山賊王女と楽園の涯(はて)

紺乃 安

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過去編・夜へ続く道

17 陰謀と逃避 2

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 春宵しゅんしょうの火祭を越えてもなおリードホルムの夜は肌寒く、モニカ・コールバリは火勢かせいの衰えた暖炉に薪をくべた。おきぜ、赤く燃えながら舞い上がってゆく。
 そこは彼女が仕えるリースベットの私室で、部屋の主はベッドで穏やかな眠りについていた。枕元では黒猫のデミが、鍋のように丸くなって寝息を立てている。その傍らの椅子にはノアが座り、傷だらけの妹の顔を静かに見つめていた。
 紅涙こうるいに濡れてヘルストランドに戻ったリースベットだったが、侍医じいの見立てによれば、惨憺さんたんたるありさまではあるが命に危険を及ぼす怪我はしていない、ということだった。
 しかし精神の平穏は強く損なわれていた。静かに寝ていたかと思えば、蹌踉そうろうとした足取りであてもなくどこかへ逃げようとする奇行に及んだのが、二日前の夜だ。それから更に時が過ぎ、有形無形の傷もわずかながら癒合ゆごうしてきた――彼女を見つめる二人はそう感じていた。
「ノア様、リースベット様は大丈夫なのでしょうか」
 不安げなモニカの言葉には、どちらかというと政治的な性格のものだ。
「そう、実を言うとね、兄上の機嫌がよろしくない。リースベットのことを、どうやら私を支持するいち派閥か何かのように見ているのだ」
「このような状態の、年端もゆかぬ子どもに対して……」
「あの男は、自分の思い通りに事が運ばなかった点しか見ていないのだろう」
 ノアは悲しげに笑った。
 リースベットの身に何事もなければ、長兄アウグスティンに対する感情は、まだ肉親の情が優位であり続けたかも知れない。少なくともノアがノルドグレーンに旅立った十年前までは、これほど無慈悲で自分勝手な兄ではなかった。
 そうした懐旧の念は、二日前の夜に捨て去っていた。
 テーブルの上の華美な細工を施された砂時計を逆さまに置き、ノアはモニカに向き直った。
「コールバリ、あなたに頼みがある」
「わたくしに、ですか」
「そうだ。無体な要求だから、断ってくれても構わない。これは最初に言っておく」
「……はい」
 ノアの真摯しんしな面持ちに、モニカは粛然しゅくぜんと居住まいを正した。
「このさき兄上は、どこかの時点で必ずリースを亡き者にしようとするだろう。私自身に比べれば、彼女のほうが手を下しやすいからね」
「そんな、王族同士で暗殺など……」
「馬鹿げている。そう、例えば計算高いエイデシュテット宰相なら、そのような愚策は用いまい。露見した際に失うものが大きすぎる」
「アウグスティン様には、その宰相がついているのでは」
「だが、あくまで主体は兄上なのだ。あの男の短慮たんりょが、何を巻き起こすかは予測しがたい。現に、このような状態のリースをいたわるどころか……」
 ノアは一呼吸置き、サイドテーブルのグラスを口に運んだ。
「そこで……そうなる前に、リースを連れてヘルストランドを出てはくれまいか。行き先はおそらく、カッセル国に近いイェネストレームの町になると思う」
「ここの生活を捨てて、落ち延びろと仰るのですね……」
「無体であることは承知している。むろん、路銀ろぎん住処すみかの手配はすべて私のほうでやる」
 モニカは黙ったまましばらくうつむき、やがてゆっくりと顔を上げた。
「……よい人選をなさいますね、ノア王子」
 ノアの顔が疑心に曇る。温和で器量の良い侍従じじゅうが、まさか皮肉を述べたのだろうか。
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