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第2章:頞部陀地獄編

第十六話:囚人騎士は地獄の空で冬神と斬り結ぶ

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 冬神の美しさは、息を飲むほどの物であった。地獄に仏、その言葉が自然と私の脳裏に浮かび上がってくる。

 彼女の姿をこの目で見てしまった私は、ほんの短い時間ではあったが、その神々しいまでの美しさに見入ってしまっていた。

 水色で彩られた髪。宝石のような輝きを見せ、膝裏に届きそうな程に長いそれは、地獄の空で風を掴んでふわりと中空を舞っている。

 私の全身を収める、燃えるように赤い瞳。歓喜と祝福に満ち溢れたそれは、心安らぐような優しいまなざしと、胸を抉られるような殺気を私に向けている。

 頭には真珠と宝石を金糸で結い合わせたネックレス状のティアラが王冠の如くかぶさっており、彼女の鼻から下は、半紙のように薄く、雪のように白い生糸のヴェールで覆われていた。ヴェール越しに見える彼女の口元からは、汚れ一つない真っ白な歯が顔を出し、彼女の心情を代弁するかのように、ヴェールに一定の間隔を置いて取り付けられた銀製の鈴がチリンと軽やかな音を発している。

 陽気にほほ笑む彼女の口元を見ていると、全身を炎で炙られる苦痛も、命の危機に対する恐怖心も、万物に対する燃え盛るような憎悪も、忘れかけてしまう。

 彼女が纏う着物もまた、時間を忘れてまじまじと見つめたくなってしまう程の逸品であった。

 意匠を凝らした逸品とは、まさしく目の前でたなびく装束のことを言うのだろう。空のような青で染められた小袖、彼女の腰から下を覆う、キキョウの花を思わせる紫色で色付けされた袴一点の汚れも皴もない。

 彼女と共に幾多の戦渦へと飛び込み、彼女と共に幾万の死闘を潜り抜けてきたであろうそれらは、今も変わらず、新品同然の美しさを誇示していた。

 柄頭に銀色に輝く鈴をつけた長剣を彼女が振るう時、絹で織られたその袖丈は、空気を飲み込みふわりと膨らみ、ほのかにオレンジがかった細身の腕を袖口越しに私に見せつける。彼女の足回りに纏う紫色の袴は、彼女が空気を蹴りつけ私との間合いを一足に詰めた時、その肉付きの良い太腿を浮かび上がらせていた。








 死神とは、かくも美しい物なのか。








「ぐぅ! くぅう!!」

 美しさに心を奪われようとも、私の強烈な生存本能は、私の脳髄に死の恐怖をしつこいくらいに激しく訴えかけてきた。冬神が握る細身の神剣が、その切っ先を私の首元へと向けた時、私の視界は「死」という文字で覆い隠されていた。

 反射的に私は仰け反り、神の一撃を回避した。私に向けて突き立てられた神剣は、矢のような剣圧をその切っ先から撃ち出し、私の背後にあった大陸に大穴を穿っていた。冬神の一突きを受けた大陸は雷紋のような亀裂を全体に走らせ、やがてガラガラと音を立てて轟然と崩れ落ちていく。

 端が見えない程に大きな大陸は今や、小山のような大きさの無数の破片となって、地獄の寒空で踊っている。

「……っっ!!」

 その一部始終をこの目で見た私は、神の美しさなど忘れてしまう程に戦慄していた。私よりも背格好が小さい、この小さな神が起こした大破壊……大陸の粉砕という暴挙を、私は受け止めきれなかった。

 神の手に握られた神剣。これで切れない物は、この地獄には存在しないのだという確信が、私には芽生えていた。とてもではないが、彼女と鍔迫り合いなど不可能だ。

 まともに切り結んだ瞬間、私は手に持つ肉断ち包丁ごとなます切りにされてしまう。彼女との戦いを成立させるには、私に向けて彼女が描く攻撃線を、徹底して断ち切る以外にない。

 中空で一回円弧を描いた私は、冬神による大破壊の中で生み出された無数の岩塊に活路を見出した。

「ぶっっっっっとべぇやぁああ!!」

 炎に炙られる痛みを忘れるように叫んで、私は肉断ち包丁を振るう。その刃先が岩塊に当たると、それは瞬く間に空気の壁を破り、冬神の元へと突進する。

 一発で終わらせるなどとんでもない。重力に引きずられ、底の見えない谷へと落ちていく岩塊はいくらでもある。

 力の続く限り、それを撃ち出し続けろ。神に攻撃の暇を与えるな。

 私は、脱兎のように中空を漂う岩塊を跳ね、間合いにあるすべての岩塊に一撃を叩きこむ。超常的な力を受けた幾千の岩が神に向けて撃ち込まれていく様は、あたかも空を黒く染める矢衾のようであり、圧巻としか言いようのないその情景は、多少なりとも神への恐怖をやわらげた。








「リーン……ランラン……トンタンタッ……リーン……ランラン……トンタンタッ……」








 神が奏でる鼻歌は、今までと変わらないリズムを刻み続けている。神へと猛然と襲いかかる無数の岩塊たちをゆったりと見渡す彼女は、心底嬉しそうであり、陽気に笑うその様は、宴会にて余興を披露する芸人を前にして腹の底から笑う観客のようでもあった。








「リーン……ランラン……トンタンタッ……リーン……ランラン……トンタンタッ……」








 笑顔を絶やさぬまま、神剣を背中に担いだ冬神。

 天を割るかのように彼女がそれを振り下ろした時、彼女の踊りは既に始まっていた。私の全力を叩きこまれても両断されることはなかった岩塊たちが、バターのように両断されていく。

 彼女が空気を蹴りつけると、彼女の体は突風を受けたかのように空を舞い上がり、私との距離を見る見るうちに詰めていく。

 彼女は剣を打ち下ろし、打ち上げ、空を突き、刀身すべてで空気を巻き上げた。

 流星群のごとく撃ち込まれる無数の岩塊は、彼女の装束に汚れを付けることも敵わなかった。勇ましい音を立てて突貫するそれらは砂のように粉々に切り刻まれ、彼女の剣が生み出す剣圧によって霧散していく。

 片手に剣を持ち直した彼女は、まとわりつく蠅を打ち落とすようにして岩塊を打ち払うと、そのままぐるりと空中を回って空を飛ぶ。

 私が死力を尽くして生み出した間合いは、彼女の一度の跳躍によって瞬く間に詰められた。目の前には、回転のエネルギーを剣先に込めた、神がいる。

 岩を打ち込む隙は、どこにもない。

「ちぃっ!! いぃぃいいい!」

 上段から振り下ろされる、神の一撃。

 受け流す以外の選択肢は、私には残されていなかった。肉断ち包丁を逆手に持ち替えた私は、その幅広の刀身で神剣の剣身に触れる。

 耳をつんざく金切り音と、火花を散らし、私の頭蓋へと向けられた一撃は、軌道をそらされる。両手で剣を握りなおした冬神は、そのまま足を一歩踏み出し、刃先を私の腰へと向けなおす。

 一度は振り下ろされた剣を振り上げる腹積もりであると理解した時、私は肉断ち包丁の切っ先を神の頭蓋めがけて突き出していた。

 回避を決断するには、あまりにも短い、刹那のような時間。神の反射神経はそれを見事に活用して見せた。

 息を飲む間もなく私が打ち出した突きが、振り上げられた神剣によって受け流された時、その切っ先は私の眼球へと向けられていた。

「まずい」と口ずさんだ時には、右半分の視界を消し飛ばされていた。

 体全身を覆っていた炎は、剣風に煽られバタバタと暴れ、右脳ごと抉られた頭蓋、右肩は一滴の血も流すことなく氷漬けとなる。馬車に引き飛ばされたような衝撃と共に、私は中空を仰け反り、クワンクワンと視界が歪む中で、私は意識を手放しかけてしまう。








「リーン……ランラン……トンタンタッ……リーン……ランラン……トンタンタッ……」








 冬神の鼻歌が、妙に甲高く聞こえた。明滅する意識の中で、天を仰ぐようにして振り上げられた神剣と満面の笑みで私を見下ろす冬神の顔が漠然と映し出される。

 朱色で塗られた「死」の一文字が、無尽蔵に散りばめられ、私の視界を塞いでくる。

「っっっ!!」

 舌を噛みきり気つけした私は、右手に握られた肉断ち包丁を横なぎに打ち込み、神剣の軌跡を無理やり横へと叩きだす。

 肉断ち包丁を振るうとともに起き上がった私は、背後にあった岩塊を蹴りつけ、喚声と共にがら空きとなった神の脳天に向けて己のだんびらを振り下ろす。

 半死半生の中で打ち下ろした決死の一撃。それは神剣の鍔で受け止められる。

 バァンと空気が爆ぜる音と共にギャギャリと音を立てて金属同士が擦れあい、私と神の間に横たわる空間へと火花をバチバチと飛ばしていく。

 望まぬ鍔迫り合い。一秒後には破られる均衡状態。

 刃先同士が交わる点を支点とし、私は肉断ち包丁の柄頭を神の両手の間に上から差し込ませ、神の両手を引きちぎらんばかりに神剣を手元へと無我夢中で引き上げた。

 この神に人並の痛覚があってよかった。

 心底、そう思った。

 肉断ち包丁の柄と、神剣の柄に挟み込まれる形となった指の痛みは、神にとっても耐え難いものがあったのだろう。神の抵抗は想像以上に小さく、神剣は神の両手の支配から離れていた。








 勝機。








 私は確かにそれを見出した。あの女も、それを見出していたのだろう。

「あはっ♡!!」

 神が地獄の大地を両断して以降、影も形もなかったあの火傷顔の女武者が、神の横腹へと左手を突き出している様を、私の目は映し出していた。








 得物を取られた神が、女武者の方へ視線をぎょろりと向けた時、神は女武者の左手からあふれ出た、龍のような炎に飲み込まれた。







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