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第1章:等括地獄編

第八話:囚人騎士は神に刃を突き立てた

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 白磁のように美しかった神の表皮に、赤黒い亀裂が走り始めた。

 割れたガラスのような音が地獄の空を駆け抜け、神の総身から夜のように黒い血があふれ出していく。じわじわとあふれ出る血の勢いに乗せられ、神の白い表皮が浮き上がったその時、私は割れ目からこちらを伺う無数の眼球を見た。

 薄皮の下に広がっていたのは、地獄の囚人もたじろぐグロテスク。

 大きさのそろわない眼球たちは、血に洗われているせいか妙にみずみずしく、血の川でぷかぷかと浮かんでいるように見えた。足の踏み場もないほどにひしめき合った眼球たちが、ぎょろぎょろと周囲の様子をうかがう様は、生理的な嫌悪感を逆なでし、息を飲むほどに美しかった白い肌がびりびりに裂かれ、光すらも飲み込む黒い血に穢されていく様は、私の心をベクトルの違う恐怖で彩った。




 祈りをやめ、地獄の端と端を掴むようにして広げられた4本の腕からは、妙に粘り気のある血が滝のように流れ落ち、荒れ狂う竜巻も、視界を覆いつくす水蒸気も、地獄を焼き続ける溶岩をも血の海の底へと見る見るうちに沈めていった。神の全身に纏われた煌びやかな金の装具、彩り豊かな宝石たちは、見る見るうちに血に漬かり、どっぷりと漬かったそれらは、押しつぶされそうな程に禍々しい邪気を放っていく。




 山を跨ぐその巨体に勝るとも劣らない銀色の翼を、ひときわ大きく神がひろげていった。

 銀色の翼を織り成す羽毛は、花のようにはらはらと散っていく。

 私の何倍も大きいその羽毛が、地獄の空をはらりと一度舞った時、それはいつの間にか神と姿が瓜二つの天使に変わっていた。

 神の翼からばらばらと羽毛が剥がれ落ち、後に残ったのはヴェールのように薄く広く伸びた血を滴らせる一対の骨組みのみであった。

 神の羽から生み出された天使たちの数は、いったいどれほどの物なのだろうか。かつてこの等括地獄を支配していた獄卒たちですらも少数派になってしまう程の物なのではないかと、私は思わずにはいられない。

 生物をいたぶるために生み出されたと言いたげな禍々しい槍をかかげ、全身を神の血で赤く染め上げた天使たちは、引きつるような笑みをその顔に浮かべ、神に仇名す不届き者たちを排除するべく、鬨の声と共に地獄の空へと解き放たれた。

 神の全身から飛び出さんと言わんばかりに浮き出た眼球たちが、あの不可視の礫を嵐のように吹き上げたのも、丁度この時であった。

 天使たちの体をすり抜け、血の海に槍衾のような水しぶきを立たせる礫たちは、地獄の空を所狭しと乱舞し、目につくものすべてに襲いかかった。

「ひえあっ!」

 私も、その例外ではなかった。浮き上がった目玉に姿を見られた私は、途端に土砂降りの雨をさかさまにしたかのような礫たちの大嵐に全身を覆い隠された。その一発一発に、初めのような凶悪な破壊力は備わってはいなかったものの、私の鎧はガリガリと火花を散らし、ゴリゴリと肉ごと削り落とされていく。

 脳裏に塵となって消えたあの女武者の姿が映し出され、恐怖にわななく私の口からは素っ頓狂な悲鳴が自然と漏れた。




 それでも、私の心臓を熱く脈打たされる勝利への渇望は薄まることはなかった。本性を現した神が私にもたらした恐怖であっても、神の脳天へ伸びた私の攻撃線を震わすには至らなかったのだ。

 神の尖兵たる天使たちが、聞くに堪えない下卑た声をあげて私に槍を突き立てる。視界一杯に禍々しく凶悪な槍が突き上げられるが、神殺しの熱狂で全身を火照らせる私の狂気を止めるには、少々役不足であった。

 骨が外界へ顔を覗かせる中、私は両手に張り付いた肉断ち包丁をあらん限りの力で振り回した。折れることなど決してない分厚い肉断ち包丁の刃が、槍の柄を切り裂き、天使を骨ごと両断する。

 幾本もの槍が鎧を貫き、私の肉体に深々と突き刺さるが、重力を味方につけた私を止めるには、それらは余りにも非力すぎた。私は興奮しきった一頭の猛牛となって天使の大軍を薙ぎ払い、胴体を両断された天使の顔面を蹴り上げ、更に加速していく。

 神へと届く攻撃線は、今なお私の眼前にはっきりと映し出されており、どの天使を斬ればよいのか、どの天使を蹴り上げればいいのかを、自然と頭が理解していった。

 脳髄は今まで経験したことがないほどに冴えわたり、全知全能とは何たるかを疑似的に体験した私は、呼吸をも忘れて天使たちの軍勢を斬り、殴り、ちぎって、掻き分け、駆け抜けた。




 神は、もう目と鼻の先にいる。




 あと一秒あれば、私は神に刃を突き立てられる。必殺の攻撃をいなし続けた「何か」に気を取られていた双頭の神の頭が一つ、鎌首をもたげて私へと視線を向けたのは、そんな時であった。




 目玉まみれの顔面の中でもひときわ巨大な二つの瞳に私の全身が映し出された時、不可視の礫は山を砕く土石流のような勢いとなって私の肉体を蹂躙した。

 下半身を瞬く暇もなく消し飛ばされ、左目を潰された私は、しかしそれでも攻撃線を見失わなかった。




 残り半コンマ秒。




 剣を振るには十分な時間だ。




 不可視の礫が私を塵に変えるには短すぎる時間だ。




この時の神の表情は、鬼のようという例えすらも安直に思えてしまう程に怒りを露わにしていた。

 山脈のように波打つ皴で顔面を醜く歪ませ、歯茎すらも露わにするほどに敵愾心を滲みだす神。




 それを見て、私は吹き出すように笑ってしまった。




「へあはっ! ははは! ははははは!!」

 神の頭が割れた。

 絹を裂くような悲鳴が空気を震わし、上下が解らなくなるほどの血の奔流が私の肉体を飲み込んでいく。

 幾千メートルを駆け降りた私の刃を前に、神の肉体は為すすべなく破壊されていき、「勝利」の実感が私を終わりのない幸福感に包み込んだ。

 羽毛布団に沈んでいくような幸福感は、神のもう一つの顔から響き渡る悲鳴のことなど、どうでもいいことのように感じさせた。




 私は笑った。




 腹の底から、心ゆくまで笑い転げた。神が垂らした蜘蛛の糸を掴んだのだという実感が、私には確かにあった。




 この地獄から脱出できる!




 魂が喝采を挙げた。




 これで、閻魔に課された懲役を踏み倒せる!




 心が、期待に胸を躍らせた。




 地獄で幾度も聞いた「地獄の理」を、私は幾度も幾度も心の中で反駁し、血の奔流の先にある輝かしい未来に涙を流した。




 ハル! また、お前に会えるんだ!




 脳裏によぎる女の姿。黒髪を肩まで垂らす女の、漠然とした後ろ姿。

 それが誰なのか、今となっては思い出せない。

 その女の名前が「ハル」であることと、黒髪を風に纏わせるその後ろ姿だけが、私に残る唯一の記憶だ。

 誰であるのかもわからないその女の名前、私は力の限り叫んだ。




 手から零れ落ちた何かを取り戻せる。そんな気がした。




「……」

 目が、覚めた。

 目の前にあの禍々しい神はもういなかった。




 雪が全てを覆い隠す沈黙の世界だけが、そこにはあった。



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