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1.始まりの春

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「――本当に、ここでいいのか?」

 人気のない駐車場で、彼は心配そうに私の顔を覗き込んだ。
 家まで送ると言う彼の申し出を、『親に今日会うことは伝えてないから』と断り、近くで降ろしてもらうことにした。けれど助手席が右側にあるこの車から安全に降りられる場所はなく、彼はわざわざコイン式パーキングに車を入れてくれたのだ。

「大丈夫ですって。まだ八時ですよ? それに、家はすぐそこに見えてますから」

 安心させるように笑顔を向けるが、それでもまだ心配しているようだ。まるで、大事な人にするように。だからこそ、ずっと戸惑っている。この人はこんな風に、誰でも勘違いさせるような態度を取るのだろうかと。

「じゃあ……ここから見送る。次はオフィスで会うことになるな。恵舞が働いているところを見るのが楽しみだ」
「そうそう会うことなんて、ないと思います。なにしろ依澄さんには通訳は必要ないですし」

 社内通訳といっても、普段はデスクワーク中心。英語が心許ない役職者が、海外の取引先とテレビ会議を行うとき付くことはあるが、彼にはそんな人間は不要だ。

「そうか、残念だ。もっと日本語がわからないふりをすればよかったな」
「してたとしても、私が通訳するとは限りませんよ?」
「確かにそうか」

 彼は納得したようにそう言うと笑う。そのタイミングで私は切り出した。

「今日はご馳走様でした。とても……楽しかったです」

 その言葉は、決してお世辞ではない。楽しかったのは本当で、不思議なほど自然体でいられたのだから。

「こちらこそ。桜を見られたし、屋台巡りも楽しかった。それに、恵舞のことをより知ることができた」

 彼はゆったりと瞳を緩ませる。こんな表情で見つめられたら、世の中の大半の女性は陥落してしまいそうだ。私だって今、自信はないのだから。

「で、ではここで」

 はぐらかすように言いながら頭を下げ、踵を返そうとする。

「ちょっと待って。髪に何か付いてる」

 頭上からそんな声が聞こえると、彼の指が頭に触れる。その感触に心臓が跳ね上がり、ドキドキと音を立てた。

「取れた。これは……桜の花びらだな。ほら」

 おずおずと顔を上げると、指先に摘まれた花びらと、その先にある笑顔が目に入った。そしてその視線が絡み合うと、頰が熱を発するのを感じた。

「そんな顔をされたら……困る」

 どんな顔をしているのか考える間もなく、背中から引き寄せられる。

「あ、依澄さっ……」

 その最後の言葉は、もう彼の唇の中に閉じ込められていた。
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