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番外編 酸いも甘いも
side健二3
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はらはらと溢れ落ちる涙を久美は自分で拭おうとする。それを遮り、俺は指で涙を拭った。
久美が泣くところなんてほとんど見たことはなかった。高校の卒業式の日、友だちとの別れを惜しみ泣いている姿を遠くで見ていたぐらいで。
そして、その複雑そうな表情を浮かべ顔を背けた久美が、嬉し泣きをしているわけじゃないことくらい理解できた。
「私、やっぱり……」
久美は急に暗い顔で俺を押し退けようとする。俺はそれに逆らい腕に力を込めた。
「なんで……。俺のこと、嫌い、なのか?」
「違う……。けど、雰囲気に流されたの。久しぶりに誰かに求められて嬉しかっただけ。気を持たせてごめん」
顔を逸らしたまま久美は謝る。
何がそうさせたのか見当もつかない。例え俺と同じ『好き』でなくとも、少しくらい好意を持ってくれている。ほんの数分前までそう感じたのに。
「確かに流されてたかも知れねぇ。けど、それだけじゃないだろ? 俺の何がダメだったのか教えてくれ」
懇願するように静かに尋ねると、久美は押し退けようとしていた手の力を緩める。そして、意を決したように涙で濡れるその顔を上げた。
「健二のせいじゃないの。ただ、今からでも他に素敵な人を見つけて、結婚して、子どもに恵まれて……。幸せな家庭を築けるのかも知れない。健二にはそうなって欲しい。私には……それを与えることができないから」
「お前……なんでそんなこと……」
久美が口にした言葉は他でもない、久美と叶えたい願い。けれど、離婚したばかりというのを差し引いても、それ以外の重い何かを抱えているとしか思えなかった。
「私、もう子ども産めないから。冬弥を産んだときにね、子宮摘出するしかなくなって。だから……。ごめん……」
再び謝るその声は震えていた。次々と溢れては落ちて行く涙を止められず久美は俯く。
「……謝るな。謝ることじゃないだろ。むしろ、謝るのは俺のほうだ。先走って自分の気持ちを押し付けた」
嗚咽を漏らす久美を抱き寄せると、素直に俺の胸に顔を埋める。その背中を撫でながら俺は続けた。
「俺さ。別に自分の親と仲悪いわけじゃない。けどさ。なんか俺の中ではおっちゃんのほうが父親みたいな存在なんだよ」
親戚ですらなくただのお隣さん。けれど、人生の岐路に立たされたとき、真っ先に相談する相手はいつもおっちゃんだった。
医者の息子で、4つ上の兄貴も迷うことなく医者の道を選んだ。でも俺は別の道に進みたいと漠然と思っていた。
あれは、高校生になってそう経っていないときだった。いつものように将棋の相手をしに行った休日の昼。その日久美とおばちゃんは朝から出かけていて、おっちゃんと二人きりだった。対局に熱中し、気がつけば昼。
「何か食べるか? と言っても、そうだな。インスタントラーメンくらいしかないが……」
「じゃあ俺が作る。勝者はそこで待ってろって」
自分の家かと思うほど馴染んだ台所に立つとおっちゃんの出してくれた袋麺を作った。具なんてほとんど入ってない、ごく普通のものだ。
それを食べながらおっちゃんはしきりに褒めてくれた。
「旨いなぁ。健二の作るラーメン、ものすごく旨い」
何度も笑顔で言って麺を啜るおっちゃんの顔を見て、なんとなく、やってみたいと思うことか浮かんだのだった。
俺はおっちゃんを尊敬していた。あんな人になりたいと思うくらいに。今でもそれは変わらない。これからもきっと――。
「血の繋がりなんて関係ない。おっちゃんは俺の大事な親父だ。俺がそんな風になれるとは到底思えない。だから近所のおっさんでいい、冬弥の成長を一緒に見守らせてくれ。俺はそれで充分幸せだ」
宝物のように久美の体を掻き抱いて告げる。久美はそれを黙って聞いていた。ただじっと、久美が答えを出すのを俺は待った。
「あり……がとう。嬉しいよ。凄く」
そう言ってから久美は顔を上げる。美しい瞳を飾る睫毛はまだ湿っている。けれど、溢れ落ちていた雫は止まっていた。
「私、健二が素っ気なくなって、寂しくなって。たった一つしか変わらないのに、健二は違う世界を生きているみたいに見えてた。でも、もう……。そんなこと感じない。弟だなんて思い込むの、やめる」
乾き切っていない頰をゆっくり指で撫でる。赤く縁取られた瞳は、じっと俺を見つめていた。
「それは……期待していいってこと?」
「結婚までは……まだ考えられない。でも……。恋人としてそばにいて欲しい」
久美はそこで一度言葉を止めると、一つ息を吐く。そして言った。
「私……健二が好き。自覚なんてしてなかったけど、ずっと前から好きだった」
一生聞くことはできないと思っていた言葉。それを聞いて、俺はすでに幸福感で満たされていた。
久美が泣くところなんてほとんど見たことはなかった。高校の卒業式の日、友だちとの別れを惜しみ泣いている姿を遠くで見ていたぐらいで。
そして、その複雑そうな表情を浮かべ顔を背けた久美が、嬉し泣きをしているわけじゃないことくらい理解できた。
「私、やっぱり……」
久美は急に暗い顔で俺を押し退けようとする。俺はそれに逆らい腕に力を込めた。
「なんで……。俺のこと、嫌い、なのか?」
「違う……。けど、雰囲気に流されたの。久しぶりに誰かに求められて嬉しかっただけ。気を持たせてごめん」
顔を逸らしたまま久美は謝る。
何がそうさせたのか見当もつかない。例え俺と同じ『好き』でなくとも、少しくらい好意を持ってくれている。ほんの数分前までそう感じたのに。
「確かに流されてたかも知れねぇ。けど、それだけじゃないだろ? 俺の何がダメだったのか教えてくれ」
懇願するように静かに尋ねると、久美は押し退けようとしていた手の力を緩める。そして、意を決したように涙で濡れるその顔を上げた。
「健二のせいじゃないの。ただ、今からでも他に素敵な人を見つけて、結婚して、子どもに恵まれて……。幸せな家庭を築けるのかも知れない。健二にはそうなって欲しい。私には……それを与えることができないから」
「お前……なんでそんなこと……」
久美が口にした言葉は他でもない、久美と叶えたい願い。けれど、離婚したばかりというのを差し引いても、それ以外の重い何かを抱えているとしか思えなかった。
「私、もう子ども産めないから。冬弥を産んだときにね、子宮摘出するしかなくなって。だから……。ごめん……」
再び謝るその声は震えていた。次々と溢れては落ちて行く涙を止められず久美は俯く。
「……謝るな。謝ることじゃないだろ。むしろ、謝るのは俺のほうだ。先走って自分の気持ちを押し付けた」
嗚咽を漏らす久美を抱き寄せると、素直に俺の胸に顔を埋める。その背中を撫でながら俺は続けた。
「俺さ。別に自分の親と仲悪いわけじゃない。けどさ。なんか俺の中ではおっちゃんのほうが父親みたいな存在なんだよ」
親戚ですらなくただのお隣さん。けれど、人生の岐路に立たされたとき、真っ先に相談する相手はいつもおっちゃんだった。
医者の息子で、4つ上の兄貴も迷うことなく医者の道を選んだ。でも俺は別の道に進みたいと漠然と思っていた。
あれは、高校生になってそう経っていないときだった。いつものように将棋の相手をしに行った休日の昼。その日久美とおばちゃんは朝から出かけていて、おっちゃんと二人きりだった。対局に熱中し、気がつけば昼。
「何か食べるか? と言っても、そうだな。インスタントラーメンくらいしかないが……」
「じゃあ俺が作る。勝者はそこで待ってろって」
自分の家かと思うほど馴染んだ台所に立つとおっちゃんの出してくれた袋麺を作った。具なんてほとんど入ってない、ごく普通のものだ。
それを食べながらおっちゃんはしきりに褒めてくれた。
「旨いなぁ。健二の作るラーメン、ものすごく旨い」
何度も笑顔で言って麺を啜るおっちゃんの顔を見て、なんとなく、やってみたいと思うことか浮かんだのだった。
俺はおっちゃんを尊敬していた。あんな人になりたいと思うくらいに。今でもそれは変わらない。これからもきっと――。
「血の繋がりなんて関係ない。おっちゃんは俺の大事な親父だ。俺がそんな風になれるとは到底思えない。だから近所のおっさんでいい、冬弥の成長を一緒に見守らせてくれ。俺はそれで充分幸せだ」
宝物のように久美の体を掻き抱いて告げる。久美はそれを黙って聞いていた。ただじっと、久美が答えを出すのを俺は待った。
「あり……がとう。嬉しいよ。凄く」
そう言ってから久美は顔を上げる。美しい瞳を飾る睫毛はまだ湿っている。けれど、溢れ落ちていた雫は止まっていた。
「私、健二が素っ気なくなって、寂しくなって。たった一つしか変わらないのに、健二は違う世界を生きているみたいに見えてた。でも、もう……。そんなこと感じない。弟だなんて思い込むの、やめる」
乾き切っていない頰をゆっくり指で撫でる。赤く縁取られた瞳は、じっと俺を見つめていた。
「それは……期待していいってこと?」
「結婚までは……まだ考えられない。でも……。恋人としてそばにいて欲しい」
久美はそこで一度言葉を止めると、一つ息を吐く。そして言った。
「私……健二が好き。自覚なんてしてなかったけど、ずっと前から好きだった」
一生聞くことはできないと思っていた言葉。それを聞いて、俺はすでに幸福感で満たされていた。
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