上 下
44 / 247
過去編・夜へ続く道

17 陰謀と逃避 2

しおりを挟む
 春宵しゅんしょうの火祭を越えてもなおリードホルムの夜は肌寒く、モニカ・コールバリは火勢かせいの衰えた暖炉に薪をくべた。おきぜ、赤く燃えながら舞い上がってゆく。
 そこは彼女が仕えるリースベットの私室で、部屋の主はベッドで穏やかな眠りについていた。枕元では黒猫のデミが、鍋のように丸くなって寝息を立てている。その傍らの椅子にはノアが座り、傷だらけの妹の顔を静かに見つめていた。
 紅涙こうるいに濡れてヘルストランドに戻ったリースベットだったが、侍医じいの見立てによれば、惨憺さんたんたるありさまではあるが命に危険を及ぼす怪我はしていない、ということだった。
 しかし精神の平穏は強く損なわれていた。静かに寝ていたかと思えば、蹌踉そうろうとした足取りであてもなくどこかへ逃げようとする奇行に及んだのが、二日前の夜だ。それから更に時が過ぎ、有形無形の傷もわずかながら癒合ゆごうしてきた――彼女を見つめる二人はそう感じていた。
「ノア様、リースベット様は大丈夫なのでしょうか」
 不安げなモニカの言葉には、どちらかというと政治的な性格のものだ。
「そう、実を言うとね、兄上の機嫌がよろしくない。リースベットのことを、どうやら私を支持するいち派閥か何かのように見ているのだ」
「このような状態の、年端もゆかぬ子どもに対して……」
「あの男は、自分の思い通りに事が運ばなかった点しか見ていないのだろう」
 ノアは悲しげに笑った。
 リースベットの身に何事もなければ、長兄アウグスティンに対する感情は、まだ肉親の情が優位であり続けたかも知れない。少なくともノアがノルドグレーンに旅立った十年前までは、これほど無慈悲で自分勝手な兄ではなかった。
 そうした懐旧の念は、二日前の夜に捨て去っていた。
 テーブルの上の華美な細工を施された砂時計を逆さまに置き、ノアはモニカに向き直った。
「コールバリ、あなたに頼みがある」
「わたくしに、ですか」
「そうだ。無体な要求だから、断ってくれても構わない。これは最初に言っておく」
「……はい」
 ノアの真摯しんしな面持ちに、モニカは粛然しゅくぜんと居住まいを正した。
「このさき兄上は、どこかの時点で必ずリースを亡き者にしようとするだろう。私自身に比べれば、彼女のほうが手を下しやすいからね」
「そんな、王族同士で暗殺など……」
「馬鹿げている。そう、例えば計算高いエイデシュテット宰相なら、そのような愚策は用いまい。露見した際に失うものが大きすぎる」
「アウグスティン様には、その宰相がついているのでは」
「だが、あくまで主体は兄上なのだ。あの男の短慮たんりょが、何を巻き起こすかは予測しがたい。現に、このような状態のリースをいたわるどころか……」
 ノアは一呼吸置き、サイドテーブルのグラスを口に運んだ。
「そこで……そうなる前に、リースを連れてヘルストランドを出てはくれまいか。行き先はおそらく、カッセル国に近いイェネストレームの町になると思う」
「ここの生活を捨てて、落ち延びろと仰るのですね……」
「無体であることは承知している。むろん、路銀ろぎん住処すみかの手配はすべて私のほうでやる」
 モニカは黙ったまましばらくうつむき、やがてゆっくりと顔を上げた。
「……よい人選をなさいますね、ノア王子」
 ノアの顔が疑心に曇る。温和で器量の良い侍従じじゅうが、まさか皮肉を述べたのだろうか。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

旦那様、前世の記憶を取り戻したので離縁させて頂きます

結城芙由奈 
恋愛
【前世の記憶が戻ったので、貴方はもう用済みです】 ある日突然私は前世の記憶を取り戻し、今自分が置かれている結婚生活がとても理不尽な事に気が付いた。こんな夫ならもういらない。前世の知識を活用すれば、この世界でもきっと女1人で生きていけるはず。そして私はクズ夫に離婚届を突きつけた―。

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

[完結] 邪魔をするなら潰すわよ?

シマ
ファンタジー
私はギルドが運営する治療院で働く治療師の一人、名前はルーシー。 クエストで大怪我したハンター達の治療に毎日、忙しい。そんなある日、騎士の格好をした一人の男が運び込まれた。 貴族のお偉いさんを魔物から護った騎士団の団長さんらしいけど、その場に置いていかれたの?でも、この傷は魔物にヤられたモノじゃないわよ? 魔法のある世界で亡くなった両親の代わりに兄妹を育てるルーシー。彼女は兄妹と静かに暮らしたいけど何やら回りが放ってくれない。 ルーシーが気になる団長さんに振り回されたり振り回したり。 私の生活を邪魔をするなら潰すわよ? 1月5日 誤字脱字修正 54話 ★━戦闘シーンや猟奇的発言あり 流血シーンあり。 魔法・魔物あり。 ざぁま薄め。 恋愛要素あり。

アルバートの屈辱

プラネットプラント
恋愛
妻の姉に恋をして妻を蔑ろにするアルバートとそんな夫を愛するのを諦めてしまった妻の話。 『詰んでる不憫系悪役令嬢はチャラ男騎士として生活しています』の10年ほど前の話ですが、ほぼ無関係なので単体で読めます。

お嬢様はお亡くなりになりました。

豆狸
恋愛
「お嬢様は……十日前にお亡くなりになりました」 「な……なにを言っている?」

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

五歳の時から、側にいた

田尾風香
恋愛
五歳。グレースは初めて国王の長男のグリフィンと出会った。 それからというもの、お互いにいがみ合いながらもグレースはグリフィンの側にいた。十六歳に婚約し、十九歳で結婚した。 グリフィンは、初めてグレースと会ってからずっとその姿を追い続けた。十九歳で結婚し、三十二歳で亡くして初めて、グリフィンはグレースへの想いに気付く。 前編グレース視点、後編グリフィン視点です。全二話。後編は来週木曜31日に投稿します。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

処理中です...