす。体力の限界を迎えたわけではないが、単に体を動かすのが嫌いなのだ。中原の自家用車は、公園の駐車場に置いたままだ。
「うーん、せめて制服なら策を弄さずとも……」
中原は生徒二人を見ながら、もしかしたら怪しまれるかもしれない、と危惧を覚えた。一見男装とも取れるかなたのジャケットは左前で女性用のものだが、高校生が六月にリクルートスーツ姿で歩き回るというのは珍しい。亜沙美は黒とピンクの、アポロ十一号宇宙船型チョコレートが、チョコレート菓子を食べながら歩いているような姿をしている。この二人のいでたちに、初見で学生という単語を想起する人は少ないだろう。中原の心中を察してか、かなたはブラウスの胸元に引っ掛けていたサングラスを手にした。
「蓮見さん、それだけはやめて」
「チッ。じゃあ、学生に見えればいいんですね?」
「それはそうですが」
「亜沙美ちゃん、制服と学生証持ってるよね」
「いつなんどきでも」
亜沙美のスーツケースには、お菓子以外も入っているのだ。かなたは、どうだ準備は万端だ、とでも言いたげな顔をしている。
「じゃあ、学生証だけ用意しておいてもらえますか。その辺の木陰で着替えるわけにもいかないですし」
「あ、当たり前だ!」
大きな声で密談しながら磐船講に近づいてゆく三人の後ろ姿を、野生動物のような眼が雑木林の奥から見つめていた。
雑木林を見上げて、中原が感心したようにつぶやく。
「珍しい、これを見てください」
「な、なんだ! やっぱり着替えろって言うんでしょう! それとも二匹の蛇がなんか絡み合ってる姿とか見せるんだろう! いやらしい!」
「落ち着いてください」
「かなたちゃん深く考えちゃダメ」
中原の視線の先には、小さな緑のあけびが実っている。あけびの蔓は樹木に絡んで伸びているので、かなたの妄想は少し当たっていた。
すいませえん、という中原の声が磐船講のエントランスホールにこだまする。建物西側にある正面入口は、風除室を挟んだ二重のガラス製自動ドアだった。ドアは正常に動いていたため、三人は何の苦労もなく建物内に侵入した。中に入るとすぐ左側に、数段の上り階段とその先にガラス張りの小規模なイベントホール、右手前には頭上に大型プラズマディスプレイが据え付けられた無人の施設案内所がある。正面には道幅の広いメイン通路があり、そこから各区画への通路が左右に枝分かれしている。イベントホール入り口脇には公衆電話があり、電話帳も配備されてあった。
「ずいぶん大きな施設ですが、そんなに大きな教団なんですかね」
「武器の保管や訓練には、これくらい必要だろうな」
「……」
二分ほど待ってみたが応答はなく、さりとて建物内を無断で歩き回るのは気が引ける。案内所脇には館内図の立て看板があったが、図書館や体育館などと表記されている。公共施設だった当時のものを、そのまま置いているようだ。
かなたが階段を登ってイベントホールを覗いてみると、集会らしきものが催されているようだった。参加人数は十人程度だ。防音がしっかりしていて、内部の音は外に全く漏れ出ない。白い作務衣のような服を着た男が一人、スポットライトを浴びて壇上に立っており、コルコバードのキリスト像のように両手を広げて何事か演説をしているようだった。
「うわあ、ホンモノだ……」
かなたが口を滑らせたのを聞きつけ、中原も様子を確認しに来た。よく見れば、聴衆にはホンモノらしからぬ点も目につく。壇上の男がポーズの通り陶酔して演説しているのであれば、多くの場合聴衆もまた熱狂しているものだ。だが彼らは、おおよそ統一感のない気軽な姿勢で聞いている。また壇上にいるのは一人だけで、背広姿の教団幹部や怪しげな舞踏を舞うダンサーなどもいない。
「怪しくないとは言えませんが、なんだかホームルームと大差ない様子ですね」
「いーやまだ油断はできない」
暇を持て余した亜沙美が窓際にあるガラスケースの前に座り、部分的に焼け焦げた木製の弓を凝視して脳内録画しだした頃、ようやく集会が終わったようだ。聴衆たちはホール上手側にある出入り口から退出し、エントランスへは誰も向かってこなかった。だが壇上の男は中原たちに気付いていたらしく、お待たせしましたとでも言うように手を振った。ホール内を眺めていた二人に緊張が走り、かなたはとっさにサングラスを掛けた。
ホールの分厚い二重ガラス戸を開けて現れた男は、古墳時代の衣褌と作務衣を合わせたような白いコスチュームを着ている。端正な顔つきで、中原と同年齢か少し若い程度に見えた。
「ようこそ。ご参拝ですか? ……僕への」
参拝と聞いて、何か祀っているのかと質問しようとした中原の思考を、続く一語が彼方に吹き飛ばした。かなたは一瞬意味が理解できず、その後絶句した。中原はその男の笑顔に、黒や紫色の不気味な後光が差して見えた。
「冗談です」
訪問者たちが二の句を継げずにいるのを見兼ねてか、男は居住まいを正した。
「失礼しました。私は当会の代表で、矢加部と申します」
まだ狼狽したままのかなたをよそに、中原が応じる。
「ええ、あー、私たちは、布留川女学院の、郷土史研究部のもので、私は顧問の中原浹と申します。こちらは部員の蓮見さんと、あっちは降矢さん」
「ほう、あの女学院の」
「なんでも磐船講さんはこの地に千年以上の歴史を持つ、たいへん稀有な教団だと」
「左様で」
「そこで、部の活動としまして、その来歴などいろいろお話を伺えないかということで、言ってみれば取材要請と言いますか」
「取材……僕への? 冗談です」
この人は昼間から酔っ払っているんだろうか? 中原は呆気にとられていた。微醺を帯びている様子は見受けられないし、仮にそう質問したら、はい自分に酔っています、という返事が返ってくることは容易に想像できる。とりあえず、教祖とか唯一神ではなく代表と名乗ったことに関してだけ、常識的な会話ができる可能性を感じる。
「ここの歴史ですか……申し訳ないが、僕では期待には応えられませんね」
「何か……問題でも?」
ようやく調子を持ち直したかなたが訝しげに問うが、特に隠し事をしている様子はなかった。
「あまり話せることは多くないですが、まあこちらに……」
矢加部は案内所そばにある、白い丸テーブルと椅子を勧めた。
彼の言によると、明確な起源は分からないものの、歴史が古いことは確かなようだった。一説には、飛鳥時代に蘇我氏との勢力争いに敗れ、当地に逃れてきた物部氏の一派が開祖と言われている。歴史資料も過去には幾つか存在したのだが、大正時代に火事で焼失してしまったらしい。
「残っているのはほら、そこの弓だけです。なんでも物部の大連配下の靫負部が使ったものだとか。でも千年以上も前の弓が、そんな状態で残っているわけないでしょう」
磐船講の伝統を証明する唯一の品について、矢加部は軽く言い捨てて笑っている。
「僕も少しは調べてみたんですが、そもそも飛鳥時代に物部氏が落ち延びるとしたら西国で、この東北地方なんて当時の朝廷側文化から見たら未開の地です。ましてや勢力争いに負けたからと言って、八十物部と謳われた一族郎党まるごと、明日香の地を追放されたわけでもない。その後も物部氏の系譜は、連綿と歴史に名を残していますし」
明快な歴史的解説に触れるに連れ、中原の表情は好奇心に緩んでいった。亜沙美は矢加部や施設内をゆっくり見回しながら、チョコがけコーンパフを食べ続けている。
「僕の前までは、ずっと同じ家系が代表を世襲していて、その人達だったらまだ何か、一族に伝わる口頭伝承とかあったのかも知れませんが」
「矢加部さんは、代表に就かれてどのくらいですか?」
「十二年ですかね。珍しいでしょう、普通宗教団体のトップといえば、背広の爺さんとかもじゃもじゃの怪しい爺さんとか空飛ぶ爺さんとかじゃないですか。まあその、代表だった一族と縁あって、僕が継ぐことになったんですが」
話すにつれ、矢加部の口調が砕けてきたのを中原たちは感じていた。
「さて、申し訳ないが、そろそろ作業に行かなくちゃいけない」
そう言って、矢加部は椅子から立ち上がった。
「お忙しい中、ありがとうございます」
「役に立つ話は何もなくって……ああそうだ、もし館内を見て回りたければご自由にどうぞ。ただ、ここの会議室と和室、調理室とこのへんの区画は入居者のプライベートスペースなので、立ち入りは一応避けてください。あとここ、中央の総合受付、いろんな処理をやってる事務所なので」
館内案内図の立て看板を指し示しながら、矢加部が続ける。
「びっくりするくらい何もないですけどね。中原先生でしたか、先生には個人的に聞きたいこともあったが、今日は仕方ない。それから、もし入居者の方に会うことがあったら、一応こんにちは、くらいでいいので挨拶はしてください。見学は時々あるんですが、うちは少し神経質な人が多いので」
「コンニチハ」
「オリジナル言語による謎の挨拶とかは、無いです」
では、と普通に挨拶して出口へ向かう矢加部の背中に、かなたが訊いた。
「作業とは、一体何を?」
「農作業です。僕個人への参拝や取材は、いつでもどうぞ」
紫色の発光エフェクトをきらめかせながら、矢加部は西側出入口から屋外へと消えた。
中原たちのいるフロア外周の壁面ガラスには、立木の模様が印刷された茶色いフィルムが貼られていた。採光のため半透明になっているので、外の様子は視認できる。建物を出て左側の窓沿いを歩いて行く矢加部の姿を目で追うと、建物南側を十メートルほど降りた先に平地が広がっており、そこで多様な野菜が栽培されているようだった。
「どんな活動をしてるのか聞いてないじゃないですか!」
「うーん、なんだか、喋るのが上手いというか……話しているとあちらのペースに引き込まれてしまいましたね」
「伊達に教祖はやってないということか……」
かなたは例によって、わけの分からない納得をしている。ゆっくり喋っていたかと思えば急に早口になったり、抑揚の効いた矢加部の喋り方は長広舌でも不快感がなく、思わず聞き入ってしまったのだった。
「ところで、見たいですか? この施設内」
「うん、まあ、一応」
中原の質問にはそう答えたものの、実のところ、何か怪しいものが発見できるような雰囲気は少しも感じていなかった。矢加部が立ち入りを遠慮するよう要請したエリアに押し入って調べたところで、犯罪の証拠が出てくるという確信は全く持てなかったのだ。
「じゃあちょうどいい、私はここで少し休みます。見学が終わったら戻ってきてください。駅まで送りますから」
「駅までですか」
「想像してください。自分の車で女子寮に生徒を送り届けた翌日、私の立場がどんなことになっているかを」
「ぬう」
亜沙美の抗議を軽く流し、中原は買い物袋からサンドイッチを取り出した。柳澤から事件について連絡を受けたのが正午近くだったため、自分の食事と亜沙美対策用のお菓子を買い込んでから現場に訪れたのだ。
「十五分後に会おう。もし時間までに現れなければ連絡をくれ」
中原はかじりついたサンドイッチからこぼれたレタスを左手で受け止めながら頷き、かなたは案内所を後にした。亜沙美も、紐で繋がれているかのようにスーツケースを引いてついてゆく。
中原は、かなたの連絡先など知らなかった。
布留川女学院教職員のメールアドレスは緊急連絡先として関係者に公開されており、生徒各人に割り振られたIDとパスワードがあれば、女学院のイントラネット内で閲覧が可能だった。ただし、あくまで緊急連絡用で、通常は学校の情報共有システムを介しての連絡が推奨されている。生徒個人のアドレスに関しては、個人情報保護の観点から公開はされていない。
そういった理由で生徒側は中原のアドレスを知ることはできるのだが、当のかなたはアドレスが公開されている事自体を忘れていた。一方で、男性教師が女生徒のアドレスを個人的に知っていたなら、それは問題視されるだろう。
矢加部の言った通り、館内には怪しいものは何もなかった。OA機器もテーブルもないガラス張りの会議室や、音響機材の運び出されたイベントスペースは、無機質な薄暗い空間以上でも以下でもない。
図書区画には、まだ書籍が千冊以上も残されている。施設閉鎖にともなって自治体が蔵書を別の図書館に移したが、あまりにも借り手がいなかったり老朽化で新品に買い換えた残滓である。図書館として十分とは言い難いが、大衆受けするタイトルが間引かれてストイックな書籍が揃っている。そこでは中学校高学年程度の年齢と思われる少年が二人、文学全集の並ぶ書棚の前で楽しそうに会話していた。
「じゃあこれ! トマス・ピンチョン」
「何だよそれすっげー弱そう。俺これ! スタンダール」
「そっちこそ何だよ。めっちゃ普通そうじゃん」
「んじゃ次……あっこれスゲー、ビクトル・ユゴー!」
「うわ何か強そう! 俺ここらで……ドストエフスキー!」
「なんかこのへんラスボス揃ってね? ロシア文学ヤバくね!」
「ヤバイねロシア」
矢加部と同じデザインの服を着た少年たちは、目を瞑って書棚から本を引き抜き、謎の対戦ゲームらしきものを続けていた。
建物中央付近には、ガラス張りで全方位から望める楕円形をした中庭がある。その中庭に沿った通路の西側、メイン通路と繋がった広場には、パイプオルガンと観賞用のベンチが設置してあった。ほかに、案内所のある西側エントランス以外にも東、南、北の各方角に出入口を見つけたが、東側は封鎖されているようだ。
かなたと亜沙美は何事もなく館内を一周した。十五分どころか五分で戻れそうなペースだ。だが板壁と格子戸で区切られた畳敷きの区画で、初めて矢加部以外の磐船講関係者から話しかけられた。案内図には和室と表記されていた場所だ。
「見学の方ですか?」
鈴の鳴るような声の主は、かなたたちと同年輩らしき髪の長い少女だった。和風のビスクドールとでも言うべき恐ろしく端整な顔立ちで、彼女もまた矢加部の着ていた衣褌のような服に身を包んでいる。よく見ると上着の裾がスカート状になっており、どうやら女性用のようだ。
その少女の美術品のような面立ちと圧倒的なほど高貴な雰囲気に、侵入者の二人は完全に気後れしてしまった。
「あ、はい。見学で」
「見学させていただいております」
亜沙美が謙譲語で対応するのは平常運転なのだが、鳩のように首を振っているため普段よりも声が震えている。より感受性が豊かで且つ精神が不安定な者ならば、手を合わせて拝んだり地面に平伏して泣き出したりしたことだろう。少女はそうですか、と微笑み、
「私はここに住んでいる、雛母離と申します。どうぞごゆっくり」
自信に満ちた笑顔を四つの瞳に焼き付け、図書区画の方へと静かに歩いて行った。手にはノートと教科書らしき本を持っているようだった。
二人はその後ろ姿を、しばらく呆然と眺めていた。
「美人データベースの最高位が更新されました」
亜沙美が目を爛々と光らせながら通知する。
あの少女と比べたら、自分はいつも浮足立ってばかりで――ほんの二言を交わしただけなのに、かなたは明確な劣等感を覚えていた。外見が整っているかどうかということではなく、自身に満ちていながら自然なありようが、とても羨ましい。
あの雛母離という少女、そして奇妙な雰囲気をまとった矢加部という男――この場所は、外とは隔絶された異世界なのかもしれない。
ヨーグルトを食べ終わって謎の焦げた弓を眺めていた中原の元に二人が戻ってきたのは、十分後の事だった。あまり晴れやかでないかなたの表情と相変わらずの亜沙美を見て、では帰りましょうか、と呼びかけた。
「こっちを行きましょう、ちょっと近道になっているみたいです」
三人は建物の外に出ると、敷地内南西部の遊歩道を通って帰路についた。往路とは違う道のりだ。
「何事もなくて何よりです、複数の意味で。柳君にはあとで私から伝えておきましょう」
「そういえば、あそこに住んでるっていう女の子に会いましたよ、私たちと同じくらいの。ヒナモリ、って言ってたかな」
「ヒナモリ……けっこう珍しい名字ですね。学院にいたかな……もしくは剣根高校の生徒でしょうかね」
「うちにいるなら絶対知ってると思う。雰囲気ぜんぜん違ったし」
「万物を土下座させる力を持った人形のような、物凄い美少女です」
亜沙美の訳のわからない表現では、中原は山羊の角が生えた悪魔像や金剛力士像を想像せざるを得なかった。無論土下座するかどうかも疑わしい。
敷石で舗装された遊歩道の先に、ステンレス製の車止めポールが見えてきた。道の右手側は木々の密度が薄く磐船講の建物が望めるが、左手側に立ち並ぶ紫陽花の先は深い雑木林で、広葉樹の葉が視界を遮っている。
「そうだ。今後、もしかしたら型通りの事情聴取くらいは」
あるかもしれません、と中原が台詞を結ぼうとすると、左手側の木の葉が強くざわめいた。紫陽花の葉が乱暴に掻き分けられ、舞い散る。
「死ねえ!」
鋭い叫び声が平穏を裂き、長大な棒状の凶器が低い風切音を上げて振り下ろされた。小柄な人影が抱えた長さ四メートルほどの丸太が、中原から数十センチメートルほどの石畳に打ち付けられる。丸太の先端が敷石を砕き、地面に突き刺さった。中原はとっさに右腕を広げてかなたと亜沙美を庇うが、それ以上は為すところがなかった。戦慄する三人の目には、人影は小柄な少女のように見える。その少女が、身の丈の倍以上ある丸太を持ち上げた。
「チ・カ・を……返・せ・え!」
少女は叫びながら丸太を振りかぶり、丸太の先端に引っかかったFRP製の敷石が空高く放り上げられられた。
「い・わ・ふね・こ……」
少女が丸太を振り下ろそうとするが、それは圧倒的な暴力によって阻止された。かなたが素早く前に出て少女の左側面から足を払い、背中を地面に叩きつけた、というのは後日のかなたの妄想である。実際に少女を制止したのは、当の少女が自ら放り上げた、分厚い辞書ほどもある敷石の破片だ。まるで持ち主のもとに戻るかのように落下してきたFRP製の瓦礫は、少女の頭部を直撃し見事に昏倒させたのだった。
数秒間の沈黙が流れる。
「大丈夫、ですか?」
この中原の言葉は、誰に向けられたものだろうか。女生徒二人は共に尻もちをついて倒れ、かなたに至っては涙目になっている。
丸太を手放して大の字に倒れた小柄な少女は、かなたたちとそう変わらぬ年齢のようだ。まるで軍服のような深緑色の上下と目深にかぶった帽子、その下には意外なほど愛嬌のある面立ちの小さな顔が見える。直径十センチを超え、数十キロもの重さになろうかという丸太を振り回していた人物だと、外見から予測できる者は地球上に存在しないだろう。
「どうしましょうか。これ」
かなたよりも先に平常心を取り戻した亜沙美が、スカートについた砂を払い落としながら少女の顔を覗き込む。倒れた拍子にカップ容器から散乱してしまったポテトスナックについて言った、という可能性もある。
「……そういえば、磐船講と叫んでいたね」
「うーん、我々は磐船講の関係者と勘違いされて、それが元で襲われた……?」
やや涙声のかなたがようやく立ち上がった。少女の言動から中原はそう推察したが、襲撃される理由には心当たりなどあろう筈もない。
「これは、救急車を呼ぶべきなんでしょうか」
「息はしてますね。血も出ていないかな」
「この敷石は本物の石じゃなくて、FRP製の軽いやつですね。しかしFRPというのは繊維強化プラスチック、ものすごく頑丈な筈では……」
かなたが恐る恐る、大の字で空を仰ぎ眠る豪胆な襲撃者の容態を確認した。敷石は、軽量とは言っても2キログラム程度はある。そんなもので頭部を強打して無事に済むものだろうか。
「矢加部氏に助けを求められればいいんですけど……そうすると少々ややこしくなりそうですね」
「とりあえず……公園まで運ぼう。ここに放置していくのはさすがに可哀想だし、なにか聞けるかも」
「ああ、厄介事が次から次へと……」
中原がため息をつきながら頷き、少女を抱え上げようとする。
「待て! おお女の子に! さわるな変態!」
かなたがひどい罵倒の言葉を吐き、私がやるから、と少女を抱き起こして背負おうとした。だが人が自ら掴まってくれる場合と違い、意識のない脱力した人間を背負うのは大変な労力を要する。結局、亜沙美の肩を借り、二人で運ぶことになった。
「せ先生は、……それ。亜沙美ちゃんのバッグ」
かなたは教師を顎で使い、雲雀野自然公園へと歩み始めた。
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