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聖女

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 魔王がこの世から消えて半年。

 世界は平和になったのだと、誰もが言った。

 ようやく、聖女からただの女に戻るときが来たのだと、安堵のため息が零れる。

 聖女は大きな両開きの窓を強く押し開いた。風が舞込み、聖女の癖のある長い髪を揺らす。肩に乗った白イタチのミミックの尾が髪に合わせて揺れる。

 目を細めた。王都を一望できるこの部屋は、役目を終えた“聖女”には不相応のものだ。

 王宮の一室。王族の住居空間よりは下層であったが、宰相へ与えられた部屋よりは広く見晴らしもいい。数年前まで一貴族の令嬢だった聖女にとって、最も慣れない場所だ。しかし、ここから見える街並みは整然としていて、多くの人が行き交う姿が見れる。本当に平和になったのだと感じられる景色は、嫌いではなかった。

 コンコンコンと、三度扉が叩かれた。短い返事をすれば、扉が開かれる。扉の奥に立っていたのは、王宮に使える侍女の一人だ。初めて王宮に遣わされたときから聖女の世話をしてくれていた女だった。

 彼女が真っ直ぐに伸びた背中を四十五度曲げると、奥から見慣れた顔が見える。

「義姉様、いらっしゃい」

 侍女の「お客様をお連れ致しました」という言葉を上書きするように声を上げ、侍女の奥に立つ兄の妻である義姉の元へと駆け寄り、姉の手を握った。

 義姉はそんな聖女にただ微笑みを返した。

 聖女は部屋の中に入り、お茶の準備をしようとする侍女を追い出し、扉を閉める。義姉は下がり気味の眉を更に下げて扉を見つめた。

「よかったのかしら?」
「いいのよ。あれはただの監視。いると疲れちゃうもの」

 世話と称し聖女の動向を監視し、王族に伝える。それが侍女の役割だ。

 聖女は肩を竦め、グラスにジュースを二人分注ぐ。最近王都で流行っているフルーツジュースだ。数種類の果物の果汁と果肉を混ぜ合わせて作ったもので、その日の果物によって味が変わる。

 今まででは考えられないほど贅沢な飲み物ではあったが、自由に果物を売り買いできるほどまでに平和になったのだという証明でもあった。

 そんな、平和の象徴のようなフルーツジュースが好きで、聖女は時折取り寄せてもらうのだ。今日は義姉が来ると知っていたから、朝から冷やしてもらっていた。

 悪阻がひどく、随分と痩せてしまった義姉が口に入れられる物を増やしたかったのだ。

 義姉はグラスを受け取り、口元に持っていった。しかし、口をつける前に眉をしかめ、グラスをテーブルの上に戻す。ゆっくりと少し大きくなった腹を撫でる。

「この子、フルーツが苦手みたい」
「お腹に子どもがいると好みが変わるって言うけど、本当なのね」
「ええ、エリオットのときはパンケーキが食べたくてしかたなかったわ」
「そういえば、あのころはオッターが毎日たくさんパンケーキを焼いてたもんね。おいしかったな」

 義姉はカラカラと笑った。エリオットは義姉の第一子であり、聖女にとっては大切な甥だ。彼は今年十一歳になる。

「そうそう。懐かしいわ。二人で五枚も食べて驚かれたのよ」
「またオッターの作ったパンケーキ食べたい。でも、今年から料理長になったって兄様から聞いたわ。さすがに料理長にパンケーキを頼むのは失礼よね」
「あら、聖女様の頼みなら料理長でも断れないわ」

 義姉はいたずらっ子のように口角をあげた。

「じゃあ、今度たくさん焼いてもらってみんなでパーティをしましょう。勿論、エリオットも一緒にね」

 甥のエリオットは義姉のお腹にいたときからパンケーキが大好きだ。きっと山盛りのパンケーキを見たら喜ぶに違いない。そんな素直で可愛い甥は、パンケーキ以上に大好きな物がある。母親である義姉だ。いつも彼女の側から離れいほどだ。

 しかし、そんな彼が今日はいない。

「エリオットは今日はお留守番?」
「今日は家庭教師の先生がいらしているの。あなたに会いたがってたのだけれど」
「そっか。エリオットが跡取りだもんね」
「ええ、あなたのおかげで得た地位をしっかり守らないと」
「私のおかげなんかじゃないわ。父様や兄様が伯爵としての役割を全うしたからよ」
「何言ってるの。どんな役割を全うしたら、聖公爵なんて地位を与えられるのよ。あなたの聖女として功績が九割よ」

 義姉は手にしていた包みから、パウンドケーキを出しながら言った。義姉のように優しい色合いのパウンドケーキからは甘い香りが漂い、鼻腔をくすぐる。

 腹が鳴った。

 義姉は腹の鳴き声にクスクスと笑う。

「今日はせっかくだから、パウンドケーキを焼いてきたの。あなた、好きだったでしょう? ナッツの」
「ええ、とっても。しっとりとしたパウンドケーキの中に隠れてるナッツの食感が堪らないの」

 聖女はあらかじめ切られた一つを手に取るとそのまま齧った。ナイフとフォークで上品に頂くことも可能ではあったが、この場にいるのは幼いころから親しくしていた義姉とだけ。

 人目があると聖女としての振る舞いを要求される。それは、貴族としてというよりは王族に近い立ち位置のようで嫌いだった。

 義姉は六つ年上の兄、ルーカスの妻だ。兄と義姉は幼いころからの付き合いで、聖女がまだただの幼子だったころから良くしてくれた。六つも年が離れていると、邪険にされそうなものだが、二人はどんなときも嫌な顔一つ見せず、聖女の手を引いて遊びに連れて行ってくれた。

 聖女にとって義姉は実の姉となんら変わらない。甥が生まれたときは嬉しくて誰よりも泣いたくらいだ。

 このナッツのパウンドケーキは、義姉が昔からよく作ってくれていた。彼女の手料理はどれも美味しかったが、聖女はこれが一等好きだ。兄も同じパウンドケーキが好きで、正確に半分に切るのには苦労した。

 奥歯でナッツの塊を噛み砕く。カリッと小気味いい音がして、独特の香りが弾けた。

「これからどうするの?」

 義姉が唐突に言う。それもそうだ。聖女としての役割を終えて半年。屋敷には帰らず、まだ王宮に残っているのだから。

 義姉の顔はどこか探るようだった。それが彼女なりの優しさなのだ。真意を探るとき、彼女は直接聞くことを嫌う。少しばかり、遠回りをして聞く。

 それは昔からだ。聖女がまだただの伯爵令嬢だったころからずっと。まだ関係が妹と兄の婚約者という関係だったころからずっとだ。

 世界は変わっていくのに、義姉との関係は全然変わっていないことに聖女は笑った。

 義姉は直接的な言葉が苦手だ。しかし、聖女はいつだって真っ直ぐだった。だから、昔から変わらぬ笑みを見せた。

「義姉様が知りたいのは第一王子との結婚の話でしょう?」
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