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八十五歳、一人ぼっち。

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『ねぇ、綾子さん。大丈夫?』

『美奈子さん…。』

『最近、元気ないわね。何か悩み事?』

『うん、ちょっとね。うちのお婆ちゃんがね…。どうやら認知症みたいで…。』

『認知症…。そう、それは大変ね。綾子さん、同じパートの同僚のよしみ、私で出来る事があったら言ってちょうだいね。』

『美奈子さん…。ありがとう、話しを聞いてくれただけでも大分、楽になります。』

きっと、綾子はこんな会話でもしているのでしょう。孫である綾子夫婦には、多大な負担を背負わせてしまって本当に申し訳ないと思っています。
私には、かつて恭子という一人娘がおりました。しかし、若くして夫婦揃って不慮の事故に遭い、私よりも先に逝ってしまいました。残された唯一の肉親、孫の綾子は、私達夫婦の娘そのもの。功男さんにも先立たれ、独り身になった私の事も親身になって面倒みてくれます。
歳のせいか、小さく丸く、言う事を聞いてくれなくなった体にも、優しく手を添えて助けてくれる綾子の夫、和夫さんには感謝しきれません。

『ねぇ、あなた。』

『うん?どうした綾子。』

『お婆ちゃんの事なんだけど…。』

『あ、ああ…。』

『やっぱりね、施設に入れた方が良いんじゃないかと思うの。最近、急激に認知症も進行してるみたいだし、もう、私達だけじゃ世話しきれないわ。』

『そうだな…。お婆ちゃんには、申し訳ないけど裕子も来年、高校受験だしな。やっぱり、集中させてやりたいし、致し方ないだろ…。』

『…綾子、ちょっと出て来るわね。』

『え!ちょ、ちょっと!お婆ちゃん!こんな時間にどこ行くの!』

『どこって、お爺さん迎えに行かないと。そろそろ、帰って来る頃だろ…。』

『もう!また?お爺ちゃんは、もう死んだでしょ?もう帰って来ないの!』

『あら、そうだったかの…。』

『もう、はい!お部屋に戻って休みましょう。ね!?』

『綾子…。』

『あなた、悪いけど、後片付けお願いして良い?』

『あ、ああ…。』

迷惑かけているのは分かっているの。心配かけているのは分かっているの。でもね、ごめんなさい。

寂しかったの…。

私は、八十五歳の寡婦。三年前、五十五年間、連れ添った最愛の夫、功男さんに先立たれました。この皺だらけの体にとって、余りにも久しい独り身の時間。それは、耐えられないほどに辛過ぎた…。

だから、私は嘘をついた。

ボケたふりをすれば、みんな私を気にしてくれるでしょ?優しくしてくれるでしょ?

知ってる?私は、まだ生きているの。

『ねぇ、お母さん本当にお婆ちゃん、施設に入れるつもりなの?』

『私だって本当は、そんな事したくないわ。でも、仕方ないの。裕子の為でもあるのよ。』

『私は、大丈夫だよ。受験勉強が出来ない理由を、お婆ちゃんのせいにしたくなんかないもん。』

『裕子…。でもね、分かって…。お母さんも辛いの…。』

『お母さん…。』

裕子は、私から見れば曾孫にあたる。曾孫の瞳には、一体この老いぼれの姿は、どう映っているのか…。もはや、人間とは思えていないのかもしれない。でも、それでも良い。

子供は、可愛くて仕方ないの。そんな事どうでも良くなるくらいにね。ただ、その姿を見るたびに功男さん、あなたの事が脳裏に浮かぶ。

暗い仏壇に飾られた、こんな小さな写真では、私の心の穴の何をも埋められない…。

『功男さん…。本当に逝ってしまったのね。五十年前はよ、功男さんが先に逝くとは思ってても、こんなにも寂しくなるとは思わなかった。何故だろうね…。あんなに喧嘩もしたのによ、あんなに傷付け合ったのによ、あなたが居なくなった今は、この部屋が、こんなにも広く感じるよ。長い時間を一緒に過ごしたこの六畳間は、功男さんが生活していた証が数え切れない程に深く刻まれている。その一つ一つが、余計に心を切なくさせるよ…。功男さん。あなたは今、どこにいるんだい?私の事を、直ぐそこで見守ってくれているのかい?それとも、もう私の事なんか忘れてしまったかい?私もね、もう八十五だ。そっちへ行くんは時間の問題だよ。でもね、この五年で初めて知った事があるの。功男さん。私はあなたの事が大好きよ。遅かったね、居なくなってから気付くなんて…。この八十余年で一番の後悔だよ。』

(ガラッ!)

『お婆ちゃん!』

『あら…。裕子…、聞いてたのかい?』

『ねぇ、お婆ちゃん!嘘なんでしょ?ホントはボケてなんかないんでしょ?』

『裕子…。こっちへ来てごらん。』

『お婆ちゃん…。』

『裕子には、好きな人がいるかい?』

『え?』

『良いかい、裕子。今、好きな人がいるのなら必ず、その気持ちを伝えなさい。遠くから見てるだけじゃ、どんどん辛くなるだけだからね。』

『お婆ちゃん…。うーうん、私ね実は、初恋もまだなの。男の子を好きになるって良く分からないの。』

『そうなのかい…。それは寂しいね、裕子。女としての喜びを一つ、まだ知らないんだね。』

『喜びか…。ねぇ、お婆ちゃんの初恋はいつだった?』

『私かい?…私は、今が初恋の真っ最中なんよ。』

『え?どういう事?』

『私とお爺ちゃんにはよ、恋をしている時間が無かったの。お見合いの席で初めて顔を合わせて、親の言いなりのままに直ぐに結婚したからね。それから、五十五年。正直、分からなかったの、私もね。男の人を好きになるという事がね。』

『お婆ちゃん…。』

『でもね、居なくなってやっと分かったんだよ。すぐ近くにいるっていう安心感っていうのかな。その安らぎにね。裕子、お母さんに抱きしめられた事、覚えてるかい?』

『うん。』

『あったかいでしょ?人肌って。好きな人と一緒にいるのは、それに更に、嬉しさが加わるの。私は、それに気付いたのが遅過ぎた。せっかく知ったのに、もう味わえないなんてね。こんな愚弄な事はないわね。』

『お婆ちゃん…。』

『だからね、裕子。人を好きになったら必ず伝えるんだよ。そしてね、目一杯、抱きしめてもらいなさい。忘れられないぐらいにね…。』

『お婆ちゃん…。うん!』

『それからね、私が本当はボケてないって事は、お母さん達には秘密にしてくれるかい?』

『な、何で!?だって、お婆ちゃん、このままだと施設に入れられちゃうんだよ!?』

『うん。それで良いんよ。』

『え?な、なん…!』

『さっきも言ったでしょう。今の私には、この部屋で生活する事が辛過ぎるの。ここには、功男さんの跡がありすぎるの。あの温もりを二度と味わえないと分かってる今となっては、ただ悪戯に寂しさに拍車をかけるだけなの。』

『お婆ちゃん…。』

『だから、分かってね。裕子や綾子達と離れるのも、それは寂しいけど、功男さんの影と一緒にいる方が辛いの…。ふふ、ごめんなさいね、裕子。でも、ありがとうね。あなたは優しい子ね。安心なさい。直ぐに好きな人なんて出来るわよ。お隣りの、あきちゃんなんて良い子じゃない。』

『お婆ちゃん…。ウウッ…。』

『あら、やだ。ほら、おいで。忘れないでおくのよ。こんな皺々の手なんかには到底、敵わない温もりがあるのよ。』

『お婆ちゃん…。』

私は、それから時、待たずして施設へと、この身を預けられた。施設の方々は皆、親切で良い人ばかり。私の狂乱劇にも優しく対応してくれる。身も知らずの他人にも、差し伸べられる温度は同じもの。心から嬉しくて有難い。

でもね、夜になると個室にポツンと置かれたベッドのお布団の中は空気が一変する。功男さんの腕の中で一緒に寝た、あの時間をどうしても思い出すの。そしてね、その時に自然とこぼれ落ちる涙と一緒に、ふと思うの。

やっぱり、私は本当に一人ぼっちなんだなって…。

私は、まだ女なんだって…。

功男さん、あなたに会いたい…。

                                 ー完ー
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