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二月・甘きものどもスイートワンズ

2/14(土) 唐突に明かされる吸血鬼の来歴

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 バレンタインデー当日。チョコレートの旬もこの日を最後に終わり、バレンタインコーナーはホワイトデーコーナーに蔵代わり、余ったチョコレートがスーパーに何割引きで並ぶことになる。
「兄さん、うちに来るって」
「いつ?」
「今日」
「今日かよ」
「夜に連絡が来てたみたい」
 寒い冬の日だった。
 吸血鬼が狩人に冷蔵庫の中のチョコレートは好きにしていいとの許しを与えて、義兄が三〇六号室に到着したのは昼過ぎ。夜中からちらほら振っていた雪はコンクリートの上では溶け、土や常緑樹の葉の上にはわずかに積もっていた。いくら滅多に雪が降らない都会でもこんな僅かな雪にはしゃぐ者は誰もいないから、放って置かれるほどの積雪だった。
「こんなところでも雪って降るんだね」
「今年は寒いみたいですから」
 狩人はこの街に来てから雪をあまり見ていなかった。かつて義兄と過ごしていた町は年の三分の一くらいは雪が降っていたように思う。あっちも今は地球温暖化の影響で雪の量が減っているだろうか。
「俺もう眠いんだけど」
 吸血鬼は眠らずに義兄を待っていた。暖房が点いたあたたかい部屋で、眠そうにちゃぶ台に突っ伏して、
「悪いが起きてくれ。色々広げるから」
 狩人は吸血鬼を起こした。頬に丸く赤い跡が付いていた。
「吸血鬼、君の出生について調べさせてもらった。勝手なことして悪いけど、ひょっとすると家族になるかもしれないしな。一応だ、僕個人の興味でもある」
 まとめた紙束を封筒から出し、ちゃぶ台に広げる。みっちり文字が詰められていて読みづらい。
「僕の調査によるとだ、君の出身はブラジル、役所には死産として届け出られているが――」
「いらない」
 資料を諳んじてみせるルチエ兄上の言葉を、吸血鬼は強い語気で遮る。資料を突き返す吸血鬼の右腕が、手首から溶けかけていた。
 普段どれだけ眠くても、このように身体を溶かすことはなかった。
「いらない。必要ないよ。俺には。本当の名前とか、俺を産んだ家族とか、いらないから」
「そう?」
「いらない」
 ふたたび、三度と断りを入れる。蜂蜜色の蕩けた目は、どう見ても正気ではない。魔術で玄関の鍵を開けて、裸足で、軽い歩調で駆けて行く。
「シャンジュ!」
「あれ、全部嘘だよ。俺は生きてる。死産だろうと何だろうと、俺は生きてる。なあ、わかるだろう? お前の頬を叩いているのは現実に生きてる俺だろう? それともお前は死人にすら頬を叩かれる粗忽者か? 違うだろ? なあ、俺の、俺の――」
 吸血鬼は頬を挿む手を離す。吸血鬼は正気を装った微笑みを浮かべ、雪降る中に身を投じる。
「この俺が、生きていることだけが重要なんだ。お前だってそうだろ。生きてなきゃ殺せないんだから。なあ、理人、なあ!」
 天を仰ぎ笑いながら歓喜の表情で、空から直接雪を食む。
「俺は! 生きているぞ!」
 吸血鬼は廊下から飛び降りて、中庭真ん中の木に引っかかる。狂ったゲタゲタ笑いが中庭に響く。
 アパートの向かいの部屋の人間が、様子を覗き見にくる。
 吸血鬼のズボンの裾から、袖から、首から、血が滴っていた。
 彼から溶け出した血が流れていた。
 雪が触れる度に肌が溶け、次第に全身が赤く染まる。
 木から血がイチゴのシロップのように滴り落ち、庭に落ちた雪を汚す。
 新鮮な鉄錆の臭いがする。
「いやあ、あれほどに過去を詮索されるのが嫌いだったとは。思いも――いや因るけども――おーい、吸血鬼くん、死ぬなら木の下にしたまえ!」
 義兄が声をかけなければ、そのまま死んでしまえと思った。
 初めて自分の手にかからずに死んでしまえと思ってしまったことに狩人は驚いて、吸血鬼を助けに向かった。
 管理人から脚立を借りて、非常識な使用方法でもって木によじ登り、吸血鬼を引っ張り下ろす。
「薬でもやってんの?」
「いえ。眠くて頭がおかしくなったのかも……」
「ええ……」
 野次馬の一人、今日は休みらしい喫茶店店員の赤彦が聞いた。確かにそう聞きたくなる気持ちもわかる。狩人の首に腕を引っかけて、吸血鬼は悲し気にくすくす笑っていた。
「それはそれで心配だけど……ちゃんと寝かして、手当てしてやりなね」
 人の姿をしてはいるが人ではないものを、そもそも身元の怪しい彼を救急車で運ぶわけにはいかない。先ほど救急車を断ったから今は使い道のなくなった携帯電話を持った手を振り、赤彦は階段を上って去っていった。
 木に引っかかった血はどうやって洗い流したものか。雪で洗い流せるのだろうか。ぎゅう、と力ない腕で首を絞める吸血鬼を抱きかかえたまま、狩人は管理人にどうしようかと相談した。
「……雪は落として側溝に詰めておくよ。君は帰って彼をなんとかしといて」
「なんとかって……」
「なんとかだよ。懇ろに諭しておいて」
 管理人にはなんとかと言う他なかった。この辺りに吸血鬼を診る病院は無い。血は止まっているから手当の必要はないかもしれない。落ち着かせておけ、というのも違う。頭のおかしな宿敵に押し付けておけば何とかなるだろうというゆるい見通しだった。そしてそれはたいていの場合でなんとかなった。
「寒いな」
 吸血鬼の誰に聞かせるでもないささやきが耳孔を擽った。
「ここで寝るなよ」
 返事らしい呻き声が聞こえる。
 玄関に座らせて足を拭く。吸血鬼はふらふらとやじろべえのように頭を揺らす。
「宗教画みたいだな」
「退いてください。暗いので」
 玄関上の明かりからは影になる場所に立っている。この家のどこに立っていても邪魔になる。汚れた布巾を洗えと言って投げつけ、狩人は吸血鬼を押し入れに運ぶ。
「なあ理人。あれ燃やしといてくれ」
「日本じゃあ野焼きはしちゃいけないらしいんだ」
「シュレッダー借りて燃やしといて」
「シュレッダーじゃ燃やせないよ……」
 吸血鬼のほうから押し入れを閉めた。余程眠たかったらしい。
「寝ちゃった?」
「昨日の夜からずっと起きていたので。起こしておいてって言ってたでしょ」
「悪かったな」
 いったんは片付けた資料を再び広げる。ぎゅうぎゅう詰めにされたアルファベットを紙の端で追いつつ、かなりゆっくりしたペースで読み進めていく。狩人は文を読むのが得意ではない。なんだかよくわからない単語を検索しながら読む。読みやすさに一切の配慮が無い文では、ざっと読んで全容を掴むのも難しい。
「資料は預けとく。お前は読むだろ」
「はい」
「半年でこれだけ調べたんだから。調査能力を褒めてほしいもんだよ全く」
「彼のことは彼に、直接聞くつもりだったのに」
「遅かれ早かれこうやって誰かが調べてたんだ。調べたのが義兄上でよかっただろ、一番にお前に確認できる」
 狩人には義兄へ投げかける文句の持ち合わせが無かった。己の持つ罵倒の全ては彼に対して効力がないどころか、数倍にして跳ね返される。それならば何も言わずにこれをただ捨ててしまえばいい。
 彼の半生、辿った足跡。本当かどうかはわからないけど。真実っぽくはある。彼と戦った記憶のある場所、そこから吸血鬼の足跡を推測して調べたらしい。こんな山の中での戦闘、誰が記録したんだ。義兄上には半分は報告していないはずなのに。情報源は錬金術師か。あいつめ。
「義兄さんはこれからどうするんですか」
「ウーン、せっかく日本来たしあっちこっち顔出してから帰る予定」
「今夜はどうするんですか」
「暁さん家にでも行こうかな。追い出されるかもしれないけど。ま、その時はその時だ」
 義兄上は三〇六号室を出て行った。資料は置いて行かれた。狩人は内容の殆どを記憶した。彼自身に近しいものだったから、覚えるのは容易だった。吸血鬼はこの内容を他人――自分以外の万物万象に知って欲しくない様子だったから、狩人が資料に書かれていたことを忘れてしまったところで問題は無かった。他の人に見せる訳にはいかないし、これを家に置いておいて吸血鬼に荒れられたら困る。
 狩人は管理人室に向かった。家電に関して、ここに相談すればたいていのことは解決した。すこぶるいいオーナーだった。
「重ね重ねすみません、この辺で焚火をやってもいいところはありますか」
「お炊き上げなら大通りの神社でやってもらえるけど、野焼きは最近犯罪になったよ」
「ですよね。シュレッダー貸してもらえませんか」
「いいよ。袋は持参してね」
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