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ジュニエスの戦い

17 それぞれの夜

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 今年の冬は、この数十年なかったほどの暖かさだ――リードホルムでもノルドグレーンでも、多くの年長者は口を揃えて穏やかな寒さを喜んでいた。そして一部の者はこう続ける――これは何かの予兆ではないか。
 事実として、リードホルム王国とノルドグレーン公国の関係は、大きな転換点を迎えようとしている。
 その最前線とも言うべき場所のひとつが、ノーラント山脈の中腹に設営されたノルドグレーン軍の野営地だ。山頂からの雪解け水が蕩蕩とうとうと流れ込むランバンデット湖を中心としたこの野営地は、その規模もさることながら、様相も一般的な野営地とは大きく異なっていた。
 帆布ほぬので覆われたいかにも戦地らしい簡素な陣幕の他に、作りのしっかりした木造建築物が多く目立つ。すでに完成し兵員たちの宿舎となっているものもあれば、作業員が慌ただしく建設作業を進めているものもある。そしてその建物群の最奥部さいおうぶには、おおよそ野営地には似つかわしくない、壁をうろこ状のスレートでかれた瀟洒しょうしゃな邸宅が建っていた。
 湖のほとりに建つその邸宅の女主人は、名をベアトリス・ローセンダールといった。
 彼女は生まれながらにして、あらゆるものを持っていた。宝石のような美貌、家柄と財力、聡明な頭脳、さらには健康な肉体に至るまで、おおよそ人の羨むものをすべて所有している。
 ベアトリスはそれが不満だった。――寄せられる羨望せんぼうの声は全て、自分自身に向けられたものではない。ローセンダール家の財や血統、教育、すべて家系に付随する要素だ。与えられたものでなく、勝ち得たものによる称賛こそが真の栄誉である――ベアトリスは渇望かつぼうしていた。
 そのために彼女は軍事の世界へ足を踏み入れた。ノーラント世界に冠絶かんぜつする偉業をなし、彼女自身の名を、家名以上に轟かせるために――

 月明かりが冷たく宵闇よいやみを照らしても、篝火かがりびをたよりに建設作業は続けられている。その不夜城の女王であるベアトリスもまた、夜も休むことなく執務に精励せいれいしていた。
 二人の衛兵が扉の両脇を固める彼女の私室に、一人の精悍せいかんな男が訪ねてきている。男は扉の前でひざまずいた。
「ベアトリス様、親衛隊長オラシオ・ロードストレーム、参上いたしました」
「お入りなさい」
 鈴の鳴るような声を受けて面を上げた男は、二人の衛兵よりも色の濃い肌、長い黒髪を後頭部で結び、緑と赤で彩られた軍装に身を包んでいる。立ち上がると、屈強な衛兵たちより頭半分ほども背が高い。
 ロードストレームは衛兵に剣を預け、濃褐色のうかっしょくの扉を開けた。
「失礼いたします」
 扉がゆっくりと、重量感のある音を立てて閉じた。ベアトリスが無言で、しかしにこやかにテーブルの席を示す。
 室内には、湖を望む窓際に黒檀こくたんのデスクが置かれ、そこにベアトリスが掛けている。壁際の書架しょかには無数の本や地図などが並び、薔薇ばらと盾の意匠が描かれたタペストリーの他には装飾品らしい装飾品は見当たらない。財力ではノルドグレーン大公をしのぐとさえ言われるローゼンタール家の令嬢の私室としては、極めて質素とも言える。
「ベステルオースからの報告、お聞き及びでしょうか」
 ロードストレームが事務的な口調で切り出した。
「ええ。もとより、まったく当てにはしていなかった下策。影響は無きに等しいですわ」
「は、仰るとおりにございます」
「それに何より……わたくしの趣味ではありませんもの。そうした陋習ろうしゅうはらうための戦いだというのに」
 月の青白い光と燭台しょくだいの灯明に照らされ霊妙れいみょうさを帯びた顔で、ベアトリスは小さく笑った。
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