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第2章:頞部陀地獄編

第十五話:火達磨となった囚人騎士は天変地異を凌ぎきる

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 何かが起こったとは気づけないくらいに、最初の変化は些細な物だった。

 最初は、ローラーでならしたかのように平坦な雪原に、一条の線が音もなく刻まれただけだったのである。しかし、この線をなぞるようにして分厚く積もった深雪がずるりと浮き上がった時、地獄を苛む不可逆的な変化は、神ですらも止めようのない物となっていた。

 両耳を塞ぎたくなるような金切り音が空気を薙いだ。この後起こる恐ろしい未来を察知した大地は恐怖に震えて泣きわめき、雪を砂のように上空高く巻き上げる。

 上空に映る空が、少しずつ、少しずつ狭くなっていく。平地はいつのまにか坂となっていた。自重に耐えられなくなった雪が、雪崩となって地獄の大地を荒れ狂い、木も、山も、飲み込み、砕いていく。

 大蛇のように大陸を這う山脈も、雪崩の衝撃を真正面から受けて、ガラスのように脆く崩れ、幾万という岩塊となって急こう配の坂道を転がり落ちていった。

 雪崩が収まる気配がない。それどころか、私の胸の動悸が高鳴る速度と比例するかのように、雪崩の大きさ、激しさは増していく。

 ドォン、ドォンと、バチが太鼓をたたくような音と共に、砲丸のような岩塊が雪崩に乗ってゴロゴロと転がり、目の前にあるもの全てにのしかかり、押しつぶして私たちの元へと迫ってくる。








 頞部陀地獄は両断された。今、この地獄は、ど真ん中で叩き折れてブクブクと沈む船のように、くの字型に曲がって地中奥深くへと沈みこんでいるのだ。








 何があった。

 なぜこんなことが起こった。

 誰がやった。

 誰にこんなことができる?

 この地獄を統べる冬神以外に、このような無茶苦茶が出来るものなどいるはずがないというのに、私の脳裏には反射的にこの言葉が浮かんでくる。

 目がおかしくなったとしか思えないような情景を前にすると、視界が損なわれるほどに冷や汗があふれ出し、ろっ骨を折らんばかりに胸の動悸が激しくなる癖も、直る兆しが見えてこなかった。

「ひぃいいげぇええええ!! ひぃぃいいいい!!」

 押しつぶされるような恐怖心を吐き出すように、私は寒空に向かって悲鳴のような喚声を上げた。すくみあがるような恐怖を前にして、目玉が飛び出さんばかりに私の目は大きく見開かれ、燃え盛る炎に当てられて脳漿ごと茹でられている私の脳みそから、見る見るうちに血の気が引いていく。

 大津波のように圧倒的な質量を伴い、覆いかぶさるようにして迫りくる岩交じりの大雪崩。この圧倒的な暴力を己の膂力のみで凌がなければならない。

 そう思うと、全身にまとわりついた炎がもたらす、死んだ方が遥かにマシだと思えるような痛みのことなど、忘れられた。

 火達磨になっていたこともあり、私は論理的な思考が出来なくなっていた。肉体に染み付いた戦闘本能に、私は自分の未来を賭けた。








 炭が金剛石に変わるほどの膂力でもって、私は牛頭の肉断ち包丁の柄を握り締めた。

 体中の血液を飲み込み、風船のように膨らんだ私の心臓は、火薬が爆ぜるような音を立てて脈動し、酸素を満載した血液を全身にくまなく、勢い余って血管が裂けるほどの水圧で送り込む。噛み締めた歯からは火花が飛び散り、全身の筋肉は、火事場の馬鹿力だと言わんばかりに怒張していった。

 攻撃線を定めた私は、杭のように己の右足を大地へと挿し込んだ。限界を超えた筋肉はブチブチと音を立てて千切れ跳び、半ば炭化して脆くなった骨は、過剰な力に耐えきれなくなってボキボキと悲鳴をあげてひび割れる。

 己の肉体を生贄に捧げ、私は剣先に文字通りの全力を肉断ち包丁に乗せた。それを、もう目と鼻の先まで迫り来た雪崩にめがけて、振り上げた。

 音を遥か彼方に置き去りにして振り上げられた私の肉断ち包丁は、自分自身の鼓膜が破けるほどの衝撃波を伴う剣風を生み出した。肉断ち包丁は目の前に漂う風を刃に変え、水平線の先にまで達する切り込みを雪崩に刻み込む。

 嵐のような剣圧に押し負けた大雪崩は直後、バァンという破裂音と共に四方八方にはじけ飛び、坂道を駆け下りる中で飲み込んだ全てを吐き出した。

 私を避けるようにして、威力を殺された大雪崩は私の横を通り過ぎていく。雪崩に私が飲み込まれるという未来は、永遠に回避された。

 雪崩に出来ることは、私の全身を覆う鎧に、小石のように小さな礫や、氷の破片をぶつけ、カンカンと音を立てることだけである。








「はぁあ〝あ〝あ〝ぁ〝あ〝あ〝……!! はぁ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝……!!」

 青白く燃える炎がまとわりつき、木炭のように黒く変色した私の指先は、己の力に耐えきれずにボキリと折れてボロボロと崩れていた。

 莫大な血液を飲み込み、鉄砲水の如く吐き出した心臓は、真一文字に割けてゴボゴボと音を立てて朱色の血を吐き出している。

 耐久力を遥かに超えた負荷がかかり、糸くずのように千切れた筋肉は、全身を覆う炎に炙られ見る見るうちに炭となり、やがて砂のように脆い灰に変わり果てていった。

「はぁあ〝あ〝あ〝ぁ〝あ〝あ〝……!! はぁ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝……!!」

 しかし私は地獄に堕ちた罪人だ。地獄に堕ちた罪人が、この程度の怪我で死という安息を与えられるわけがない。

 破壊されつくされ、燃え盛る私の肉体は、やがてボコボコと不気味な音をあげて猛烈な再生を開始していく。

 骨は鋼のような硬さを取り戻し、全身の筋肉はゴムのようなしなやかさと万力のような剛力を取り戻す。心臓は生まれたばかり、新品同然の姿に戻っていく。

 数秒もたつと、私の肉体は、ただ一つの例外を除いて、元通りになっていた。ただ一つの例外……全身にまとわりつく青白い炎に炙られ続ける、皮膚を除いて……だ。

「がぁ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝!! あ〝ぁ〝あ〝ぁ〝あ〝あ〝あ〝あ〝ぁ〝あ〝あ〝あ〝!!」

 全身を炙られる痛みが、再び私の神経を貫いた。焼き串を刺しこまれ、中身をこね回されるような痛みを前に、私は大口を開けて叫び、全身を掻き毟る程にもだえ苦しむ。

 私の肉体を守る板金鎧の隙間から噴き出した青白い炎は、さらなる空気を求めて蠢き、鎧が赤熱するほどの火力を孕んだそれは、再生したばかりの皮膚、筋肉を、骨を薪にさらなる成長を遂げようと試みる。

 だが、私の再生力がそれを許してはくれなかった。

 燃えては再生し、再生しては燃えるの繰り返し。焼肉と生肉の反復横跳びを繰り返すこの時間は、筆舌に尽くしがたいなどという表現では片づけられない地獄であった。








「喜べ下僕♡ これでお前は、二度と氷漬けにはならないぞ♡」

 あのアマは、私を火だるまにする前に、こうほざきやがった。それが私に何をもたらすのか、どんな生き地獄へと私を叩き落すことになるのか。

 それらを全てわかったうえで、あの女は自信に満ち溢れた気色の悪い笑顔を浮かべ、私の肉体に火傷まみれの左腕をかざしたのである。

 この屈辱に見合う代価をあの女に支払わせる方法が、思い浮かばない。この貧弱な想像力が生み出す拷問はことごとく月並みでつまらない物ばかりであり、とてもではないがこの雪辱を晴らすには全くの火力不足だ。








「リーン……ランラン……トンタンタッ……リーン……ランラン……トンタンタッ……」







 
 しかし、私は遺憾ながら、あの女への憎悪を忘れなければならなくなっていた。
 
 狂おしいほどの激痛と屈辱で一杯一杯になった私の頭でも、この鼻歌を見落とすようなヘマはしない。

 かつてのような勢いを失ったとはいえ、雪崩はいまだ轟然と音を立てて私の横を通り過ぎ、二つに折れた地獄の大地は、ますます大きな地鳴りを鳴らしながら、急速に折れ曲がり、地中深くへと沈み込んでいく。

 ありとあらゆる騒音によって、私の耳は塞がれているに等しい有様であったが、この透き通るような歌声は妙にはっきりと耳に届いていた。








「リーン……ランラン……トンタンタッ……リーン……ランラン……トンタンタッ……」








 心臓を鷲掴みにする、凍えるような殺気。火勢が弱まる程の冷や汗がぶわっと全身からあふれ出し、恐怖が導くままに私は音源へと視線を向ける。

 この歌い手が、天変地異を招きいれた元凶であると私は理解した。








「リーン……ランラン……トンタンタッ……リーン……ランラン……トンタンタッ……」








 冬神マチルダは、私の間合いの内側にいた。

 鈴を鳴らし、恋焦がれるような眼差しを向けて、この女神は私の首めがけて神剣を突き立てた。







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