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ロフの見る父娘
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時計が深夜を示すころ、グランツ邸の門が開く。漆黒の二頭の馬が引く真っ黒な馬車は、闇よりも深い。
使用人は真夜中に玄関の前へと並んだ。グランツ邸の主人を出迎えるためだ。
彼はいつもこの深く暗い時間に帰ってくる。
馬車の扉が開かれると、人形よりも正気がなく美しい男が現れた。使用人たちの体が一気に強張る。張り詰めた空気の緊張が増す。ロフはその重い雰囲気を冷ややかな気持ちで眺めていた。
数日に一度訪れるリリアナの父親。彼女が執着しているものの一つだ。彼女に深い愛情を向けられているのにもかかわらず、見ないふりをしている。
馬車から降りてきたルーカス・グランツは、ほとんど人形のようであった。目は虚構を見つめ、使用人の誰とも合わない。中身をどこかに忘れてきてしまったような、危うさがある。
彼が何もしない人形であったならば、同情こそすれ誰も怖がることもなかっただろう。しかし、この五年間、聖公爵としての仕事は完璧で文句を言う者はいなかったし、潤沢にある資金で始めた事業も全て順調だった。
五年前と違うことといえば、彼の判断に情の部分が消えたことだ、と昔から彼を知る料理長のオッターが言っていた。ロフはこの暇な時間に先日の話を思い出す。それが冷酷、冷淡と言われるゆえんだと語るオッターの目は、パンケーキを焼くときよりも真剣だった。
この屋敷で失言は許されない。一言でも間違いを犯せば、先人たちのようにすぐさま暇を言い渡されるだろう。「気づけばみんな、やめちまった」と彼が小さなくため息をついていた。
使用人が無言で腰を折り、主人を迎える。何も言わずにルーカスが横切るのは常であった。
隣の女が小さく息を吐き出す。張り詰めていた空気がほんの少し和らいだ瞬間だ。
ルーカスは何も言わない。しかし、迷うことなく真っ直ぐ歩く。その後ろを追いかけるのはリリアナの世話をしている侍女だ。音を立てないように気をつけながらルーカスを必死に追う侍女の後ろを、ロフはゆっくり追いかけた。
ルーカスは部屋の扉の前で立ち止まった。どうにか遅れずについて行っていた侍女が、一つ息を整えて、深夜に似つかわしい小さな声を出す。
「本日も健やかに眠られておいでです。最近は文字の勉強に興味がおありのようです」
ルーカスは侍女の顔を一度も見なかった。しかし、侍女の言葉をしっかりと耳にいれた彼は、ゆっくりと扉を開く。
彼が部屋に入っていくと侍女がゆっくりと、長いため息を吐き出した。
「はぁ……。緊張しました」
ロフに話しかけるような声だった。ロフは小さく頷いて見せる。
「練習の甲斐あって上手に言えておりましたよ」
「ありがとうございます。旦那様を前にするといつも言葉が詰まってしまって……。ロフ様の助言で乗り切ることができました」
先日、侍女に相談された。侍女はリリアナを世話する仲間だと思っているのだろう。何気ない気持ちで「練習しておけばよろしいのでは」と言ったことを、本当に実践していたようだ。
ロフは穏やかに頷いた。
リリアナ以外に興味はないが、侍女もまたリリアナを構成する一つだと思う。リリアナが必要なもの、大切なものは大切にしなければならない。
たとえ、それがリリアナに冷たい彼女の父親であってもだ。まだ何か言いたそうな侍女を制し、ロフは扉の向こうに意識を集中させた。
リリアナが絶対に起きていない時間を狙って、ルーカスは帰ってくる。そのくせ、リリアナの寝顔を真っ先に見に行くのだ。
ルーカスは暗闇の中、靴にまとわりつく何かに気づき、足を止めた。
拾い上げたそれは、紙だ。彼は侍女の言葉を頭の中で反芻したに違いない。「文字の勉強に興味がおありで」という言葉だ。
うっすらと入る月明かりにその紙を照らす。
そこには、リリアナの左手で書かれた文字が並んでいることだろう。「お父様と本が読みたい」「お父様とご飯が食べたい」「お父様と一緒にお庭の花を見たい」「一人は寂しい」。
ここ数日、リリアナはルーカスの心を掴む手紙の内容に悩んでいた。家にあったレターセットを全部使い切り、侍女が叫び声を上げたのは昨日の昼のこと。質の悪い紙を用意され、本番をレターセットに書こうという提案に、リリアナは頷いた。
ルーカスは手紙を読み終えると、ほんの僅かに眉根を寄せた。ロフは目を見開く。リリアナの押しかけ専属執事になってから数度見たルーカスが顔の筋肉を使うところなど見たことがなかったからだ。
「今ごろ、旦那様はお嬢様の寝顔を眺めておいでかしら」
侍女がそんな言葉を呟いた。
人間は不便だ。扉一枚向こう側が全く見ることができない。ロフは意識を集中させれば、この屋敷のことなら全て手に取るように分かる。力が全開だったときならば、王都、いや、この国の中の出来事ならば何でも知り得ただろう。
力の半分を聖女がそぎ落とした。ゆえにロフはこの屋敷のことくらいしか分からない。しかし、今はそれで十分だった。リリアナは屋敷から出ることはないのだから。
ルーカスが何枚もの書き損じた手紙を読み、リリアナの寝顔を見下ろす。その間、たったの十分である。ルーカスはリリアナの部屋を出るなり、侍女に向かって言った。
「明日の朝食は食堂で。二人分だ」
使用人は真夜中に玄関の前へと並んだ。グランツ邸の主人を出迎えるためだ。
彼はいつもこの深く暗い時間に帰ってくる。
馬車の扉が開かれると、人形よりも正気がなく美しい男が現れた。使用人たちの体が一気に強張る。張り詰めた空気の緊張が増す。ロフはその重い雰囲気を冷ややかな気持ちで眺めていた。
数日に一度訪れるリリアナの父親。彼女が執着しているものの一つだ。彼女に深い愛情を向けられているのにもかかわらず、見ないふりをしている。
馬車から降りてきたルーカス・グランツは、ほとんど人形のようであった。目は虚構を見つめ、使用人の誰とも合わない。中身をどこかに忘れてきてしまったような、危うさがある。
彼が何もしない人形であったならば、同情こそすれ誰も怖がることもなかっただろう。しかし、この五年間、聖公爵としての仕事は完璧で文句を言う者はいなかったし、潤沢にある資金で始めた事業も全て順調だった。
五年前と違うことといえば、彼の判断に情の部分が消えたことだ、と昔から彼を知る料理長のオッターが言っていた。ロフはこの暇な時間に先日の話を思い出す。それが冷酷、冷淡と言われるゆえんだと語るオッターの目は、パンケーキを焼くときよりも真剣だった。
この屋敷で失言は許されない。一言でも間違いを犯せば、先人たちのようにすぐさま暇を言い渡されるだろう。「気づけばみんな、やめちまった」と彼が小さなくため息をついていた。
使用人が無言で腰を折り、主人を迎える。何も言わずにルーカスが横切るのは常であった。
隣の女が小さく息を吐き出す。張り詰めていた空気がほんの少し和らいだ瞬間だ。
ルーカスは何も言わない。しかし、迷うことなく真っ直ぐ歩く。その後ろを追いかけるのはリリアナの世話をしている侍女だ。音を立てないように気をつけながらルーカスを必死に追う侍女の後ろを、ロフはゆっくり追いかけた。
ルーカスは部屋の扉の前で立ち止まった。どうにか遅れずについて行っていた侍女が、一つ息を整えて、深夜に似つかわしい小さな声を出す。
「本日も健やかに眠られておいでです。最近は文字の勉強に興味がおありのようです」
ルーカスは侍女の顔を一度も見なかった。しかし、侍女の言葉をしっかりと耳にいれた彼は、ゆっくりと扉を開く。
彼が部屋に入っていくと侍女がゆっくりと、長いため息を吐き出した。
「はぁ……。緊張しました」
ロフに話しかけるような声だった。ロフは小さく頷いて見せる。
「練習の甲斐あって上手に言えておりましたよ」
「ありがとうございます。旦那様を前にするといつも言葉が詰まってしまって……。ロフ様の助言で乗り切ることができました」
先日、侍女に相談された。侍女はリリアナを世話する仲間だと思っているのだろう。何気ない気持ちで「練習しておけばよろしいのでは」と言ったことを、本当に実践していたようだ。
ロフは穏やかに頷いた。
リリアナ以外に興味はないが、侍女もまたリリアナを構成する一つだと思う。リリアナが必要なもの、大切なものは大切にしなければならない。
たとえ、それがリリアナに冷たい彼女の父親であってもだ。まだ何か言いたそうな侍女を制し、ロフは扉の向こうに意識を集中させた。
リリアナが絶対に起きていない時間を狙って、ルーカスは帰ってくる。そのくせ、リリアナの寝顔を真っ先に見に行くのだ。
ルーカスは暗闇の中、靴にまとわりつく何かに気づき、足を止めた。
拾い上げたそれは、紙だ。彼は侍女の言葉を頭の中で反芻したに違いない。「文字の勉強に興味がおありで」という言葉だ。
うっすらと入る月明かりにその紙を照らす。
そこには、リリアナの左手で書かれた文字が並んでいることだろう。「お父様と本が読みたい」「お父様とご飯が食べたい」「お父様と一緒にお庭の花を見たい」「一人は寂しい」。
ここ数日、リリアナはルーカスの心を掴む手紙の内容に悩んでいた。家にあったレターセットを全部使い切り、侍女が叫び声を上げたのは昨日の昼のこと。質の悪い紙を用意され、本番をレターセットに書こうという提案に、リリアナは頷いた。
ルーカスは手紙を読み終えると、ほんの僅かに眉根を寄せた。ロフは目を見開く。リリアナの押しかけ専属執事になってから数度見たルーカスが顔の筋肉を使うところなど見たことがなかったからだ。
「今ごろ、旦那様はお嬢様の寝顔を眺めておいでかしら」
侍女がそんな言葉を呟いた。
人間は不便だ。扉一枚向こう側が全く見ることができない。ロフは意識を集中させれば、この屋敷のことなら全て手に取るように分かる。力が全開だったときならば、王都、いや、この国の中の出来事ならば何でも知り得ただろう。
力の半分を聖女がそぎ落とした。ゆえにロフはこの屋敷のことくらいしか分からない。しかし、今はそれで十分だった。リリアナは屋敷から出ることはないのだから。
ルーカスが何枚もの書き損じた手紙を読み、リリアナの寝顔を見下ろす。その間、たったの十分である。ルーカスはリリアナの部屋を出るなり、侍女に向かって言った。
「明日の朝食は食堂で。二人分だ」
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