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転生と記憶
1 無欲な取引
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リードホルム王国ヘルストランド城の西門近くには、同地の文化とはやや趣の異なる館が建っている。ノルドグレーンの建築様式を取り入れたその邸宅は、ソレンスタム教団のベステルオース大聖堂や時の黎明館と比べれば質素ではあるが、そのぶん抑制の効いたデザインは建築家や好事家の間では評価が高い。
厳重な高い堀に囲まれ、異彩を放つその館の主は、リードホルムの宰相シーグムンド・エイデシュテットだった。
館の地下には石壁に囲まれた倉庫があり、保存の利く食料やワインなどが樽に入って保管されている。地下室をさらに奥へ進むと用心深く鍵まで付いた厚い扉があり、さながら王の石棺を収める暗い玄室と羨道のようだ。
虫の声も聞こえないその内部では、祖父と孫ほども歳の離れた二人の男が、燭台を挟んで向き合っていた。
「そなたの名は聞き及んでおる。遠くパルムグレンのことと言えどもな」
「エイデシュテット閣下のお耳にまで届いているとは、卑賤の身に余る光栄にございます」
「して……世に聞こえたラルフ・フェルディンが、はるばるヘルストランドまで訪れた理由はなんだ? このわしとしたい取引とは?」
「閣下の悩みの種をひとつ取り除く、一臂の力となるべく参った次第です」
「これは異なことを。そなたは賞金稼ぎ、まさか無償の労を執りはすまい?」
「無論です。しかしながら閣下にとっては、決して悪い取引とはならないかと」
「わしに利が多いと申すか。互いに差し出しても損のないものを交換するのが、賢い交渉ではあるな」
近年カッセル王国の首都パルムグレンでは、とある賞金稼ぎが話題になっている。その男は一年ほど前に忽然とあらわれ、懸賞金のかけられていた野盗集団を一人で壊滅させたことを皮切りに、民衆を悩ませる物取りや殺人鬼を次々と処断していった。そして半年もたたぬ間にカッセル王国じゅうに響き渡った佳名こそ、ラルフ・フェルディンである。
同国では珍しい袖なしの外套を羽織り、白く染め上げた革手袋を着けた栗色の髪の青年は、ノルドグレーンの外務省にさえ一目置かれるほどの存在だった。
「……リードホルム王国では近頃、凶悪な山賊が跋扈しているとか」
「どこで聞きつけたか知らぬが、やはりその件か……。いかにも、たかが山賊と侮っておれば、二度までも討伐の手を逃れおった。奴らの奪った交易品の被害額を合わせれば、そろそろ小さな城の一つも建つのではないかな」
「我々に三度目をお任せいただければ、山賊どもに四度目はございません」
フェルディンは両手の指を組み合わせ、右の口角をわずかに釣り上げ自信に満ちた笑みを見せる。だがエイデシュテットはまだいくつもの疑問を抱えており、相好は崩さなかった。
「我々、とは、貴公一人ではなかったのか?」
「名の知れた賞金首の中で、改心を申し出た者を三人、部下として雇いました。元が元ですので、いずれも腕は確かです」
「そうか……先の戦いから、少人数のほうがどうやら戦いやすいということは知れておる。腕が確かならば、その程度のほうが良かろう」
「彼らが脇を固めますが、いずれにせよ、神の目をもつこの僕に見切れぬ剣などありません。ご下命ありしだい数日中にでも、ラルセン山の道行きに平和をもたらしてご覧にいれましょう」
「それで、貴公はいったい何を望む? わしは宰相といっても、国庫から自由に金を出し入れできるような立場ではないぞ。残念ながらな」
エイデシュテットの射るような細い目をまっすぐ見つめ、フェルディンは真摯な面持ちで訴えた。
「ご安心を、僕の望みは金子ではありません」
「ほう、無欲なことだな。猜疑心を抱かざるを得ないほどの無欲さだ」
「報酬には……貴国で続けられている、リーパー研究の情報をいただきたい」
「なるほど……そうか、貴公もその力を持っているということだったな」
「カッセル、それにノルドグレーンさえ、リーパーに関する研究には重きを置いていません。僕は知りたいのです、自分のこの力が何なのかを」
「その淵源を知りたいと欲するのも、故なきことではないな」
老宰相はそう言って右を向き、口を覆うように顎に手を当て、考えを巡らせているようだ。わずかな沈黙でもったいを付けたのち、フェルディンに向き直った。
「わしの一存では決めかねる。ヴィルヘルム陛下の裁可を仰がねばならん」
「おお、どうか陛下の御意を得られますよう」
「研究成果は重大な機密ゆえ、このわしでさえ研究所には自由に出入りできぬしな」
「情報は写本でも、研究者から直に話を聞くのでも構いません」
「貴意に沿えるよう努力はしよう。こちらとしても悪い取引ではないからな」
「ありがたきお言葉……。我らは『月夜のむささび亭』という宿に逗留しております。そちらに使いを寄越していただけば、いつでも参上いたしましょう」
エイデシュテットが考えていたのは、情報をいかに高く売りつけるかという算段だった。
老宰相が知っているのは、現今の研究は人為的に能力者を生み出すような段階には程遠く、リードホルムにとって実益のあるものではない、ということだけだ。だが例えば、差し出す情報を断片化することで、この若い自信家の賞金稼ぎに、複数の仕事をさせることも可能ではないか――誠実ぶった物言いの裏で、そうした姑息な算盤が働いていた。
「わしは明日も出仕する。三日ほどもあれば、何らかの返事はできよう」
「よしなにお伝え下さい」
フェルディンは去り際、懐から小さな革袋を出してエイデシュテットに手渡した。中には銀細工に大粒のルビーをあしらった、高価なブローチが忍ばせてある。
夕暮れすぎに宿へと戻ったフェルディンに、筋骨隆々の大男が親しげに声をかけた。その腕は並の大人の脚よりも太く、大型のクマを思わせる威容と、それに不釣り合いの男児のような表情を併せ持った男だ。階段を登るフェルディンに、足音を響かせながら駆け寄ってくる。
「兄貴! 兄貴おかえり! おれ酒も飲まねえでちゃんと待ってたぜ」
「ああ、よく耐えたなカールソン」
他の多くの宿と同じく「月夜のむささび亭」には酒場が併設されており、客室を出て階段を降りればすぐに温かい食事と、スナップスというきつい蒸留酒やビールにありつける。
「それから、おれちゃんとロブネルとミルヴェーデンを見張ってたぜ」
「よくやった。彼らはすぐ斬りたがらなかえれば、腕は確かなんだがな……」
「兄貴、そもそもなんだって、あいつらを雇ったんだ?」
「改心すると言うものを、無碍に斬り捨てる剣を僕は持っていない。それは正義の剣ではないからな」
「そうなのか」
「そうだ、この金は見張りの褒美だ、好きに使っていいぞ」
「や、やったー! ちょちょ、ちょっとい行ってくるぜ!!」
「夜明けまでには帰ってくるんだぞ」
二十枚ほどの銀貨が入った革袋を受け取ったカールソンは、猛り狂った野牛のように宿を飛び出し、裏通りを北へと走っていった。その方向には高い壁で他の地域と隔てられた区画があり、内部は娼館が建ち並んでいる。
フェルディンはため息をつきながら、腹ごしらえのために酒場へと下りた。
クリスティアン・カールソンはフェルディンが最初に雇い入れた部下だが、彼は賞金首ではなく、たんなる街の乱暴者だった。恵まれすぎた体躯を抑制できずに安酒場で猛り狂っていた彼を、偶然居合わせたフェルディンが取り押さえたのが馴れ初めだ。
一人で賞金を稼ぎながらカッセル王国北部の町ノルホヴァランに流れ着いたフェルディンは、夜半まで空いている酒場を閉店直前に見つけ、遅い夕食にありついていた。豚の脂身の塩漬けと根菜の入ったシチュー、黒パンとビールを胃に流し込んでいると、ホール一角のテーブルで話す建設作業員らしき男たちの声が、次第に大きく乱暴になってゆく。どうやら諍いに発展しつつあるようだ。
「だいたいてめえが運ぶ場所まちがえたせいで、俺らが全員で手直しする羽目になったんだろうが」
「お、おれに重い石ぜんぶ運ばせやがったのに」
「だから指示通りじゃねえと意味がねえんだよ。隣の廊下と見た目が変わっちまうだろうが。そんなことも分からねえのかアホが」
言い争う三人の中でひときわ身体の大きな男が唸り声をあげて立ち上がり、テーブルをひっくり返した、というよりも宙に放り上げた。ホール内が一挙に騒然とする。ほとんどの客はすぐに逃げ出し、腕っぷしに自信のある一部の者は、面白半分で怒れる大男カールソンに殴りかかった。すぐに円状に人垣が組まれ、即席の拳闘試合が始まる。体中にいくつもの傷跡をもつ髭面の男がカールソンの顔面に強烈な一撃を叩き込んだが、彼は遮二無二腕を振り回し、髭面の男を弾き飛ばした。カールソンは鼻血は出ているが、まるで意に介していないようだ。
「一発いいのが入ったよな……?」
「何でできてんだ、ありゃ」
円陣を組んだ喧嘩屋たちが、カールソンの人並み外れた頑強さと腕力に次々と屈してゆく。そのさまを横目で見ていたフェルディンは、カウンターに身を隠していた酒場の主人に断って、ホールの天井にタペストリーを吊るしていたロープを借りた。
目は血走り興奮で前後不覚となったカールソンが、木々の間から姿を表す空腹のクマのように人垣をかきわける。その前にフェルディンひとりが立ちはだかった。
「……ここは市井の憩いの場。これ以上の狼藉はこの僕が正義の」
「ぬがあ!」
「あっ、ちょっ……」
フェルディンが口上を述べ終えるのを待たず、カールソンが目の前の獲物に飛びかかった。
肩や腕の筋肉が隆起し、丸太のような上腕が低い風切り音を上げて左右に振り回される。フェルディンはその拳をすべて寸前で躱し、ヒグマとワルツでも踊るようにホール内を軽やかに旋回した。その動きは決して速いものではなかったが、観戦者たちが不思議に感じるほど、カールソンの攻撃は一度としてフェルディンを捉えない。攻撃はすべて布一枚ほどのわずかな距離で見切られ、空を切っていた。
カールソンの暴走に疲れが見え始めた頃、いつのまにか彼の肩から胴にかけて背負い帯のようにロープが巻き付けられていた。
「さあ、終幕だ」
フェルディンが叫んでロープを高く放り投げる。伸びたロープの一端はホールの梁に掛かって垂れ下がり、ふたたび投擲した者の手に戻った。フェルディンがそのロープを強く引くと、カールソンの足が床から浮き上がるく。いくら暴れようと腕も足も空を切るばかりで、ただ中空でゆらゆらと巨体が揺れるだけだった。
「……ちょっと重いな、君たち、引くのを手伝ってくれ」
「お、おう」
「おろせよ! 何しやがんだよ!」
酒場のホールに残っていた酔漢たちが総出でカールソンを文字通り吊し上げ、宙吊りで怒り狂う大男の見世物が完成した。正気を失ったカエルのようにもがくカールソンに、フェルディンが歩み寄る。
「観念の臍を固めたかな。これに懲りたら、酔って暴れるなど……」
カールソンはまったく耳を貸さずに何ごとか叫んでいるが、その声は人語として意味をなしていない。
「……その様子では、まず頭を冷やしたほうが良さそうだな」
「なんだかよく分からねえが、大した手際だな、兄ちゃん」
「僕はラルフ・フェルディン、正義の賞金稼ぎだ。以後、お見知りおきいただこう」
「そうか。そいつはすげえな」
様子を眺めていた喧嘩屋たちのまばらな拍手に送られて、フェルディンは寝屋への階段を登った。
翌朝、酔いの覚めたカールソンは一転して意気消沈しており、濁流のように涙を流しながら許しを請うた。どうやら昨晩フェルディンが去ったあと、酔客たちに散々もてあそばれたらしい。
「参ったよ! あんたにゃかなわねえよ! だから下ろしてくれよ! 頼むよ!」
「反省したか。これからは濫りに暴力を振るうのではないぞ」
「わかったよ! もうしねえよ! あんたに従うよ! だから早くしてくれよ! 漏れそうなんだよ!」
目の前で大の男に失禁されるのも気がとがめるため、フェルディンはロープを切り、涙声で訴えるカールソンを降ろしてやった。檻から放たれた野生動物のように、哀れな元暴漢はトイレへと爆走してホールから姿を消す。その様子を呆然と見送ったフェルディンは、カウンターに朝食を頼んでテーブルに着いた。
昨晩と同じメニューに塩漬けキャベツを加えた朝食を終えると、カールソンがホールに戻ってきた。食事を頼むのでもなくフェルディンと同じテーブルに着き、これまでになく真剣な面持ちで口を開いた。
「あんた、賞金稼ぎなんだって?」
「そうだが……」
「ならよう、おれを雇ってくれねえか? 並のやつと比べたら十人分は稼ぐぜ」
意外な申し出にフェルディンは少々面食らったが、賞金首が多人数だった場合に傭兵を雇ったり、都市間の移動時に荷物の運搬人を手配することを考え始めた矢先の提案だった。
昨晩の暴れぶりから見て、十人分の働きというのも度が過ぎた誇張とは言いがたい。
「……きみ、家族はいないのか? 賞金稼ぎなどしょせん根無し草、まともな仕事があるならそちらを続けるべきだ」
「おれには親も家もねえ。今はお屋敷を建てる仕事をしてるけど、そこが出来上がったら今の寝処も追い出されちまう」
「そうか。意外に大変なのだな」
「なあ頼むよ。おれとあんた……いや兄貴と呼ばせてくれ。おれと兄貴が組んだら、たぶん怖いものなしだぜ」
この男、短慮な面はあるが、性根はまっすぐで悪意はなさそうだ。もしかすると、得難い拾いものかも知れない――小さな目を細めて笑うカールソンの顔を眺めながら、フェルディンは心を決めた。
「きみ、名は?」
「クリスティアン・カールソンだ。かっこいい名前だろう?」
「そうだな。……このノルホヴァランには、北の寺院跡を根城にする盗賊団を退治するためにやってきたのだ。まずそこで、一緒に戦ってもらおうか」
「……どういうことだ?」
「……きみを雇うということだ」
「やったー! 一生ついていくぜ、兄貴!」
カールソンは文字通り飛び上がって喜び、フェルディンに抱きつこうとしたが身を躱された。その身代わりとなった椅子はカールソンの下敷きになって床に倒れ、無惨に砕け散った。
この椅子と昨日のロープは僕が弁償すべきか。今後もこんなことばかり起きるのでは出費が嵩みそうだ――フェルディンは先行きに不安を覚えつつも、さっそくカールソンに装備させる武具について検討を始めた。
厳重な高い堀に囲まれ、異彩を放つその館の主は、リードホルムの宰相シーグムンド・エイデシュテットだった。
館の地下には石壁に囲まれた倉庫があり、保存の利く食料やワインなどが樽に入って保管されている。地下室をさらに奥へ進むと用心深く鍵まで付いた厚い扉があり、さながら王の石棺を収める暗い玄室と羨道のようだ。
虫の声も聞こえないその内部では、祖父と孫ほども歳の離れた二人の男が、燭台を挟んで向き合っていた。
「そなたの名は聞き及んでおる。遠くパルムグレンのことと言えどもな」
「エイデシュテット閣下のお耳にまで届いているとは、卑賤の身に余る光栄にございます」
「して……世に聞こえたラルフ・フェルディンが、はるばるヘルストランドまで訪れた理由はなんだ? このわしとしたい取引とは?」
「閣下の悩みの種をひとつ取り除く、一臂の力となるべく参った次第です」
「これは異なことを。そなたは賞金稼ぎ、まさか無償の労を執りはすまい?」
「無論です。しかしながら閣下にとっては、決して悪い取引とはならないかと」
「わしに利が多いと申すか。互いに差し出しても損のないものを交換するのが、賢い交渉ではあるな」
近年カッセル王国の首都パルムグレンでは、とある賞金稼ぎが話題になっている。その男は一年ほど前に忽然とあらわれ、懸賞金のかけられていた野盗集団を一人で壊滅させたことを皮切りに、民衆を悩ませる物取りや殺人鬼を次々と処断していった。そして半年もたたぬ間にカッセル王国じゅうに響き渡った佳名こそ、ラルフ・フェルディンである。
同国では珍しい袖なしの外套を羽織り、白く染め上げた革手袋を着けた栗色の髪の青年は、ノルドグレーンの外務省にさえ一目置かれるほどの存在だった。
「……リードホルム王国では近頃、凶悪な山賊が跋扈しているとか」
「どこで聞きつけたか知らぬが、やはりその件か……。いかにも、たかが山賊と侮っておれば、二度までも討伐の手を逃れおった。奴らの奪った交易品の被害額を合わせれば、そろそろ小さな城の一つも建つのではないかな」
「我々に三度目をお任せいただければ、山賊どもに四度目はございません」
フェルディンは両手の指を組み合わせ、右の口角をわずかに釣り上げ自信に満ちた笑みを見せる。だがエイデシュテットはまだいくつもの疑問を抱えており、相好は崩さなかった。
「我々、とは、貴公一人ではなかったのか?」
「名の知れた賞金首の中で、改心を申し出た者を三人、部下として雇いました。元が元ですので、いずれも腕は確かです」
「そうか……先の戦いから、少人数のほうがどうやら戦いやすいということは知れておる。腕が確かならば、その程度のほうが良かろう」
「彼らが脇を固めますが、いずれにせよ、神の目をもつこの僕に見切れぬ剣などありません。ご下命ありしだい数日中にでも、ラルセン山の道行きに平和をもたらしてご覧にいれましょう」
「それで、貴公はいったい何を望む? わしは宰相といっても、国庫から自由に金を出し入れできるような立場ではないぞ。残念ながらな」
エイデシュテットの射るような細い目をまっすぐ見つめ、フェルディンは真摯な面持ちで訴えた。
「ご安心を、僕の望みは金子ではありません」
「ほう、無欲なことだな。猜疑心を抱かざるを得ないほどの無欲さだ」
「報酬には……貴国で続けられている、リーパー研究の情報をいただきたい」
「なるほど……そうか、貴公もその力を持っているということだったな」
「カッセル、それにノルドグレーンさえ、リーパーに関する研究には重きを置いていません。僕は知りたいのです、自分のこの力が何なのかを」
「その淵源を知りたいと欲するのも、故なきことではないな」
老宰相はそう言って右を向き、口を覆うように顎に手を当て、考えを巡らせているようだ。わずかな沈黙でもったいを付けたのち、フェルディンに向き直った。
「わしの一存では決めかねる。ヴィルヘルム陛下の裁可を仰がねばならん」
「おお、どうか陛下の御意を得られますよう」
「研究成果は重大な機密ゆえ、このわしでさえ研究所には自由に出入りできぬしな」
「情報は写本でも、研究者から直に話を聞くのでも構いません」
「貴意に沿えるよう努力はしよう。こちらとしても悪い取引ではないからな」
「ありがたきお言葉……。我らは『月夜のむささび亭』という宿に逗留しております。そちらに使いを寄越していただけば、いつでも参上いたしましょう」
エイデシュテットが考えていたのは、情報をいかに高く売りつけるかという算段だった。
老宰相が知っているのは、現今の研究は人為的に能力者を生み出すような段階には程遠く、リードホルムにとって実益のあるものではない、ということだけだ。だが例えば、差し出す情報を断片化することで、この若い自信家の賞金稼ぎに、複数の仕事をさせることも可能ではないか――誠実ぶった物言いの裏で、そうした姑息な算盤が働いていた。
「わしは明日も出仕する。三日ほどもあれば、何らかの返事はできよう」
「よしなにお伝え下さい」
フェルディンは去り際、懐から小さな革袋を出してエイデシュテットに手渡した。中には銀細工に大粒のルビーをあしらった、高価なブローチが忍ばせてある。
夕暮れすぎに宿へと戻ったフェルディンに、筋骨隆々の大男が親しげに声をかけた。その腕は並の大人の脚よりも太く、大型のクマを思わせる威容と、それに不釣り合いの男児のような表情を併せ持った男だ。階段を登るフェルディンに、足音を響かせながら駆け寄ってくる。
「兄貴! 兄貴おかえり! おれ酒も飲まねえでちゃんと待ってたぜ」
「ああ、よく耐えたなカールソン」
他の多くの宿と同じく「月夜のむささび亭」には酒場が併設されており、客室を出て階段を降りればすぐに温かい食事と、スナップスというきつい蒸留酒やビールにありつける。
「それから、おれちゃんとロブネルとミルヴェーデンを見張ってたぜ」
「よくやった。彼らはすぐ斬りたがらなかえれば、腕は確かなんだがな……」
「兄貴、そもそもなんだって、あいつらを雇ったんだ?」
「改心すると言うものを、無碍に斬り捨てる剣を僕は持っていない。それは正義の剣ではないからな」
「そうなのか」
「そうだ、この金は見張りの褒美だ、好きに使っていいぞ」
「や、やったー! ちょちょ、ちょっとい行ってくるぜ!!」
「夜明けまでには帰ってくるんだぞ」
二十枚ほどの銀貨が入った革袋を受け取ったカールソンは、猛り狂った野牛のように宿を飛び出し、裏通りを北へと走っていった。その方向には高い壁で他の地域と隔てられた区画があり、内部は娼館が建ち並んでいる。
フェルディンはため息をつきながら、腹ごしらえのために酒場へと下りた。
クリスティアン・カールソンはフェルディンが最初に雇い入れた部下だが、彼は賞金首ではなく、たんなる街の乱暴者だった。恵まれすぎた体躯を抑制できずに安酒場で猛り狂っていた彼を、偶然居合わせたフェルディンが取り押さえたのが馴れ初めだ。
一人で賞金を稼ぎながらカッセル王国北部の町ノルホヴァランに流れ着いたフェルディンは、夜半まで空いている酒場を閉店直前に見つけ、遅い夕食にありついていた。豚の脂身の塩漬けと根菜の入ったシチュー、黒パンとビールを胃に流し込んでいると、ホール一角のテーブルで話す建設作業員らしき男たちの声が、次第に大きく乱暴になってゆく。どうやら諍いに発展しつつあるようだ。
「だいたいてめえが運ぶ場所まちがえたせいで、俺らが全員で手直しする羽目になったんだろうが」
「お、おれに重い石ぜんぶ運ばせやがったのに」
「だから指示通りじゃねえと意味がねえんだよ。隣の廊下と見た目が変わっちまうだろうが。そんなことも分からねえのかアホが」
言い争う三人の中でひときわ身体の大きな男が唸り声をあげて立ち上がり、テーブルをひっくり返した、というよりも宙に放り上げた。ホール内が一挙に騒然とする。ほとんどの客はすぐに逃げ出し、腕っぷしに自信のある一部の者は、面白半分で怒れる大男カールソンに殴りかかった。すぐに円状に人垣が組まれ、即席の拳闘試合が始まる。体中にいくつもの傷跡をもつ髭面の男がカールソンの顔面に強烈な一撃を叩き込んだが、彼は遮二無二腕を振り回し、髭面の男を弾き飛ばした。カールソンは鼻血は出ているが、まるで意に介していないようだ。
「一発いいのが入ったよな……?」
「何でできてんだ、ありゃ」
円陣を組んだ喧嘩屋たちが、カールソンの人並み外れた頑強さと腕力に次々と屈してゆく。そのさまを横目で見ていたフェルディンは、カウンターに身を隠していた酒場の主人に断って、ホールの天井にタペストリーを吊るしていたロープを借りた。
目は血走り興奮で前後不覚となったカールソンが、木々の間から姿を表す空腹のクマのように人垣をかきわける。その前にフェルディンひとりが立ちはだかった。
「……ここは市井の憩いの場。これ以上の狼藉はこの僕が正義の」
「ぬがあ!」
「あっ、ちょっ……」
フェルディンが口上を述べ終えるのを待たず、カールソンが目の前の獲物に飛びかかった。
肩や腕の筋肉が隆起し、丸太のような上腕が低い風切り音を上げて左右に振り回される。フェルディンはその拳をすべて寸前で躱し、ヒグマとワルツでも踊るようにホール内を軽やかに旋回した。その動きは決して速いものではなかったが、観戦者たちが不思議に感じるほど、カールソンの攻撃は一度としてフェルディンを捉えない。攻撃はすべて布一枚ほどのわずかな距離で見切られ、空を切っていた。
カールソンの暴走に疲れが見え始めた頃、いつのまにか彼の肩から胴にかけて背負い帯のようにロープが巻き付けられていた。
「さあ、終幕だ」
フェルディンが叫んでロープを高く放り投げる。伸びたロープの一端はホールの梁に掛かって垂れ下がり、ふたたび投擲した者の手に戻った。フェルディンがそのロープを強く引くと、カールソンの足が床から浮き上がるく。いくら暴れようと腕も足も空を切るばかりで、ただ中空でゆらゆらと巨体が揺れるだけだった。
「……ちょっと重いな、君たち、引くのを手伝ってくれ」
「お、おう」
「おろせよ! 何しやがんだよ!」
酒場のホールに残っていた酔漢たちが総出でカールソンを文字通り吊し上げ、宙吊りで怒り狂う大男の見世物が完成した。正気を失ったカエルのようにもがくカールソンに、フェルディンが歩み寄る。
「観念の臍を固めたかな。これに懲りたら、酔って暴れるなど……」
カールソンはまったく耳を貸さずに何ごとか叫んでいるが、その声は人語として意味をなしていない。
「……その様子では、まず頭を冷やしたほうが良さそうだな」
「なんだかよく分からねえが、大した手際だな、兄ちゃん」
「僕はラルフ・フェルディン、正義の賞金稼ぎだ。以後、お見知りおきいただこう」
「そうか。そいつはすげえな」
様子を眺めていた喧嘩屋たちのまばらな拍手に送られて、フェルディンは寝屋への階段を登った。
翌朝、酔いの覚めたカールソンは一転して意気消沈しており、濁流のように涙を流しながら許しを請うた。どうやら昨晩フェルディンが去ったあと、酔客たちに散々もてあそばれたらしい。
「参ったよ! あんたにゃかなわねえよ! だから下ろしてくれよ! 頼むよ!」
「反省したか。これからは濫りに暴力を振るうのではないぞ」
「わかったよ! もうしねえよ! あんたに従うよ! だから早くしてくれよ! 漏れそうなんだよ!」
目の前で大の男に失禁されるのも気がとがめるため、フェルディンはロープを切り、涙声で訴えるカールソンを降ろしてやった。檻から放たれた野生動物のように、哀れな元暴漢はトイレへと爆走してホールから姿を消す。その様子を呆然と見送ったフェルディンは、カウンターに朝食を頼んでテーブルに着いた。
昨晩と同じメニューに塩漬けキャベツを加えた朝食を終えると、カールソンがホールに戻ってきた。食事を頼むのでもなくフェルディンと同じテーブルに着き、これまでになく真剣な面持ちで口を開いた。
「あんた、賞金稼ぎなんだって?」
「そうだが……」
「ならよう、おれを雇ってくれねえか? 並のやつと比べたら十人分は稼ぐぜ」
意外な申し出にフェルディンは少々面食らったが、賞金首が多人数だった場合に傭兵を雇ったり、都市間の移動時に荷物の運搬人を手配することを考え始めた矢先の提案だった。
昨晩の暴れぶりから見て、十人分の働きというのも度が過ぎた誇張とは言いがたい。
「……きみ、家族はいないのか? 賞金稼ぎなどしょせん根無し草、まともな仕事があるならそちらを続けるべきだ」
「おれには親も家もねえ。今はお屋敷を建てる仕事をしてるけど、そこが出来上がったら今の寝処も追い出されちまう」
「そうか。意外に大変なのだな」
「なあ頼むよ。おれとあんた……いや兄貴と呼ばせてくれ。おれと兄貴が組んだら、たぶん怖いものなしだぜ」
この男、短慮な面はあるが、性根はまっすぐで悪意はなさそうだ。もしかすると、得難い拾いものかも知れない――小さな目を細めて笑うカールソンの顔を眺めながら、フェルディンは心を決めた。
「きみ、名は?」
「クリスティアン・カールソンだ。かっこいい名前だろう?」
「そうだな。……このノルホヴァランには、北の寺院跡を根城にする盗賊団を退治するためにやってきたのだ。まずそこで、一緒に戦ってもらおうか」
「……どういうことだ?」
「……きみを雇うということだ」
「やったー! 一生ついていくぜ、兄貴!」
カールソンは文字通り飛び上がって喜び、フェルディンに抱きつこうとしたが身を躱された。その身代わりとなった椅子はカールソンの下敷きになって床に倒れ、無惨に砕け散った。
この椅子と昨日のロープは僕が弁償すべきか。今後もこんなことばかり起きるのでは出費が嵩みそうだ――フェルディンは先行きに不安を覚えつつも、さっそくカールソンに装備させる武具について検討を始めた。
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『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。
(ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?)
そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。
しかも、別の人間になっている?
なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。
*年齢制限を18→15に変更しました。
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