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三月(その一)・発端

3/21(金) 一緒にアパートの管理人に挨拶に行く

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 足も延ばせぬ真っ暗闇。埃っぽくて狭い場所。着慣れないうえに別の誰かのにおいがするゴムがビロビロのパンツとTシャツ、硬い板間に敷かれた薄っぺらの毛布。ゴン、と足が何かの角にぶつかる。痛いじゃないの。この野郎。
 ここはどこかと一瞬悩み、視界の端に入った引き戸の溝、そこから差し掛かる薄明かりで、吸血鬼は思い出した。
 年に一度の死闘の末、吸血鬼は狩人に――命を救われ、風呂場で洗われ、狭い部屋に閉じ込められた。
 ――偉大なる血族の黄昏、生まれついての大魔術師、ダスクのクドラクが。このような醜態を、宿敵に晒すとは。
 こんな狭い場所で地団太踏んでも仕方がないと、吸血鬼はカリカリと戸の端を引っ搔いて開ける。己が閉じ込められた和式の押し入れには、どれだけ探しても内側に取っ手が見えない。だから地道に開けていくしかない。こうやって。長く削れた爪を使って、惨めに。
「おはよう。そろそろ起きる頃だと思ってた」
 狭小住宅の広い窓の外を見れば日が傾いている。時計を見れば五時過ぎを指している。隣の部屋では狩人はちょうど食事をとる頃合いだったらしい。炊いた米が入ったお椀と、何らかの液体が入ったお椀と、数品の出来合いの副菜。古めかしく重そうなちゃぶ台に乗っている。
「君の分の歯ブラシとか、色々買ってきた。先にご飯食べる?」
「食べる」
 そう答えると狩人は吸血鬼の分の白飯と茶を用意しに立ち上がる。腹が立つほど軽い足取りだった。
 吸血鬼は押し入れからちゃぶ台まで這って出た。サイズが明らかに大きいうえにゴムも緩いパンツがずり落ちる。なんでこんなもん履かせたんだ。そして自分はどうして差し出されたものを素直に穿いてしまったんだ。吸血鬼はずり落ちたパンツを穿き直しながら、人間的な食事の匂いにつられて不器用な四足歩行を続ける。
 食卓からは甘い炭水化物の匂い、醤油とマヨネーズ、それから宿敵の臭いがした。吸血鬼はちゃぶ台に肘を置いて、宿敵の臭いに顔をしかめた。ずっと嗅いでいたい臭いではないようだ。
 ――今は何か腹に入れる気分じゃない。血が飲みたい。目の前にいる宿敵でいいから。
「箸使える?」
「使える」
 狩人が箸と茶碗を、吸血鬼が座った目の前に置く。片方には白飯、もう片方には冷めてぬるい茶が入っている。その棒きれを狩人がどう使うかを見てから、吸血鬼は箸を握った。普通の人間でも握力に任せて握り潰せそうなほど細い、プラスチックで覆われた安っぽい箸だ。
 こんなに軽い箸は初めて使ったと思う。遠い昔に使った気もする。非常にいい加減な回想をしつつ、吸血鬼は二本の木の棒をかちかちと動かしてみる。
「僕は理人。君の名前は?」
 狩人のすみれ色の目が吸血鬼を覗く。
 言葉が通じる前提で話していやがる。なんて生意気な奴なんだ。吸血鬼は狩人の問いには応えず茶碗に目を合わせ、昨日の夜からずっと気になっていた最大の疑問をぶつけた。
「これから殺す相手と、どうして一緒に暮らそうなんて考えた?」
「僕が君を殺すチャンスは年に一度しかなかった。昨日までは、本当に偶然のめぐり逢いを待つしかなかった。君を知るには、年に一度会った時に捕まえるくらいしかないと思った。だから」
「殺す相手のことを知っておきたいって? イカレてる」
「狂った運命だ。僕たちは生まれた時からいつか死ぬまで宿命付けられたまま、殺し合ってきた。どうせお互い来年まで死なない身なんだから、君さえよければ、一緒に暮らして、お互いのことをもっと知り合ってもいいんじゃないかって」
 昨日はどうしてこんな奴がいる場所でぐっすり眠ってしまえたのか。箸を軽く握り、食事には未だ一口も手を付けずに、吸血鬼は目の前にいる狩人の言動に、「お前のこと全然理解できないや」という表情を向けていた。
「僕には君を殺す理由が無い。宿命であるという以外に」
 確かに、それはそうだと吸血鬼は心の中で首肯した。吸血鬼は狩人が殺しにかかってくるから殺し返すのだ。常に望んで殺すのではない。今すぐにでも食いたい、腹が減ったからと血を吸うのでもない限り、こちらから人間を攻撃する理由はない。人のように仕留めた獲物で遊ぶことはないし、獣のように美味しい部位だけ食い散らかすこともない。吸血鬼は昨夜の戦闘を自分から仕掛けたことに関しては、考えの外に放り投げていた。
「だから理由が欲しいんだ。君は? 僕たちの運命をどう思う?」
 狩人は吸血鬼をじっと見つめる。年に一度は会う仲だが、こんなに落ち着いて顔を合わせたのは初めてだった。狩人は吸血鬼の深い赤色の目を見つめていた。魔性の色、メノウの赤。自分の部屋の中でなければ彼の目を見ることはなかっただろう。戦闘の中でならたとえどれだけ精神が落ち着いていたとしても、絶対に合わせることのない目だ。吸血鬼はまだおそらく、狩人の視線に気が付いていない。あまりにも疲れている。
「腹が減った」
 吸血鬼が顔を上げる。狩人はずっと見つめていたことがとうとうバレたかと思って、恥ずかし気に目を反らす。
 狩人の薄ぼけた青色のTシャツと白く波打ったふわふわの髪の間に覗く首筋からは、吸血鬼には身を焦がすほどに魅力的な匂いがした。臭いのに魅力的、人の感覚で譬えるならばニンニクなどの香辛料。なんという矛盾だろう。
「食べなよ」
 ほら、と狩人はパック詰めの佃煮を箸で押し出した。品が悪い。パックに乗った竹輪の天ぷらの最後の一切れも、食べていいと吸血鬼に差し出す。二本以上は入っていたらしい。そのような空白がある。
「まだ名前教えてもらえなかったな。僕は理人」
「さっき聞いた」
「僕は聞いてない。君は?」
「ダスク。黄昏(ダスク)のクドラク」
 食事で答えが喉に張り付く前に答える。名前を答えることはそう問題じゃない。佃煮を一切れ口の中に放り込んだ。濃い塩味が口の中を襲い、唾液が出る。ご飯を一口口に含むと、どろどろと溶けていく。なるほど、こういう食べ物か。
 これを片付ける前に、吸血鬼には狩人に聞いておきたいことがあった。
「さっき、お前は俺を殺す理由が無いと言ったが、それはお前の正義に反しちゃいないか? 俺はお前の守るべき人間どもを何匹と殺しているんだぞ」
「君が殺した中に、僕の大事な人はいない。母を殺した鬼はもうこの世にはいないし、吸血鬼退治の師匠は、自らの役目を全うして、やりたいことやって死んだ。僕が君に押し付けたい責任は何もない。もう僕にはこの世に、復讐心を持てるほど大事な人はいない。君に対して、何も、嫌いだとかは思っちゃいない。運命であるという以外に」
 あれ、思っていたのと違うな。もうちょっと正義感とかあると思ったんだけど。復讐? 吸血鬼はさらに尋ねる。
「俺がお前の知らない人を殺したところで、何も思わないってこと?」
「究極は、そうだ。復讐心は大事だ。他人の物でも。狩人は他人の恨みを背負って晴らすのが仕事だから。僕はそういうものだと思ってる。だから君が誰かの大事な人を殺したら、僕が誰かの恨みを背負って君を殺す。君はどう?」
「いいぜ。OK。気に入った。俺がここにいる限り、お前は俺を殺さない。そうだな?」
「うん。同居人として、大事に扱う」
「よし、一緒に暮らそう。でも俺は見ての通り何も持ってないし、何も持つつもりもないからな。いつでも気分で出て行くぞ」
「わかった。でももし君が同居が嫌になって出て行きたくなったら、理由を聞かせてほしい。そうだ、君の羊膜は袋に入れて洗面所に置いてあるから。あと君の分の歯ブラシまだ開けてないから、袋と一緒に置いてある赤いやつ使って」
 佃煮で出した唾液で米粒を溶かしつつ、吸血鬼は茶碗の中身を空にした後、洗面所に己の半分の無事を確かめに向かった。
 吸血鬼はジッパーバッグ片手にすぐ戻ってきた。ボロボロではあるが大事なものだ。こうして大事に扱ってくれた分だけ、吸血鬼は己の宿敵を信用してもいいのではないかと考えていた。
「歯磨いた?」
「俺の部屋なんとかならない? 中の取っ手が無いし狭いんだけど」
「物置だからね。上の段が開いてるから、使いたかったらそっち使って」
「は!?」
 一体どういう侮辱かとずかずかと歩み寄り、開けてみれば確かに上下段に分かれているのを確認できる。下の段の右側は昨日まで自分がいた巣穴で、逆を開けると洋服箪笥が仕舞ってある。上の段にはすのこが敷いてあるだけで、綺麗に何もない。
「上のほうが脚伸ばせていいと思ったんだけど昨日は上に乗せるのは出来なかったから。君がいたところに布団を仕舞ってたんだ。気に入ったなら使って。取っ手は……明日ちゃんとしたのを買ってきて付けるよ。金物屋さんは今行ってもたぶん間に合わないし」
 狩人は食器とごみを片付けた後、ちゃぶ台の上に紙類を広げる。何やら書き物をするようだった。
「そうか……」
「うちで日の当たらない場所はそこくらいしかないよ。あとは……トイレくらい」
「……ここでいいや。人の小便を飲む趣味は無いし」
 ここなら狭いが足を伸ばせる。ギシギシ言うがまあそれはボロっちい薄板一枚に体重全てを任せるのだから仕方がない。俺一人の体重載せてギシギシ言う方が悪いのだ。一切の責任を押し入れの薄板とすのこに転嫁し、吸血鬼は押し入れから出る。
「気に入ってくれてよかった……あ、布団。買ってこなかった。要る?」
「いらない。俺のコートはどうした?」
「クリーニングに出した。備え付けの洗濯機じゃ洗えないから」
「え、なんで……」
 不安そうな声をあげる吸血鬼に、狩人は明後日には取りに行けるよと言って、注文票がトイレ横黒電話下の引き出しにあるからと指す。
「シャツはあんまりボロボロだったから、洗ったら分解しそうだったから捨てたよ。サイズと材質が同じようなの買ってきたから、それで許して。……君の服、全体的にボロボロなんだよ。洗えたのが不思議なくらいだ」
「いいだろ、潔癖症がよ」
「着替えたら管理人さんに挨拶しに行くから、服着て」
「このパンツゴムゆるゆるなんだけど」
「僕のサイズで買ったやつだから。君が痩せすぎなだけだろ。僕が着るから洗濯機の中に入れといて。せめてズボンだけでいいから履いて」
「ズボンどこ置いたんだよ」
「押し入れの中の引き出しの一番下」
「先言えよ」
 なんて段取りの悪い奴だ。吸血鬼が言われた通りの場所を確認すると、自分の着ていた服が――シャツとコート、靴以外は入っていた。他の段には何が入っているか。真ん中の段は何も入っていない。一番上の段は人間の服らしきものが一揃い――夏用や冬用、下着も含めて一年この一段の中にあるもので過ごせるようなものが一揃い入っている。人が着ている分以上の隙間が空いている。狩人のものだろう。さんざん漁り終えてぐちゃぐちゃにした一段を、吸血鬼は隠すように押し込んだ。
 箪笥の中の確認をし終えると、吸血鬼は自分のズボンを穿いた。自分の物なのに自分の物ではない、変なにおいがする、と総毛立つ。気に入っていたからこの丈だけは合っているズボンはかなり長く穿いていたように思えるが、腰に留めておくためだけのこの皮のベルトは初めて全体図を見たように感じる。常に身近に置いていたのに、妙な感じだ。
「何書いてんの?」
「服着た?」
 無いものを嘆いていても仕方が無い。Tシャツは今着ているものを借り、パンツはその辺に放り捨て、吸血鬼は表へ出ることにした。下着はもともと穿いていなかったし、あのサイズの合わないパンツは歩くたびにずり落ちる。いずれズボンの中で脱げていき、尻を丸出しにし、ことあるごとに主人の行動を邪魔するだろう。着ない方がマシだ。
 がちゃん、と重い鉄製扉を鍵をかけて閉める。アパートは五階建てで、穴の開いたおおむね正方形に建物が並んでおり、中央は駐車場か公園のようになっている。真ん中の明かり以外は、日暮れという今の時間以外でも薄暗かろう。
 人一人すれ違えるほどの狭さの廊下を行く。狩人は吸血鬼の手を引っ張って、階段で下に降りる。この曜日の今の時間帯なら誰ぞ居るだろう、と一階にある管理人室を覗く。
「あらっ」
「こんにちは。今朝はお騒がせしてすいませんでした」
「今朝ね。あんまり騒いでもなかったし、おおごとにもなかったからいいけどね。あんまり血腥いのはさすがにうちも困るよ。そっちの彼でしたね? 血塗れだったの。無事で何より。これ読んでいただいて、ここに名前書いてください」
 管理人らしいサングラスの男が、小窓からバインダーに挟まれた名簿の写しを差し出す。上に数行契約の文言が書いてあり、下に借主である暁理人の名前、そのすぐ下には幾つか同居人の名前を書くための空欄があり、管理人は一番上を指している。
「理人、読み上げろ」
 吸血鬼は狩人に名簿の写しを上から下まで読み上げさせ、裏に何か書かれていないか、バインダーに挟まれた二枚目以降が無いかも確認した。そして、管理人をもう一度見る。
「理人、お前が書け」
「え?」
「大丈夫ですって、この契約――って言っていいんでしょうかね、破られたことって今までほとんど無いんです。普通に暮らしてりゃ破られることなんてまず無いんですよ」
「誰の使い魔だか知らんがな!」
 吸血鬼は声に今出せる目いっぱいの魔力を籠めて唸る。管理人を名乗る使い魔を凝視し、サングラスの奥、さらにその奥にいる者をさらに見る。
「この俺に読めない契約書を書かせるとは、いい度胸してるぞ」
「僕が読み上げた」
「日本語ですから。そんな怖い声で命令しなくたって、聞かれれば答えますよ」
 手をひらひらと降って刺さるような視線を遮る。並の使い魔である管理人にとっては、吸血鬼の感情に任せた揺さぶり程度の魔眼でも無数の針で貫かれるように痛いのだった。
「それに本体なら今は商店街の喫茶店で働いてますから、後でコーヒーでも飲みに行ってやってください」
「安くなりませんか? こいつお金持ってないんです」
「なりませんね、一銭たりと」
「これからする俺の問いに嘘や隠し立てをしてはならない!」
 吸血鬼はしつこいほど警戒して質問を繰り返したが、管理人が語る契約内容は、どう叩いても呆れるほど平穏なものにしか聞こえなかった。怒るのにも疲れた吸血鬼はようやくボールペンを握り、住民名簿にサインした。
「これなんて読むの?」
「ダスク」
「へ~。あっ、そうだ。モーニングの割引券あげるから、良ければ行ってね」
「モーニングだと!?」
「さっきは割引なんてないって言ってたのに」
「コーヒーはね」
 ダスクのクドラクは柄にもなく動揺していた。
 ――この俺を吸血鬼と知ってか知らずか、朝(モーニング)を寄越すとは。
「うん。お昼の十一時までやってるから。本体はさっきの魔法の話もしたがると思うから、余裕のある日でお願いね」
「お昼……」
 夜の十一時ならまだしも、昼では何の慰めにもならない。
「そんなこの世の終わりみたいな顔しなくても……」
「彼は吸血鬼なんです。昼間はこの世の終わりになりかねません」
「俺は朝の陽射しも昼間も怖れるような吸血鬼ではない。今は体調が悪いから、ちょっと浴びたら具合が悪くなりそうなだけだ。時間のある時に行ってやる。理人、受け取っておけ」
「そんな早口で言わなくても……」
「かえって図星を突かれたみたいに聞こえますよ。でしょ?」
「やかましい!」
 狩人はモーニングの割引券をズボンのポケットに仕舞う。
 日も沈んできたし、ついでに近所の商店街でも案内するよ、と吸血鬼の手を引く。管理人がお気をつけて、と二人の背にひらひらと手を振る。
 洗ったばかりのズボンと靴下に他人のTシャツでは、裸で歩いているような心地がした。己を地上に留め置くように重いコートがやはり必要だ。なんとかして取り戻さないと。自分に繋がる熱をぎゅっ、と握り返す。
「アパートの下は店舗になってて、丁度うちの下がクリーニング屋。さっき管理人さんが言ってた商店街の喫茶店はそこ。今開いてるけど財布持ってないから、今から寄るのは出来ないな。水曜日の夜はバーもやってたはず。……今は閉まってるけど、向こうはお肉屋で、その二階は探偵事務所。しょっちゅうパン屋に同じ猫を運んでる。あっちの魔女のパン屋は魔女って名乗ってるけど、本当に魔女かどうかはわからない。ちょっと調べてみたけど、悪いことはしてなさそうだし、パンも美味しい。こっちの道を真っ直ぐ行ったらスーパーで、通りをこのまま真っ直ぐ行ったら電車の駅がある。明かりが見えるだろ」
 花屋、八百屋、洋菓子店、古本屋、夏しか開かない大通りに面した甘味処。閑静な住宅街の狭間にある古めかしい商店街を何十分かかけて一周して、アパートの部屋に戻って来た。
 三〇六号室。ここはそんな名前だったか。吸血鬼は見てもいなかった。しばらく宿敵が住む家なのだから、覚えておかなければ。
 手を離されて初めて、吸血鬼はずっと手を繋いでいることに気が付いた。骨ばった手のひらが急激に冷えていく。あっ、と声を上げる。
「どうしたの? 何かあった?」
「あのさァ、理人くんよ。……俺がお前の手をスパーンと切っちゃって逃げるとか考えなかったわけ?」
「弱った吸血鬼に切られるほどヤワじゃないよ」
 狩人は手を繋いでいた方の手首を見せる。吸血鬼のそれよりも倍近く太い腕に、結び目の付いた縄が三重に巻き付いている。昨日、吸血鬼が風呂に入れられたときに付けた御守りの縄だ。
「嫌味な奴ッ」
「そうだ、合鍵渡しとかなきゃ」
 電話台の下をごそごそ漁って、狩人はじゃらじゃらと何やらがついた鍵を取り出した。
「キーホルダーは変えてもいいけど、鍵は落とさないでよ」
 鍵にはガラス製のカラフルなトウガラシと金色の鈴、黒いプラスチック製の札が付いている。これがじゃらじゃら言っていたのだ。吸血鬼の手に、鍵本体よりキーホルダーのほうが重い鍵が渡される。
「魔除けだろ? これ。俺が持ったら一瞬で全部落ちそうだ」
 吸血鬼は俺自身が厄の塊のようなものだから、とじゃらじゃらついたトウガラシを手で弄びながらケラケラ笑う。
「貴様の宿敵であるこの俺が、たった一晩で随分信用されたもんだな」
「散歩してる間、君に手を振りほどかれたら、渡さないでおこうかなって思ってた」
「はァ?」
 ――手を繋いでいることを意識していなかっただけだというのに。何言ってんだこいつ。
 手を繋いでいることを意識しないほど自分が気を許している、もしくは疲れているのをさて置いて、吸血鬼は呆けた声を出した。余程不覚だったらしい。
「出掛けるときは戸締まりして、鍵を閉めてから出て行って。お風呂入るけど、一緒に入る?」
「……いい。昨日入ったし」
「海を渡って日本に来たなら毎日入るんだよ。特に夏は蒸し暑くなるから、汗は流した方がいい」
 己の手のひらの中のものを見て呆然とする吸血鬼を無視し、今日はいいか、と言って狩人は風呂の戸をバタンと閉じた。
 戸の音が遠ざかっていた意識を引き戻す。一人でこの俺を放っておくとは不用心だなとばかりに、吸血鬼は家探しを始めた。
 黒電話すぐ下の引き出しには鍵が付いている。不用心にも鍵は掛かっていない。中にはいくつかのファイル、中にはレシートが何枚もと、読めないが重要そうな書類がいくつか、それから数字が並んだ手帳――これは預金通帳か。どこかから毎月結構な額が支払われている。手帳がもう一冊、もう少し分厚い。収支がさっき見た預金通帳と似ているからこれはあれか、家計簿というやつか。これだけ貰ったところであまり意味がないと全部仕舞い直す。底が厚くないので、二重底にはならないだろう。透視しても見られるのは棚の下だけだ。下の観音開きの棚には、薬箱やら何やら嫌なにおいがするものが仕舞ってあって、吸血鬼はこれをすぐに閉めた。こんなもの嗅いでいたらただでさえ今体調が悪いのに、頭が痛くなる。
 次に吸血鬼が漁ったのは台所の棚だった。食器棚にはカラフルな食器が二または四揃い、引き出しには明るい色のフォークやスプーンがやはりこれも二ないし四ずつ入っている。一人暮らしには多すぎる数だ。こんなアパートでも客はよく来るのだろうか。さっき使ったお椀と箸は、隣の乾燥棚に伏せてある。これを見たところ狩人は鮮やかな色合いがお好みらしい。
 食器棚の下の観音開きには常温保存のレトルト食品や菓子類、その中に個包装入りのニンニクチップスがあった。ニンニクだと。警戒を怠ってごそごそ漁っていた吸血鬼は急いでぐちゃぐちゃにした菓子類を棚の中に押し込め、扉を閉じた。
 流しの傍には電子レンジ、その上には先ほどまで使われていた米を炊くためだけの機械。コンロは綺麗で使っている形跡が見られない。下の棚の鍋やフライパンもそうだ。備え付けらしい冷蔵庫の中には出来合いのおかずか、そのまま食べたり飲んだり出来るものしか入っていない。奴は料理をしないらしい。となると鍋やフライパンは誰かから贈られたものか。やたらとある皿や引き出しの中身はもともと誰かと暮らしていたものなのか、今でも帰っていない誰かと同居しているのか。……何より、ニンニクチップスは己の安全のためにも何としても捨てさせなければなるまい。吸血鬼は冷蔵庫を閉めた。冷蔵庫は長い間扉を開けられていたので、びーびー文句を言っていた。
「何? 冷蔵庫開けっ放しにしないで」
「あ!?」
 吸血鬼が物相手にドタバタしているうちに、狩人は風呂から出てきていたようだった。タオルを頭に被り、髪を拭いている。表情はわからないが、冷蔵庫に悲鳴を上げさせたことでたぶんむっとしていた。
「物の場所を覚えてもらうのはありがたいけど……」
「そこの下の棚のニンニクチップスがありながら! この俺と同居しようって言ったのか?」
「人からの貰い物だったんだ」
「今すぐ捨てろ! 今! すぐ!」
「賞味期限はまだ切れてないと思うから……わかった、別のところに持って行く。捨てるの勿体ないから、しばらくは勘弁して」
「……それなら、いいけど。早いとこどっかにやってくれよ」
 ニンニクチップスがある棚の前を、吸血鬼は全身の毛を逆立てながら通り過ぎる。台所にはもう吸血鬼の興味を惹く場所は無い。
「それ以外にさ、もっと聞きたいことないの?」
「あるけど。服を着るまで待ってやる」
「ごめん」
 狩人は洗面所に戻り、服を着て戻ってきた。
 吸血鬼は壁に下げられたカレンダーを見ていた。新聞社からの貰い物らしい。吸血鬼が狩人に殺されかけた昨日は祝日で、字は赤く印刷されている。春分の日。昼と夜が等しくなる日だ。
 ああやって公共に広く配布されるものに印刷されている以上、俺たちに特別な日は誰にでも特別な日なのだ、と吸血鬼は悟る。俺たちにとって特別なことでも、世間ではなんでもないことなのかもしれない。まったく、やんなっちゃうね。
 服を着た狩人はキッチンに立ち寄り、カップに牛乳を入れて戻って来た。二人分のカップがちゃぶ台に置かれる。
「聞きたいことって何?」
「お前が要求したんだろうが」
 牛乳だって血の変形には変わりないが。差し出されたもの、牛乳パックにそもそも何か入っていたのでない限り、何も悪いものは混ぜていない様子だ。ありがたく飲ませてもらう。カップはプラスチック製、さっき戸棚の中で見た重ねて置いておけるタイプの形状だ。外側は赤一色で、内側には刺繍のような、赤を基調としたビタミンカラーのかわいらしい文様がプリントされている。先程食器棚を漁って知った通りの派手好みだ。
「俺のこと赤が好きだと思ってる?」
「嫌いだった?」
「いや、好きだ。食欲をそそる色調だろ」
「よかった」
「間違えた。それが聞きたいんじゃない。前にこのカップを使ったやつがいるな?」
「いや、いないけど……なんで?」
 吸血鬼は牛乳を一口飲んだ。既に命の無いものの温度だ。ひんやりして冷たくて、あまり美味しくない。
 それより何だ。前にこのカップを使った者がいない? 使いもしない皿を溜めこむ趣味でもあるのか。それにしては管理が雑だし、飾っておく用のコレクションにはとても見えなかった。あれではいつでも使えてしまうじゃないか。
「じゃあ、あの皿の量は? 誰かと一緒に暮らしてたんじゃないのか?」
「いや、一人だったよ。ここに引っ越してくるときに買ったんだ」
「そりゃあ、そうでしょうとも」
「それで……その時、ふと……君と一緒に生活することを考えたら、色々買っちゃってて」
「は? 気持ち悪ッ」
「それにその、いい絵柄の皿が多かったから、けっこう悩んでて。それで君と一緒に暮らすなら倍必要になるなって思って……買った」
「俺を物欲のダシにしたのか。それならいいぞ。許そう」
「使う機会があって本当によかったよ」
 人間の欲望の枷を外すのは大好きだ。知らず知らずのうちに外させていたのは気持ち悪いが、悪い気分ではなかった。
「あの鍋とかフライパンは? 料理するものと思って買ったが、結局使わず仕舞いか?」
「人からの貰い物だ。僕がここに住むって言ったら、たぶん使わないって言ったのに贈ってきたんだ。君が使うなら彼らも報われるってものだけど……どう?」
 料理をしたことはある。三日以上続けて料理をして、人を養うようなことをしたことはない。たいてい人に作ってもらうか、買ってもらうか無調理かのいずれかだ。
 他人が作る奴が一番うまい。味の問題じゃない。気持ちの問題だ。冷蔵庫で冷えているとか、そういう問題じゃなくて。自分の手では作れないものである、他人が自分のために手ずから作ったという事実が、何よりも食事を美味くする。それは相手も同じことらしい。
「電子レンジ使ってる?」
「面倒くさくってあんまり」
「使えよそれくらい。便利なんだろ」
「僕は料理をしないから。あれも……自分の宿敵が料理する人だったらよかったんだけど、世の中そう上手くはいかないよな」
 宿敵を同居に誘うイカれた奴らしいイカれた台詞だ。吸血鬼は頬杖をついて、狩人の顔を覗き込んだ。
「料理、やるよ。宿敵様と暮らすんだ、どうせあんまり悪いことは出来ないから、暇だろうし。こんな狭い家の中で、なんかやることは欲しいし。その代わり洗濯掃除はお前の分担な。俺、流水苦手だから」
「洗濯と水場の掃除はするけど、ほかのところについてはもうちょっと話し合おう。あと買い物とかゴミ出しとか、色々あるから……」
 深夜零時を回るまで、彼らは掃除場所の分担を話し合った。水周りと寝室は狩人、押し入れの上段とキッチン、居間は吸血鬼の担当。吸血鬼が料理に関しての勉強を終えるまで、買い物は出来るだけ一緒に行くか、食品は吸血鬼が買うものを決める。でもしばらくは冷蔵庫や棚の中を片付ける方向で。ゴミ出しは吸血鬼が夜のうち、寝る前にしておく。ゴミをまとめる作業は各自の掃除箇所に拠る。あとは体調に応じて、要相談。
 後で君の分の携帯電話も工面しなきゃ、と狩人が固まっていた首をつらそうに上げて、ようやく今の時間を知った。普段から寝る時間は不定だったが、時間を知った今、急激に眠気が彼を襲う。
「僕もう寝るから。ダスクも、寝る前には歯磨けよ」
「吸血鬼の歯が虫歯菌にやられると思うか? 生まれてこの方奴らにゃ勝ち続けてるんだ」
「それから、出掛けるときは戸締まりしてね。鍵渡したから、それでよろしくね」
 おやすみ、と言って狩人は電気を消して布団に潜り、宿敵の前で眠る努力をする。
 さて、吸血鬼は話し相手がいなくなり、やることもなくなった。
 このアパートの一室は現代家屋らしからぬ造りをしており、驚くべきことにテレビが無い。吸血鬼は昔暮らしていたボロ家にすらあったものがないとは、どうやって町の夜を過ごしたものかと悩んだ。狩人ならば携帯電話を持っているが、それを覆うカバーには祈りの文句が描かれた手製の彫刻がされており、勝手に使うことはできない。なんてクリエイティブなやつ。その努力をもっとほかのところに使えよ、と製作者の目論見通り吸血鬼は文句を垂れる。
 出掛ける気力はあまりない。戦いの前、吸血鬼はこの辺りを歩いて回ったが、人間の建物の隙間を縫うように歩いただけで、きちんと観光したわけでもない。疲れていたからあまり動きたくない。知らない場所で迷子になって、ここに戻れなくなるのも困る。
 窓は開いており、カーテンと網戸越しに時折春の風が吹く。住宅街の屋根の間から空が見える。月も見えないのに明るい空だ。やっぱ都会だったんだな。からからと音を立てて網戸を開け、ベランダに出る。今なら誰の目もないと考えた吸血鬼は、カラスに変身してアパートの屋上へ飛んだ。
 夜の町は静かだ。大通りのほうは常に車の通りが絶えないが、見渡せる殆どの家屋かは明かりが消えている。にもかかわらず空の光を侵すほど明るい。地面を鼠やら猫やらと一緒にべたべたと歩いていたときも思ったが、都会だなー、と眺めながら考える。町で見られる星のほとんどは空を跳ぶ飛行機だ。地上の星のほうが鮮やかだが、引き込まれるほどの魅力はない。地上の景色に魅力があるとするなら、地球の重力に因るものだ。
 空の端に月の入りが見える。下弦の月だ。お椀みたいな月だ。さっき食べたご飯が入った茶碗みたいな――
 ――そうだ。俺は腹が減っていたのだ。
 奴とのおしゃべりに夢中になっていてすっかり忘れていた。いまいち膨らみきらない腹を抱え、空など見ている場合ではない、と吸血鬼は再びカラスに変身して部屋に戻った。
 吸血鬼の目は暗い中でもよく見えた。二時間ほど経って、狩人は無防備に眠っている。長い髪を上に撥ね上げ、古い畳の上に白い髪が落ちている。寝返りを打ち、吸血鬼のほうに顔を向ける。白い肌、菫色の目をふちどる白い睫毛。頬は年相応に柔らかく薄い産毛で覆われており、人間には重要な機関が詰まった首は丸い顎と髪のカーテンの間に隠されている。
 宿敵にここまで観察されるとは、なんて無防備なやつ。
「おい、起きろ。血を吸わせろ」
 と数度揺さぶる。もにゃもにゃ言いながら狩人は目を瞑ったまま答える。
「僕は眠い」
「俺は腹が減ってる」
「散歩行く前にご飯食べたろ……冷蔵庫漁れば何かあるよ」
「あれじゃだめだ。足りないんだ。お前も狩人なら、俺が何を欲しがってるかわかるだろ。上でも下の階の奴でも殺して食ってもいいんだぞ」
「ここの四方は人は住んでないよ」
「そんなんで大丈夫なのかこのアパート……」
「この部屋でいろいろあったから、僕が住んでるんだ」
 話が逸れた。
「血を吸わせろ」
「勝手に吸えばいいじゃないか」
「人の断りなく血を吸うような品の無いことはしない。一言いいと言ってくれたら、気分良く、してやるさ」
「吸えばいいじゃないか……」
 狩人は明らかに面倒くさがって、寝転がりながら寝間着のTシャツを脱いだ。
「ほら」
 と、髪をかき上げて首を差し出す。
「……つまんないやつ」
「早くしなよ」
 吸血鬼は狩人に覆いかぶさり、狩人の手に手を絡めた。そして、差し出された首筋に、錐のようにとがった前歯を突き刺す。
 刺された瞬間狩人は少し呻いて、吸血鬼の手を掴み返した。
 歯を抜いて、湧き出た血を一口すする。瞬間、口内を焼け付くような熱さが襲う。すぐにでもペッと吐き出してしまいたい。でも勿体ないし、と喉に下す。毒のような酷い味、刺すような匂いが鼻を衝く。後悔した。飲むんじゃなかった、喉が焼けそうだ。昔酒を飲まされた時のような、鼻につくあの感触に似ている。今すぐ口を離したい衝動を抑え、唾液を含んだ舌で舐めて止血し、一口で飲むのを止めた。……舌がヒリヒリする。喉が痛い。腹が熱い。
「痒い。そっちにムヒあるから取って……」
「俺は虫か?」
「痒い……」
「掻くな。取ってやるから。酷くなるぞ」
 意識が遠い。喉が渇く。ふらふらする。顔が熱い。宿敵の血が、聖者の血が。
 吸血鬼は這う這うの体で狩人に文机の上の薬を取ってやる。まだ中身が多い。夏が来れば使うこともあるだろう。こんな奴の血誰が飲むんだ。
「塗ってやるから」
「うん……」
 髪を掻き分け膨れた首筋の傷に薬を塗ってやる。朦朧とした意識の中、文机に薬瓶を戻す。
「これでいいか」
「痒い。しみる」
「効果が出るまでしばらくかかるだろ。我慢しろ」
 そうしてしばらくもしないうちに狩人はすうすうと寝息を立てる。狩人の白い髪は、犬の深い毛のような、ふわふわした細い髪だ。涎が出る。意識が遠い。気分は、不思議と良かった。
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