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4.戸惑いが外堀から埋められていく
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むくりと身を起こした。
いつもの起床の時間だ。
習慣になっているので、アラームなど必要ない。
「……」
ちらりと傍らを見ると、あの男がすうすうと寝息を立てている。
余計なことをして、と昨夜は苛立ったが、あの狭いシングルベッドで抱きしめられて寝ないで済むようになったのは……助かったと言えなくもない。
少なくとも、体を離して横になれたこともあって二日目の徹夜は避けられたし、ベッドを勝手に買い換えられたことについては不問にしてもよさそうだ。
起こすと面倒なことになりそうだ、と判断して男から目を逸らし、そっとベッドを下りたんだが。
「ん……あぁ、おはよう、白夜」
クソ、失敗した。
ぼやけた視界で男が身じろいだのが分かった。
「……おはよう、ございます」
ボソリと挨拶を返し、いつも通りに身支度をするために部屋を出ようとして、
「いっ……」
ガッと足をベッドにぶつけた。
思わず呻いてしゃがみ込むと、男は何事かと思ったんだろう。
「どうした、白夜? ぶつけたのか?」
ベッドが! 急に! 大きくなったから!! いつもの感覚で歩いたらぶつかったんだよ!!!!
――そう怒鳴りたかったが、ぐっと飲み込んだ。
自分でも無様だと思ったし、何より余計なことを言ってこの男に眼鏡をかけていないことについて突っ込まれるのを避けたかった。
「ちょっと……ぶつけた、だけです……」
かすれる声でそれだけ言って、俺は部屋を出ようと歩き出す。
――が。
「ちょっと待て、白夜。一応見せろ」
さっさとベッドを出た男が俺の元にあっという間にやって来て跪いた。
「っ」
がしっと足首を掴まれて、その掌の熱に体が硬直する。
男は俺の爪先を確認しているのか、しばし沈黙していた。
こっちは酷く緊張していて、生きた心地がしない。
「爪剥がしたりはしてないな」
ホッとしたような声。
……心配していた、ということだろうか。
いくら何でも過保護すぎやしないか?
「……あの……」
「あぁ、大丈夫だ。気を付けろよ、白夜?」
俺の足を解放した男に「どうも」とだけ告げて、俺は自分でも分かるぐらいに顔を歪めて部屋から出た。
朝から調子が狂う。
いや、あの男が現れてから調子は狂いっ放しなんだが。
いつも通りに洗面所で顔を洗い、ちょっと伸びていた髭を剃り、歯を磨き、髪を整えて部屋に戻る。
ドアを開けると、今日はまだ男がそこにいた。正確に言うと、着替えていた。
「……っ、失礼、しました!」
思わずドアを閉めて、廊下に戻る。
――いや、まぁ、別に相手も男だし、俺がこんな風に気を遣う必要はないのかもしれないが。何と言うか、非常に気まずいだけだ。
と、中から男の声がする。
「白夜ー? 朝は忙しいんだろ、俺のことは気にしないで着替えろよ」
気にするんだよ!
言葉を飲み込む。ずっとそんな様子だから、ほどなく自分が声を荒げてしまいそうだと感じながら、そっとドアを開けて部屋に入った。
男は着替え終えており、俺と入れ替わりに部屋を出る。
「朝飯を作ってくるから、後で来いよ?」
「……」
断ったら連れ戻しに来そうだったから、わずかに頷くことで反意はないことを示した。男が薄く笑ったような気配を感じた。
パタリとドアが閉じると、ようやく息が出来た気分だった。
「はぁ……」
深いため息を吐いて、クロゼットからキャソックを出して着替える。
ルーチンが乱される不快感は積もっていくばかりだ。
寝間着を洗濯機に放り込みに行き、そのまま男と顔を合わせないように聖堂に向かった。
聖堂に入ってから、ポケットに突っ込んであった眼鏡を取り出して掛ける。
クリアになった視界。
それに引きずられるように思考を切り替える。
ちらりと主祭壇の方を見て、鬱々とした気分になる。
「……エリ、エリ、レマ……」
続きを口にしようとして止めた。
神に見捨てられた訳じゃない俺が口にしていい言葉ではない。俺が居もしない神を見限ったのだから。
いつも通りに聖堂内の清掃をして、外の清掃をして、気は進まないが手を洗ってから眼鏡を外してポケットに突っ込み、キッチンへ向かった。
「あぁ、遅かったな、白夜。もう出来てるぞ」
「……そんなに食べられません」
一応、言ってみる。
何しろ目の前には普段は食べない白米と味噌汁、卵焼きやミートボール、サラダまで置いてある。
このメニューでなんでミートボール?
そんなことも脳裏を過ったが、男が「座れ」と俺を促すので仕方なしに椅子に腰かける。
「昨日も言ったが、お前は食が細すぎる。これぐらいは食べろよ、ミートボール好きだっただろ? 食べられるよな?」
「……はぁ」
抑えきれなかったため息が零れたが、手を組んで食前の祈りを済ませて箸を手にした。
「……いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
はっきり見えないが、男が笑っているのはぼんやりと見えた。
――やっぱりだめだ、あの顔は見れない。
視線を逸らしてもそもそと食事をとり始めた。
お米食べたの、いつぶりだろう。
ふと、そんなことを思った。
今日も満腹を超えるほどの食べ物を何とか胃に収めて、食器を片付けようとするのを阻止されて、ため息を吐きながら聖堂へと戻る。
眼鏡を掛けて、主祭壇に向かい、跪いた。
――信徒が誰も来なければ、自分がすることなんてこれしかない。
日曜日にはミサがあるが、通ってくる熱心な信徒なんて片手で足りるぐらいだ。
自分なんて必要ないのではないか。
ここで祈っていることに何の意味があるんだろう。
いつもの思考がどろどろと胸を淀ませていく。
無心で祈りを捧げることなんてとうに出来なくなっていた。
ただただ、無為に時を過ごすだけの毎日。
一昨日から、そんな日々は一変したが。
かといってそれは良いことなのか、と問われても否としか言えない。
あの男――極夜と名乗った男のせいで、俺の苦痛に満ちていた正しい毎日がぶち壊された。
たった二日で、あの男は俺の日常にずかずかと侵入してきたのだ。
質素な食生活、慎ましいプライベートな時間、そういったものはあっという間に塗り替えられた。
そこにいるのが当たり前だとでも言うように、あの男は我が物顔で俺のプライベートを侵食していく。
とにかく気が休まらない。絶えず他人の目があることによって、神経が尖っているのがよく分かった。
何よりも不快なのは、あの男が身内かのように気安いことだ。
――居もしない『双子の兄』を名乗っているのだから、あの狂人にとっては俺は身内なのかもしれないが。
それにしても距離感がバグっている気がする。
躊躇なくベタベタ触られるのが特に苦痛だった。
脳裏に、あの蕩けるような赤い悪夢が再生される。
「……っ」
呼吸が一気に不安定になる。
頭の中から振り払おうとして、きつく目を閉じて何度か頭を振った。
溶け出すように赤は拡散していく。ゆるゆると心を侵すように。
「は……」
乱れた呼吸を整えて、うずくまった。
あの悪夢が何なのか、考えることを放棄して久しい。
掌に残る熱は誰のものだったのか。
迎えに来ると言ったのは誰だったのか。
答えの出ない悪夢に蝕まれるぐらいならと考えないようになっただけだ。
もう思い出せない何かを忘れてしまったように、いつかこの悪夢も忘れる、そう思っていたのに。
「――迎えに来た、なんて言うから」
ポツリと呟いて、うずくまったまま拳を固める。
ダン、と一度だけ、床に拳を叩きつけた。
痛みは、胸に残ったものの方が強かった。
***
聖堂へと続くドアに背を預けて、黙っていた。
「――迎えに来た、なんて言うから」
弟の引き攣れるような苦痛に満ちた声が微かに聞こえる。
――忘れてしまったことが、ある種の罪悪感となって弟を苦しめているのだろうか。
そんなことを考えるが、そんな生易しいものではないのだろう。
居たはずの存在が消えてしまう、なんていうことは。
鈍い音が耳に届き、何かを殴ったのだろうということは察せられた。
まだ二日。弟は混乱から立ち上がれてすらいないようだ。
それでもだ、兵は拙速を貴ぶとも言う。
今朝の様子からは、俺に対する諦めのようなものが見えた。
つまり、俺が居るということに対する諦めだ。
受け入れるための助走、そう考えることもできる。
ただ、ここで速度を誤るわけにはいかない。
なので……ちょっと作戦を変えてみる。
飛び道具と行こうか。
音を立てないようにその場を離れると、聖堂からは離れているキッチンへと向かった。
取り出したのはスマートフォン。こっちに帰ってきたときに渡されたがなんだか分からなかったから、神に概要を教えろと要求したら、要は電話だという。
まぁ、既に慣れたので問題はない。
登録してある番号を呼び出して、電話を掛ける。
何度かのコール音の後で相手が出た。
――もしもし、という落ち着いた女の声に、口端が吊り上がるのが自分でも分かった。
「あぁ、母さん。俺、極夜だけど」
電話の向こうから「あら、どうしたの?」という言葉が聞こえたことで、俺の第一目的は達成できそうだと理解した。
いつもの起床の時間だ。
習慣になっているので、アラームなど必要ない。
「……」
ちらりと傍らを見ると、あの男がすうすうと寝息を立てている。
余計なことをして、と昨夜は苛立ったが、あの狭いシングルベッドで抱きしめられて寝ないで済むようになったのは……助かったと言えなくもない。
少なくとも、体を離して横になれたこともあって二日目の徹夜は避けられたし、ベッドを勝手に買い換えられたことについては不問にしてもよさそうだ。
起こすと面倒なことになりそうだ、と判断して男から目を逸らし、そっとベッドを下りたんだが。
「ん……あぁ、おはよう、白夜」
クソ、失敗した。
ぼやけた視界で男が身じろいだのが分かった。
「……おはよう、ございます」
ボソリと挨拶を返し、いつも通りに身支度をするために部屋を出ようとして、
「いっ……」
ガッと足をベッドにぶつけた。
思わず呻いてしゃがみ込むと、男は何事かと思ったんだろう。
「どうした、白夜? ぶつけたのか?」
ベッドが! 急に! 大きくなったから!! いつもの感覚で歩いたらぶつかったんだよ!!!!
――そう怒鳴りたかったが、ぐっと飲み込んだ。
自分でも無様だと思ったし、何より余計なことを言ってこの男に眼鏡をかけていないことについて突っ込まれるのを避けたかった。
「ちょっと……ぶつけた、だけです……」
かすれる声でそれだけ言って、俺は部屋を出ようと歩き出す。
――が。
「ちょっと待て、白夜。一応見せろ」
さっさとベッドを出た男が俺の元にあっという間にやって来て跪いた。
「っ」
がしっと足首を掴まれて、その掌の熱に体が硬直する。
男は俺の爪先を確認しているのか、しばし沈黙していた。
こっちは酷く緊張していて、生きた心地がしない。
「爪剥がしたりはしてないな」
ホッとしたような声。
……心配していた、ということだろうか。
いくら何でも過保護すぎやしないか?
「……あの……」
「あぁ、大丈夫だ。気を付けろよ、白夜?」
俺の足を解放した男に「どうも」とだけ告げて、俺は自分でも分かるぐらいに顔を歪めて部屋から出た。
朝から調子が狂う。
いや、あの男が現れてから調子は狂いっ放しなんだが。
いつも通りに洗面所で顔を洗い、ちょっと伸びていた髭を剃り、歯を磨き、髪を整えて部屋に戻る。
ドアを開けると、今日はまだ男がそこにいた。正確に言うと、着替えていた。
「……っ、失礼、しました!」
思わずドアを閉めて、廊下に戻る。
――いや、まぁ、別に相手も男だし、俺がこんな風に気を遣う必要はないのかもしれないが。何と言うか、非常に気まずいだけだ。
と、中から男の声がする。
「白夜ー? 朝は忙しいんだろ、俺のことは気にしないで着替えろよ」
気にするんだよ!
言葉を飲み込む。ずっとそんな様子だから、ほどなく自分が声を荒げてしまいそうだと感じながら、そっとドアを開けて部屋に入った。
男は着替え終えており、俺と入れ替わりに部屋を出る。
「朝飯を作ってくるから、後で来いよ?」
「……」
断ったら連れ戻しに来そうだったから、わずかに頷くことで反意はないことを示した。男が薄く笑ったような気配を感じた。
パタリとドアが閉じると、ようやく息が出来た気分だった。
「はぁ……」
深いため息を吐いて、クロゼットからキャソックを出して着替える。
ルーチンが乱される不快感は積もっていくばかりだ。
寝間着を洗濯機に放り込みに行き、そのまま男と顔を合わせないように聖堂に向かった。
聖堂に入ってから、ポケットに突っ込んであった眼鏡を取り出して掛ける。
クリアになった視界。
それに引きずられるように思考を切り替える。
ちらりと主祭壇の方を見て、鬱々とした気分になる。
「……エリ、エリ、レマ……」
続きを口にしようとして止めた。
神に見捨てられた訳じゃない俺が口にしていい言葉ではない。俺が居もしない神を見限ったのだから。
いつも通りに聖堂内の清掃をして、外の清掃をして、気は進まないが手を洗ってから眼鏡を外してポケットに突っ込み、キッチンへ向かった。
「あぁ、遅かったな、白夜。もう出来てるぞ」
「……そんなに食べられません」
一応、言ってみる。
何しろ目の前には普段は食べない白米と味噌汁、卵焼きやミートボール、サラダまで置いてある。
このメニューでなんでミートボール?
そんなことも脳裏を過ったが、男が「座れ」と俺を促すので仕方なしに椅子に腰かける。
「昨日も言ったが、お前は食が細すぎる。これぐらいは食べろよ、ミートボール好きだっただろ? 食べられるよな?」
「……はぁ」
抑えきれなかったため息が零れたが、手を組んで食前の祈りを済ませて箸を手にした。
「……いただきます」
「どうぞ、召し上がれ」
はっきり見えないが、男が笑っているのはぼんやりと見えた。
――やっぱりだめだ、あの顔は見れない。
視線を逸らしてもそもそと食事をとり始めた。
お米食べたの、いつぶりだろう。
ふと、そんなことを思った。
今日も満腹を超えるほどの食べ物を何とか胃に収めて、食器を片付けようとするのを阻止されて、ため息を吐きながら聖堂へと戻る。
眼鏡を掛けて、主祭壇に向かい、跪いた。
――信徒が誰も来なければ、自分がすることなんてこれしかない。
日曜日にはミサがあるが、通ってくる熱心な信徒なんて片手で足りるぐらいだ。
自分なんて必要ないのではないか。
ここで祈っていることに何の意味があるんだろう。
いつもの思考がどろどろと胸を淀ませていく。
無心で祈りを捧げることなんてとうに出来なくなっていた。
ただただ、無為に時を過ごすだけの毎日。
一昨日から、そんな日々は一変したが。
かといってそれは良いことなのか、と問われても否としか言えない。
あの男――極夜と名乗った男のせいで、俺の苦痛に満ちていた正しい毎日がぶち壊された。
たった二日で、あの男は俺の日常にずかずかと侵入してきたのだ。
質素な食生活、慎ましいプライベートな時間、そういったものはあっという間に塗り替えられた。
そこにいるのが当たり前だとでも言うように、あの男は我が物顔で俺のプライベートを侵食していく。
とにかく気が休まらない。絶えず他人の目があることによって、神経が尖っているのがよく分かった。
何よりも不快なのは、あの男が身内かのように気安いことだ。
――居もしない『双子の兄』を名乗っているのだから、あの狂人にとっては俺は身内なのかもしれないが。
それにしても距離感がバグっている気がする。
躊躇なくベタベタ触られるのが特に苦痛だった。
脳裏に、あの蕩けるような赤い悪夢が再生される。
「……っ」
呼吸が一気に不安定になる。
頭の中から振り払おうとして、きつく目を閉じて何度か頭を振った。
溶け出すように赤は拡散していく。ゆるゆると心を侵すように。
「は……」
乱れた呼吸を整えて、うずくまった。
あの悪夢が何なのか、考えることを放棄して久しい。
掌に残る熱は誰のものだったのか。
迎えに来ると言ったのは誰だったのか。
答えの出ない悪夢に蝕まれるぐらいならと考えないようになっただけだ。
もう思い出せない何かを忘れてしまったように、いつかこの悪夢も忘れる、そう思っていたのに。
「――迎えに来た、なんて言うから」
ポツリと呟いて、うずくまったまま拳を固める。
ダン、と一度だけ、床に拳を叩きつけた。
痛みは、胸に残ったものの方が強かった。
***
聖堂へと続くドアに背を預けて、黙っていた。
「――迎えに来た、なんて言うから」
弟の引き攣れるような苦痛に満ちた声が微かに聞こえる。
――忘れてしまったことが、ある種の罪悪感となって弟を苦しめているのだろうか。
そんなことを考えるが、そんな生易しいものではないのだろう。
居たはずの存在が消えてしまう、なんていうことは。
鈍い音が耳に届き、何かを殴ったのだろうということは察せられた。
まだ二日。弟は混乱から立ち上がれてすらいないようだ。
それでもだ、兵は拙速を貴ぶとも言う。
今朝の様子からは、俺に対する諦めのようなものが見えた。
つまり、俺が居るということに対する諦めだ。
受け入れるための助走、そう考えることもできる。
ただ、ここで速度を誤るわけにはいかない。
なので……ちょっと作戦を変えてみる。
飛び道具と行こうか。
音を立てないようにその場を離れると、聖堂からは離れているキッチンへと向かった。
取り出したのはスマートフォン。こっちに帰ってきたときに渡されたがなんだか分からなかったから、神に概要を教えろと要求したら、要は電話だという。
まぁ、既に慣れたので問題はない。
登録してある番号を呼び出して、電話を掛ける。
何度かのコール音の後で相手が出た。
――もしもし、という落ち着いた女の声に、口端が吊り上がるのが自分でも分かった。
「あぁ、母さん。俺、極夜だけど」
電話の向こうから「あら、どうしたの?」という言葉が聞こえたことで、俺の第一目的は達成できそうだと理解した。
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