名のない囚人騎士は幾多の地獄で猛獣・罪人・獄卒・天使・神と戦い続ける

西東 吾妻

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第2章:頞部陀地獄編

第二十話:囚人騎士と女武者は堕神ハデスの下僕となり衆合地獄へと堕ちていく

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 冬神の体を貫いた人影。中肉上背の体つきは、先が擦り切れ、灰色にくすんだボロ布に覆われ、戦闘の終わりを告げたその唇は、人の顎骨を模した面で隠されている。赤色の瞳に生気は宿っておらず、目の前に映る光景全てが下らなく、つまらないものであると訴えかけてきているようにも見えた。

 幾多の死線を潜り抜けてきたのか、その体には大小さまざまな古傷が走り、肌は青白く、あたかも死人のようである。腰に届かんばかりの灰色の髪はボサボサに荒れ果てており、これまで碌な手入れがされてこなかったのだと私に推測させた。

 外見は、地獄に堕ちた囚人その者のようである。しかし、それが神であることは、私にはすぐに理解できた。不気味なまでの引力。自分自身の生気が彼のもとに吸い込まれている……この感覚を凡百の囚人が発せられるはずがない。

 禍々しい気だ。四方千里が不毛の地に変わってしまうと思わせるほどの物を、涼しい顔で発せられる者など、神以外にいはしない。

「かっっ……あ……あ……!?」

 腕一本もがれてもなお衰えることのなかった覇気が、今の冬神からは感じられない。その目は驚愕に彩られ、悲鳴にもならない言葉を途切れ途切れに吐き出す口からは、血がブクブクと溢れ出している。

 冬神の顔から血の気が引いているのが外からでもわかる。冬神に、恐怖に近い感情が芽生えていることが、私を戸惑わせる。

「は……ハデス……っっっ! 何故……っ。いつの間に……!!」

 冬神の呼吸が荒々しい。死の危機に瀕しているからだろうか。恐怖に飲まれているからだろうか。

 私たちの前では、ついぞ見せたことのなかった表情で、背後の神……ハデスへと訴えかける。せめてもの抵抗なのか、冬神の左腕がわなわなと震えながらも、自身を貫いた槍につかみかかる。

「感謝するぞマチルダ。貴様は良い働きぶりを見せてくれた。あとは、私の肥やしとなるだけだ」

 肌がひりつくような、悪意に満ち溢れた声音で、ハデスは冬神の耳にささやきかける。ハデスの両手に握られた槍……幾多の剥離面がある様は、岩から削り出したのかと思わせる……が、ハデスの言葉を待っていたと言わんばかりに、じわじわと黒ずんでいく。

「までっ!! やべろっ!! やべっ……!!」

 冬神は、何が起こっているのかを理解したようだ。まん丸に見開かれたその目は、恐怖に血走り、血濡れの口からゴポゴポと泡を吹いている。左腕はハデスの槍をがっしりと掴み、どうにかしてそれを引き抜こうともがいている。

 そんな冬神の左腕が、まず萎んだ。文字通り、骨と皮ばかりの姿にやせ細ろえ、肌色が土気色に見る見るうちに変わっていく。槍に生気を文字通り吸い出されていた。左腕の次は、胴体、足、最後に顔が、枯れ枝のような姿となる。

 冬神が纏う衣装は、冬神がやせ細っていく中でずり落ちていき、飢餓に苛まれた老婆のような体躯が外に晒されていく。くぼんだ眼窩の中で白く濁った眼球がギョロギョロと蠢くさまは、死肉を食い荒らす寄生虫のようだ。

「べ……べ……べ……」

 荒い呼吸すら、聞こえてこない。冬神の口は、訳の解らないうわごとを漏らすだけだ。

「なぁあああに横取りしようとしてんだてめぇえええええ!!」

 冬神の命が瞬く間もなく吹き消されようとしていることは、火を見るよりも明らかである。

 それは、私と女武者を大いに焦らせた。

 冬神を私達自身の手で殺さなければ、私たちはこの地獄から抜け出せないのである。冬神へと向けていた刃を、私たちは「ハデス」という名の神へと躊躇なく向けていた。

 このハデスという神は、これまで戦ってきた神とは、明らかに異なる……そんなことは解っていた。だが、私たちはその実力を正確には測り切れなかった。

 極度の興奮状態の中で振るわれた私たちの刃は、如何なる神の首元にも届く……そう信じ込んでいた。








「……図が高いぞ……」








 口元を隠されるため、ハデスの感情が読めない。私たちを移すハデスの瞳に、最後まで生気は宿っていなかった。








「下僕共」







 
「へぁあっ!?」

 何も見えなくなった。瞬きすらしていない。

 唐突に私の目は光を失った。

 何の感触も感じない。

 目は何も移さない。

 耳は何の音も拾わない。

 鼻は何の匂いもかぎ取らない。

 口は何の味も感知しない。

 肌は何も感じ取らない。

 自分がどんな姿勢をしているのかが解らない。

 自分はまだ神に向かって飛び掛かっているのか、それともどこかで立っているのか……それすらも解らない。

 まっ暗闇だ。

「えぁあああ!? あぁあああ!? ああぁああああ!!!」 

 自分は今、真っ逆さまに落ちているような気がする。

 自分は今、全身を炎に炙られているような気がする。

 自分は今、体全身を刃物で刺されているような気がする。

 自分は今、巨大な歯車の間に挟まり、あたまから潰されようとしているような気がする。

 自分は今、底なしの海の底へと沈んでいるような気がする。

 自分は今、無数の虫にたかられ、口から目玉から体の中へと入りこまれているような気がする。

 自分は今、ありとあらゆる病気にり患しているような気がする。

 自分は今、指を一本一本折られているような気がする。

 自分は今、足先からじわじわと溶かされているような気がする。

 自分は今、フォークに刺され、ナイフで肉を切り取られているような気がする。

 自分は今、体を粉挽機で粉々に破砕されているような気がする。

 自分は今、体中の血を抜かれているような気がする。

 自分は今、力任せに体を引きちぎられているような気がする。

 自分は今、体の内側を数百匹のドブネズミに食い荒らされているような気がする。
 
 自分は今、無数のハゲタカに肉をついばまれているような気がする。

 自分は今、目玉を何度もえぐり出されているような気がする。

 自分は今、針で目玉を何度も貫かれたような気がする。
 
 自分は今、爪を一枚一枚剥がされているような気がする。

 自分は今、口から胃を、腸を吐き出しているような気がする。

 自分は今、風船のように膨れ、今にも破裂しそうになっているような気がする。

 自分は今、口から糞を詰め込まれているような気がする。

 自分は今、鼻から溶けた銅を流し込まれているような気がする。

 自分は今、やすりで体全身を削られているような気がする。








「ひぃいぃいぃいいいいぃいいぃいいいいぁあああああぁあああああああああああああああ!!」








 自分は今、喉が裂けるほどに、口が割れるほどに叫んでいるような気がする。

 自分は今、両手足をバタバタと動かし、もがいているような気がする。

 自分は今スプーンで目玉をくりぬかれているような気がする。

 自分は今獣に腹を食われているような気がする。

 自分は今、臓物を腹からえぐり出されているような気がする。

 自分は今ゲロを吐いているような気がする。

 自分は今溺れているような気がする。

 自分は今、腐った泥を飲み込んでいるような気がする。








「ぁぁあああぁあぁんんんあんぁんんぁあああぁああああああんんあぁああああああななああああああんんあぁあぁあぁんんあああああああああああああ!!」








 自分は今頭、頭に穴をあけられているような気がする。

 自分は今目玉に溶けた鉛を流し込まれているような気がする。

 自分は今串刺しにされているような気がする。

 自分は今、体が塵になっているような気がする。

 自分は今、バラバラになっているような気がする。

 自分は今、ちっぽけな存在になって誰にも気づかれることなく潰されたような気がする。

 自分は今……。

 自分は今……。

 自分は今……。

 じぶんはいま……。








「ひっ……! ひっ……! ひぁっ……!」

 視界はもとに戻った。

 私は今、自分の体の輪郭をはっきりとつかめている。

 四つん這いになった私は、黒い土を確かにつかんでいる。

 ぜぇはぁぜぇはぁと呼吸を繰り返していることが解る。

 ダウダクと溢れ、流れ落ちる汗の感触が解る。

 口からあふれ出した涎が地面へと滴り落ちている感触が解る。

「ひっ……! ひっ……! ひっ……!」

 体の震えが止まらない。

 枯れ枝のようになった両腕が、ブルブルと震えているのが目に映る。

 目玉が眼窩から飛び出し、今にも地面に向かって落ちてしまいそうな気がする。

 こわい。

 怖いという言葉で頭が一杯になる。

 心臓がバガバガと聞いたことのない音で震え、頭は真っ白になったまま帰ってこない。

 吐き気が全く収まらない。

 げぇげぇ吐いても黄ばんだ唾液が地面へぼたたと落ちるだけなのに、腹の底でグルグルと渦巻く感触が消えてくれない。

 指を咥えこみ、喉奥を刺激し、もっと吐くが、それでも収まらない。

「えっ……! えっっ……!! えぇええええ!! あぁあああああ!!」

 私とは違う、聞きなれない声。子供のように泣きじゃくる声。

 音がした方向へ眼球だけをぎょろりと向けると、そこには骨と皮ばかりの女の姿がある。

 骨が浮き出るほどにやせ細ろえた体に、だぶだぶのサラシが胸に巻き付けられている………それはあの女武者であった。

 縮れて荒れ果てた髪は、ボロボロと抜け落ちたのか極端に薄くなっており、土気色の頭頂部が目に映っている。

 まん丸の眼窩には萎んだ眼球がはめ込まれており、そこから大粒の涙が頬を伝って流れ落ちている。

あんぐりと開けられた口に歯は殆ど残っていない。

 悲鳴にもならない言葉がとめどなく溢れ出る中で、彼女は針のように細い指先で自分の顔を幾度も幾度も引っ掻き、引っ掻き傷から滲みだす黄色い血で顔を彩っていた。








「お前たちはなんだ? 言ってみろ」








 そんな中で、心の底から震えあがる言葉が、私の耳をガタガタと震わせる。恐る恐る、音のした方向を見上げると、そこには私たちを無感動のまま見下ろすハデスがいた。

 その右手には、干からびたミイラ……冬神だったものの頭が握られている。

「あっ……! ぁっ……!! ぁっぁぁぁ……!!」

 恐ろしかった。

 頭が真っ白に塗りつぶされて、何をすればよいのか全く分からなくなる。

 喉が震え、指先が震え、涙があふれ出す。

 頭を地面に叩きつけ、平伏したのは、本能から導き出された反射的な行動だ。

「わ……わたくしめは……! わたくしめはげぼくにございます!! ハデス様の!! ハデス様の下僕です!!」

 幾度も言葉を詰まらせながら、私はその言葉を何の躊躇もなく吐き出した。

 ちゃんと土下座が出来ているか、ハデス様に失礼のない振る舞いが出来ているか、そのことばかりを考えていた。

「あぁぁぁあああああああああ!! ゆるしてぇええええええ!! ゆるしてくださぁあああああああいいいいい! げぼく……げぼくなのにぃいいいいいい!! ごめんなさあいい!! ごめんなさああああああい!!」

 女武者は、やがて堰がきれたように泣きはじめた。

 小さく縮こまり、その場でうずくまり、涙声で眼前の神へ許しを乞うている。

 何をすればいいのか解らないのか、彼女は震え、ただただ泣きじゃくっていた。








「そうだ。下僕共。お前たちは、私に奉仕する下僕だ。……光栄に思いたまえ。お前たちは私の夢を叶えるための捨て駒に成れたのだ。人の身で、幾多の神を追い詰めた実力を、私は認めてやったのだ」








 ハデス様の言葉の前に、私たちの胸は恐怖と喜びにぐちゃぐちゃになる。

 ハデス様の言葉を前に、私たちはただ、平伏することしか出来ない。








「喜べ、下僕。お前たちに仕事をくれてやる」








 神の御言葉が、私たちの耳を震わす。

 神の言葉に呼応するかのように、この暗闇に覆われた空間に白い亀裂が走る。ピシピシと音を立てる世界はやがて、ガラスのように割れていった。

 黒い破片がバラバラと周囲に散らばる中で、私たちの体は重力を知覚する。

 眼前に広がるのは赤さびに覆われた、鉄ばかりの世界。








「私と共に、衆合地獄を統べる人神『ハル・ローゼンバーク』の首を取れ。私のためによく働いた者は、地上に返してやろう。」








 鉄の匂いが鼻を突くこの世界が、神はそうおっしゃった。







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