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過去編・夜へ続く道

15 夜に包まれ

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 雨夜の月がぼんやりと照らすヘルストランド城の廊下を、薄手の夜着姿のリースベットがゆっくりと進んでいる。その歩みは、前週までの活力に満ちた足取りとは程遠く、壁に手をついてふらふらと跛行はこうしていた。目はうつろで焦点が定まっておらず、生傷の残る足には靴さえ履いていない。
 昼間ずっと眠っていたため夜中に目が覚めたのだが、彼女自身が、どこに向かっているのかさえ分かっていなかった。ただ部屋を出て、ここではない場所へと逃れたかったのかも知れない。
 リースベットは蹌踉そうろうとした歩みで、扉の隙間から明かりの漏れる一室の前を通りかかった。中からは二人の男性の語気荒い話し声が聞こえ、続いてテーブルを掌で強く叩いたような音が響いた。リースベットはその音にびくりと驚いて足を止めた。
「何たることだ! ノルデンフェルトに恩を売って俺の側につけることもできず、ノルドグレーンにはリースベットの件で借りまで作っただと?!」
「気をおしずめくださいアウグスティン様、今回はいささか運が悪うございました」
「運が悪い、運が悪いで済ませていては、いずれ運悪くノアが王になってしまうわ」
 声の主はリースベットの兄アウグスティンと、宰相のエイデシュテットだ。不機嫌そうなアウグスティンはずいぶん酔っているようで、やや呂律ろれつが回っていない。
「しかし……結果として、ノア王子と仲の良いリースベット様が宮廷内に残るのは、やや派閥形成への不安材料となりますな」
「いっそ毒でも盛って死なせてしまえ、元々そう望んでいたのだろうが。……誰も彼もノアにばかりなびきおって!」
「それでは騒動が大きくなりすぎます。国王陛下も穏便おんびんに済ませよとのおおせ。潮目しおめを見て、ここらで収めるべきかと」
「貴様までノアの肩を持つかエイデシュテット!」
 アウグスティンは飲みかけていた陶器のグラスを壁に投げつけ、甲高い破裂音とともに紫の液体が石壁に飛び散る。その音にリースベットは小さく悲鳴を上げてよろめき、傍にあった木桶につまづいてしまった。カラカラと乾いた音が廊下に響き渡る。
「誰だ?!」
 乱暴に扉を開け、アウグスティンが廊下に飛び出してきた。
「……なんと、貴様リースベットか」
「あ……」
「盗み聞きとはなんと浅ましい。それでも王家に連なる者か」
 リースベットは逃げようとするが、足がもつれて思うように動かない。
「それもわざわざ、足音を立てぬよう裸足で忍び寄るという念の入りよう。王女より盗賊ほうが似合いなのではないか?」
 リースベットは足をばたつかせて逃げようとするが、暴力的な男性への恐怖に身がすくみ上がり、ただ怯えてうめき声を漏らすのみだった。アウグスティンは嗜虐しぎゃく的な笑みを浮かべ、エイデシュテットは扉に手をかけてその様子を他人事のようにながめている。
 もがくように後ずさりするリースベットの背後から、別の男性が駆け寄ってきた。
「リース、こんなところに」
「……ノアか。こんな時間に何をしている」
 アウグスティンの表情がみるみる不機嫌なものに変じた。
侍従じじゅうのコールバリがうたた寝している間にリースベットが姿を消したので、手分けして探していたのです」
「役に立たん侍従だな。クビにしてはどうだ」
「……彼女は出仕の時間を終えても一日中、夜を徹してリースベットの世話をしていたのですよ」
「ふん、では二度と逃げぬよう、ベッドにでも縛りつけておくがいい」
 本意か皮肉か分からない粗野な提言を吐き捨て、アウグスティンは肩を怒らせて自室に戻ってゆく。
 ノアは腕にしがみついてうつろな目で震えるリースベットを抱き起こし、ビロードのショールを掛けた。爪の先が削れてひび割れた細指が光沢のある薄布を掴む。
「あいつ……あいつが……あたしを殺すって……」
「そんなことは私が断じて許さん。気にするな。リース、戻ろう」
「嫌……戻るのは……」
「今は……休むのだ。考えなくていい」
 肩を貸してリースベットの部屋に戻ろうとしたノアは妹が靴を履いていないことに気付き、彼女を抱きかかえて運ぶことにした。その小さな背中は軽く、寒さか、恐怖か、あるいは雨夜の月のような未来に震えている。
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