山賊王女と楽園の涯(はて)

紺乃 安

文字の大きさ
上 下
12 / 247
風のオーロラ

3 それぞれの運命

しおりを挟む
 ヘルストランドからノルドグレーン公国に続くアカマツに囲まれた林道を、どんな獣も追いつけないほどのはやさで小さな人影が駆け抜けていった。
 アウロラ・シェルヴェンはつい数時間前まで、自分がこれほど速く走れるなどとは考えもしなかった。その頃はまだ、リードホルム城塞の内部に建てられた王宮、時の黎明館ツー・グリーニンで、時代遅れな服を着せられて端女はしためにも劣る扱いを受けていたのだ。

 前日、ソレンスタム教団の修道士に先導されて王宮に到着したアウロラは、その壮麗そうれいさに目を奪われた。堅固な石造りだが装飾性に乏しいヘルストランド城に比べ、夜だというのに煌々こうこうと明かりが灯る時の黎明館は、まるで全体が教会の聖堂として造られたような荘厳さをたたえていた。
「あら、ずいぶん若い子じゃない。誰の好みかしら」
 アウロラは侍従長だという女から、広くはなく質素だが居心地の良い二階の部屋を私室としてあてがわれ、今夜はこのまま休んでよいという厚遇を受けた。
 その侍従長は地位に似つかわしくない香水が鼻につく妖艶ようえんな女で、まだ仕事をしているはずなのに微醺びくんを帯びていた。違和感を感じつつも、アウロラは枕元に僅かな荷物を置き、十四年の人生で最も上質と思えるベッドで眠りについた。
 翌日も、早朝から起こされて水くみや掃除をさせられる、といったことはなかった。だが中年の侍従が持ってきた着替えの服を見て、アウロラは強い不信感を抱く。それは古い絵画や書物でのみ目にしたことがある、古代の人々が着ていたという薄手の一枚布ヒマティオンだった。
「それに着替えて、午後から始まる酒宴しゅえんを待ちなさい」
「酒宴って、夜じゃなくて……?」
「そう。それまで何もしなくていい。羨ましいご身分だこと」
「こんなもの、どうやって着るのさ」
「やれやれ、着かたなんざ分からないか。無理もないね、なんだから」
 侍従は面倒臭そうに着替えだけは手伝い、アウロラの着ていた粗末なチュニックとフード付きのストールをベッドに投げ捨てて部屋を出ていった。酒宴で歌でも披露するのか、あるいは侍従らしく酒や料理を運ぶのか、何も説明されていない。
 前日の馥郁ふくいくとした侍従長にいざなわれて広間に入ったアウロラは、まずアルコールと奇妙な紫煙しえんの混じった臭気に軽い吐き気を覚えた。そこでは彼女と同じ一枚布をまとった女たちが、リードホルム軍高官の礼装に身を包んだ男たちにかしずき媚態びたいを晒している。男たちの胸には翼竜と剣を意匠にした紋章が縫い付けられており、これがリードホルム近衛兵の証であることを彼女は後になってから知る。
 狂宴きょうえんの中で立ちすくむアウロラに、不快な猫なで声をかけるものがあった。
お嬢さんフローケン、か可愛いじゃないか。新入りかい?」
 軍装が全く似合わないほど太った男がアウロラを見初め、酒臭い息を吐きながら千鳥足ちどりあしで近寄ってきた。いきなり不躾ぶしつけに手を掴まれ、嫌悪感から反射的に手を振りほどく。男の顔が見る間に凶暴に歪み、アウロラの左頬を平手打ちした。
「ソレンスタムの奴ら、教育ができておらんではないか」
「短気を起こすなラーネリード。おお、お嬢さん、怖かっただろう。名はなんと言う?」
「……ア、アウロラ」
 仲裁に入って名を聞いてきた男は太ったラーネリードを足蹴にすると、一枚布の隙間からアウロラの背中に手を差し込んだ。アウロラは悲鳴を上げて突き放そうとしたが、男は素早くその手首を掴み、頭上にひねり上げる。
「あまり手間を掛けさせるんじゃない。お前らはこのために、ソレンスタムで育てられたんだろう?」
「このため、って何……」
「……いいか、お前らは商品だ。金で買われたのだよ。人並みに抵抗するなど許されん身分なのだ。ここにいる女ども全員がそうだ」
 じ切れそうな腕の痛みに耐えながら、アウロラは孤児院で同室だった三人の子どもたちの顔を思い出していた。――アニタ、アルフォンス、ミカル、あの子たちもまさか――
「ここの連中はみな、そのへんの凡人とは比べ物にならない力を持っている。お前ら下々の連中とは違う、神に選ばれた人間なのだ。……一見そうは見えなくともな」
 足元で酔いつぶれているラーネリードを足先で小突いて嗤笑こうしょうしながら、男はアウロラの腕をほどいた。掴まれた手首にはくっきりと赤いあざが残っている。
「おとなしくしていれば、死ぬまでこうして遊んで暮らせるのだぞ。男爵や子爵といった半端な貴族に買われた連中に比べれば、お前は遥かに幸運なのだ」
「どうしてそんな……」
「さあひざまずけ。払った金のぶんの仕事をしろ」
 広間が下卑げびた笑いに包まれ、アウロラは悔しさで目尻が濡れた。それと同時に、腹の底から抑えがたい怒りが湧き上がってくる。
 ――生まれた境遇によって、いろんなことに不自由が出ることくらい分かってる。でも、だからといって、こんな奴らに生き方のすべてを決められたくない。
「……知らないわよ」
「何?」
「あんたたちが神に選ばれたとか、あたしたちがお金で売られたとか、そんなことで何もかも決めつけないで!」
「この小娘……!」
 男が取り押さえようとするよりもアウロラは疾く飛び退き、手近にあった陶器の水差しを投げつけた。男の顔面で割れた水差しから赤紫色のワインが飛び散り、男は目を押さえてのたうち回っている。アウロラは耳鳴りを感じながら、横たわるラーネリードにも酒瓶を叩きつけ、呆気にとられた酒宴の列席者たちが怒号を上げるよりも先に広間を出た。
 驚く侍従たちの間を駆け抜け、彼女が巻き起こす風で廊下に掛けてあった絵画が揺れる。リスが木を登るように階段を駆け上がり、自室の荷物と服を引っ掴んで戻ると、階下には騒然とした人だかりができている。アウロラは階段の中程から撥条ばねで弾かれたように跳躍し、とちゅう髭面の男の顔を踏みつけてもう一度飛んだ。
 重厚な両開きの扉を蹴破って庭園に出たアウロラは、走れば走るほどに速度が増してゆく不思議な湧出ゆうしゅつ感を覚えていた。自分の体だけ、時計の振り子が早く往復している感覚がある。
 怒りにまかせて広間で反旗を掲げたときも、これまで体感したことのない機敏さで動くことができた。――あてもなく逃げ出してきたけれど、もしもこれが噂に名高いリーパーの力なら、あの子たちを助けられるかも知れない。
 わざわざ部屋に戻って回収してきた荷物には、仲間たちがくれた小さなキルトが入っている。アニタ、アルフォンス、ミカルの三人が思い思いの刺し縫いを施したものだ。
 希望の萌芽ほうがに胸を高鳴らせ、アウロラ・シェルヴェンはヘルストランド城を疾駆しっくした。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

婚約破棄からの断罪カウンター

F.conoe
ファンタジー
冤罪押しつけられたから、それなら、と実現してあげた悪役令嬢。 理論ではなく力押しのカウンター攻撃 効果は抜群か…? (すでに違う婚約破棄ものも投稿していますが、はじめてなんとか書き上げた婚約破棄ものです)

主役の聖女は死にました

F.conoe
ファンタジー
聖女と一緒に召喚された私。私は聖女じゃないのに、聖女とされた。

愚者による愚行と愚策の結果……《完結》

アーエル
ファンタジー
その愚者は無知だった。 それが転落の始まり……ではなかった。 本当の愚者は誰だったのか。 誰を相手にしていたのか。 後悔は……してもし足りない。 全13話 ‪☆他社でも公開します

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

国王陛下、王太子殿下、貴方達が婚約者に選んだ人は偽物ですよ。教えませんけれどね♪

山葵
ファンタジー
私には妖精が見えた。 私は妖精に愛されし者。 そして妖精王に愛されし者。 今世に妖精に愛されし者が産まれていると聞いて国王は焦った。 その者を捜し出し王太子と結婚させようとする。 もし私を捜し出してくれたのなら、結婚しても良いかな~。 しかし国王陛下も王太子殿下も…。

標識しか召喚出来ない無能と蔑まれ召喚師の里から始末されかけ隣国に逃げ延びましたが、どうやら予想以上に標識の力は凄まじかったようですよ

空地大乃
ファンタジー
マークは召喚師の里で育った。彼が生まれたプロスクリ王国において召喚師は重宝される存在。マークは里の長の子でもあり期待されていたが儀式において判明したのが標識召喚だった為に落胆された。一方で弟は召喚魔法の中でも最上位とされる英霊召喚だった為にマークはより蔑まれ里から追放される事となった上、実の父親に殺されかけた。しかし死にそうな目にあった事がきっかけで標識召喚の力に目覚めたマークはこの国にはいられないと隣国のカシオン共和国に逃げることに決めた。途中で助けた獣人の少女とも協力し隣国に逃げ延びたマークであったが召喚師が存在しないカシオン共和国でマークの力は重宝され、その秘められた力によって英雄視されていく。一方で密かにカシオン共和国への侵略を考えていたプロスクリ王国は召喚師の里より優秀な召喚師を集めてカシオン共和国へと攻め込むが標識の力を十全に活かせるようになったマークが立ちふさがり【通行止め】によって進行を妨げ【一方通行】によってあらゆる攻撃を跳ね返し【飛び出し注意】によって魔獣や竜が現れ蹂躙する。こうして強力なマークの標識召喚によって辛酸を嘗める事となったことで結果的にマークを追放した長の立場も危うくなり身を滅ぼすこととなるのだった。

聖女召喚に巻き添え異世界転移~だれもかれもが納得すると思うなよっ!

山田みかん
ファンタジー
「貴方には剣と魔法の異世界へ行ってもらいますぅ~」 ────何言ってんのコイツ? あれ? 私に言ってるんじゃないの? ていうか、ここはどこ? ちょっと待てッ!私はこんなところにいる場合じゃないんだよっ! 推しに会いに行かねばならんのだよ!!

処理中です...