天使に出会った日

玖羽 望月

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あのキスをした日から、とくに何の進展もなく日は過ぎた。
今までと変わらない香緒さんの様子に拍子抜けしながらも、変わらないからこそ安心も出来た。
けれど、あの思い出の季節が近づく頃、香緒さんの様子が変わっていった。

もう夕食も終わり、皆それぞれ部屋に戻ってしばらくすると、部屋のインターフォンが鳴り、出てみると香緒さんが立っていた。

「武琉……。今週末の仕事に一緒に来て欲しいんだけど、大丈夫かな?」

香緒さんは明らかに憂いを帯びた表情で、何か悩んでいるようにも見える。

「大丈夫ですけど……俺が行ってもいいんですか?」
「うん……。武琉にいて欲しい」

そう言いながら俺の目を見ないでいる香緒さんの手を取ると、「入ってください」そう言って部屋に連れ込む。そして細い手首を掴んだまま、ベッドの側まで香緒さんを連れて行った。

「ここに座って下さい」

そう言って座らせると俺はその横に座り香緒さんと向き合う。こちらを向く香緒さんの瞳は不安そうに揺らいでいた。

「俺は……、香緒さんの助けにはならないかも知れないけど、俺にできることがあるならなんでも言って下さい」

香緒さんは俯くと頭を振った。

「……違うよ?僕はいつでも武琉に助けられてる。ちょっと昔の事思い出してナーバスになってただけだから」

そう言いながら顔を上げない香緒さんを、俺は大事なものをそっと抱えるように胸に収める。香緒さんの身体は驚くほど冷え切っていて、温めるように腕に力を入れてより閉じ込めた。

「武琉……」
「はい」
「武琉……」
「俺はここにいます」
「……うん」

香緒さんは俺のシャツをギュッと掴み、存在を確かめるように何度も俺の名を呼ぶ。それに答えるように香緒さんの頭を撫でる。愛しいこの人が少しでも安心できるように。


「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみ」

『もう落ち着いたから帰るね』と言う香緒さんを、俺は部屋の前で見送った。

ドアを閉め、しばらく俺はそのまま立ち尽くしていた。

香緒さんは何も言ってはくれない。だから俺も何も聞かない。でもそれでいいんだろうかと自問自答していた。

その時、再び部屋のインターフォンが鳴った。何か言い忘れた事でもあったのだろうかと部屋の扉を開けると、意外な人物がそこに立っていた。

「おい!お前、香緒にちゃんと言ったのか?」

相変わらず俺には不機嫌な顔を見せる響が唐突に口を開いた。

「言ったって、何を……」
「はぁ?」

眉間に皺を寄せ怒りを露わにすると、響は部屋に入ってドアを閉めた。

「あのなぁ、お前、ほんっっとに鈍感だな。奥手なのも程々にしろよ」

捲し立てるように響は続ける。

「俺は、希海を手に入れるために足掻いて足掻いて、やっと手に入れたんだよ。お前はほんとに今のままでいいと思ってるわけ?」

余りの剣幕に呆然としている俺の顔を見て、響は、はぁ~と深く溜め息を吐く。

「香緒が俺に打ち解けるのにどんだけかかったか分かってんのか?なのになんだよお前。突然やって来たと思ったら香緒にあんな顔させて。そんな奴、希海しかいなかったのに」

響はイライラした様子で自分の頭を掻いた。

「お前、自分の気持ちに気づいてんだろ?ちゃんと言わないと伝わらないぞ。他の誰かに横から掻っ攫われても知らねーからな」 

溜め息と共にそう言うと、「じゃあな、俺は忠告しといたから」とだけ言い部屋を出て行った。

俺が口を挟む間もなく、響は言いたい事だけ去っていき、そこには呆然としたままの俺だけが残された。

確かに響の言う通りだ。
希海さんと響の関係に気づかないくらい鈍感で、香緒さんの事を好きなのにそれを伝える事も出来ないくらい奥手だ。

俺は怖いのだ。きっと香緒さんは俺に好意は持ってくれていると思う。でもそれが俺の気持ちとかけ離れているかも知れないと思うと、怖くて何も言えなくなる。
もし俺が思いを伝えて、この関係が壊れる事になったらと思うと、今の関係のままで良いと思ってしまう。

『他の誰かに横から掻っ攫われても知らねーからな』

響に言われた言葉を反芻する。
それだけは耐えられない。誰かの横で笑っている香緒さんを見るなんて……。
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