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水面にバシャッと音がして餌が投げ入れられると、それに口を開けた鯉が群がっている。懐かしい庭には新芽の香りに混ざり、ほんのりと桃の花の香りが漂っていた。

向こうに見える濡れ縁から、瑤子とまどかの笑い声に混じり、時折母の笑う声も聞こえてきた。瑤子の持ってきた和菓子をお茶請けに、母の入れたお茶を楽しみながら談笑している姿を、何処か温かいものを感じながら眺めていた。

「司……覚えているか?」

池に視線を落としたまま、親父は口を開く。
わだかまりが解けたと言っても、いきなり打ち解けられる程人間はできちゃいない。なんとなくまだ気まずいが、それでも話を素直に聞こうと思える程にはなれた。

「なんだよ?」

たぶん、同じような事を親父を思っているのだろう。俺に話しかけはするが、水面の鯉を見たままだ。

「この池に……落ちた時のことを」

意表を突いた内容に思わず「は?」と声に出す。

「あれは……1歳か2歳くらいかな。まだこの家には住んでいなかったが、時々訪れると、いつも池を見せろとせがまれた」

もう随分前の事。俺は最初からこの家に住んでいなかった事すら覚えちゃいなかった。

「私はお前を一人庭に残して餌を取りに行ったんだ。戻ってみると、池に落ちていた。あの時は……肝が冷えた」

そう言って親父は、俺の顔を見た。

「そーかよ。全く覚えてねぇな」

俺がぶっきらぼうに返すと、親父はまた池に視線を戻し餌を投げ入れた。

「すまなかった」
「そんな昔の事、今更謝られても……」
「いや……そうじゃない。今までの……ことだ」

心苦しいと言わんばかりに親父はそう口にすると、険しい顔を見せる。
反発するだけして、俺も歩み寄ろうとはしなかった。もっと話を聞こうと、しようとしていればこんな遠回りをしなくて済んだのかも知れない。だがそれを今更どうする事も出来ない。
結局はこれからどうするか、なのだと俺は思った。

「親父ばかりが悪いわけじゃねーよ。お互い様だ」

俺がそう言うと、親父はふっと表情を緩めて振り返り、濡れ縁に視線をやった。

「良い伴侶を見つけたな」

同じ方向を見ると、久しぶりに見る母の笑顔が見える。そして、俺の世界を一変させたその人の笑顔も。

「見つけたんじゃねぇよ。あいつが俺を見つけてくれたんだ」

全ては必然だとレイには笑われるだろうか。それでも、俺は瑤子に出会えたのは運命だとは思っていない。

「司!お茶いただかないの?」

そう言って俺に手を振る瑤子を見ながら、俺は柄にもなく思う。

──全ては奇跡の連続だった、と。



「またお越しください。庭の桜もとても美しいですよ?」

ほんの数時間前、何の感情も見せずに挨拶を交わした相手とは思えないほど柔らかく笑みを浮かべ母はそう言う。

「はい。楽しみにしています。是非お邪魔させていただきます」

そう言って瑤子もまた、同じように笑顔で返した。

「じゃあ……今から行って来る」

そこに並ぶ人間に向かって俺はそう告げる。車ならここからほんの10分程の場所。ようやくここまで漕ぎ着けたんだから、時間を置かずに出しに行きたい。

「いよいよ瑤子ちゃんが私の義妹いもうとになるのね!嬉しいわぁ。可愛くない弟だけど、末長くお願いね」

まどかが抱きつかんばかりの勢いで瑤子にそう言うと、瑤子は笑いながら返す。

「こちらこそよろしくお願いします。これからも頼りにしてます。でも司、意外と可愛いところもありますよ?」
「……お前……意外とは余計だろ……」

頭を抱えながら呟くと、周りからは笑い声が上がる。

「ほらっ!行くぞ?」

決まりが悪くなった俺が瑤子を急かすように促す。瑤子は「あ、ちょっと待って」と言うと親父に向き合った。

「お義父様。婚姻届の証人になっていただいてありがとうございました。これで心置きなく出す事が出来ます」

そう言われた親父は、少し面食らったような顔をしてから、「瑤子さんの願いを叶えられて私も光栄だ」と笑みを浮かべて答えた。
そんな風にして、俺達は家を後にした。

家を出てほんの数十分でその場所に着く。車を降りてから握っていた瑤子の手にだんだんと力が入るのが分かる。

「なんか……緊張してきた」

真面目な顔をしてそう呟く瑤子に、俺は笑いながら話しかける。

「お前、うちに行った時より顔が強張ってね?」
「だって!なんか今頃になって実感が湧いてきて」

まぁここまで、長かったような短かったような、そんな気持ちは俺にもある。結婚などしないと思ってた俺が、一生を共にする相手と役所に婚姻届を出しに来るなんて、想像すらした事はなかった。

そして、緊張しっぱなしの瑤子と一緒に窓口で届けを出した。

「では受理いたします。おめでとうございます」

そう窓口で言われて、ようやく瑤子は表情を緩めると「ありがとうございます」と嬉しそうに返した。

「じゃ、帰るか。俺達の家に」

また車に戻りながら、俺は隣に並ぶ瑤子にそう言う。

「うん。そうだね。私達の家に帰って、一緒にご飯食べよ?」
「そうだな。その後は初めての夫婦の営みってやつだな?」

瑤子にだけ聞こえるように耳元で囁くと、瑤子は顔を赤らめて俺を見上げた。

「もうっ!そんな事しか考えてないの⁈」
「ん?そりゃあ考えてねーだろ」

ワザとらしく笑いながら返すと、瑤子はプイっと横を向く。

本当は帰ったらすぐ抱こうと思ってたんだけど

なんて思いながら、俺はその横顔にキスを落とす。

こうやって、笑い合いながらずっと俺の隣にいて欲しい。そう思いながら。
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