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風のオーロラ
7 復讐と潰走
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「まだ入り口も抜けねえのか! ルーマンは何やってんだ?!」
腕組みをしたセーデルクヴィスト隊長の野放図な叫びに、拠点入り口で待機している兵士たちの中に返答する者はいなかった。地下壕内から響いてくる剣戟相打つ音と怒声や悲鳴のみが、唯一にして正確な戦況報告とも言える。
ここで血路が開けなければ彼は、ただ兵員を失ったのみで戦果なく撤退するか、さらなる空腹に耐えながら持久戦を続けるか、という不愉快な二択を迫られることになる。
アウロラに助力を請う、という、最良と思われるもう一つの選択肢は、彼の狭隘な価値観の内には存在しなかった。
過ぎゆく時間とともに苛立ちと不安を募らせるセーデルクヴィストの耳に、地下壕入り口とは別の方向から悲鳴が届いた。突入部隊とは離れた場所に控えていた、後詰めの部隊からだ。
「て、敵襲だ!」
「山賊は洞穴に閉じ込めてんじゃなかったのかよ?!」
持久戦を放棄したセーデルクヴィストの変節は、監視していたユーホルトによって速やかに伝えられていた。ティーサンリードは事前に奇襲部隊を組織し、地下壕の屋上にあたる崖の上に配置していたのだ。
まったく警戒していなかった側背上方から無数の矢が飛来し、統制を失った連合部隊はあえなく総崩れとなった。もはや抵抗する素振りも見せずに次々と林の中へ逃げ込む隊員たちだったが、その背中を果敢に守ろうとする者が一人だけ存在した。いつの間にか部隊に紛れていたアウロラが矢面に立ち、鎚鉾で次々に矢を叩き落とす。彼女だけが殿軍の役を務めていた。
「早く逃げな! 森に入れば撃たれないでしょ!」
「嬢ちゃん、お前も早く逃げろって」
「私は大丈夫。こんな矢なんか当たるもんか」
彼女を知らぬものが聞けば自信過剰としか取れないその言葉に偽りはなく、アウロラは自身めがけて飛来する矢は素早く避け、そればかりか手の届く範囲のほぼすべての矢を打ち落としている。襲い来る飛箭の数は時間とともに逓減してゆき、それに合わせてアウロラも撤退を始めた。
地下壕の外での襲撃は結局のところ遠距離攻撃のみに終わり、白刃を交える近接戦に移行することはなかった。だがそのことを確かめる前に、ほとんどの者が逃げ出してしまっていた。ティーサンリード側も戦闘員の数に余裕はなく、退却を促すための奇襲攻撃だったのだ。
鮮やかと言ってよいほど速やかに撤退していった連合部隊にあって、少数ながら例外も存在する。地下壕に攻め込んでいた部隊と、逃げゆく部下にたいして怒号を飛ばし続けていた隊長のセーデルクヴィストだ。後者については、戦況の判断を迷ううちに逃げそこなった、と言い表したほうがより適切である。
「何だ……どうなってんだ。何であっという間に誰もいなくなった……」
戦場にひとり取り残され、怯え、まだ戦っている部下を残して撤退を決意したセーデルクヴィストに対し、場違いな陽気さで声をかけるものがあった。
「よう、元気だったか綱ひも野郎」
「誰だ?!」
「俺のことを覚えてるか? てめえの頭じゃ、忘れてても文句は言わねえが」
「何だ、てめえ……?」
革製のフード付き外套の懐に手を収めたまま挑発するのは、ゆるく波打つ黒髪と浅黒い肌の、テオドル・バックマンだ。二人は共通の過去を持った旧知の間柄だが、その関係性は親愛とは対極にある。
セーデルクヴィストは細長い目をいっそう細め、怪訝な顔でバックマンの顔を覗き込む。
「……ああ、やっと思い出したぜ。ずいぶん前に脱走しやがったインテリ崩れがいたな。名前も覚えちゃいねえが」
「テオドル・バックマンだ。顔だけでもご記憶いただき、まことに光栄の極み」
「インテリ崩れが身を持ち崩して、今は薄汚え山賊か。笑えるぜ。移民のクソ野郎にゃお似合いのご身分だな!」
「相変わらずの言語感覚をお持ちのようだ。それで生きてられるってのは、よっぽど神に愛されてるらしい」
リースベットが入り口から顔を出し、セーデルクヴィストの背後から感動の再会に割って入った。
「ヘルストランドに帰ったら、てめえのその口は医者に縫い付けてもらったほうがいいぜ? ちょっと全方向に喧嘩を売りすぎだ。神の加護が切れたら秒単位で殺されるぞ」
山賊の頭領は不敵な笑みを浮かべ、入り口そばに建てられた石積みの灯籠に背中を預けている。
「なっ?! てめえどっから出てきやがった!」
「ここはあたしの家なんだが。自分の家から出てきて悪いってことはねえだろう」
「なんだと……突っ込んだのは腕っこきの十五人だぞ……」
突入部隊は、十五人すべてが彼女に倒されたのだ。敵がバックマン一人と高をくくって不遜に振る舞っていたセーデルクヴィストの態度が一転し、青ざめて目を激しく泳がせている。
「クソが……どいつもこいつもふざけやがって……」
「頭領、手を出さねえでくれねえか。ここは俺がケリをつける」
「……構わねえぜ。好きにしろ」
「舐めんじゃねえ!」
「あーあ、やっぱり向かってくんのか」
セーデルクヴィストは腰の長剣を抜き、バックマンに斬りかかった。元部下は腰の短剣には手をかけず、外套を広げて素早く右腕を振り払う。元上官は悲鳴を上げ、太腿を押さえて膝をついた。その細長い太腿には、二本の投げナイフが刺さっている。
「てめえ……卑怯じゃねえかコラ」
「さっきてめえが言ったとおり、今の俺は薄汚え山賊様だ。いちいち名告り上げてから戦う騎士じゃねえんだよ。卑怯もへったくれもあるか」
バックマンは懐の革製鞘から、さらに三本のナイフを抜いた。
「誰がてめえなんかと、まともに剣を合わせるか」
「クソどもが……あとちょっとで……」
バックマンの右腕が弧を描いて振り上げられ、指の間に挟まれていた三本のナイフが飛翔する。その刃は元上官の皮膚と肉を裂き、首筋と胸に突き刺さった。いずれの傷でも即死はしないが、出血と呼吸困難で遠からず死に至る部位を貫いている。セーデルクヴィストは長剣を取り落として崩れ、地に伏した。
「改心を誓って泣いて許しを請えば、見逃さねえこともなかったんだがな。俺個人がてめえを殺してえほど恨みがあるかって言やあ、そこまででもねえ」
「ずいぶん慈悲深い山賊だな。慈母神に帰依でもしたか?」
「また会えたら、二、三十発ぶん殴ってやろうとは思ってたが」
「……うるせえぞコラ……誰が移民野郎なんかに頭下げっかよ……」
「そのザマで悪態つく根性だけは褒めてやるよ。腐りきった考え方はともかくな」
「とどめは刺さねえ。このまま放っといてやる。血が流れ出て死んでいく感覚をじっくり味わいながら、てめえが裏でいびり倒した奴らの顔でも思い出して詫びてろ」
バックマンは静かだが怒気のこもった調子で言い捨て、地面に転がった長剣を蹴り捨ててリースベットの立つ入口に向かった。二人の背後ではセーデルクヴィストがぶつぶつと恨み言を吐き続けているが、その声はおそらく本人の胸にも響いてはいない。
野営地に戻った連合部隊は、その数を出撃前の半数以下まで減らしていた。
アウロラの見る限り、戦死者はリースベットに討たれた突入部隊以外ごく少数だったはずで、行方不明の数十名は今も森の中を逃げ惑っているようだ。
実はその一部に、ヘルストランドに直行している者たちがあり、彼らは林道を進むリードホルムの輸送部隊と行き合うことになる。今回の山賊討伐作戦の成否にほとんど利益のない軍務省が強硬に突っぱねたため、主たる受益者の外務省と内務省が経費を折半することで、ようやく実現した補給だった。
これは連合部隊が待ちに待った食料だったが、あまりにも遅きに失している。
連合部隊の残党で野営地に戻ったのは、敗走の途上にあっても辛うじて規律を失わなかった者たちだ。彼らは自然発生的に臨時の指揮官を定め、円座になって今後の方針を協議していた。その中心にいるのはテグネールという名の険しい顔の男で、他の者と階級は変わらないが人望があるようだ。
アウロラは木の枝に座り、その様子を上から眺めている。
「たぶん待ってれば、その辺をふらついてる連中も少しは戻ってくるだろう。数はまだ八割がた残ってると見ていいはずだ」
「あの嬢ちゃんが、後ろを守ってくれたからな。俺らの小さな勇者だ」
アウロラは気恥ずかしさと哀切さの混じった表情で、小さく手を振った。
「……奴らは結局、白兵戦には出てこなかったな。追撃もない。手勢には余裕がないんじゃないか?」
「そうかも知れんが、こっちは食料さえねえし、何より、あの特別奇襲隊を破った連中だからな」
「補給さえあれば、まだ持久戦は続けられるんだが……」
談論風発とは表しがたい陰鬱な話し合いを、遠雷のような音が遮った。その音は徐々に大きくなり、野営地に近づいてくる。
「何か落ちてくる! 離れて!」
いち早く音の発生源を察知したアウロラが叫ぶ。遠雷に聞こえたのは、荷馬車の車輪が不安定な地面を叩く音だった。
御者のいない荷馬車は不規則に向きを変えながら山の斜面を転げ落ち、トウヒの木に激突して崩れた円座の手前で暴走を止めた。荷台に張られた帆布には、いくつもの赤い染みがまだら模様を作っている。
「なにこれ……」
「罠か……? いや、この期に及んで」
隊長代行のテグネールがゆっくりと近づき、血の臭いが漂う帆布を外す。その中身を最初に見たアウロラが小さく悲鳴を上げ、テグネールほかの隊員たちも一様に顔をしかめた。荷台に詰め込まれていたのは、前隊長セーデルクヴィストを始めとした戦死者たちの死体だった。
「ひどい……」
「なんてことだ……」
個々に抱いていた感情はどうあれ、かつては共に塗炭を舐めた者たちの死体である。それを目の当たりにし、部隊全体が陰惨な空気と徒労感に包まれた。
「山賊の奴ら、バカにしやがって……」
「いや、そうでもないんじゃないか? わざわざ労をとってまで、死体を届けてよこすというのは……おかげで墓ぐらいは立ててやれる」
「確かにな。実際に何を考えてのことかは知らんが」
「ろくでもねえ奴だったが、こうなっちまうとなあ……」
往時のセーデルクヴィストに対しては悪感情しか抱かなかったアウロラだったが、こうして死体を前にすると、僅かながら同情心が湧き上がってきた。
――この人もきっとあいつらに、強力で避けがたい仕組みに利用されて、怯えながら生きていたんだ。立場を利用して甘い汁を吸っていたのかも知れない。でも、死んだことがその罰だったとして、本当に罰を受けなきゃいけないのは誰だろう……?
しかし今のアウロラは、より直接的で明日の生活のかかった難題を乗り越えなければいけない。小さな勇者は眦を決し、テグネールに向き直った。
「あんたらは、この人たちの死体を担いで帰ったらいい」
「嬢ちゃん、一体なにを言ってんだ」
「隊長がやられたんだから、退却する理由としては充分よね?」
「そいつは……」
アウロラの言葉を聞いた連合部隊がざわめく。それは誰もが願っていながら口にしていなかった、甘い提案だったのだ。
「そうだ、もう充分だろう」
「全滅するまで戦わなきゃいけないほどの金は貰ってねえ」
「そこまで義理立てしてえ国じゃねえしな」
「ここらが潮時だ」
賛意のつぶやきは燎原の火のように広まり、誰一人として反対意見を述べようとはしない。テグネールは深いため息をつき、憑き物が落ちた音が聞こえんばかりに顔つきが穏やかになった。彼の性根により近いのは、おそらく今の顔なのだろう。
「……俺らは正直それでいいが、嬢ちゃんはどうする?」
「私は……私も帰るわ。ノルドグレーンに」
「そうか、帰れるのか。それならいい。命を無駄にすることはない」
「ええ。そうよね。本当に」
「おそらくもう会うことはないだろうが、息災でな」
テグネールはそう言って、場違いなほどにこやかな笑顔を見せた。他人からこんな笑顔を向けられたのは、いつ以来だろう――アウロラはすぐには思い出すことができなかった。
腕組みをしたセーデルクヴィスト隊長の野放図な叫びに、拠点入り口で待機している兵士たちの中に返答する者はいなかった。地下壕内から響いてくる剣戟相打つ音と怒声や悲鳴のみが、唯一にして正確な戦況報告とも言える。
ここで血路が開けなければ彼は、ただ兵員を失ったのみで戦果なく撤退するか、さらなる空腹に耐えながら持久戦を続けるか、という不愉快な二択を迫られることになる。
アウロラに助力を請う、という、最良と思われるもう一つの選択肢は、彼の狭隘な価値観の内には存在しなかった。
過ぎゆく時間とともに苛立ちと不安を募らせるセーデルクヴィストの耳に、地下壕入り口とは別の方向から悲鳴が届いた。突入部隊とは離れた場所に控えていた、後詰めの部隊からだ。
「て、敵襲だ!」
「山賊は洞穴に閉じ込めてんじゃなかったのかよ?!」
持久戦を放棄したセーデルクヴィストの変節は、監視していたユーホルトによって速やかに伝えられていた。ティーサンリードは事前に奇襲部隊を組織し、地下壕の屋上にあたる崖の上に配置していたのだ。
まったく警戒していなかった側背上方から無数の矢が飛来し、統制を失った連合部隊はあえなく総崩れとなった。もはや抵抗する素振りも見せずに次々と林の中へ逃げ込む隊員たちだったが、その背中を果敢に守ろうとする者が一人だけ存在した。いつの間にか部隊に紛れていたアウロラが矢面に立ち、鎚鉾で次々に矢を叩き落とす。彼女だけが殿軍の役を務めていた。
「早く逃げな! 森に入れば撃たれないでしょ!」
「嬢ちゃん、お前も早く逃げろって」
「私は大丈夫。こんな矢なんか当たるもんか」
彼女を知らぬものが聞けば自信過剰としか取れないその言葉に偽りはなく、アウロラは自身めがけて飛来する矢は素早く避け、そればかりか手の届く範囲のほぼすべての矢を打ち落としている。襲い来る飛箭の数は時間とともに逓減してゆき、それに合わせてアウロラも撤退を始めた。
地下壕の外での襲撃は結局のところ遠距離攻撃のみに終わり、白刃を交える近接戦に移行することはなかった。だがそのことを確かめる前に、ほとんどの者が逃げ出してしまっていた。ティーサンリード側も戦闘員の数に余裕はなく、退却を促すための奇襲攻撃だったのだ。
鮮やかと言ってよいほど速やかに撤退していった連合部隊にあって、少数ながら例外も存在する。地下壕に攻め込んでいた部隊と、逃げゆく部下にたいして怒号を飛ばし続けていた隊長のセーデルクヴィストだ。後者については、戦況の判断を迷ううちに逃げそこなった、と言い表したほうがより適切である。
「何だ……どうなってんだ。何であっという間に誰もいなくなった……」
戦場にひとり取り残され、怯え、まだ戦っている部下を残して撤退を決意したセーデルクヴィストに対し、場違いな陽気さで声をかけるものがあった。
「よう、元気だったか綱ひも野郎」
「誰だ?!」
「俺のことを覚えてるか? てめえの頭じゃ、忘れてても文句は言わねえが」
「何だ、てめえ……?」
革製のフード付き外套の懐に手を収めたまま挑発するのは、ゆるく波打つ黒髪と浅黒い肌の、テオドル・バックマンだ。二人は共通の過去を持った旧知の間柄だが、その関係性は親愛とは対極にある。
セーデルクヴィストは細長い目をいっそう細め、怪訝な顔でバックマンの顔を覗き込む。
「……ああ、やっと思い出したぜ。ずいぶん前に脱走しやがったインテリ崩れがいたな。名前も覚えちゃいねえが」
「テオドル・バックマンだ。顔だけでもご記憶いただき、まことに光栄の極み」
「インテリ崩れが身を持ち崩して、今は薄汚え山賊か。笑えるぜ。移民のクソ野郎にゃお似合いのご身分だな!」
「相変わらずの言語感覚をお持ちのようだ。それで生きてられるってのは、よっぽど神に愛されてるらしい」
リースベットが入り口から顔を出し、セーデルクヴィストの背後から感動の再会に割って入った。
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「なっ?! てめえどっから出てきやがった!」
「ここはあたしの家なんだが。自分の家から出てきて悪いってことはねえだろう」
「なんだと……突っ込んだのは腕っこきの十五人だぞ……」
突入部隊は、十五人すべてが彼女に倒されたのだ。敵がバックマン一人と高をくくって不遜に振る舞っていたセーデルクヴィストの態度が一転し、青ざめて目を激しく泳がせている。
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「あーあ、やっぱり向かってくんのか」
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「てめえ……卑怯じゃねえかコラ」
「さっきてめえが言ったとおり、今の俺は薄汚え山賊様だ。いちいち名告り上げてから戦う騎士じゃねえんだよ。卑怯もへったくれもあるか」
バックマンは懐の革製鞘から、さらに三本のナイフを抜いた。
「誰がてめえなんかと、まともに剣を合わせるか」
「クソどもが……あとちょっとで……」
バックマンの右腕が弧を描いて振り上げられ、指の間に挟まれていた三本のナイフが飛翔する。その刃は元上官の皮膚と肉を裂き、首筋と胸に突き刺さった。いずれの傷でも即死はしないが、出血と呼吸困難で遠からず死に至る部位を貫いている。セーデルクヴィストは長剣を取り落として崩れ、地に伏した。
「改心を誓って泣いて許しを請えば、見逃さねえこともなかったんだがな。俺個人がてめえを殺してえほど恨みがあるかって言やあ、そこまででもねえ」
「ずいぶん慈悲深い山賊だな。慈母神に帰依でもしたか?」
「また会えたら、二、三十発ぶん殴ってやろうとは思ってたが」
「……うるせえぞコラ……誰が移民野郎なんかに頭下げっかよ……」
「そのザマで悪態つく根性だけは褒めてやるよ。腐りきった考え方はともかくな」
「とどめは刺さねえ。このまま放っといてやる。血が流れ出て死んでいく感覚をじっくり味わいながら、てめえが裏でいびり倒した奴らの顔でも思い出して詫びてろ」
バックマンは静かだが怒気のこもった調子で言い捨て、地面に転がった長剣を蹴り捨ててリースベットの立つ入口に向かった。二人の背後ではセーデルクヴィストがぶつぶつと恨み言を吐き続けているが、その声はおそらく本人の胸にも響いてはいない。
野営地に戻った連合部隊は、その数を出撃前の半数以下まで減らしていた。
アウロラの見る限り、戦死者はリースベットに討たれた突入部隊以外ごく少数だったはずで、行方不明の数十名は今も森の中を逃げ惑っているようだ。
実はその一部に、ヘルストランドに直行している者たちがあり、彼らは林道を進むリードホルムの輸送部隊と行き合うことになる。今回の山賊討伐作戦の成否にほとんど利益のない軍務省が強硬に突っぱねたため、主たる受益者の外務省と内務省が経費を折半することで、ようやく実現した補給だった。
これは連合部隊が待ちに待った食料だったが、あまりにも遅きに失している。
連合部隊の残党で野営地に戻ったのは、敗走の途上にあっても辛うじて規律を失わなかった者たちだ。彼らは自然発生的に臨時の指揮官を定め、円座になって今後の方針を協議していた。その中心にいるのはテグネールという名の険しい顔の男で、他の者と階級は変わらないが人望があるようだ。
アウロラは木の枝に座り、その様子を上から眺めている。
「たぶん待ってれば、その辺をふらついてる連中も少しは戻ってくるだろう。数はまだ八割がた残ってると見ていいはずだ」
「あの嬢ちゃんが、後ろを守ってくれたからな。俺らの小さな勇者だ」
アウロラは気恥ずかしさと哀切さの混じった表情で、小さく手を振った。
「……奴らは結局、白兵戦には出てこなかったな。追撃もない。手勢には余裕がないんじゃないか?」
「そうかも知れんが、こっちは食料さえねえし、何より、あの特別奇襲隊を破った連中だからな」
「補給さえあれば、まだ持久戦は続けられるんだが……」
談論風発とは表しがたい陰鬱な話し合いを、遠雷のような音が遮った。その音は徐々に大きくなり、野営地に近づいてくる。
「何か落ちてくる! 離れて!」
いち早く音の発生源を察知したアウロラが叫ぶ。遠雷に聞こえたのは、荷馬車の車輪が不安定な地面を叩く音だった。
御者のいない荷馬車は不規則に向きを変えながら山の斜面を転げ落ち、トウヒの木に激突して崩れた円座の手前で暴走を止めた。荷台に張られた帆布には、いくつもの赤い染みがまだら模様を作っている。
「なにこれ……」
「罠か……? いや、この期に及んで」
隊長代行のテグネールがゆっくりと近づき、血の臭いが漂う帆布を外す。その中身を最初に見たアウロラが小さく悲鳴を上げ、テグネールほかの隊員たちも一様に顔をしかめた。荷台に詰め込まれていたのは、前隊長セーデルクヴィストを始めとした戦死者たちの死体だった。
「ひどい……」
「なんてことだ……」
個々に抱いていた感情はどうあれ、かつては共に塗炭を舐めた者たちの死体である。それを目の当たりにし、部隊全体が陰惨な空気と徒労感に包まれた。
「山賊の奴ら、バカにしやがって……」
「いや、そうでもないんじゃないか? わざわざ労をとってまで、死体を届けてよこすというのは……おかげで墓ぐらいは立ててやれる」
「確かにな。実際に何を考えてのことかは知らんが」
「ろくでもねえ奴だったが、こうなっちまうとなあ……」
往時のセーデルクヴィストに対しては悪感情しか抱かなかったアウロラだったが、こうして死体を前にすると、僅かながら同情心が湧き上がってきた。
――この人もきっとあいつらに、強力で避けがたい仕組みに利用されて、怯えながら生きていたんだ。立場を利用して甘い汁を吸っていたのかも知れない。でも、死んだことがその罰だったとして、本当に罰を受けなきゃいけないのは誰だろう……?
しかし今のアウロラは、より直接的で明日の生活のかかった難題を乗り越えなければいけない。小さな勇者は眦を決し、テグネールに向き直った。
「あんたらは、この人たちの死体を担いで帰ったらいい」
「嬢ちゃん、一体なにを言ってんだ」
「隊長がやられたんだから、退却する理由としては充分よね?」
「そいつは……」
アウロラの言葉を聞いた連合部隊がざわめく。それは誰もが願っていながら口にしていなかった、甘い提案だったのだ。
「そうだ、もう充分だろう」
「全滅するまで戦わなきゃいけないほどの金は貰ってねえ」
「そこまで義理立てしてえ国じゃねえしな」
「ここらが潮時だ」
賛意のつぶやきは燎原の火のように広まり、誰一人として反対意見を述べようとはしない。テグネールは深いため息をつき、憑き物が落ちた音が聞こえんばかりに顔つきが穏やかになった。彼の性根により近いのは、おそらく今の顔なのだろう。
「……俺らは正直それでいいが、嬢ちゃんはどうする?」
「私は……私も帰るわ。ノルドグレーンに」
「そうか、帰れるのか。それならいい。命を無駄にすることはない」
「ええ。そうよね。本当に」
「おそらくもう会うことはないだろうが、息災でな」
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