後宮の才筆女官 

たちばな立花

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06 後宮の夜は深く

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 新しい書は瞬く間に市井で広まった。新しい寵妃の懐妊。それは民にとってもよい話だ。皇子が生まれれば、祝いにその年の税金が半分になることがある。寵妃の子となれば、二ヶ月も毎日愛された寵妃ともなれば、格別の祝いとなるだろう。

 その書はすぐに後宮の中でも広まった。その書が事実であるかのように、満月の晩を境に皇帝は紅妃の呼び出しを辞めている。そして、紅妃は皇帝の許可を得て、全ての行事の不参加が許された。

 全ての行事――あの意味のわからない朝の挨拶もその内の一つだ。

 蘇芳殿には数名の妃たちが訪問した。あの涙黒子の妃や鈴妃。他にも何人か。彼女たちの探るような言葉を紅花は全て躱した。躱しながらも、意味深な言葉を残し、妊娠が事実であるかのように振る舞った。

 食事に気をつけ、時折腹の辺りを気遣うフリをした。

 うまい飯を食べていたせいか、少しふっくらしたお陰で真実味が増したように思う。


 月が薄っぺらくなった日。その日は妙に木々がざわめいていた。

 紅花の侍女はわずか二人。人見知りだとか理由をつけて人数を減らしたのにはわけがある。――隙を見せるためだ。

 その内の一人に手紙を持たせ、皇帝に渡すように命じる。残りの一人は落とし物を捜すように命じ、蘇芳殿から追い出した。

 蝋燭の火が揺れる。静かなようで騒がしい。そんな夜だ。風が部屋の扉を叩きつける。廃妃の祟り。そんなものを信じてはいない。

 もし、怨霊の類いであれば、紅花の盛大な嘘に気づいているはずだからだ。

 紅花を祟る必要がどこにある。皇帝からも寵愛も腹の中の子も全てが作り話だというのに。

 トントントンと扉が叩かれた。風の仕業にしては丁寧な音だ。紅花はゆっくりと扉を開ける。強い風と共に、女が一人部屋に入って来た。

「鈴妃。びっくりしたわ。こんな時間にどうしたの?」

 紅花は心底驚いた顔をして鈴妃を見た。

「心配になって。ここは人が少ないでしょう? 最初の被害者が出た日もこんな日だったわ」

 鈴妃は紅花の手を取って瞳を潤ませた。

「鈴妃だって怖い思いをしたのに……」
「私はもう何も失うものはないわ。子どもだっていないし、今は新しい命が大切よ。二人でいれば廃妃の祟りだって怖くないわ」

 鈴妃の真剣な目に紅花は苦笑を返す。祟りなどない。そう言っても彼女は納得しないだろう。

「陛下もひどいわね。あんなに寵愛していたのに、全然人を手配してくれないなんて……」

 鈴妃は深くため息を吐いた。人の気配のしない宮殿はやけに静かで、風が扉を叩く音ばかりが響く。

「私が人見知りだから気を遣ってくれているのよ」
「そうは言っても外に下女を配置するとか色々とできたはずよ。私が陛下にお願いしてあげる。そうしたら明日から安心して眠れるはずよ」
「ありがとう。そんなに気遣ってくれて嬉しいわ」

 紅花は淑やかに笑う。歯を見せて笑うのは妃らしくないと雲嵐に言われて以来、気をつけていることだ。歯を見せて笑うと口紅が歯に付いてしまうのも、理由の一つではある。

「今、みんな出払っていて人がいないの。お茶を入れるわ」

 茶器に手を掛けると、鈴妃が紅花の手の上に手を添えた。

「私がやるわ。これでもお茶を入れるのは得意なの」
「そう? じゃあお願い。好きな茶葉を使って。たくさんいただいたけれど、茶葉は詳しくないの」

 お茶など喉を潤すことができれば十分ではないか。鈴妃は茶葉を選びながら感嘆の声を上げた。

「どれも最高級なものばかりね」
「そうなの?」
「そうよ。陛下の愛を感じるわ」
「お茶なんてどれも同じでしょ? 愛だなんてそんな」
「何言っているのよ。口に入れるもの、着る物。全てから陛下の愛がわかるものばかりよ?」

 それはそうだ。見ただけで寵愛されているとわかるような物を揃えてもらっている。お茶にまで寵愛を示しているとは知らなかった。

 適当に飲んでいたけれど、実は貴重なものもあるのではないだろうか。そうであれば、少しは味わって飲んでいたほうがよかったと後悔する。

 鈴妃は入れたばかりのお茶を紅花に差し出すと、きょろきょろと辺りを見回した。

「本当に誰もいないの?」
「ええ、昼間に落とし物をしてしまって。大切な物だから探してもらっているの」

 紅花は茶器に口をつける。鈴妃は微笑んだ。

「夜だと探すのに手間取るかもしれないわね」
「そうね。鈴妃が来ると知っていれば一人は残しておいたのに」
「いいのよ。二人で話せるのは嬉しいわ」

 鈴妃はいつも紅花に優しい。皇后や他の妃から嫌味を言われたあとにはそっと駆け寄り、支えてくれた。

「いつも助けてあげられなくてごめんなさいね。私にもっと力があればよかったのだけれど……」

 鈴妃は茶器を持つと大きなため息を吐き出す。彼女は紅花を気遣いはするが、表立って盾になることはなかった。それだけの権力は彼女にはない。

 後宮内での権力は身分の他に皇帝の寵愛と、子どもの有無が関係してくる。鈴妃は三度子どもを流しているそうだ。

 紅花は鈴妃の手を握って満面の笑みを浮かべた。

「私が力をつけて鈴妃のことを守るわ」
「新米の妃が力を持つなんて……」
「私には味方がいるもの」

 紅花は笑みを深めて腹を撫でる。まだ膨れてはいない。いや、そもそも子など宿してはいないのだが。

「噂は本当だったの?」
「噂になっているの? 陛下にも宮廷医にも口止めしていたのに……」
「毎日呼ばれていればいずれはと思ったけど、本当だったのね。紅妃は運がいいわ」
「ありがとう。陛下はきっと皇子だって言っていたわ」
「そう……。本当におめでとう」

 鈴妃は笑みを浮かべた。浮かない顔をしている。しかし、他の妃の懐妊を喜べるほど余裕はないのはみんな同じだ。

「なんだか……」

紅花は頭を押さえた。鈴妃の口角が上がる。

「眠いんじゃない?」
「……あ、そうかも」
「疲れているのよ。ゆっくり休んで」

 鈴妃が言い終えるよりも早く、紅花は力なくその場に横たわった。

「本当にどこもかしこも豪華ね。……だから、廃妃が嫉妬してもおかしくないのよ……」

 鈴妃の声が夜の闇に溶ける。
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