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1 カナタの世界
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森が小人たちに与えた傘のようなトチノキの葉が、陽光を浴びて風に揺らいでいる。時折差し込む僅かな木洩れ日に、樹下にたたずむ蓮見かなたは目を細め、襟元に掛けていたサングラスを手に取った。雲雀野自然公園のトチノキ林を初夏の風が走り、前ボタンを外した黒いジャケットの裾をはためかせる。光沢のある黒い帳が、かなたの傍らで膝を抱く神秘的な少女の頬を撫で、風は彼方へと過ぎ去った。
チタンフレームに偏光レンズを誂えたサングラスを掛け、かなたは顔を上げた。六月初旬のねばりを帯び始めた空気を揺らして、大排気量エンジンの轟音が響く。ほどなく、ゼネラルモーターズ製の大型SUVが、ダークシルバーのボディを日差しに輝かせながら姿を現した。
「蓮見チーフ、ですね。はじめまして」
濃紺のブルゾンを着た若く背の高い女が降車し、引き締まった面持ちで挨拶した。かなたをチーフと呼んだのは進藤杏子、鑑識課所属の警察官だ。ブルゾンの左胸には「真野県警 進藤」と白の文字で刺繍されている。
「……始めてくれ」
かなたの足元に横たわる痕跡を調査し「証拠」とするため、杏子はこの公園を訪れたのだ。まばらに雑草の生えた黄土色の地面には、表面が削り取られて湿った土が覗く、色の濃い箇所が幾つか見て取れる。さらに強く目を引くのは、土に多量の液体が染み込んだ赤黒い痕跡だった。そこから発せられる鉄錆のような臭いは、慣れない者は嗅いだだけで吐き気を催すことだろう。紛うかたなく血痕であり、ルミノール試薬によるヘモグロビン反応を見るまでもない。
身体から大量の血液を失ったはずの何者かは、少なくとも公園内には見当たらない。彼女らの存在を日常から切り取るように、黄と黒で彩られた警察線テープが樹木を柱にして現場を囲っている。
杏子は首に下げていた一眼レフカメラを手に、周囲の有意と思われる痕跡の記録作業を始める。1から通し番号の印刷された三角形の白い標識をジュラルミン製のツールボックスから取り出し、血痕や擦過痕の傍に置いて撮影してゆく。その淀みない所作から、若い彼女が鑑識官として十分な経験を積んでいることが伺い知れる。
「蓮見さん、あれは……」
かなたの庇護を受けるかのように寄り添っていた小柄な少女、降矢亜沙美がジャケットの裾を引いて不安げに訴える。トチノキ林の奥に亜沙美が見つけたのは、彼女達を刺すように注視する一対の眼だった。無害で無関係な野次馬とは一線を画する、敵愾心に満ちた、獣のような男の眼光だ。
「ここで待つんだ。いいね」
言い終えるが早いか、かなたは男に向かって駆け出した。それが合図になったように男は踵を返し、木々の間を抜けて奔る。人為的に配置されたトチノキ林は間隔が広く、落ち葉も少ないためスピードは落ちない。力強く地面を蹴る音はしばしば風にざわめく葉音にかき消され、逃走をより容易なものにした。男は時折後背を伺いながら駆け続け、陸上選手のように公園外周の柵を飛び越えて雑木林に逃げ込む。
雑草や枯れ枝を踏む足音が一人分しか聞こえないことに気づき、男はようやく足を止めた。膝に両手をついて上体を折り、息を整える。
「ハッ、アッシュビルじゃランニングバックだった俺に脚で勝てるとでも……」
そう独りごちて、巨木の幹に背を預けた。息を整え一服しようと、胸ポケットを探る。周囲を見渡すと、左手に腰を下ろせそうな太さの切り株が見えた。水平な断面を跨いで座り、紙巻きタバコを咥えてオイルライターの蓋を親指で跳ね上げると、左の耳元で金属音がした。オイルライターの蝶番が立てた軽快な音ではない。強靭なスプリングが伸び、撃鉄が引き上げられ、指先一つで撃針を打てる状態に固定される、自動拳銃の硬質な金属音だ。
「……選べ」
女の声、蓮見かなたの声だった。男の全身が緊張に強張る。
「死か罰か、どちらがいい」
銃口は冷徹に、しっかりと男のこめかみに突き付けられている。横目にかなたの顔を伺おうとしたが、サングラスに反射した陽光に目を灼かれ、表情は読み取れなかった。
以上はすべて、蓮見かなたの妄想である。
チタンフレームに偏光レンズを誂えたサングラスを掛け、かなたは顔を上げた。六月初旬のねばりを帯び始めた空気を揺らして、大排気量エンジンの轟音が響く。ほどなく、ゼネラルモーターズ製の大型SUVが、ダークシルバーのボディを日差しに輝かせながら姿を現した。
「蓮見チーフ、ですね。はじめまして」
濃紺のブルゾンを着た若く背の高い女が降車し、引き締まった面持ちで挨拶した。かなたをチーフと呼んだのは進藤杏子、鑑識課所属の警察官だ。ブルゾンの左胸には「真野県警 進藤」と白の文字で刺繍されている。
「……始めてくれ」
かなたの足元に横たわる痕跡を調査し「証拠」とするため、杏子はこの公園を訪れたのだ。まばらに雑草の生えた黄土色の地面には、表面が削り取られて湿った土が覗く、色の濃い箇所が幾つか見て取れる。さらに強く目を引くのは、土に多量の液体が染み込んだ赤黒い痕跡だった。そこから発せられる鉄錆のような臭いは、慣れない者は嗅いだだけで吐き気を催すことだろう。紛うかたなく血痕であり、ルミノール試薬によるヘモグロビン反応を見るまでもない。
身体から大量の血液を失ったはずの何者かは、少なくとも公園内には見当たらない。彼女らの存在を日常から切り取るように、黄と黒で彩られた警察線テープが樹木を柱にして現場を囲っている。
杏子は首に下げていた一眼レフカメラを手に、周囲の有意と思われる痕跡の記録作業を始める。1から通し番号の印刷された三角形の白い標識をジュラルミン製のツールボックスから取り出し、血痕や擦過痕の傍に置いて撮影してゆく。その淀みない所作から、若い彼女が鑑識官として十分な経験を積んでいることが伺い知れる。
「蓮見さん、あれは……」
かなたの庇護を受けるかのように寄り添っていた小柄な少女、降矢亜沙美がジャケットの裾を引いて不安げに訴える。トチノキ林の奥に亜沙美が見つけたのは、彼女達を刺すように注視する一対の眼だった。無害で無関係な野次馬とは一線を画する、敵愾心に満ちた、獣のような男の眼光だ。
「ここで待つんだ。いいね」
言い終えるが早いか、かなたは男に向かって駆け出した。それが合図になったように男は踵を返し、木々の間を抜けて奔る。人為的に配置されたトチノキ林は間隔が広く、落ち葉も少ないためスピードは落ちない。力強く地面を蹴る音はしばしば風にざわめく葉音にかき消され、逃走をより容易なものにした。男は時折後背を伺いながら駆け続け、陸上選手のように公園外周の柵を飛び越えて雑木林に逃げ込む。
雑草や枯れ枝を踏む足音が一人分しか聞こえないことに気づき、男はようやく足を止めた。膝に両手をついて上体を折り、息を整える。
「ハッ、アッシュビルじゃランニングバックだった俺に脚で勝てるとでも……」
そう独りごちて、巨木の幹に背を預けた。息を整え一服しようと、胸ポケットを探る。周囲を見渡すと、左手に腰を下ろせそうな太さの切り株が見えた。水平な断面を跨いで座り、紙巻きタバコを咥えてオイルライターの蓋を親指で跳ね上げると、左の耳元で金属音がした。オイルライターの蝶番が立てた軽快な音ではない。強靭なスプリングが伸び、撃鉄が引き上げられ、指先一つで撃針を打てる状態に固定される、自動拳銃の硬質な金属音だ。
「……選べ」
女の声、蓮見かなたの声だった。男の全身が緊張に強張る。
「死か罰か、どちらがいい」
銃口は冷徹に、しっかりと男のこめかみに突き付けられている。横目にかなたの顔を伺おうとしたが、サングラスに反射した陽光に目を灼かれ、表情は読み取れなかった。
以上はすべて、蓮見かなたの妄想である。
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