上 下
36 / 53

聖女の涙

しおりを挟む
 リリアナの頬を伝った涙はぽたり、ぽたりと床を濡らす。エリオットの言葉は、リリアナの胸に、いや、聖女の胸に深く突き刺さった。

 魔女として殺される運命を義姉に与えたのは聖女だ。たとえ、そのとき死んでいたとしても、その責任は聖女にある。

(私が、何も警戒せずに義姉様と王宮で会ったから……。私の周りが落ち着くまで、会わなければ……)

 エリオットはこの年まで両親の温かい愛情に囲まれ幸せに暮らせていただろう。妹のことも嫌いにならずに済んだはずだ。

(全部、私のせいだ)

 涙が止めどなく溢れた。泣いても解決できることなど何もない。それは、聖女として一人で戦ってきたころにわかった。

 泣いても両親は戻っては来ない。涙では、自分の力不足を知ることしかできないのだ。苦しいのはエリオットだ。泣きたいのは彼のはずなのに、リリアナの目から涙が零れて止まらない。

「ごめんなさ……。私のせいで……」

 どうにか言葉を出すと、リリアナはくしゃりと顔を歪ませた。謝ってもエリオットの世界が元に戻るわけではない。それでも、謝らずにはいられなかった。

「家族なのに……。家族なのに助けられなくてごめんなさ……」

 聖女にとって、甥であるエリオットも家族だ。つらいときに助けられなかった。義姉を守ることができなかった。沢山謝らなくてはいけないのに、言葉が出ない。

「おにい……」

 エリオットに声をかけようとして、リリアナは口を噤む。

(エリオットから全部を奪った私が、また家族になりたいなんて願うほうが間違ってたんだ)

 兄と呼ばれることすら嫌がった。彼は本能でリリアナの中にいる聖女を感じ取っているのかもしれない。

 リリアナはスカートをぎゅっと握りしめた。袖で涙を拭う。そして、一度は置いたパンケーキを手に部屋を出る。

 そのあいだ、エリオットは何も言わなかった。ただ、リリアナから顔を背け、壁ばかりを見つめていた。きっと、姿を見ることすらしたくないのだ。

 リリアナは部屋を出ると、もう一度小さく扉に向かって言った。

「ごめんなさい……」

(もう、何も奪わないから)

 ぽたり、と涙がパンケーキを濡らす。

 エリオットの部屋から出て来たリリアナの顔は、泣いたせいでボロボロだった。慌てた侍女がパンケーキを手から奪い、リリアナの涙を拭う。そのまま部屋へと連れてきてもらわなかったら、その場で泣きじゃくっていただろう。

 ベッドで泣き続けるリリアナの目に、ロフが水で濡らしたタオルを当てた。

「ありがとう」
「いえ、目が腫れてしまうと心配ですから」
「おにい……。エリオットはあと何日で寮に帰れるの?」
「そうですね……。三日程度でしょうか」
「じゃあ、エリオットが帰るまでは、この部屋から出ない」
「かしこまりました」

 ロフは何も聞かない。全てを理解していると言うように、笑みを浮かべたまま、頭を下げた。

「どうしてか聞かないの?」
「あなたを泣かせるような男に、構う必要などありません」

 そうでしょう? と首を傾げ、ロフは笑みを深めた。彼は時折そんな顔をする。リリアナ以外どうでもいいというような顔だ。

 リリアナは頭を横に振った。

「エリオットは何も悪くない。悪いのは私。家族なのに、何もできなかった私のせい」

 前世、聖女は十年間、世界の平和のために奔走した。世界中を廻り『穢れ』を癒やし、たった一人で魔王と戦った。

 両親を助けられなかったのは、聖女としての役割を全うし、家族の側にいられなかったからだ。家族を優先していたら、両親は今もまだこの屋敷で笑っていただろうか。

(私がエリオットを苦しめたんだ)

 リリアナは小さな拳を握った。

「私、もっと強くなるわ」
「強く、ですか」
「ええ、心も体も能力も。これ以上、誰からも大切な人たちを奪わせない!」

 濡れたタオルを放り投げると、ベッドの上に立ち上がる。

「お父様もエリオットも、私が全部守るわ」
「おや、もうエリオット様とは会わないのでは?」
「会わない。でも、会わなくても守ることはできるもの」
「なるほど」
「エリオットにとっては家族じゃなくても、私にとっては家族よ。だから、守る」

 この世界に神がいるのならば、無情だ。たった一人の少女に聖女としての力を与え、戦えというのだから。

 前世は世界のために全てを犠牲にした。世界は平和になったけれど、家族の命も、そして自分の命さえも失ったのだ。

 今世は家族のために生きる。そう、決めた。そのくらいの権利はあるだろう。神が存在するのならば、そのために前世の記憶を残し、わざわざルーカスとエリオットの元に使わしたに違いない。

 ロフは変わらぬ笑みで、リリアナの演説を聞いていた。

(思えば、ロフがまき散らした『穢れ』のせいで私の人生はめちゃめちゃになったんじゃない)

 前世のことに文句を言っても仕方ないが、ロフの『穢れ』がなければ、リリアナは今ごろ、兄夫婦の娘、リリアナと楽しく遊んでいたかもしれないのだ。

 リリアナはビシッとロフを指さす。

「それもこれも、あなたにも責任の一端はあるんだからね! 最後まで付き合ってもらうわよ?」
「私は一生、リリアナお嬢様のお側におりますよ」

 なぜ、ロフがリリアナの側にいるのかはいまだわからない。しかし、世界は平和で、魔王は手のうちにいる。

 元々、難しいことは考えない主義だ。

(たくさんこき使ってやるんだから)

 リリアナは硬く誓った。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

転生墓守は伝説騎士団の後継者

深田くれと
ファンタジー
 歴代最高の墓守のロアが圧倒的な力で無双する物語。

そろそろ前世は忘れませんか。旦那様?

氷雨そら
恋愛
 結婚式で私のベールをめくった瞬間、旦那様は固まった。たぶん、旦那様は記憶を取り戻してしまったのだ。前世の私の名前を呼んでしまったのがその証拠。  そしておそらく旦那様は理解した。  私が前世にこっぴどく裏切った旦那様の幼馴染だってこと。  ――――でも、それだって理由はある。  前世、旦那様は15歳のあの日、魔力の才能を開花した。そして私が開花したのは、相手の魔力を奪う魔眼だった。  しかも、その魔眼を今世まで持ち越しで受け継いでしまっている。 「どれだけ俺を弄んだら気が済むの」とか「悪い女」という癖に、旦那様は私を離してくれない。  そして二人で眠った次の朝から、なぜかかつての幼馴染のように、冷酷だった旦那様は豹変した。私を溺愛する人間へと。  お願い旦那様。もう前世のことは忘れてください!  かつての幼馴染は、今度こそ絶対幸せになる。そんな幼馴染推しによる幼馴染推しのための物語。  小説家になろうにも掲載しています。

妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢

岡暁舟
恋愛
妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢マリアは、それでも婚約者を憎むことはなかった。なぜか? 「すまない、マリア。ソフィアを正式な妻として迎え入れることにしたんだ」 「どうぞどうぞ。私は何も気にしませんから……」 マリアは妹のソフィアを祝福した。だが当然、不気味な未来の陰が少しずつ歩み寄っていた。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

システムバグで輪廻の輪から外れましたが、便利グッズ詰め合わせ付きで他の星に転生しました。

大国 鹿児
ファンタジー
輪廻転生のシステムのバグで輪廻の輪から外れちゃった! でも神様から便利なチートグッズ(笑)の詰め合わせをもらって、 他の星に転生しました!特に使命も無いなら自由気ままに生きてみよう! 主人公はチート無双するのか!? それともハーレムか!? はたまた、壮大なファンタジーが始まるのか!? いえ、実は単なる趣味全開の主人公です。 色々な秘密がだんだん明らかになりますので、ゆっくりとお楽しみください。 *** 作品について *** この作品は、真面目なチート物ではありません。 コメディーやギャグ要素やネタの多い作品となっております 重厚な世界観や派手な戦闘描写、ざまあ展開などをお求めの方は、 この作品をスルーして下さい。 *カクヨム様,小説家になろう様でも、別PNで先行して投稿しております。

絶対に間違えないから

mahiro
恋愛
あれは事故だった。 けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。 だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。 何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。 どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。 私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。

【完結】聖女にはなりません。平凡に生きます!

暮田呉子
ファンタジー
この世界で、ただ平凡に、自由に、人生を謳歌したい! 政略結婚から三年──。夫に見向きもされず、屋敷の中で虐げられてきたマリアーナは夫の子を身籠ったという女性に水を掛けられて前世を思い出す。そうだ、前世は慎ましくも充実した人生を送った。それなら現世も平凡で幸せな人生を送ろう、と強く決意するのだった。

処理中です...